今週の礼拝メッセージ
2000.1.16(SUN)
調和といたわり
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙第一12章18節〜27節
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
  ハレルヤ!イエス様の御名を賛美します。今日私たちは真の神イエス・キリストを礼拝するために集まっています。今から学ぶ御言葉は私たちが生きるために備えられたものです。この世の中はだまされることが多い世界です。だまされないように気をつけなくては生きられないような世界です。しかし、聖書の世界は真実な世界です。私たちクリスチャンは真実に生きるために御言葉を学びます。教会に来て、真実に生きることについて学びます。私たちの中から偽りを除き、神の真実によって生かされることを願います。
 この世にはいろいろな問題があります。毎日テレビを見ると、辛いこと、悲しいことなど、多くの問題が反乱しています。どのようにしたら世の中を良くすることが出来るのだろうかと考えます。しかし、聖書の中には、この世の中を良くする秘訣が備わっています。今日学ぶ御言葉を日本政府が取り入れて、この御言葉を基準に国を建て上げることを決断したら必ず日本が変わります。これは革命的な言葉です。
 この世の中は、「強い者に価値がある」という価値観が反乱しています。これは日本だけにとどまらず、世界中の現状です。今日は大学入試センター試験が行われています。新城教会に集っておられる方々の中でもその試験を受けている方がいると思います。実は、私の娘も出かけていきました。大学はよくできる人から入れてくれます。出来ない人からとってくれる学校など聞いたこともありません。学校は勉強を教えるところなので出来ない人を集めて教育すべきだと思います。出来る人は放っておいても勉強しますので出来ない人をたくさん集めて教えたら良いと思います。しかし、そうではなく成績の良い方からとっています。日本においては少しでも人より抜き出なければ良いポジションを得ることが出来ないという考え方があります。特に日本は他国と比べてその概念が強くあります。その根底は教育の中にあると考えます。なぜならば、学校教育の中で進化論が真理かのように伝えられているからです。人間は進化した存在だと言われます。だから人間の先祖はほとんどの人が「猿」と答えます。昔猿だったと言われると良い気分がしませんが、人間の祖先は猿だと答えます。本当に人間は徐々に進化してきたのでしょうか。進化論を論じていく根拠に自然淘汰があります。強い種族が生き残ったというのです。キリンという動物がいますが、彼らは外敵から身を守るために努力し、いつも辺りを見回して背伸びしていたら徐々に首が長くなり、遠くまで見通すことができて生きのびたというのです。私は首が長くてどこからでも目立つので、かえって早くやられるのではないかと思います。この世はほとんど生き残りゲームのようなものです。
 ある意味で神様は人間社会の中に競争という原理を残されています。日本は自由諸国の一員です。日本が戦後ここまで成長した背景には経済市場における自由競争が許されていたからです。それによって国際社会において現在のポジションをつかむことができました。競争がすべて悪いということではありませんが、度が過ぎてしまうと良くありません。逆に、そのような概念は良くない、皆共通にしようと共産主義が起こりました。しかし、共産主義は競争意欲が全くなくなって弊害があります。しかしこれは、ただ価値観だけの問題にとどまらず、根底は神を認めるか認めないかにかかっています。聖書は、

