今週の礼拝メッセージ
2000.2.6(SUN)
とりなしのライフスタイル
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書25章31節〜40節
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
 ハレルヤ!久しぶりに御言葉を取り次ぐことができ感謝します。皆さんの祈りに支えられ二週間ほど留守しましたが、色々なところでスーパーミッションの決起大会が行われ、奉仕させていただきました。スーパーミッションは七月に行われるので、あまり時間もないということで忙しくなっていますが、皆さんの祈りによるサポートを心から感謝します。祈りによって支えられて、毎日働けることを心から感謝します。またこの二千年、主の栄光が現される年としてがんばって働きたいと願っています。
 今週はスーパーミッション2000の企画で「リバイバル拡大聖会」が行われます。それも豊橋で行われますので、ぜひ、お越しください。会場はホテル日航です。二月十日(木)から十二日(土)まで行われます。講師として来られるのがディック・イーストマン先生です。この先生は大変優れた祈りの指導者であり、とりなし手です。この聖会は大変有益な集会になると思います。ディック・イーストマン先生は世界的な祈りの権威者です。歴史の節目に彼と祈りのチームが用いられています。ベルリンの壁の崩壊の前に彼らは壁の下で祈りました。そうしたら現実に後に起こりました。その祈りによって成されたということではないと思いますが、歴史的な事件の前に先生方が用いられたことは事実です。ソ連崩壊の前にも彼らは赤の広場で祈らされ、間もなくソ連が崩壊していったということもありました。ある一つの歴史的な事件の前に先生とチームが用いられているとすれば、この時期に奉仕してくださることは、日本の霊的世界の歴史的崩壊につながる素晴らしい一瞬となることを期待します。先生の本も出ています。「祈りは世界を変える」という本は非常に素晴らしい本です。また、プレイズ出版から「祈りを通して愛する」という本も邦訳出版されます。私も校正途中のものを読ませていただきましたが、大変深い洞察と導きがあります。間もなく出版されるので手にとって読むことができます。
 その本の中に、「イエス様は完全さが人となられた方」だと書かれていました。クリスチャンが完全さが人となられたイエス様を手本に歩んでいくことが大切であると書かれていました。私たちの目標はイエス・キリストに似た者にされるということです。イエス様のライフスタイル、イエス様の生活様式を自分のものとして生きたいと思います。「クリスチャン」とは、そもそも「キリストに似た者」という意味です。それは外側ではなく、内面的なものです。イエス様には髭があった、髪が長かった・・・同じような姿でということではなく、イエス様の内面的ライフスタイルが自分のものになることです。
 イエス様がこの地上に来られたときに、色々な例えを持って人々に話されました。ある時には例えの登場人物を自分に重ねてご自分の生涯について語られたこともあります。特に、イエス様のライフスタイルを現した、たとえ話が、ルカの福音書十章三十節から書かれています。それは良きサマリヤ人の例えです。良きサマリヤ人は究極的にはイエス様ご自身の姿です。始めに、ここから学びたいと思います。ルカの十章三十節から三十七節をお読みします。

『たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

ここで隣人についての説明がなされています。良きサマリヤ人は、イエス様ご自身であり、ご自身が生涯かけて行われた働きそのものでした。
 さて、サマリヤ人は自分の仕事の為かどこかに向かっていました。そんな中、旅人が倒れているのを見つけたのです。その時、彼は自分の仕事を放り投げてまで、傷ついた旅人を介抱しています。さて、このイエス様が語られた、隣人の基準は厳しいものです。これを現実に行うことは大変なことです。
 彼は旅人でした。同じようにサマリヤ人も旅人でした。しかし、目的を放り投げて現場で手当しています。手当しただけでなく、傷ついた旅人を自分の家畜に乗せて運んでいます。また、宿屋で介抱し、自分も一緒に宿泊しています。そして何と、傷ついた旅人の宿屋代も払い、自分が旅立っていく前に宿屋の主人に介抱を頼み、必要な代金を支払う約束までしています。またもう一度帰ってくることを約束して出かけて行きました。これが「隣人」だというのです。そして、イエス様ご自身のライフスタイルは隣人そのもののライフスタイルであったのです。私たちは、イエス様のようになりたいと思いますが、本当にこんなふうにできるだろうかと、この箇所を読めば読むほど、「私には無理だ」と思うことばかりです。しかし、少しでもイエス様のライフスタイルに近づいていきたいと願います。
 今、イエス様はよみがえられて天上におられます。第三の天・神の国におられます。今イエス様がどのような働きをされているかというと、ローマ書八章三十四節に、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と書かれています。またヘブル書七章二十五節の後半には、

キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

と書かれています。イエス様がこの地上に来られたときのライフスタイルは現実に人々の間に入って良きサマリヤ人のような働きをされました。そして今現在、イエスさまは、神の右の座についてとりなしをしてくださっているのです。ということは、良きサマリヤ人の箇所から学ぶべき事柄は、現実に道を歩いていて、誰かが交通事故で倒れていたらそこに行き、その人を最後の最後まで見てあげるという事以上に、イエス様の仕事が現在、「とりなしの祈り」ということと考え合わせると、この良きサマリヤ人の例えも現実の世界の中だけではなく、霊的な世界の中で私たちが倒れている旅人と関わっていくところに視点を合わせることができます。
 聖書の世界には、社会的ニーズを満たすという側面と共に、霊的なニーズを満たしていく側面があります。あるグループは社会的なニーズを満たさないうちに霊的なニーズを満たすことができないと主張し、社会的奉仕を一生懸命行うグループもあります。それも大切なことです。日本がリバイバルされ、教会が成長してきたら、社会的ニーズの中で良きサマリヤ人のように実際的に倒れている人を助ける働きも必要です。
 先日リバイバル新聞を読んでいたら、「ミッション・ラザロ」が発足したと報道されていました。何かと思ってよく読むと、それはホームレスの人々を助ける働きだというのです。一昨年東京リバイバルミッションがありましたが、その一環で私もホームレスの方々を支援する働きに加わらせていただき感動を覚えました。代々木公園という所が東京にありますが、不景気でもありそこには多くのホームレスの人々がいます。リバイバルミッションはある韓国教会とともにその働きを支援しました。午後二時から集会がありました。私は午後二時までに公園に行けば良いと考えゆっくりしていました。すると昼くらいに「順先生。早く来てください。早くしないと、皆待ちきれない。」というのです。「どうしてですか。」と聞くと、「もうみんな集まっています。」と言うのです。なかなか近頃の集会で、開場前から人が集まることは難しいです。しかし、ホームレスの方々の集会は、二時からの集会なのですが、人々が朝の十時半頃から集まり始めました。それで、「早く来て。」と言うのです。「今何人集まっている?」と聞くと、「六百人くらいかな」という答えでした。行ってみるとすごい光景でした。二時にはもう八百人が集まっていました。そんな中で私は福音を語り、最後に一杯の雑炊のようなものをあげました。霊的な食物と肉的な糧を差し上げましたが、そのような働きはとても大切だと思いました。聞いてみるとそこには、色々な職業の人がいました。元弁護士がいたり、医者がいたり・・・しかしそれは生きる気力をなくしてたたずんでいる姿でした。そんなその方々に福音を宣べ伝え、「イエス様だけが救い主」だと語りました。でも、彼らは現実にお腹が空いているわけです。ある韓国教会は週二回、御飯を持っていき助けています。私たちの教会の近くにもそのような場所があったらぜひ、やりたいと思います。これから私たちは社会的ニーズも満たすべきです。
 同時に、そのニーズは完全には満たすことができないことも確かです。しかし、霊的な世界においては、祈りは世界を変えると言います。とりなしの祈りはそのような不可能な世界に食い込んでいくのです。ということは私たちはこの祈りの世界において、良きサマリヤ人になることが必要です。
 「とりなしの祈り」という言葉をよく聞かれると思います。この教会においても多くの方がとりなしの祈りをしてくださいます。先週も第二青年のご婦人方々が集まられ、とりなしの祈りをされました。皆さんがよく祈ってくださいます。色々なところで成される祈りによって、祈りが現実の世界に現されます。「とりなし」とは、英語で「インターセッション」と言います。この言葉はラテン語から来ています。それも二つの言葉がつながって出来ています。それは「インテル」という言葉と「ケデーレ」という言葉が一つになって出来ています。インテルという言葉は、「〜の間」という意味があるそうです。そしてケデーレという言葉は、「行く、従う、仕える、移動する、代価を払う」という意味があります。とりなしとは、「〜の間に入っていく、〜の間に入って仕える」また、「ある方向に向かって移動する」「〜の間で代価を払う」事です。私たちがとりなしの祈りをすることはある意味で、人と神の間に入っていくことになります。ある時には人と悪霊との間にも入らなくてはならないのです。また神に訴えているサタンと神の間にも入るときがあります。また、その方向に向かって移動していくのです。良きサマリヤ人は、倒れていた旅人の方向に向かって移動していったのです。祭司やレビ人はそれを見かけましたが、入っていくのを避けました。私たちも時々祭司やレビ人のような態度で問題を見てしまうことがあります。この問題に関わったらきっと大変になってしまうから避けようと考えるのです。しかし、「とりなし」とは、問題の中に割って入っていくことです。現実の社会的ニーズの中になかなか割って入ることができないかも知れませんが、とりなしの祈りは、どのような問題の間にも入ることができます。その間に入って、代価を払うのです。イエス様のライフスタイルは正にとりなしのライフスタイルであったということができます。先ほど、良きサマリヤ人の例えの中で誰が隣人になったかを質問された男は、「その人に哀れみをかけてやった人です。」と答えました。「隣人」とは、「哀れみをかけてやった人」です。とりなしと、哀れみとは切っても切れない関係があります。良きサマリヤ人が哀れみの心を持たなければ、そこに決して入ることができませんでした。「哀れみ」という言葉は英語ではコンパッションという言葉です。これもラテン語から来ています。それは「コム」という言葉と「パティ」という言葉がつながって出来ています。コムという言葉の意味は、「共に」とか「一緒に」という意味です。そして「パティ」は「苦しむ」とか「痛みを覚える」という意味です。
 哀れみと聞くと、普通の人が困っている人に対して手を差し延ばすという感覚で使う言葉です。上から下というような感覚があります。上にいる人は哀れんで手を差し伸ばし、ホームレスの人がいたら、食べ物やお金を上げるとか、持っている者が持たない人にという方向性を覚えます。しかし、聖書に出てくるコンパッションの意味は、「一緒に苦しむ」、「一緒に痛みを覚える」ということです。だから、イエス様の語られた「哀れみをかけてやった人」、すなわち、聖書の中の哀れみとは、決して上から下という意味ではなく、「同じ目線」で「同じポジションに立って」「痛みを覚える」ということです。ということは、コンパッション・哀れみとインターセッション、とりなしという言葉は、同じ語源を共有するものです。とりなして祈るということは、哀れみの心、共に苦しみを分かち合うということです。時々、とりなし手の方々が祈るときに、あたかもその人の傷みがその身に移ってしまったかのような感覚を覚えるときがあります。何だか知らないけれど病気の人のために祈っていたら、私の体も不調になってしまった、とりなしの祈りをしていると悪霊が移動してくるような気がすると言われる方がいます。しかしそうではありません。とりなしとは、共に苦しむ、共に傷みを覚えるという意味で、祈りの中に入っていくときに、時に神が他の人の苦しみを負わせることがあるのです。これがとりなしの祈りの領域であるということです。
 私たちは良きサマリヤ人のようなライフスタイル、特に霊的なニーズを満たすために色々な問題の中に関わっていかなくてはならないのです。今、日本の現状を見るときに人間の力ではどうすることもできないような問題が多すぎます。私も牧師という仕事をさせていただいていますが、毎日のように福音を伝える機会があります。教会で出会う方は、ある意味で一般社会のどこに行っても助かる見込みのないケースが多いのです。昨日もある方とお会いしました。「私は病気で助かる見込みがありません。今度、再発したら私は覚悟を決めなくてはなりません。最近体調が悪いです。」と言われました。どうすれば良いのかわかりません。その人の隣人になると言っても、何をすれば良いか、もしもお金を払って直る見込みがあるならば、いくらでもお金をカンパすることができるかも知れません。しかし、一億円、二億円と積んでみても助かる見込みはないのです。そこに割って入るにはどうすれば良いのでしょうか。これは祈りの世界から割って入るしかありません。ということは、究極的な良きサマリヤ人は、「とりなしの祈り手」ともいえます。一人一人がとりなし手として、問題や人の背後で働くサタンとの間に入って、時には一緒に苦しんだり、痛みを覚えることもあるかも知れませんが、代価を払わなくてはならないのです。しかし、それがイエス様のライフスタイルであり、良きサマリヤ人としての役割を果たしていることなのです。
 今日お読みしたマタイの二十五章三十一節には、

