今週の礼拝メッセージ
2000.2.20(SUN)
三つのパンの祈り
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書11章5節〜13節
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
 ハレルヤ!今日、皆さんと共に御言葉を学ぶことができ感謝します。私は礼拝が終わったら、すぐに神奈川県にスーパーミッションの決起大会に行かなくてはなりませんが、皆さんの祈りによっていつも支えられて感謝です。
 二週間前は拡大聖会があり、素晴らしい集会を持たせていただきました。今回はディック・イーストマン先生を通して「祈り」について学びました。そして、祈りが実際的な力であることを覚えることができたと思います。今まで私たちは、祈りという領域について、「祈らないよりも祈った方が良い」、そして、「祈りは時々しか聞かれないものだ」という概念があったかも知れません。しかし、祈りとはそのようなものではなく、「それ自体がパワフルな武器」であるということです。祈りがなかったら、クリスチャン生活に何の変化も起こってきません。しかし、そこに祈りが加わるときに、大きな主のみ業を見ることができるのです。祈りそのものが武器であり、力です。信仰生活の中で、祈りそのものが武器として用いられることを心から願っています。
 そして、今日は、「三つのパンの祈り」という主題で皆さんとともに御言葉を学びたいと思います。今朝、子どもたちがこんなシートを持っていました。毎日のカレンダーとともにその日読んだ聖書箇所と、聖書を読んで教えられた事柄を書くようになっています。そして、両親からサインをもらうことになっています。横には世界の国旗が印刷されており、一問二十点で「どこの国の旗でしょう」とあり、詳しく調べるようになっています。ヒントとして一番上の旗には、「アドリアン先生」と書かれています。そしてその国のために祈るという「祈りのシート」です。子どもたちがこのようなシートを使って世界のために祈っています。祈りはただの勉強ではありません。世界の国々のために祈るときに世界が変えられます。私たちにとっても、祈りは力です。祈りによって世界が変えられる事を願い、更に祈りの教会になっていきたいと願います。教会に祈りがある時には、必ず、み業が伴います。教会から祈りの火が消えてしまうと、主のみ業は起こりません。そのためにも祈りについてさらに学ぶべきです。
 ルカ十章終わりに、

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』

とイエス様は言われました。そして次に、「主の祈り」が教えられています。聖書は原文においては章や、節はついていません。時々、私たちは章や節に惑わされて、ストーリーが切れてしまいますが、この箇所も、「どうしても必要なことはごくわずか、一つだ」と書かれており、主の祈りが教えらているということは、祈りがいかに大切なものかということです。そして、主の祈りに続くパートも、祈りについて教えられている重要な箇所です。主の祈りについては、すでに皆さんと共に学びました。今日はその後半について学びます。どのような例えをイエス様は話されたのでしょうか。五節に、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。』

