今週の礼拝メッセージ
2000.1.23(SUN)
神を喜ばせる信仰
新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヘブル人への手紙11章1節〜6節
『信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。』
 ハレルヤ。主の御名を心から賛美いたします。皆さんと共に信仰を進ませていただいて、今こうして恵みの中にあることを心から感謝します。年末年始があっと言う間に過ぎて、もう一月も終わりに近づいています。皆さんもそうだと思いますが、昨年のクリスマス以来、私も忙しい毎日を過ごしています。クリスマスが終わって息つく間もなくスーパーミッション2000のための一泊の話し合いがあって、その後ミッションの発送関係や越年聖会、新年礼拝、四十四時間PPHに突入して、そのまま北海道リバイバル聖会に行って来ました。その後帰ってきてすぐにテーマ別の祈祷会があり、ここからは名古屋に多くの兄弟姉妹が祈りに行かれましたが、私は茨城に行って祈ってきました。一度帰ってまたすぐ東京に行き、続けて京都に行って、また東京に行ってというスケジュールをこなして、一日も休みなく奉仕させていただき、今日に至っています。健康で、奉仕できるのも主の恵みであり、皆さんのお祈りに支えられているなぁと、心から神様に感謝し、また皆様にも感謝したいと思います。
 九九年の越年聖会の時に、この一年を振り返り、霊的な礼拝、霊的な供え物をもって神の前に出れただろうか、また私たち一人一人が『心の一新によって自分を変えなさい』と聖書に書かれているように、一つの目標を持ち、一つのヴィジョンを持って新しい年を迎えていきましょう、とメッセージさせていただきました。それは皆さんにメッセージしたというより、自分自身が神様に教えられていることを共に分かち合いたいという思いで語らせていただきました。皆さんも何か新しい目標を持ってこの二千年という年に、突入したと思うんですが、もうすでに一ヶ月が過ぎてしまうように、一ヶ月、一年がすぐ過ぎてしまいます。私自身、この三週間、四週間足らずを振り返って、御言葉通りの信仰の働きができたかなぁと考えてみると、まだまだできていないことを思う時に、本当に弱い者だなと痛感させられる毎日です。そういう中で私たちは今何が私たちに必要なのかと、もう一度主の前に祈った時に、「信仰」ということを神様が私自身に教えてくださったので、このことを皆さんと分かち合いたいと思います。私は難しい話をすることもできないし知識もありませんが、神様から与えられた御言葉を皆さんと共に学んでいきたいと思います。
 今日はヘブル書十一章から「神を喜ばせる信仰」というテーマからお話ししたいと思います。皆さんは、「いつ信仰を持ちましたか?」と聞かれたら、ある人は何年何月何日に洗礼を受けて信仰を持ちましたと期日を言われる方もあるでしょうし、ある方は伝道集会やキャンプで自分の罪が示されて、悔い改め、信仰を持ったと答える方もおられると思います。私が同じ質問をされたら、「いやー、洗礼を受けたのはいつだったかな?」と答えると思います。小学校一年生の時に洗礼を受けたと言われていますけど、ほとんど記憶もないし、その当時教会にはコンピューターもなければ記録もない。何月何日洗礼を受けたという日付がはっきりしていないのです。上條先生と同じ日に洗礼を受けたということと、洗礼の後、その川で泳いだということだけは覚えているのですが・・・。「信仰歴何年ですか?」と聞かれた時に、「洗礼を受けてから三十五年ですから、信仰歴も三十五年になります」と答えると、「素晴らしいですね」とよく言われますが、信仰歴は長くても信仰成長の遅い者です。私が今まで信仰を守ることができたのは、ただ主の一方的な恵みであると思っています。また、「どんな信仰をお持ちですか」と問いかけられた時に、皆さんはどう答えますか。その時片言でも「私はこういう信仰を持っています」という紹介ができなかったら、「私はクリスチャンです。信仰を持っています」と言うには、やっぱりちょっと神様に申し訳ないかなと思うんです。それぞれ答え方はもちろん違うでしょう。一人一人それぞれの証しがありますから。聖書の有名な御言葉、第一コリント十五章一節のところに、良き訪れ「福音」ということが書かれています。

『兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです』

これが私たちの信じている福音なんですね。このことを私たちはしっかり持っていなくてはなりません。またヨハネの福音書三章十六節には、私たちが救われるということに関して書かれています。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』

 私のような罪人が、永遠の滅びに行かなくてはならなかった者が、神様の一方的なあわれみによって、恵みの中で救われて、今永遠のいのちが与えられている。私たちは、この信仰を守っているわけです。
 ちまたでは今、いろいろな新興宗教が流行っています。オウムも最近になってまたいろいろな問題が出ていて、何やってるのかなぁと思うわけですけども、先日新聞を見ていたら、ミイラ化した二人の幼児の死体が出てきたという記事を読みました。当時六歳の子どもと小さな赤ちゃんが、病気のために塾に預けられていたのですが、よくならずに死んでしまったにもかかわらず、預かった人がそのまま放置しておいたために、ミイラ化してしまったのです。捕まって、事情聴取を受けたその容疑者は、「私は地球創造主の代理人で、復活のためにエネルギーを送っている」と言ったそうです。世の新興宗教では、「私が神だ」「私が救い主だ」などという人も現れてきて、私たちたちとクリスチャンではない人とどこが違うのか、私たちはどんな信仰を持たなければならないのかということが、非常に重要になります。
 よく「救われた時はどのようでしたか。どう変わりましたか?」と聞かれることがあると思いますが、子どもたちは、「何も変わらん」と答えたりします。大人たちは、精神的な部分で平安があり、喜びがあるということだけでなく、いろいろな恵みがあるわけですから、その証しをします。でも実際には、一瞬にしてすごい美人になるとかお金持ちになるとか、背が伸びるなどということはないわけですね。見える部分は何も変わらないことが多いわけです。では何が変わるのか、何が違うのでしょうか。
 ペテロ第一の手紙一章八、九節に、

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです』

と書かれています。外見は変わらないけれども、信仰を持ったことによって、洗礼を受けたことによって、心の中に喜びがある。そのことを是非確認していただきたいんですね。私たちは神様を見てはいないけれども信仰によって愛しており、信じています。このことによって、たましいに喜びがあるのです。これは私もすごく好きな御言葉です。「私はイエス様を見たよ」と言われる方もいますが、私は一度も見たことがありません。子どもたちには天使が見えたり、イエス様が見えたりするようですけども、残念なことに、イエス様は私の前に目に見える形で現われてくださったことはないので、どんな形をしているのかわかりません。しかし、私たちはこの信仰によって、『栄に満ちた喜びにおどっている』と証しできるのです。もし今皆さんの中に、「私にそのような喜びがあるかな? 救われた時はそうだったかもしれないけども、だんだん冷えて、今は凍ってしまっているかも」と思っている人がいたら、もう一度神様の恵みの中で救われ、たましいに喜びがある、望みがあるということを、思い出してください。世の中の多くの人が、お先真っ暗、これからどうなるのかという不安を抱いている中で、私たちには将来と希望があります。喜びがあり、望みがあるのです。このことを是非覚えていただきたいんですね。
 このヘブル書十一章一節からのところに、「信仰」ということばが何回か出てきますが、皆さんと一緒にもう一度「信仰」について学んでみたいと思います。
一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです』