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

とあります。イエス様が帰って来られ、イエス様ご自身がこの世界を治められ、人間の歴史に終止符が打たれます。その時に、マタイ二十五章三十二節に、

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

と書かれています。イエス様が人類の歴史に終止符を打つために地上に帰って来られるとき、すべての民がイエス様の前に出なくてはならないというのです。私も、あなたも出なくてはならないのです。今どんなにイエス様のことを反対している人も、興味がない人も、やがて一度は主イエス・キリストの前に出なくてはならない時が来るのです。その時、羊と山羊が分かれるように、二つのグループに分けられてしまうというのです。羊も山羊も「メー」と同じ鳴き方をします。イスラエルに行くと羊と山羊が同じグループの中で草をはんでいます。目を閉じていたらどちらが羊で山羊かわからりません。羊は毛がフサフサしています。しかし、羊も毛を刈ってしまうと山羊とあまり変わりません。似たようなものの中にもイエス様の目から見ると二つのグループがあるというのです。羊派と山羊派だというのです。どちらかに属さなくてはならないのです。私たちは羊の方に入りたいです。あなたは山羊だ、と言われたくはありません。
 今お読みした御言葉は世の終わりの時の預言の言葉です。しかし、聖書の言葉が終わりの時に実現する言葉だけだとしたら、現代を生きる私たちにとってはあまり意味のない、ただ恐怖を与えるだけのものとなってしまいます。ということは、この御言葉が、究極的な部分を語っているだけではなく、現代においても適応されるべき御言葉であるということです。現代にどのように適応されるかというと、マタイの二十五章三十四節で王様が右の羊グループの人たちに言っています。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』

