今週の礼拝メッセージ
2000.1.30(SUN)
わたし自身を現わします
新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヨハネの福音書14章21節
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
ハレルヤ!皆さんお早うございます。久しぶりにここでメッセージできることを心から感謝します。先週私は兵庫県の三田で礼拝を守りました。朝十一時から十二時四十分まで集会をし、すぐ電車で篠山というところに行き、そこで集会をし、またその次の日にはすぐ飛行機で東京に行き、それが終わって大阪に行き、また東京に行くという目まぐるしく働く毎日でしたが、皆さんの祈りに支えられて今日健康でここに立つことができる恵みを感謝します。今日は皆さんとヨハネの福音書の御言葉から学びます。

『わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」』

 私は非常事態と感じる時、真剣に神の前に出て祈るようにしています。甲子園ミッションの時は十日間断食し、終わってからも断食し、またその後全九州リバイバルミッション時には十四日間断食しました。今度はいよいよ東京でスーパーミッションがあるということで、どうしても神の御手を動かしていただきたい、どうしても祝福していただきたいということで、今年に入ってから十日間断食しました。水だけ飲み、毎日決起大会をしながら祈りました。それによって私も恵まれました。心を込めて日本のリバイバルや東京のリバイバルに向けられて上からの力も受けたと信じ、心から感謝します。私が断食していることがわかり、多くの人が背後で祈ってくださいました。私の孫たちも心配してくれて、今は大分もとに戻りましたが、痩せてしまったのでかわいそうだからもう少し断食を短くしてとか、色々な心配をしてくれましたが、無事終わることができました。私の東京にいる娘がホテルに電話してきて、東京事務所で働いている一人の姉妹が私のために祈って、「イエス様が御言葉をくださった。」と言っていました。私は「良い御言葉か。それとも悪い御言葉か?」と聞きました。「悪い御言葉ではなく、良い御言葉だと思うよ。」と言われ、送ってくれたのが、今日の御言葉です。ヨハネの福音書十四章二十一節でした。その方が毎朝私の働きのために、又、皆の働きのために祈ってくださっています。特別に私が断食しているということで心を込めて祈ったときに、この御言葉を与えてくださったので、「この御言葉を送ります」ということで、今朝もこの御言葉があります。

『わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。』

神様の戒めを守る人、イエス様を愛する人は、イエス様も愛してくださいます。私が今回断食したこともイエス様が喜んでくださり、愛してくださったことを確信し感謝しました。

『わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。』ということで、特に今回スーパーミッションに私が願っていることは、ただ四十日間良い集会をして終わったということではなく、「わたし自身を現わす」と、イエス様ご自身が現われてくださる神の訪れの時になるように願っています。ですからミッションのために覚えてお祈りください。その時が神の訪れであることを祈ってください。誰が見ても「ここに主がおられる」とわかるような集会になることを覚えて祈ってくだされば幸いです。
 この中には、「わたしの戒めを保ち、守る人は、わたしを愛する人」だと書かれていますが、私たちがイエス様の戒めを保ち、それを守ったらご自身を現してくださると書かれています。ですから、今朝は私たちがイエス様の戒めを守らなくてはなりません。イエス様の戒めは、ヨハネの福音書十五章九節から十二節に、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。』

