今週の礼拝メッセージ
2000.1.9(SUN)
教会に神の国をもたらすために(主の祈りから学ぶ)
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書6章9節〜13節
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
  ハレルヤ!二千年が始まり、早いもので九日目になりました。皆さんはお元気ですか?私は新年早々風邪をひき、熱が出てしまい二日間ほど大変でしたが、癒されてここに立つことが出来、感謝します。今日もこの場所に神の国が現されるために、皆さんとともに聖書を学んでいきたいと思います。
 今日は「教会に神の国をもたらすために」というタイトルで、主の祈りから学びます。今朝も礼拝の中で主の祈りを祈りました。時々私たちはこの主の祈りを、題目のように唱えてしまうことがありますが、主の祈りはイエス様が弟子たちに、また、全世界の人々に教えた祈りで大変重要な箇所です。何年か前にもこの箇所から学びましたが、もう一度この中に隠されている真理を学びたいと思います。
 イエス様がこの地上におられた時に、弟子たちに教えられたことは、賛美リードやメッセージの仕方などは教えられませんでした。イエス様は弟子達にいかにして祈るかということを教えられました。ご自分も祈りを持って神に仕えておられ、群衆を帰した後で一人で山に登って祈られたことも度々ありました。また、弟子たちにも祈りをことある度に教えられました。そして、イエス様は十字架にかかられ三日目に甦られ天にお帰りになりました。そして、今、イエス様の天での仕事は何でしょうか。天国で、「地上は大変だった。あの十字架は痛かった」と言って古傷をいつも消毒しているのでしょうか。イエス様の仕事はヘブル書七章二十五節にあるように、

『したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』

と書かれています。イエス様の天における仕事は、私たちのためのとりなしです。とりなしとは、「間に入る」という意味です。それは中継ぎ役です。とりなしの祈りには、深い真理があります。そして、とりなしの祈りの代表者はイエス様ご自身です。イエス様が神様と私たちの間に入り、とりなして祈ってくださっているのです。
 祈りがクリスチャンにとって、いかに重要であるかをイエス様の生涯を通して知ることができます。新年礼拝でも祈りについて学びましたが、祈りの人になることは、人生に最も大きな祝福をもたらすものです。
 教会は、どのようにしたら強くなるかを考えます。建物が大きくなり、多くの人が集えば強い教会ができるだろうかと考えます。そうではありません。人が多く集まっても弱い教会はたくさんあります。また、建物が立派でも弱い教会は世界にいくらでもあります。強い教会とは、悪魔の陣営を揺り動かす教会です。それが祈る教会です。ということは、教会にどのくらい祈りの戦士が起こされるかによって、変わってきます。ですから、クリスチャン一人一人が、祈りの戦士になることが重要です。今年の目標として、皆が祈りの人となって、祈りの戦士になって下さい。そうすれば、個人においても、家庭においても、教会においも、国においても、大きなメリットをもたらします。案外、一時間テレビを見るのは容易ですが、一時間神の前にひざまずくのは難しいのです。
 第一テサロニケ五章十七節に、「耐えず祈りなさい」と書かれています。「絶えず」ということはギリシア語では、「中断することなく」という意味です。二十四時間中断することなく祈りを神が私たちに求めておられるのです。ここに私たちは目標をおくべきです。
 先週どれだけ祈りましたか。どれだけ祈りが中断したことかと思います。二十四時間ひざまずいて祈ることは不可能です。しかし、「祈り」とは「神の方に向く」ということです。ということは、私たちが二十四時間神の方に向いていることは可能だと思います。祈り心で過ごすことは可能です。毎日の生活の中でいつも祈りによって事を行っているならば、主がともにいてくださり、人生は決して揺るぐことはないのです。瞬間瞬間、祈り心で過ごしたいです。いつも祈りが心から離れないようになれば、素晴らしい人生を送ることが出来ます。
 そして、特に効果的な祈りとして主が教えたのが、今日私たちが学びたい神の国の祈り、「主の祈り」です。『だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。」』から始まっています。また、「私たちの負いめを・・・」「私たちも、私たちに負いめのある人たちを・・・」「 私たちを試みに会わせないで・・・」とあるように、「私たち」と複数形で祈られています。ということは、主の祈りは「共同体的祈り」だということです。私たちは個人的にも祈るべきですが、主の祈りは教会として、全体でささげる祈りです。先ほど教会全体で主の祈りをささげましたが、そのような意味があります。原文では、「私たち」という言葉が九回使われています。日本語では訳の都合上、少なくなっていますが。これは共同体的な教会全体で祈るべき祈りであり、重要な祈りであるということです。特に、神の国が教会に現される為の祈りとして重要な祈りです。皆さんが家に帰ってから祈るときにも、「教会として私は祈ります。」と教会の祈りとして今日から祈るならば、主が力強く神の国とともに訪れてくださることを私は信じます。九節に、