羊のグループの人は「わたしの父に祝福された人たち・・。」と言われています。また、「御国を継ぎなさい。」と語られています。ということはこの御言葉が、現代において祝福の中に生きるため、神の国に生きるための一つの条件をも現しているのです。この箇所を現代の私たちの生活に適応するときに、「祝福された者たち」と主が語ってくださると同時に、「あなたは御国の中に生きています。」ということです。
 リバイバルは神の国の実現だと話しました。私たちが祈るべきことは、神の国が実現することです。神の国は病も苦しみも、悪魔も存在しない領域です。それが地上に現されると、病気はそこに留まることもできず、悪霊も留まることはできないのです。ですから私たちはこの世界に日本に、神の国が現されるように祈るのです。これがリバイバルです。やがて神の国は宇宙規模で広がります。しかし、今の時代、限定された町、国、場所に現されるのがリバイバルです。私たちがそのような視点でこの御言葉を理解するときに、色々なことがわかってきます。マタイの福音書二十五章三十一節の中で、主が言われたことは、

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。

トルストイという作家がいますが、彼はこの箇所をヒントに「靴屋のマルチン」という物語を書きました。正確には覚えていませんが、マルチンのおじさんはある時、神様が来るという知らせを受け、喜びます。「今日私の家に、神様が来てくれる。」もしも家に神様が来てくれるとしたら、どんなに嬉しいことでしょうか。彼はワクワクして待っていました。しかし、その日に神様らしい人は来ませんでした。そのかわりに、お腹を空かせた人、お金がない人、困った人、やっかいな人ばかり家に来て、マルチンはその人達に親切にしてあげました。そして夜疲れ切って「神様が来られると言ったのに来なかったではないか・・。」と言いました。すると、その困った姿をして訪れたのが神様の姿でした。この箇所から引き出された物語です。
 しかしながら、靴屋のマルチンとこの箇所の教えは本質的には違います。靴屋のマルチンは、「今日、神様が私のところに来てくださる」待っていました。しかし、この箇所に描かれていることは、羊の領域に属する人に主が、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』と語ったとき、

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

と逆に聞いています。ここから言えることは、羊の領域の人は、特別な思いを持って苦しんでいる人たちに関わっていたのではないということです。苦しい人たちがいるならば、その人たちに関わっていくことがその人のライフスタイル、即ち、生活様式になっていたのです。「さて、いつ苦しんでいる人がいて助けただろうか。着るものを与えただろうか。お見舞いに行っただろうか・・・。」と思い出すことができませんでした。しかし彼らはそれらを実行していました。
 とりなしのライフスタイルになるために、インターセッション、コンパッションの意味、哀れみの心を持ち目線を下げて関わること、問題の真ん中に入っていく、傷みを覚えましょう・・、と話しましたが、実は、まだそのような意識を持っている内は本当の意味でのとりなし手ではないということです。主が祝福された者たち、御国を継ぎなさいと言われた人たちは、「病気の時に見舞ってくれましたね」と言われたときに、「いつでしたか。主よ。」「お腹が空いていたときに、食事をくれましたね。」と言ったときに、「いつですか。そんな時がありましたか。主よ。」と答えるのです。彼らはそれらを痛みとして感じるのではなく、とりなし自体がライフスタイルになって人々の苦しみ、悲しみの中に自然体で入っていたということです。ということは、私たちの生活自体がとりなしのライフスタイルに変えられなければならないということです。そのような時に、「祝福された者たち」と主が語ってくださいます。そして、「御国を受け継ぎなさい」と語ってくださいます。私たちの教会がとりなしのライフスタイルを身に付けるならば、自然と祝福がわき上がって神の国が現されます。
 アンドリュー・マレーが「人の祈り方は、その人の生き方を現している。祈っているのはその人の人生なのである。」と言いました。私たち人生そのものが祈りを現します。私たちの祈りが私たちの人生そのものを現す。羊の領域に属する人たちのようなライフスタイルに変えていただきたいと願います。哀れみの心を持って関わっていくとりなしは、最初の入口としては大切なことです。しかし、やがて、それがライフスタイルとなり、当然のことのように、互いに愛し仕え合っていくときに、神の御国が広がるのです。良きサマリヤ人は結局、倒れている人に関わっていくことが彼にとってのライフスタイルでした。それを重荷とは思いませんでした。私たちが福音を宣べ伝え、キリストに似たものとして歩む中で、イエス様と同じライフスタイルにならせていただきたく願います。ここに属する一人一人がそのような祈り手になることができるように共に励んでいきたいと思います。

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