と書かれています。「互いに愛し合うことがわたしの戒め」だと書かれています。イエス様を愛し、戒めを守る人とは、互いに愛し合うことです。そして、互いに愛し合ったら神ご自身が「わたし自身を現わす」ということです。ですから、私たちが神様の栄光を見せていただくためには、互いに愛し合うことが必要です。今朝私は、神様が私に現われてくださり、神様がわかった時について思い返しました。
 私が救われたのは一九四九年二月二十日です。一九四九年二月十三日に初めて教会に行きました。そして二十日にイエス様を信じ、それから一ヶ月後に日曜学校を始めました。子ども会を開きました。なぜ子ども会を開いたかというとイエス様を信じたときに聖書の御言葉の中で文語体で、『大いならんと欲する者は、人のしりえとなりてその役者となるべし。』が与えられました。偉い人になりたかったらへりくだって人に仕える者になりなさいということです。
「人の子が来たのは仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、自分のいのちをあがないの代価として与えるために来た。」と書かれています。私は十七才の時に東京に勉強に行き、十九才でイエス様を信じましたが、イエス様を信じる前に考えたことはいつでも「偉くなりたい」と思いました。東京に行くときにも先生たちが皆、「偉くなって帰って来い」と奨励してくれました。だから、私もそのつもりになって偉くなりたい、偉くなりたいと考えていました。結局、私は高慢になりました。友だちが私のことを「滝元。おまえはいつも人を見てすぐにバカにするではないか。」「あいつバカだ。抜けている。」といつもバカにしていたそうです。私は十九才で日本農業研究所にいましたが、特に高齢の農夫さんたちに反抗しました。白いというと黒いと言い、黒いと言ったら白いと言うような者でした。理屈ばかり言ってあるときには農夫さんが泣き出し、「滝元め、バカ野郎。本当にあいつは頭が良いだか悪いだかわからん。殴ってやりたい。」と嫌われていました。しかし、聖書から「大いならんと欲する者は、人のしりえとなりてその役者となるべし」と知ったときに、イエス様はこの天地を造られた神なのに神の栄光の座を捨て、馬小屋に生まれ、しかも、三十才までナザレの町で大工をしていた。イエス様がへりくだった人生を歩んでいるのを見て、「ああ、私は一体何者なのだろう」と思いました。何と素晴らしい方がへりくだられて、弟子たちの足を洗い、最後に十字架に付けられて死んでくださったことは何と素晴らしいことだろうと、私は一体何者だろうと思いました。一番私を知っているのは私です。高ぶりは劣等感と引っ付いていると思います。私は本当は頭が良くありません。だから、負けてはいけない、バカにされたくないとか思いながら人をバカにしていました。「あいつバカだ。」と言っていました。しかし、これは間違っている。へりくだらなくてはいけない。神の前に出て、「イエス様。高慢な罪を赦してください。」と祈りました。また農夫さんのところに行き「今まで偉そうなことを言ったことを赦してください。」と謝りました。それから、愛されるようになりました。その人が愛してくれるようになりました。
 私はイエス様を信じる前は子どもが大嫌いでした。特に、きれいな子は好きでしたが汚い子は嫌いでした。今は想像できないと思いますが、終戦直後日本は貧乏でした。一枚しか服がない。洗濯するときには裸で布団の中に潜り込んでいるというような、農夫さんの子どもは汚くて、今は栄養が良いのでこんな事はないと思いますが、「はなたれ小僧」というようなろうそく二本のように青ばなをたらしているのです。ちり紙もないのでズルズルとすすり、拭くものがないので服で拭いて服がテカテカしているのです。その子どもたちが東京都北多摩郡の言葉で「・・・ダンベな。」と言うので、「何その言葉、あっちに行け」といつも追い返していました。子どもたちも負けずに私に「バカ野郎」と言うので、「何言っている。バカ野郎とは大人に向かって・・」と言って追い回していました。しかし、救われたときにこれは差別だとわかりました。だれも貧乏な家に生まれたい人はいません。高慢で生意気なことを悔い改めました。「イエス様。申し訳ない。子どもたちを傷つけて心傷めている人を虐げたことを赦してください。これから悔い改めのためにイエス様のことを伝えます。」と祈りました。救われて一ヶ月くらいの時に子どもたちに「やい。お汁粉を作ってあげる。イエス様の話をしてあげるから来い。」と言いました。七人の子どもを招待しました。と言っても私の住んでいた部屋は二畳半の部屋でした。今の子どもはお汁粉はあまり大したことがないかも知れません。しかし、終戦後の甘い物のないときに子どもたちが喜んで鼻を垂らしてシラミがわいているような子どもたちがキラキラした目で嬉しそうに食べていました。私はその時に愛を知りました。「うわぁー。愛することはこんなに幸せか・・・。」と喜びました。私が嫌いだった子どもたちも好きになってくれ、それから毎日私の話を聞きに来てくれました。仕事が終わると、「滝元さん。イエス様の話を聞かせてくれ。」と言って二畳半の部屋に五十人来ました。入りきれないので、男が先で女は後と分けました。ある時、子どもたちが帰ってから体中がかゆくなりました。下着を脱ぐとシラミがいました。すぐに殺そうと思いましたが、イエス様を信じたおかげで子どもたちを愛することができたから記念にとっておこうか・・・とも思いました。私はなぜ神がわかったというと子どもたちのために救われてすぐに子ども会を開いて子どもを愛することができたからです。神が私に現してくださったからです。そしてすぐに路傍伝道しました。
 ある時に住宅に西村さんというおじいさんがいて、西山さんという方が「滝元さん、西村さんは病気だから伝道してください。」と言われました。行くと本当に煎餅布団に寝ていて着るものが一枚しかない貧しいところで病床にありました。イエス様の話をすると喜んでイエス様を受け入れて信じました。あまりにも汚かったので丁度母親から送ってきた洋服を脱いで「おじいさんこれを着なさい。」と言いました。すると私の爪入りの学生服を着て喜んで「ありがとう。」と言って四、五日生きてその服を着たまま死んでいきました。私はその時に人を愛することはこんなに幸せなことか。今まで自分を愛して自分のことしか考えなかったけれど、これからの人生神を愛して誰かを愛することによって幸せになるのだったら、私の人生をささげようと思いました。これが献身でした。あの時に愛したことが神様がご自身を現してくださったと思います。一年後には開拓伝道しました。燃えて燃えて、路傍伝道し、家庭集会し、これは愛したから神ご自身を現してくださったと思います。
 韓国から伝道に来られる申賢均師が、韓国で用いられていることも見ることができます。彼は韓国動乱の時に北と南で戦争がありましたが、最後は北朝鮮が優勢でした。そのとき、アメリカの将校が来て田舎の牧師をしていた申賢均師に「これから君をアメリカに連れて行ってあげよう。」彼の心は少し動きました。「家族があります。教会があります。」と言うと、「君一人を連れて行こう。」と言われました。「祈らせてください。」彼は祈りました。その時申賢均師は祈って自分の愛している教会員を捨てることができない、家族を置いて自分だけ行くことはできない。そこで次の日「お断りします。私は絶対に家族や信徒を捨てることはできない。」と言いました。すると将校が感動し、「君は本当に素晴らしい牧師だ。」と言いました。
 それから先生は教会員全員を連れて北から南へ長い時間かかって出エジプトのように逃げました。先生は、「あの時に、私が信徒を愛して捨てなかったから今、彼らは私を愛してくれていると思う」と話していました。今日私たちが祝福される道は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」愛し合うことが戒めです。愛し合ったら「わたしを現わす」と言われています。この新城教会が祝福される道は愛することです。
 甲子園ミッションのあとで、この教会が祝福されました。甲子園ミッションの時に、「裏切った人や教会から出た人を全部赦すように。また祝福しなさい。」と教えられました。あの時から教会が変えられました。私たちが戒めを保ったら、神が私たちにご自身を現わしてくださいます。もし、今日皆さんの中で赦すことができない人がいたら、心から赦すことをお勧めします。夫婦間も愛し合うことです。神が現われてくださいます。クリスチャンたちが本当に愛し合ったら「ご自身を現わします」と書かれています。ですから、心から愛していきましょう。ヨハネの福音書十五章十五節から十六節に、