と書いてあります。私たちは望んでいる事がらが、ああなったらいい、こうなったら素晴らしいと思うわけですけども、ただ願望としてこうなったらいいというのは信仰ではないですね。ここには、望んでいる事がらを保証すると言っています。何かの契約をする際に、保証人を立てますが、それは、どっちに転んでも、どのような展開になろうとも、絶対にこのことは保証しますということで立てるのです。それと同じように、私たちの信仰には神様が保証をしてくださるということなのです。私たちは自分の思いの中で、神様はこういう方だろう、ああいう方だろうと考えますが、目に見えない神様を、私たちは信仰によって愛し、受け止めるのです。そしてその信仰の中に確信があるわけです。
 私たちは地球に住んでいますが、聖書の一番初めは、『初めに、神が天と地を創造した』と書かれています。この天地、また私たち人間は誰の手によって造られたか、ということが、ある意味で私たちが神を信じるか信じないかということの分かれ目でもあると思います。そのことが十一章の三節に書いてあります。

『信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』

 分かりにくいことですけども、ここには神のことばでこの世界が造られ、見えるものから造られたのではないと言っています。つまり、多くの人が信じている進化論は、見えるものがあって、そこからどんどん進化していろんなものができていったというものなんですね。しかし、『地は形がなく、何もなかった』と創世記にあるように、何もない、アメーバーも存在しなかった時に、神が『光よ。あれ』と仰せられ、すべてのものが創造されたと私たちは信じるのです。つまりこの宇宙、この世界、この地上を造られ、山や木や花を造られ、そして私たち人間を造ってくださった神様がいらっしゃる。この世界が目に見えないものからの創造、すなわち、神の創造の業、と信じることが私たちの信仰の大きな基礎となるわけです。 ローマ人の一章二十節には、

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです』

と書いてあります。今いろいろな学者たちが地球は何年前にできたのか、生物はどのようにできたのか、人はどのように進化したのかと調べています。しかし、いろいろ調べたとしても、どんな理由づけをしても、こうじゃないか、ああじゃないかと言ったとしても、ここに

『世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない』

と書いてあるように、聖書の御言葉の中には、人がどう言おうと、この世界は神のことばによって造られたこと、そして目に見えない神様の本性、その中でこの世界が創造されたということを、あなたがたは疑いもなく信じればいいんですよと言っているわけです。そして、それに続いて六節には

『信仰がなくては、神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです』

とあります。ここにいるほとんどの皆さんがクリスチャンなので、「信仰を持っていますか」と聞けば「ハイ」と答えると思います。そして「あなたは今死んだら天国に行ける確信がありますか」と聞けば、大多数の方は「あります」と言われると思います。私たちはイエス様を信じるなら、必ず天国に入ることができるという信仰を持っていますね。でも皆さんにお聞きしますが、どこまでの信仰を持っていますか? どこまで信じらますか?
 最近ずいぶん寒くなって、風邪をひいている人も何人かおられると思います。風邪をひいた時に、すぐ薬を飲む人、飲まなくても祈ったら必ずいやされると信仰を持って薬を飲まない人もいますね。私はあまり風邪もひかないのですが、熱が出たりすると、信仰がないわけではないですけども、とりあえず祈ってバファリンでも飲んで一晩寝れば治ると思ってしまうんですね。本当に信仰があれば、薬を飲まなくてもいいんじゃないかと思いますね。では「あなたは癌ですよ」と宣告されて、「この注射をすると痛みがなくなり、楽になりますよ」と言われたら、私は信仰によって「注射はいりません、薬もいりません」と言いきれるかというと、なかなか言えないと思います。病気に対してどこまで信仰を持てるでしょうか。また、例えば病気じゃなくても、祈った時に歯に金が入ったという話がありましたよね。ずいぶん話題になりました。ある人は実際にその歯を見ても、「そんなウソだろ。そんなことあるはずないじゃないか」と思う方もいるでしょうし、死人が生き返ったと聞いても、「それはすごい」と信じられる人もいるように、いろいろな人がいると思うんですね。それはすべて信仰です。神様は全知全能の方、この世のすべてを造られた方です。ですから