空腹の友人が夜中に泊めてください、と訪ねてきたそうです。その時、主人はその人のために、パンを求めて走ったのです。
 先々週私は、「わたしが空腹の時に食べさせてくれました。」という、マタイの福音書二十五章から共に学びました。イエス様が帰ってきたときに、「わたしが空腹の時に食べさせてくれましたね」と言われ、「そんなことはありましたか。」という中から「とりなしのライフスタイル」というテーマで学びました。今日のメッセージはそのメッセージとも関連します。「空腹の時に食べさせる」とはどういうことでしょうか。ある意味で、ここはイエス様が具体的にそのことについて説明を加えられ、それを祈りと関連づけて教えておられると思います。
 このストーリーをよく考えてみると大変なことです。例えば、あなたのところに夜中に友人が訪ねてきて、「旅の途中だけど泊めてくれないか」と言うのです。その上、「お腹が空いて死にそうだ。何か食べるものない?」と聞くのです。あなたの家には何もありません。それで、お腹が空いたと言っている友人があまりにもかわいそうで、隣の友だちのところに行ってパンを借りて食べさせるのです。それも、真夜中の、皆が寝静まった頃、それも、家には子どもまでいるのです。それをたたき起こして、旅の途中の友だちのためにパンを食べさせるというのです。これをあなたと置き換えて、あなたが家の主人だったらどのような対応をするでしょうか。もしも、私がその家の主人だったら、友人を泊めてはあげると思います。我が家は狭いので、多分、「教会の教育館の二階が空いているから泊まっても良いよ」というと思います。しかし、「お腹が空いた」と言ったら、「君。夜食べると健康に良くないよ。そして、太るよ。明日の朝まで我慢しなよ。明日の朝になれば、マクドナルドもあるから・・。」と言うと思います。しかし、この主人は、お腹が空いている友人の希望に答えるために、出て行って他の友人にパンを借りに行きました。主人と旅の途中の友人の関係は保たれると思いますが、隣の友人を叩き起こし、子どもまで起こしてパンを借りたとすれば、大切な隣人との友人関係は壊れかねないと思います。でも、出かけて行ってパンを借りてきたというのです。
 ここから学ぶことができるのは何でしょうか。友人のためにあなたが祈るとき、「このくらいの真剣さで関わって下さい」ということを語っていると思います。皆さんはイエス様を信じていない方、苦しんでおられる方々のために、このくらいの真剣さを持って祈りをされているでしょうか。と言っても自分のことを考えると、まだまだだと思います。祝福される秘訣は、誰かのために真剣にとりなして祈ることです。実際的な助けはなかなかできないかも知れませんが、祈りでサポートをすることは可能です。「ある方のために、非常識と思えるくらいに真剣に祈って上げてください」とイエス様が教えられていると思います。家の主人と同じように、真夜中に出て行ってパンを借りるほどの真剣さを持ってとりなして祈ることを教えています。これが前提となる一つの教えです。
 同時に、この中で三つの祈りをイエス様が教えられました。「三つのパンを貸してください」と頼みました。三つのパンは三つの祈りに対応しています。夜中にパンを借りることは非常識であり、人間関係を壊しそうに思いますが、実は、そうではありません。その背後には、しっかりとした「信頼関係」があるのです。夜中にたたき起こしても絶対に関係が壊れないという、確固たる自信があったからこそ、借りに行ったのです。クリスチャンの人間関係はこのようであるべきです。
 案外、現代人は、仲間は多くいても友人は少ないと言われます。教会での人間関係がただの「仲間」になってはいけません。真夜中に起こしても対応できるような信頼関係の友になるべきです。そのように互いに祈り合うようになるならば、主がみ業を現してくださいます。
 そこには裏付けに愛があります。カルロス・アナコンディア先生に、「リバイバルはどうすれば起こりますか」と聞くと、彼は、「愛があればリバイバルは拡大します。しかし、愛が冷えてしまうとリバイバルは止まってしまいます」と語っていました。本当にその通りだと思います。私たちから、魂に対する情熱、滅び行く魂に対する愛情がなくなってしまうと、リバイバルは止まってしまいます。私たちの中に、神の愛と魂に対する情熱がわき上がってくるように祈るべきです。主人と友人には強い信頼関係があり、真夜中にもかかわらずパンを借りることが出来ました。同様に祈りは、そのような信頼関係の中でなされるものです。私たちの祈りは、「神との強い信頼関係の中」で祈ることができるということです。私たちが祈っている神様は恐ろしい方ではありません。夜中に叩き起こして、「パンをください」というような祈り方をしても決して怒らない方です。あなたと父なる神様との関係は、同じ信頼関係に裏付けられているのです。あなたとイエス様との間にはそのような素晴らしい信頼関係があります。時々、「こんな祈りをしたのですが間違っているでしょうか。」と心配される方がいますが、どんな祈りをしても心配しないください。神様とあなたとの関係は、この主人と友人との関係のような信頼関係の中にあるのですから。そのような関係を前置きとして、イエス様が三つの祈りについて教えられました。

 まず第一に、「求めなさい。そうすれば、与えられます。」という祈りです。十一章に入る前にマルタとマリヤのストーリーが記されています。マリヤはイエス様と話すことが嬉しくてイエス様の側から離れませんでした。そこでマルタは「イエス様。マリヤが私と一緒に働くように言ってください。」と言いましたが、その中でイエス様が、「マリヤは良い方を選んだのです」と答えられました。「求める祈り」とはまず、主との親しい交わりの祈りです。昨年二千年に向けてのメッセージ中で、個人的生活の中でイエス様と親しい交わりがもてるようにと語りました。求める祈りとは、主ご自身を求める祈りです。ディック・イーストマン先生の話は世界規模の話でした。しかし、結論的に祈りとは、「主ご自身のみ顔を慕い求める」ものだと語られました。イエス様ご自身のみ顔を慕い求めることが、求める祈りです。生活の中で、イエス様ご自身を求めることが楽しみとなりますように。イエス様ご自身との交わりが、かけがえのないものになりますように。これが求める祈りです。
 しかし、私たちが、主との交わりという領域だけに留まってはいけません。なぜならば、私たちが相手にしている神様は、創造者です。もちろん、親子のような関係も、友人のような関係も聖書に書かれていますが、主と私たちとの関係は、創造者と被造物との関係です。その関係を忘れてはいけません。そして、求める祈りの中で忘れてはいけない重要な領域は、「神にあわれみを求める祈り」です。「主よ。あわれんでください。」と求める祈りです。
 イエス様がある町から出て行かれるときに、二人の盲人がイエス様に叫んだ記事が書かれています。「ダビデの子。イエス様。私たちをあわれんでください。」と叫んでいました。二人の盲人たちはイエス様にあわれみを求めました。その声をイエス様が聞かれました。そしてイエス様は彼らを癒されたと書かれています。私たちが主を求める中で、主にあわれみを求める領域を忘れてはいけません。ダビデも詩篇の中で、主を求めて、それもあわれみを求めています。詩篇三十篇十節に、

『聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。』

と叫んでいます。私たちが主にあわれみを求めることは大切な求める祈りです。今この日本を見るときに、主にあわれみを乞わなくてはなりません。私たちクリスチャンが国のために心から主にあわれみを乞わなくてはなりません。「主よ。この国をあわれんでください。私たちをあわれんでください。見捨てないでください。」と二人の盲人と同じように、あわれみを求めるべきです。今週、私たちの祈りの中で主との交わりを求めるのと同時に、主にあわれみを求める祈りが必要です。その時に神様は、次の段階の祈りに導いて下さいます。
 次は「捜す」という領域です。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」に続いて、何が与えられるのでしょうか。今度は「捜す」という領域を提供してくださるのです。捜すとは、何を捜すのでしょうか。次に、「叩きなさい。そうすれば、開かれます」と、「扉」の話があるということは、捜すという領域はある意味においては「鍵を捜す」ということだと思います。
 生活の中で鍵をなくして困ることがよくあります。私の家でもあります。車の鍵をなくします。「お父さん。車の鍵はどこ?」とよく連絡が来ます。私がどこかに鍵を持って行ったり、置きっぱなしにして車を動かせないのです。我が家の車の鍵はたった一つしかないので、昨日はスペアの鍵を作りました。鍵が無くてはいくら車があっても動かないのです。鍵を捜し当てることは素晴らしい事です。問題の解決の為には、問題解決の鍵が必要です。その鍵を捜し求める祈りが必要です。幼いときの記憶で、キャンプなどで行われた宝探しがあり、とても楽しかったことを覚えています。宝を探し当てたときの喜びは忘れられません。祈りも同じようものです。祈りの中で神様は皆さんに鍵を探し当てさせて下さいます。
 昨年私に、ある牧師先生から電話がありました。「順先生。私の教会の信徒が先生に祈ってもらいたいと言っていますが、お願いできますか。」と言われました。「良いですよ。私で良ければ、お手伝いします。」と答えました。すると、「信徒の子どもが不登校で一年程学校に行ってないのですが、それが、霊的な問題かも知れないから順先生に祈ってもらいたい、と言うので、頼みます」と言うのです。頼まれたらいやとも言えないので、「それでは、お引き受けしましょうか。」と答えますと、「順先生。でも、私はあまりあなたの祈りに期待していませんから・・・、なぜなら、私は癒しの祈り、霊的戦いについても学びました。私もこの問題について何回も、霊の戦いの祈りもしました。また、いやしの祈りもしました。でも駄目でした。だから、こういう問題、学校に行けないのは、学校が合わないのだと思う。だから私は彼女にそう言ったですが、・・でも、少しでも先生の祈りが励みになれば良いので。宜しくお願いします。そして、私が必要としているのは、結果だけです。」と言われました。私も人間ですので、「私の教会でも問題がたくさんあって忙しいから、そんなことを言われるなら、そちらでやってくださいよ。」と言いました。しかし、結果的にはお祈りすることになりました。その時、「どうせ期待していないなら、主よいやして上げてください。アーメン。」という一言の祈りで良いと思いました。
 しかし、後日、主から、「そんな高ぶった態度では駄目だ」と示されました。「真剣に祈れ。委ねられるということは、神が開かれなかったら起こらないから、真剣に祈ってあげなさい」と導かれたのです。そこで、主の前に出て祈りました。「主よ。赦して下さい。私は高ぶっていました。これが戦いだとわかっていませんでした。」ある意味で、その電話自体が戦いでした。