『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

と書かれています。これを見ると私たちは選ばれたことがわかります。今日は選ばれたことを信じましょう。特別に神様が皆さんの家族をあなたを選ばれました。それは実を結ぶためであると書かれています。そして十七節に、

『あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』

と書かれています。夫婦でも愛し合うことです。喧嘩してはいけません。必ず良い家庭ができます。ということは愛し合う中に聖霊が一緒におられます。
 今年五月に日本で一番大きな教会ができます。それは大川従道先生の教会です。千人の教会堂ができます。今そこには八百人ほどが集まっています。私は先生のことを素晴らしいと思います。彼はとても苦しまれた先生だからです。確実なところではありませんが、先生が初めの教会を建てるために業者に五千万円を先に払いました。するとその人が金を持って逃げてしまいました。そのことから教会の中に反乱が起こり、金をごまかしたとか、教会の前で「大川は駄目だ。」という悪口を書いたビラがまかれました。私のところにも来ました。しかし、先生は苦しみの中で礼拝の時にはいつも喜んで説教し、後は泣いて祈っていたそうです。その時に先生に与えられた御言葉は、「風はおのが好むところに吹く。」という御言葉でした。風とは聖霊のことです。その時に先生はいつも集会が終わるとよく信者の悪口を言いました。奥さんと一緒に色々な批判していました。しかし、「これは神の前に喜ばれない。神の前に生きよう。さばき合うことはやめよう。」それからさばくことをやめたそうです。その時から教会員も教会に行っても先生が私の悪口を言っているのではない。クリスチャンも私の悪口を言っているのではない。愛し合うことによってその時から聖霊がよく働き始めたそうです。色々な教会からも集まって来ましたが、あの教会が千人の教会になることは素晴らしいです。赦しの中に聖霊様が働いてくださいました。大川先生の話を聞いていると神様は素晴らしいと思います。
 ある時一人のみすぼらしい紳士が教会に来て座ったそうです。その方が「先生にお話ししたいことがあります。聞いてください。」と言いました。「先生のビジョンを教えてください。」と言われたそうです。「これからこの教会はどうしようと思っているか。何をしようと思っているか教えてください。」と言いました。「将来はこういう教会で、愛し合う教会を建てたい。」と色々なビジョンを話したそうです。すると、「そうですか。少し協力させてください。このお金を使ってください。」ということで一億円くれたそうです。するとそれからしばらくしてその方からまた電話があり、「先生。ちょっと用事があるから家に来てください。」と言われ鎌倉まで行きました。現金七千万円が積んであり、その上に一千万円くれたそうです。カバンの中に入りきらないほどでした。その方が三億円くれたそうです。だから今の教会を建てざるを得ないから建てたというのです。その方は北朝鮮で育った方でした。そしてお父さんが死ぬときに、「おまえたち。一生懸命働いて大きな教会を建てるように献金しなさい。」と言われたそうです。父の遺言をその方は守りました。彼は医者でした。彼は子どもたちに「おまえたち金いるか。」と聞きました。息子たちも皆医者です。「私たちは私たちでやるからいりません。」と言ったそうです。それで、教会にささげて良いかと聞くと、「はい。どうぞ。」と言われ、三億円ささげられたそうです。この教会は慰めの教会で、さばき合わなくなったから祝福されました。過去はどうであれ、これからこの教会に来られている人たちは愛し合いましょう。クリスチャン同志が互いに愛し合うことによって、神様が栄光を現してくださいます。ローマ人への手紙十二章三節からに、