『神にとって不可能なことはひとつもありません』

と書かれているように、金歯を生やすことも、癌を癒すことも、死人をよみがえらせることも難しいことではないんですよ。私が病気になって薬を飲んだ時、自分の中で「仕方ない。私は信仰の薄いものだから」と考えます。それは私たち側の信仰ですね。皆さんは神様がこの地上、この宇宙、人間一人一人を造られたことを信じていると思いますが、自分のことに関してどこまで信仰を持てるかはすごく難しいですね。
 以前にもお話ししたことがあると思いますが、ある人がおばあちゃんに伝道したそうです。「おばあちゃん、真の神様、イエス様は本当に素晴らしい方ですよ。神にとって不可能なことは一つもないんですよ。窓の向こうに山がありますけど、あの山に向かっておばあちゃんが祈ったら、山を反対側に移すこともできるんです」と言ったんです。するとおばあちゃんは「それは素晴らしい、そんな偉大な神様か」と言って夜寝る時に、窓を開けて山を見ながら、「神様、あの山が私が寝ている間にこっち側に移るように」と祈って寝たそうです。そして朝起きて窓をガラガラと開けたわけです。すると何と、おばあちゃんが思ったとおり、この山は跡形もなくこっち側に移っていた、わけじゃないんですね。山は昨日と同じように何も変わっていませんでした。それを見たおばあちゃんが第一声、「やっぱりわしの思った通りじゃ。そんなことがあるはずがないじゃないか」と言ったそうです。おばあちゃんは祈ったかもしれない、でも一晩でこっちからあっちへ移るはずがないという信仰がおばあちゃんの中にあったわけですね。絶対に山が移らないという信仰があったから、いくら祈っても絶対に山は移るはずがないのです。このように私たちの信仰をどこに置くかが重要です。自分自身もそうですが、信仰の弱さを感じる時が皆さんにもあると思うんです。マタイの福音書十七章のところには、

『あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません』

と信仰について書かれています。ここからあそこに移れと言ったらそのようになる。あなたがたにできないことはないと神様が言われているのです。そしてそこには、「からし種ほどの信仰があったら」と書かれています。滝元先生が以前見せてくれた本当に小さなからし種。その種ほどの信仰があったら、このことが起こるんだよと言っているわけですけど、「いやあ、そうは言ってもね」と、皆さんは言われるだろうし、私もこれを読みながら「そうは言ってもね」と思ったりするわけですね。神様は一人一人の信仰によって働かれるのです。先ほどのおばあちゃんのように、絶対に移るはずがないという信仰を持っていたら何も起こりません。しかし、私たちが確信を持って祈ったなら、神様は確実に働いてくださる方だということを覚えていただきたいのです。
 ヘブル書十一章二節に、