『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』

と書かれています。祈りは最終的に誰が受け取ってくださるかというと、「天にいます私たちの父」です。私たちの教会は伝統的に「イエス様」と祈り出す傾向があります。これは親しみを込めた表現として間違いではありませんが、厳密には祈りを受け取ってくださるのは「父なる神様」です。これは、大変重要な理解です。イエス様だけが全てと考えると間違った道に進んで行きやすいのです。「父と子と聖霊」の三位一体なる神様が私たちの中におられ、主体的な神は「父なる神様」ということです。ですから、祈りを受け取る主体は、父なる神様です。この理解をしっかりと持つべきです。エホバの証人が訪問して、「あなたはクリスチャンですか。」の次に、必ずつついてくるのが「三位一体はおかしい」というところから始まります。彼らの論法を聞くと、概念が崩され危険です。三位一体なる神様を知るためには、聖霊なる神様の助けが必要です。ローマ書八章十五節には、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』

と書かれています。御霊によって、私たちは父なる神様に呼びかけることができるのです。ということは、私たちが聖霊なる神を認めないと、父なる神様がわからないのです。そして主体的に祈りを受け取ってくださる方が父なる神様です。父なる神様がはっきりとわからないとイエス様の十字架がぼけてきます。イエス様がすべてだとしたら、イエス様が天におられ、地上で苦しんでいる人間を見て、「では、私が行って助けなくては」ということになります。それで、地上に飛び降りて大きいからだが小さくなって馬小屋に生まれて、十字架かかって天に帰ったということになります。それでは十字架の本当の痛みがわかりません。父なる神様が、ひとり子イエス様をこの地上に遣わしたという中に、十字架の痛みや愛が示されます。ひとり子を地上に送るとは大変なことです。自分が地上に行くこととは違います。父なる神様が、一人子イエス様を送られたという中に、十字架に現された神の愛を知ることができます。「イエス様」と呼びかけて祈ったとしても、イエス様はとりなし手ですから、それを受け取って父なる神様のところに持っていってくださいます。しかし、祈りを受け取ってくださる方は、私たちの父なる神様です。あまりにも大きな概念で、はっきり言って捕らえることができません。しかし、聖霊によって「アバ父よ」と呼ぶことができるのです。「アバ父」とは、アラム語で「おとうちゃん!」という意味です。「父上、お父様」という硬い表現はなく、「おとうちゃん」と天地宇宙を造られたパワフルな方を、御霊によって呼ぶ特権があるのです。素晴らしいことです。「呼ぶ」ということは、大声で叫ぶという意味があります。うやうやしく皇太子が、父親の天皇陛下に敬語で話していますが、親子関係はどうなっているのだろうかといつも考えますが、そのようなものとは違います。何と天地宇宙を造った、父なる神様を聖霊によって「アバ父よー」と呼ぶことができます。私たちが主の祈りを祈るときに、「天にいます私たちの父よ。」は、「お父さん!」という感じです。「御名があがめられますように」それは、「お父さんが最高ですよ!」という感じです。この日本で、父なる神様、イエス様、聖霊なる三位一体なる神様が一番有名になって欲しいと思います。御名があがめられて欲しいです。今年は三位一体なる私たちの神様が、この日本で有名人になるように祈りたいと思います。今我らの神様は有名人ランキングに入っているでしょうか。オウムの方がずっとランク上のようで、キリスト教はほとんど出てきません。めちゃくちゃな宗教がたくさんありますが本当の神の御名があがめられないのは残念なことです。私たちは御名があがめられるために働きたいと思います。

『御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』

 この祈りは、主の祈りの中で最も重要な祈りであり、これを除いてしまったら主の祈りの意味もなくなってしまいます。この祈りが祈りのすべてを表しているといっても過言ではありません。「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と書かれています。「天」という言葉が何度も出ていますが、「天」と言われるとたいていが上を指します。しかし、地球は丸いのです。南米などに行くと私たちが地と指さしているところを天として指さしています。全く逆です。天は空のように考えますが、聖書はそのような意味合いで訳している部分もありますが、天というのはどのような概念があるかというと、「神が支配されている領域」を「天」と訳しています。神の国・御国・また、パウロが使った「第三の天」は同意語であり、神ご自身が百パーセント支配されている領域が天です。「御国が来ますように」とは、「神様の百パーセント支配がこの地上にもたらされますように」ということです。神の国とは、すべての祈りが成就したところです。地上は神のみこころが百パーセント成就していないのです。だから、「みこころが天で行われるように地でも行われるように祈りなさい」ということです。
 神様は皆さんにみこころを持っておられます。計画書があります。それは天においては完璧です。しかし、この地上における計画書は大分、天の計画書とは違います。ある部分は削除されていたり、ある部分では変更されて、天の計画書とは全く違うようなものを受けているときがあります。なぜならば、第三の天とこの地上、第一の天の間に、「第二の天」があるからです。第三の天はパウロが第二コリント十二章二節で、

