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新城教会ニュース 2019年10・11月

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ザ・メッセージ

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『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネの福音書3章16節

 ここに出てくる「世を愛された」という言葉の中に、あなたが含まれています。神は私たちの為に、自ら人となり、地上に来てくださったと、聖書は告げています。それが「イエス・キリスト」です。しかし多くの日本人にとって、「神の存在そのもの」がはっきりしません。神が存在するか否かで、人生の前提は全く違ってきます。聖書の中に、ヨブという人物が出てきます。彼は苦しみの中、神の存在について深く思い巡らしました。その時神は、ヨブの口を通して次のように語られました。

『獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。これらすべてのもののうち、主の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。』ヨブ記12章7節~10節

 神の存在が分からなかったら、「獣に尋ねてみなさい」というのです。もしもあなたに愛犬がいたら、「神さまっているの?いないの?どっち?」と聞いてみて下さい。そうしたら、『いるに決まってるよ、ワン!』と答えるはずです。「空の鳥に聞いてみなさい。鳥だって神の存在を知っている。」また、「大地に聞いてみなさい。」と告げています。命はどこから来るのでしょうか。「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」これが聖書の答えです。地球は生命で満ちています。それらすべては、天地宇宙を創造された神が与えた命です。神が創造された森羅万象に「問いかけたら」神の存在について、答えを与えるというのです。さらに人生は、地上だけで終わるものではありません。人は地上での役割を終えたら、誰でもこの地から出て行きます。しかし死後、入国できる国は二つに一つしかありません。これは空想話でも、おとぎ話でもなく、誰もがやがて通る道です。

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。』ルカの福音書16章19節~22節

 現代は、金がものをいう世界です。しかし貧乏人であっても、金持ちであっても、「死」には誰も逆らうことは出来ません。この中に貧乏人「ラザロ」と「金持ち」が登場します。ラザロの地上での生活は苦しみに満ちた惨めなものでした。けれども時が来て、ラザロも金持ちも死にました。しかし興味深いのは、聖書は、二人の死後の行き先についても言及している点です。

『その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。』ルカの福音書16章23節

 なんとラザロと金持ちの入国した死後の国は異なっていました。神を信じたラザロは、神の国(天国)でした。神の国には苦しみも悲しみも、嘆きもありませんでした。そこには喜びと慰めが満ちていました。他国に入国する場合と同様に、神の国に入国するにはビザ(相手の国から発行される入国を許可する証明書)が必要です。そのビザを発給する場所が「教会」です。教会は、あなたの為の天国ビザを地上に引き下ろす「天国へのゲート」なのです。あなたが地上から出て行く時、どちらの国に入国されるのでしょうか。もしも現実に「死後の世界」があるのならば、それを単なる宗教の問題ではなく、自分の未来のために「正しい選択」をするべきです。

「正しい選択」とはなんでしょう。それは、「イエス・キリスト」を自分の神とし、受け入れ、共に歩む決断です。その道は「真理の道、永遠のいのちへの道につながる」と聖書は告げています。イエス・キリストを人生にお迎えし、神の国入国のビザを手に入れる為に、教会にお越しください。

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 私が中学2年生の頃、母は結核を発病し入院しました。その後、一時退院できたのですが、私の高校受験の合格発表を見たその日、再び入院してしまいました。1年後に退院してきた母は、キリストを信じるクリスチャンになっていました。
 父は反対せず、日曜日になると設楽教会に母を送り迎えしてあげ、また、私たちも一緒にときどき教会に行き、原田友衛牧師、千穂子夫人のお話を聞くこともありました。しかし、その後高校を卒業し社会人となり、20歳で結婚した私は、教会とは無縁の生活を送るようになっていました。
 私が再びキリストを意識したのは、50歳のとき、母の元へ帰ってきてからです。そのとき原田牧師夫妻はすでに引退されており、母は新城教会に通うようになっていました。そして、ときどき教会スタッフの方が家に訪問し母と交わりをもってくださっていました。
 そんな母の本棚にはキリスト教関係の書籍がありました。私は、滝元明牧師の「われ土方なれど」や、田中政男牧師の「百円玉に誘われて」等を幾度となく読み、自分が神様の前で罪深い者であることを覚え、心を揺り動かされる思いでした。しかしその時は、まだ私にとって教会は遠い存在でしたので、足を運ぶことまでは出来ませんでした。7年後、母が天に召されてひとりで暮らすようになってからも、それは変わりませんでした。
 60歳を過ぎた頃、私は桜並木の道沿いに立つオープンカフェに時々行くようになりましたが、実はその店主の女性は新城教会に通うクリスチャンでした。ある日、「私、母がお世話になっていた新城教会に一度行ってみたいの」と言いました。すると彼女は「ちょうど教会の方がお店にもうすぐ来ることになっているの。私が話してあげる。」と言いました。ほどなくしていらしたその方が教会に連絡してくださり、滝元明牧師から「すぐにいらっしゃい」と勧められ、とんとん拍子に話が進んで、私は明牧師にお会いし、イエスさまのお話を伺いました。そして、「イエスさまを信じます。私の人生にお迎えします。」と、一緒にお祈りしていただきました。長年ぼんやりと心の中で思っていたイエスさまへの思いをしっかりと自分で認め、受け止めることが出来ました。それから2ヶ月後、5月1日、私は洗礼を受け晴れてクリスチャンとなりました。
 70歳を迎えた今年から、いつもの日曜日の主日礼拝に加え、水曜日の水曜礼拝にも教会に行くことにしました。また、6月からは金曜日のシオンタイムに誘ってくださる方があって、そちらにも楽しく参加させていただいております。聖書を学ぶこと、神様を賛美しお祈りすること、そして、集会の後にヘブンズアイスクリームでコーヒーとアイスクリームをいただきながらおしゃべりすることが、楽しい日常となっています。心配はいらない。いつも平安でいられることを、神様に感謝して日々を過ごしています。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。…まことにいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」─聖書

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