『昔の人々はこの信仰によって称賛されました』

とあるように、現実には不可能のようなことに対しても、神様に信頼し、信仰によって踏み出したことによって称賛された信仰の勇者、ヒーローたちのことが続けて書かれています。
 一人はノアです。このノアの箱舟は有名ですが、今から五千年くらい前に実際あったことです。神様はこの地上に罪が満ちたから、雨によってこの世を全部滅ぼそうとされたのですが、ノアとノアの家族に対して、「あなたがたを救ってあげたい」と、ノアに箱舟を造るようにと命令されたのです。その時、ノアは恐れかしこんで主の言葉を受け入れたのです。私は言われたのが私でなくて良かったと思います。私みたいに気の短い者がそう言われても、一度は「わかりました」と返事をしても、途中で投げ出したと思います。考えてみてください。この箱舟を造るのに百年以上かかったと言われています。その間、みんなから「そんなことあるはずがないではないか、おまえは気がふれたのだ」と言われたにちがいありません。さらに、この時代には地上から水が湧き出ていたので、雨が降りませんでした。雨という言葉があったかどうかさえわかりません。つまり、その状況の中で大雨が降り、この地上が水で水浸しになり全部覆われてしまうというようなことを、誰が信じられるのでしょう。また、この箱舟は一人で造るにはあまりにも大きな船でした。長さが百三十五メートル幅二十三メートル、高さが十三メートルあったと言われています。ノアはすごい信仰の持ち主だったと思います。神から言われたことを恐れかしこんで受け取り、すべて主が命じられたとおりにしたのです。そして、その箱舟が完成した時、雨が四十日四十夜降り続き、すべての生き物、木々を水の中に沈めてしまいました。箱舟にはノアとその家族、そしていのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ入れられ、助かったことが書かれています。これは私たちが水の中を通って洗礼を受け、救われるという一つの型であると言われています。
 また、信仰の父と言われたアブラハムのことが書かれています。彼はどこに行くのかを知らないで、出て行ったと記されていますが、それ以上に彼が信仰の父と呼ばれた理由は、我が子イサクを主の前にささげたということにあります。アブラハムはイサクを得るまでに二十五年待ちました。祈って祈って神様の約束を待ち続け、二十五年かかってやっと約束の子、イサクを得たのです。その目の中に入れても痛くないほどかわいがり、愛し続けてきたイサクを、それも少年期のかわいい時に神様はもう一度アブラハムに試練を与え、あなたが一番大事にしているその子をわたしにささげなさい、と言われたのです。人の子の親であれば、自分の子どもをささげものとしてささげなさい、と言われても絶対にできないことです。しかし、アブラハムは神様に従いました。聖書には書かれていませんが、どんなに苦しんだことでしょうか。彼は三日の道のりをイサクを連れてモリヤの山に行きました。イサクに、「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」と聞かれたアブラハムは、「神ご自身が備えてくださる」と言っただけでした。そしていざイサクを縛り、刀を取ってほふろうとした時、主が待ったをかけました。主は「あなたが神を恐れることがよくわかった」と言われ、代わりのいけにえを与えてくださったのです。このことにより、アブラハムは信仰の父と呼ばれ、彼の子孫が素晴らしい祝福を頂いたことが書かれています。これは、死者の中からイサクを取り戻したように、父なる神様が子なるイエス様を十字架にかけ、死者の中からよみがえらせるという一つの型であると言われています。
 もう一人、素晴らしい預言者であったモーセについて書かれています。モーセは四十年間、王宮で生活し、その後四十年間荒野で生活し、八十歳になった時に、パロの前に出て、数々の奇蹟を現し、初子が殺されるという最終的な手段をとって三百万人近いイスラエルの民を引き連れてエジプトから荒野に出て行きました。モーセは四十年間の荒野の生活を経験し、荒野の生活がどんなに厳しいのか、よく知っていました。夜は厳しい寒さを覚え、食糧もなく、水もないという所に、一人でも大変なのに三百万人近い民を連れ出すには、大きな覚悟が必要でした。エジプトにいれば奴隷であっても生活はできる。その中からあえて連れ出し、約束の地カナンを目指して、信仰を持って出て行きました。絶対に不可能だと思われるような荒野の生活の中に、神様はマナを降らせ、うずらを与え、何百万という民を養いました。これは丁度私たちの人生の型です。私たちは今、約束の地カナンを目指しています。しかし、イスラエルの民が約束の地カナンの近くまで行きながら、その多くが途中で不信仰になり、初めに出て行ったほとんどの人が約束の地に入れないまま死んでしまったと同じように、私たちも今後何年生きられるかわかりませんが、不信仰によって永遠の国、天国に入ることができなくなってしまうことがないようにすることが重要です。信仰とは、目に見えないものを、霊的な目で見ることです。私たちの肉の目で見えるところには、病気や経済的な苦労、多くの問題があります。しかし、私たちが信仰の目で見、神を愛し、神の命令を守るなら、神に喜ばれ、約束の地に入ることができるのです。
 ヤコブ書には、