『私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に・・肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。・・第三の天にまで引き上げられました。』

 第三の天、これは神の国を現しています。第三の天ということは第一と第二があるという事です。第一の天はこの世のことで、第二の天は戦いの領域です。第二の天が生ずるのはイエス様を信じたときに生じます。イエス・キリストを信じる前には、元々支配権は悪魔のものでした。だから完全に第一の天の中に含まれており、その支配権は悪魔のものでありました。完全に第一の天に含まれており、その支配下にありました。しかしその中に、神の国が投げ込まれます。始めその種は小さいと教えています。しかし、種が入り込むと第三の天が私たちの中に芽生え始めます。それは始めはからし種のように小さなものかも知れません。しかし、だんだん大きくなるのです。第一の天の領域に、神の国・第三の天の領域が入り込んでくると自然と第一の天との中に戦いの領域が生まれてくるのです。ある人はクリスチャンになってから、クリスチャンになる以前よりも戦いが多くなったと言われる方がいます。クリスチャンになる前の方が平安だったと、戻るに戻れないと泣きついてこられる人がいます。これは神の国の領域が芽生えてくると、第二の天である戦いの領域が開かれるからです。今まで戦わなくてもいい戦いが起こってきます。第二の天は悪魔と天の軍勢との戦いです。それが皆さんのただ中に起こり、神の国でみこころが表現されても第二の天が押し曲げられないと第一の天に到達しないのです。第二の天において無惨にも神の計画が打ち砕かれてしまう人もいます。ある人はかろうじて半分位受け取る人もいます。また、捕まえたと思ったら違うこともあります。  「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」という祈りは、力強い挑戦的な祈りです。これは原文においては命令形で書かれています。だから意味合いとしてはもっと強いのです。これは固い決意を込めて地面を踏みしめて、「御国よ来たれ!みこころよ成されよ!」という命令の祈りです。「お願いの祈り」とは違います。ということは「教会のただ中に神の国よ来たれ!みこころよ成されよ!」と祈るべきです。この背景には第二の天が押しつぶされるようにという意味があります。祈りの中で第二の天が押しつぶされると神の国の御心が地上に現されてきます。
 私が今年示されている御言葉の一つはヨハネの黙示録十二章七節の御言葉です。

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。』

この戦いが、第三の天であったら困ります。これは第二の天の事です。竜とミカエルが戦い、竜が負けたというのです。そして天から落とされたという言葉です。
 ルカの福音書十章にはイエス様が七十人の弟子たちを選び宣教に送り出された記事があります。「あなたがたは今から神の国について宣べ伝えなさい」と弟子たちを宣教に送られました。そうしたら、彼らの伝道は大成功でした。病は癒され、悪霊は追い出され、彼らは喜んで帰ってきました。「イエス様あなたの名前を使うと素晴らしいです。
悪霊は出て行くし、病は癒されるし・・・皆、福音を受け入れましたよ。」とイエス様のところに報告しました。その時に、イエス様が言われたのがルカの福音書十章十八節です。

『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。』

彼らが宣教に成功したわけは、第二の天で戦っていたサタンが地に落とされたからです。その時に福音が前進し、勝利がもたらされました。これは重要なことです。今まで日本の伝道が進まなかった一つの原因は、第二の領域で勝利がとられていなかったからです。第二の天で已然として竜が勝利を治めていました。だから、第一の天、地上において勝利をとることができませんでした。私たちは第二の天の竜を地に叩き落とさなくてはなりません。そうでないと日本のリバイバルがなかなか進みません。これは個人的にも家族においても言えることです。それぞれに第二の天があり、個人や家族の天で竜が支配しています。しかし、個人の頭上を支配している竜が地上に落ちたら神の国が現されます。あなたは素晴らしい前進を遂げます。家族の問題も解決します。教会も祝福されます。
 今年は辰年と言われますが、私は今年を「辰落ち年」と信じています。それは第二の天を支配している竜が地に落ちる年です。そしてリバイバルがもたらされます。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも成されますように。」という祈りは、第二の天を支配している竜がこの地に落とされますようにという力強い祈りなのです。これは、「教会全体の祈りとしてささげるときに神の国がこの地上に現される」とイエス様が弟子たちに教えられた祈りであると信じます。これから主の祈りを優しく祈ったとしても、心の中では固い決意をもって大地を踏みしめるかのように「御国よ来たれ、みこころよ成されよ。」という気持ちで祈りたいと思います。「平和の神があなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」という御言葉がありますので足を踏みしめて祈ってみてください。これが神の国の祈りです。個人、家族、教会、地域、国のうえに神の国が引き下ろされるように祈るべきです。また、マタイ六章十一節に、