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』

 教会という場所はキリストのからだの一部分です。からだは色々な器官からなっています。弱いところも強いところも、賞賛されるところも賞賛されないところもありますが、からだの一部分として愛し合うことが必要です。教会ほどおもしろい社会はありません。小学生や赤ちゃん、中学生、高校生、大学生もいます。それから若い夫人もおり、壮年もおじいちゃんもおばあちゃんも来ております。普通だったら思想も年代も違いますが、キリストのからだです。
だから私たちは一つで愛し合わなくてはならないのです。たとえどんなに素晴らしく恵まれても限度を越えて思い上がってはいけないと書かれています。六節からに、

『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』

と書かれています。それぞれお互いにまさっているところがあります。また賜物も違います。だから私たちは心から愛し合うことが必要です。第一ペテロ一章二十二節に、

『あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。』

と書かれています。真理に従うことはイエス様に従うことです。それによって私たちは熱く愛し合ったら、聖霊様が熱く臨んで下さいます。神様が私たちに現われて下さいます。だから、神様が現わして下さることを互いに祈りましょう。素晴らしいことです。そしてペテロ第一の手紙三章八節から九節に、

『最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』

と書かれています。ここには悪に悪、侮辱に侮辱で報いてはいけないと書かれています。私たちは祝福を受け継ぐのです。この教会が愛で燃えて愛し合ったら来られた人たちがこの教会は何と愛し合っていることかと思います。教会が互いに憎しみ合って喧嘩していたら、「何と素晴らしい喧嘩をしているところか。私も入って喧嘩をしよう」と言う人はいません。愛し合うことがみこころであり、愛し合う中に聖霊が働いて下さいます。第一ヨハネ四章七節から十六節に、

『する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』

教会に来て罪の赦しをいただき、神の愛をいただき、人を愛することができるようになりました。しかし、愛がなかったら神はわからないと書かれています。互いに愛し、神を知っている人は愛を知っている人だと書かれています。九節からに、

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

と書かれています。愛は神ご自身が最初に現して下さいました。父なる神がひとり子イエス様を犠牲として与え、十字架につけて殺すほど私たちを愛してくださいました。この愛を受け取ることです。十一節に、

『愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』

と書かれています。互いに愛し合いましょう。十二節に、

『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』

と書かれています。二十一節に、

『神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。』

と書かれています。愛し合うこと。これが戒めです。この教会にイエス様の力がもっと現れることを求めましょう。「病気が治るように」と求めることも悪くはありません。「経済的に恵まれますように」これも悪くはありませんが、「もっとイエス様を知ることができるように」「あなたを知らせて下さい」と祈ることです。そして神の御前に近づけば近づくほど、私たちがもし、心の中でだれかを赦さないとか、愛さないとか、汚い心があったら、これを取り除いて下さい。イエス様を愛します。父を愛します。私のうちにご自身を現わして下さい。そして、スーパーミッションのためにも日本のためにも主ご自身が現われて下さるように互いに覚えて祈っていきましょう。互いに愛し合うことです。これが神の戒めです。愛し合ったら神がご自身を現して下さいます。お祈りします。

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