『行いのない信仰は死んだものだ』

と書かれています。
確かに私たちは皆信仰を持ってきました。ある人は、迫害の中でいのちがけで信仰を守ってきたかもしれません。ですから、このまま信仰を持っていけば、献金額がどれだけであったとしても、人を導いていなくても皆さんは天国に入ることができるでしょう。その時にイエス様の前で、多少おこごとを言われるかもしれませんが、天国に入れないわけではありません。私は天国に入れさえすれば、それで十分だと思われる方もいると思いますが、ほとんどの方は自分は天国に行けても、家族、親族、友人がこのまま滅びてしまったら、自分の愛する人が滅びてしまったら、かわいそうだと思っていらっしゃるでしょう。そして、身近な人々の救いのため、天国に行くことができるようにと真剣に祈っていらっしゃると思います。確かに、家族の救いを祈ることは必要だと思います。しかし、皆さんの会ったことのない、顔も見たことのない人のために、私たちは本気で心配して祈っているでしょうか。私たち一人一人は、誰かの祈りによって、伝道によって救われて今ここにいるのです。それは、私たちが努力したのでもなく、献金をささげたわけでもなく、祈りによって支えられ、神様の一方的なあわれみ、恵みによって救われたのです。イエス様は一人一人を愛してくださっています。皆さんのためにとりなしてくださっています。しかし、同時にイエス様は皆さん以上に、滅びに向かっている人々を愛しておられ、一人でも多くの人が主のもとに来ることを願っておられます。
 私はクリスチャンホームに生まれましたので、誰かに伝道されたということはありませんが、多くの方は誰かに誘われ、教会に導かれ、スタッフのケアーを受けたことでしょう。日本人の九九パーセントの人が滅びに向かっている中で、恵みによって救われて今クリスチャンとして生きることができる。それは、とても感謝なことです。しかし、イエス様は百匹のうち、一匹でも迷った羊がいるなら、九十九匹を野原に残してその一匹の羊のために捜しに行った飼い主と同様に、日本で今も滅びゆく九十九人の一人でも多くの人たちが主のもとに来るようにと、主はとりなしておられるのです。ですから、私たちがどこまで望んでいるか、どのくらい祈っているかは別にして、イエス様は人々の救いのために私たちを使いたいと思っておられます。
 いよいよスーパーミッションも近づいていますが、この働きは地位や名誉を得るためにやっているのではありません。人間的に考えると私たちには何の益もないように思え、絶対にできないように思えます。しかし、これは神様が計画されたことです。神様が私たちに委ねられたことです。私たちが信仰を持って働くことを神様は喜んでおられます。私にはそのような信仰がありません。私は弱いですから・・・と言われるかもしれませんが、信仰というのは私たちが強いとか弱いとかは関係ありません。からし種の信仰があったら山を動かすことができるとあるように、私たちが神様の方にどれだけ向いているかを神様は重要視しています。私たちが天国に行くことのできるという救いの最大の目的は達成されています。また、クリスチャンが元気でいられるように、喜んで生活できるようにということも必要ですが、それが第一の目的ではありません。洗礼を受けた後、スタッフがかまってくれない、誰も私のことを考えてくれていないと思っているかもしれませんが、皆さんに求められていることは、神を喜ばせることです。神の命令を守ること、神を愛することを神様は一番私たちに望んでおられます。神様が私たちに愛を注いでくださり、恵みを注いでくださった、その愛にどれだけ私たちが応えることができるかにかかっています。
 私たちと神様をつなぐ唯一のパイプは信仰です。人は家に帰って食事をし、顔と顔を合わせていろいろな話しをします。家族団らんがあり交わりがあります。またある時は、電話で話します。しかし、神様と私たちをつなぐものは、この信仰だけなのです。信仰があって初めて私たちは神様とつながれるのです。信仰が強くても弱くても、どのようなかすかな祈りであっても、神様は全部聞き取ってくださいます。人間は忘れっぽいので、聞いても忘れてしまうことが多いのですが、神様は皆さんが今までに祈ったこと、願ったこと一言一句をすべて記憶され、知っておられるのです。私のような者が祈ったことを、神様は聞いてくださるだろうかと思うかも知れませんが、神様はすべて知っておられ、忘れないことを覚えてください。信仰持って、神様を喜ばせることを心がけ、共にこれからの働きの中で主に仕えていきたいと思います。お祈りします。

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