『私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』

と書かれています。この祈りは日本においてはあまり必要がないと思います。数年前にケニアに行きましたが、毎日食べる物がない人が大勢いました。
 さて、「日毎の糧」という言葉は原文では糧ではなく、「パン」です。毎日のパンをくださいという意味です。イエス様はヨハネの六章三十五節で、

『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』

と言われました。「日毎の糧を今日も与えて下さい」とは、「いつもイエス様の所に行かせてください」ということです。一度私たちがイエス様のところに行けば良いのではなく、毎日親しい交わりができるようにしてください。イエス様のところに行くならば、神様に通じます。そしてイエス様のところに押し出してくださるのが聖霊様です。「日毎の糧を今日も与えてください」とは、切迫した食糧危機のことも含んでいますが、日毎の糧であるイエス・キリストを毎日求めていきたいと思います。日毎の主イエス・キリストとの交わりを欠かしてはならないということです。

『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』

「負いめ」とは借金のことです。私たちの借金を赦してください。私たちも私たちに借金をしている人を赦しますという意味です。たくさんお金を借りた人は得するのではないかと思うかも知れません。負いめとは聖書においては罪の負いめです。これは「赦し」についての教えです。マタイの福音書十八章を見ると、王様から一万タラントを赦された人が百デナリを返さなかった自分の友だちを赦さなかったことによって牢屋に入れられてしまったというストーリーがあります。私たちの信仰生活の中で毎日教会として祈ることは「憎しみから私たちが守られるように、解放されるように」ということです。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

と書かれています。神の国が現されるためには、サタンの介入をとどめなくてはなりません。サタンの介入の大きな条件が憎しみです。私たちが心の中に憎しみを持っていたら、悪魔は合法的に人生に介入してくるのです。
 憎しみという領域は霊的戦いを知らないと、なかなか解決しません。なぜならば、だれかが自分に悪いことをしたら、それに対しての憎しみはそれなりの理由があるからです。「あの人がこれだけのことをしたのだから、私があの人を憎むのは当然」というのです。しかし、もし私たちが赦さなかったら悪魔が合法的に機会を捕らえるのです。だから主の祈りの中でも、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と憎しみからの解放について祈るように勧められているのです。
 今年この教会の中から、憎しみという領域が全くが消え去りますように。個人、家庭、教会においても憎しみが消え去ったらどんなに素晴らしい世界ができるのでしょうか。
 世界には多くの戦争がありますが、その根源は憎しみです。あの民族は見るのも嫌だというのです。だから、民族浄化という恐ろしいことが起こっています。これらは憎しみからです。憎しみが取り去られるためにはイエス様が必要です。また霊的な戦いとともに憎しみの領域が打ち砕かれるべきです。
 六章十三節に、

『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

と書かれています。悪とは何ですか。ある方は、「悪とは善の反対の概念です」といわれます。しかし、悪を善の反対として捕らえてはいけません。これは、悪い者サタンです。それ自体が人格を持ってうごめく存在です。悪から救い出してくださいというのは、悪の根元である悪魔の力から私たちを救い出してくださいという意味です。
 「試みに会わせないでください・・・」時々私たちは色々な試練に出会います。試練をも神は用いられますが、その試練の背後には悪魔の介入があることも確かです。ヨブ記を見ると、試練を受けたそれなりの理由がありましたが、背後で働いていたのはサタンであったからです。ということは、試みに会わせないで悪魔の力から私たちを助けてくださいという祈りが必要です。今年、試練に会いたくありません。平穏無事な生活をしたいと思います。そのためには悪魔の力から救い出してくださいというこの祈りが共同体的に必要です。
 これらをまとめてみると、第一に「神様の御名があがめられますように」から始まります。第二に、「神の国よ来たれ。みこころよ成されよ。」続いて、「毎日イエス様のところに行かせてください」という祈りです。次は「すべての人を赦します。」そして、「試練に会わせないで悪魔から守ってください。」そして最後に、「神様に栄光をお返しします。」という祈りです。この意味をしっかりと捕らえて神の国が現実として動き始めますよう、共に祈っていきたいです。今日、私たちは主の祈りをともに学びましたが、これは重要な祈りです。これは共同体的な祈りです。私たちが心の底から主の祈りを祈るならば神の国がこの地上に現されます。今年、二千年に第二の天が打ち破られ、神の国が現されることを願って主の祈りを祈りたいと思います。

天にまします 我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかすものを、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり
アーメン

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