『初めに、神が天と地を創造した。』

という言葉から始まっています。神という絶対的な方がおられ、全てのものを創造されたという宣言から始まっています。この前提をしっかりと据えなければ、すべての議論がかみ合いません。ある意味で日本人は創造論を信じていないので、なかなか話が通じません。すべてを造られた神が世界に存在されるのです。天地宇宙を支配されている神様が存在されるのです。人間が物を作る時、必ず目的を持って作ります。目的なく物が作られることは、まずありません。今、私はマイクを使っていますが、これは音を大きくすることが目的です。イスも座るという目的があります。そのように、人間が作った物に目的があるとしたら、神様は人間を目的と共に造られたはずです。神様は一人一人に重要な使命を与えて創造しました。「私は何のために生きるべきかわからない」というか方がおられたら、神様があなたの人生に対して大きな目的を持っておられることを知ってください。それは神様を認めることから始まります。
 同時に、人はどのように調和して生きてゆくべきかについても聖書は教えています。今日お読みした箇所も調和について教えているところです。世界人口は、六十億人と言われます。しかし、今年は、六十五億人にふくれあがるだろうと言われています。イエス様の時代の推定世界人口は、二千万人だと言われています。この二千年の歴史で六十五億人に増加しました。これでは、食糧問題・人口問題をとっても人類は長く生きることが出来ません。六十五億人でもすごい人数です。地球もだいぶ重くなってきたかも知れません?人類が六十五億人存在したとしても、全ての人に神の目的があるのです。創造者なる方は知恵に満ちておられます。六十五億人全体を調和させ、生かしておられます。人間の体にはたくさんの細胞があり、それが調和しています。一つ一つの細胞に目的があります。一つの細胞が崩れても人は生きることが出来ません。一つ崩れると病気になります。体の中でも細胞が調和を保って生きています。と言うことから考えても、世界の六十数億の一人一人の中に神の計画があると考えても矛盾はありません。そして聖書は、一人一人が調和して成り立っていると教えています。聖書が提示している個人の位置づけの中で学ぶべきことは、私たちが一人一人が人間の体と同じように互いに調和し、補完しながら成り立っているというのです。第一コリント十二章十八節に、

『しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

と書かれています。二十七節には、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

と書かれています。ここにおられる方は一人一人が各器官としての位置づけがあるのです。私たちはこの世の中に生きています。競争の社会・強い者に価値があるという価値観の中に浸かっています。そして教会に来ます。しかし、教会に来た時は、玄関先でこの世の価値観を全部脱ぎ捨てて入って頂きたいと思います。教会の中にこの世の価値観は存在しないと言いたいです。私たちはこの世の価値観ではなく、神の国の価値観です。キリストがかしらであって、一人一人が各器官であるという、「神の国の価値観」の中で生きていくべきです。だから、教会の中に入ったら、差別、偏見、上下関係から解き放たれるべきです。お互いに必要な各器官として調和し、いたわり合うべきです。教会に来たら、職業、能力、貧富の差などは全く関係ありません。互いが必要です。しかし、この世の中に生きなくてはならないのでギャップに悩むことは確かですが、極力、聖書に従って生きるべきです。御言葉を基準に価値観が修正されなければなりません。気を付けてこの世の価値観を教会の中に入れないようにしなければなりません。世の中で価値があるというものが教会の中で価値があり、世の中で美しいものが教会の中で美しかったり・・・これでは良くありません。あくまでも、私たちは聖書の価値観を身につけていくべきです。また二十一節からに、

『そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

と書かれています。体の中でも目立つところと目立たないところがあります。人と会うとまず、顔を見て印象を確かめます。「この人は美しい、太っている・・・」と外面を見ます。しかし、外面よりも本当に必要なのは見えないところにあると聖書は教えています。人間の生命の根元は外ではなく内側です。内側の病の方がシリアスです。手を切ったり、すりむいたりという外傷は案外早く治ります。しかし、内側の見えないところの病は時間がかかります。
 先週は私は風邪をひいて大変でした。礼拝時にも治ったと言いながらも熱っぽく、ボッーとしていました。礼拝が終わってすぐに九州に行きました。福岡で夜七時からの集会で私はトップバッターでメッセージをしました。熱があって辛かったです。目に見えない部分です。私は皆の前で落ち込んだ顔もしていられないので元気良くしていました。九州でも「先生、真っ赤な顔をして熱心に語って下さいました」と言われましたが、熱があって赤い顔で内側は大変でした。私たちの体の内側に重要なものがあるということはわかっています。私たちの人生・調和の中でも一番大切なものは目に見えない、目立たないところが大切だと言っています。「比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」と書かれていますが、「弱いと見られる器官」この意味は原文(ギリシア語)では「病んでいる器官」という意味です。これもこの世の世界の価値観と全く違います。病んでいる器官は価値のないものだと考えがちです。しかし、聖書は病んでいる器官がなくてはならないものだというのです。教会は病んでいる弱い器官が必要なところです。教会に来て皆が喜んで賛美している姿を見て、「私は病んでいる。私はまだ解放されていない。どうしてだろう」と落ち込んでしまう人がいますが、皆さんの信仰がもしも今私は燃えていないと感じても別に悲しむことの必要はありません。その病んでいる器官が必要だと聖書は教えています。解放されていない部分があるという方は心配しないで下さい。まったく訳のわからない概念を聖書は提供しています。しかしその理由は、その弱い病んでいる部分こそ神が働かれる現場だからです。教会が何もかも癒されて強者の集いだったら、神様は働くことができません。弱さや病があるところに神様が働いて下さいます。だから教会に弱さや病がまだ解決せずに残っていたら、その部分は大切で神様が働かれる現場だと認識するべきです。これは重要な真理であると信じます。
 今回九州で朝から夜まで四回続けて集会がありました。志賀島という離れ小島のような所でしたので、そこから一歩も外に出ることが出来ない所でした。福岡はラーメンが美味しいです。ラーメンが食べたくてもそこから出ることができない、というか、四回の集会の間隔が短いので忙しかったです。二日目はまだ熱があったのでフラフラして夜の集会が終わってすぐに帰り、早く寝ようと考えました。エレベーターを待っているとなかなか来ず、人がたまってきました。ひとりのご婦人が娘さんを連れてきました。「先生、娘のために祈ってください」と言われました。娘さんは暗く、ぼっーとしておられました。その方は結婚して半年、普通は幸せの絶頂の時だと思いますが、精神的に病んでいて薬なしでは生きられないというのです。「先生、この聖会に無理して連れて来ました。これが終わったら入院です。」と言っていました。聞いてみるといろいろな問題で押しつぶされそうでした。そのような病気の背後には、病を後押ししている悪霊的な存在があるから、それを取り除いてから祈るよう勧めました。「あなたは昔、悪霊とコンタクトしたことがありませんか。」と聞きました。すると中学生の時の趣味がコックリさんだったと言われました。最初は遊びでやっていたそうですが、そのうち色々なことをそれで決断するようになっていたそうです。これは悪霊を直接呼ぶものです。それをやっていたそうです。何事もなく学生時代を過ぎ、結婚しました。そこで問題が起こりました。家庭の問題の爆弾が仕組まれたのは中学生の時です。問題はある意味で引き金です。爆薬は中学生時代に仕込まれていたのです。だからそのことを話して祈りました。罪の赦しと悪霊との関係を断ち切るように祈りました。そして、私は手を置いて祈りました。すると途端、その人の体がガタガタ震え出し、叫び声を上げて倒れてしまいました。ホテルの係りが心配そうに駆けつけて来て困ってしまいましたが、「大丈夫です」と言って他の部屋で祈りました。そして次の日に、スッキリしたと言っていましたが、帰る前にもう一度細かくお祈りしました。缶の中に薬をたくさん入れていました。薬がないと生きていくことが出来ないと言われ、何度も自殺未遂を繰り返していました。先週も薬を飲んでおかしくなったことが発見され、レスキュー隊に梯子車で助けられたそうです。悲惨な状態でしたが、祈ってあげました。そして何か起こったか、入院してしまったかわかりませんでした。
 すると、昨日その方から電話があり、その後完全に治り、薬も要らなくなり、見違えるほど元気になったという電話がありました。素晴らしいです。またその方はアル中で酒がなくては生きられなかったそうです。しかし、祈ってからまた酒が欲しいと思ったそうです。買いに行き飲もうとしたら、途端気持ちが悪くなり体が受け付けずに戻してしまったそうです。酒もいらなくなり、入院しなくてもすみ、癒されたと連絡がありました。弱さの中に神様が働かれます。私は何もできません。ただ祈っただけです。働かれたのは私たちの神・イエス様です。イエス様が働かれ、御業を現して下さいます。病んでいる部分がなくてはならない部分であり主の偉大さを知ることができます。瞬間的に癒してくださる時もあります。また、時間をかけて段階的に進んでゆくときもあります。しかしその中で神様は調和を保って下さいます。瞬間的に全部治ったら、人間は高ぶります。しかし、そうならないために段階的に癒してくださったり、ある時には全く祈りが聞かれなかったように見えるときもあります。しかし、神様は必ず最善に導いてくださいます。神様は病んでいる弱いところがなくてはならないと言われます。今日皆さんの中に病んでいるところがあったら、これは私にとっても、また、教会にとってなくてはならない存在だということを知って下さい。人間の顔も調和が保たれています。眉毛があって目があることも素晴らしいです。目の下に眉毛があったら、ゲリラのようです。そして眉毛の役割が全くないです。眉毛は汗が流れたときに左右に分水して流れるようにあるものです。目を守っています。また、目も左右対称についています。あちらこちらに付いていたら歩けないかも知れません。鼻の穴が下を向いていることも素晴らしいです。雨の日に鼻が上を向いていたらいつも鼻を押さえて歩かなくてはなりません。その下に口があることも感謝です。口が目の上にあったら食事をするとき大変ですし、スープをこぼしてしまうと目や鼻に入って大変です。そのように調和が保たれています。教会も人類も全てが全体で一つの調和を保っているというのです。第一コリント十二章十三節には、

『なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。』

と書かれています。ここではユダヤ人だけではなく、ギリシア人も奴隷も自由人も一つだと言っています。私たちの教会には外国からの兄弟姉妹がおられます。これは素晴らしいことです。日本人だけの教会では不健全です。なぜならば、海外も日本も一つの体につながっているからです。だから、海外から来られて新城教会に属する方は、日本人の中で肩身が狭いと思わないでください。この中に居場所があることを信じて下さい。その中には言葉、文化、人種の壁もありません。このことを世界が学んだならば、戦争がなくなると思います。世界規模の調和があることは感謝です。
 私は旅行をするときによく、飛行機に乗ります。飛行機は短時間で目的地に行けます。今はとても良い時代です。先週はここで礼拝して夜は九州で集会が出来ました。車で行くと十数時間ですが飛行機では一時間少しです。だからいつも私は感謝しています。いつも飛行機に乗るとき、飛行機ははすごいものだと感動します。あの大きなものが空を飛ぶからです。あれを作って最初に動かした人はすごいと思います。飛ぶか飛ばないかわからないものを操縦したのです。その人に何か賞をあげたいくらいです。飛行機は一つ一つ部品をばらしたなら全部下に落ちるものばかりです。飛べるものは何もありません。金属、プラスチック、木材が材料です。手を離したら下に落ちるものばかりです。それにも関わらず空を飛びます。飛行機はなぜ飛ぶのでしょうか?飛行機は翼があるから飛ぶと言われる方もいます。すると、翼の下に付いているエンジンが、「エンジンを吹かしているからだ」と言います。そう論議していたらそこにパイロットが来ます。「何を言っている。翼、エンジンがあっても、俺がいなかったら飛ばない。おれが一番偉い」というのです。しかし、パイロットの資格を取っても飛行機がなければ飛びません。資格を取ってもアンパンマンのように空を飛べません。とすると、飛行機はなぜ飛ぶのだろうと考えるとわからなくなってしまいます。しかし、一言で言うと「人間の知恵が注がれているゆえに、飛行機は空を飛び」ます。同じように、人生も放っておいたら落ちていく存在です。神の知恵がなくては私たちの人生は飛び立つことが出来ません。私たちの人生に神様の知恵が注がれれば、重たい人生も空を飛ぶことが出来ます。神の知恵が注がれるときに、人生が素晴らしいものになります。今日も神様の知恵の中で調和が保たれ、お互いにいたわり合って存在しています。今日皆さんに神の知恵が注がれ、皆さんの人生が飛び立てるように祈ります。今日ここにおられるひとりひとりが神の目に高価で尊いものです。そして、それぞれがお互いを必要としています。飛行機もたくさんの部品が一つにくみ合わさって空を飛んでいるのと同じように、私たちもそれぞれがお互いを支え合い、受け入れ合っていきたいと思います。神様の素晴らしい知恵が注がれますように。一言祈ります。

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