 しばらくして、お母さんが不登校の子供を連れて来られましたが、見ると本当に手が付けられない感じでした。子供はわがままで、「これはまだ、人格的にできあがっていないから仕方がない。」と思いました。だから、そのまま帰るようにも言おうかと思ったほどでした。しかし、「神様。どこかに鍵があるはずですから、教えて下さい。」と祈りました。その時、子供はともかく、「お母さんのためにまず祈りなさい。」と導かれました。ちょうど、家系的な霊的束縛の祈りを開いてくださっていたので、その方の家系的束縛について取り扱い祈りました。すると、お母さんに色々な解放が起こり始めました。すると、「私の家系には色々な問題があります。特に今、私の弟の家庭が大変です。今度、弟の家族を連れてきても良いですか。」と言われました。それは、弟さんの奥さんが精神的な病気で、薬なしでは生活できないというのです。そのことによって、家族も真っ暗になっているというのです。弟の奥さんは夜になるとおかしくなるそうです。夜中外に出て、徘徊するそうです。それも近くの神社や寺を廻ってくるそうです。これは、もしかしたら霊的な問題かも知れないと思いました。去年の暮れにその一家が来ました。全員が圧迫を受けているような感じでした。「主よ。どうすれば良いですか。」と祈りました。そして家系的な束縛が砕かれるように祈りました。それから、どうなっただろうかと思っていました。
 先週、不登校の子供を持つお母さんが来られ、「先生。私の娘は一年間学校に行けれませんでしたが、今年のはじめからは、ずっと学校に行っています。一年間学校に行けれなかったので、勉強について行くことが出来ず、クラスには入ることができないですが、保健室で一日中勉強して帰ってくるようになりました。そして、弟のお嫁さんもあれから薬がいらなくなりました。今は一家で私が通っている教会に来ています。」と言われました。とても感謝なことです。これはまだ、解放途上のあかしですが、神様が動いてくださっています。
 「鍵を捜しなさい」とありますが、普通のアプローチで問題解決を求めてもなかなか難しいのです。「人格的な問題では・・。環境的な問題では・・。カウンセリングが必要では・・・。」一般的なアプローチをしてもなかなか問題は動きません。しかし、イエス様に叫び求めると、解決の鍵のありかを教えて下さるのです。まさか、娘の不登校や、家族の問題解決の鍵が、「家系や地域の神社や寺」に隠されているなどとは、だれも思わないと思います。しかし、神の前に祈るときに、その鍵を受け取ることができるのです。鍵を受け取ってそれを使う時に、主の業が進んでいきます。
 その証を聞いて嬉しかったです。「その証を全て、あなたの教会の先生に聞かせてあげてください」と話しました。そして、「その続きは、先生に祈ってもらってください。」と勧めました。あの時、嫌がらないで祈って良かったと思いました。私たちの周りには祈らなくてはならない課題がたくさんあります。そして、どう祈って良いのか、わからない課題がたくさんあります。そんな中で主を求め、鍵を求めて祈るべきです。
 さて、根本的に「鍵」とはどこにあるのでしょうか。マタイの十六章十九節で、

『わたしは、あなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』

と書かれています。鍵はどこにあるのでしょうか。マタイ十六章十八節に、

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

と書かれています。鍵は、神がこの地上におかれた神の国の出先機関、「教会に与える」ということです。教会は見える組織ではなく、見えない霊的組織であり、神の組織です。そして、「教会の中に、天の御国の鍵をおいてあります」とイエス様は言われたのです。
 黙示録を読むと七つの教会に対して主が語っておられます。その中でも、「フィラデルフィア教会」を主がほめています。その教会に対して、三章七節に、

『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない。その方がこう言われる。』

とあります。教会の中にはイエス様がおられます。そして教会に鍵を預けておられます。ペテロが牢屋に閉じ込められたことがありました。絶体絶命でした。次の日は処刑の日でした。しかし、その夜、牢がひとりでに開きました。それは、天の軍勢が牢屋のいくつかの扉を開け、ペテロはそこから脱出できました。その時、

『こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために神に熱心に祈り続けていた。』

と記されています。祈りの中で、特に、捜すという領域の中の必要な祈りは、「教会の祈り」です。祈りは、個人の祈りだけではありません。「教会」という「共同体としての祈り」がなされるときに、その中に鍵があるのです。私たちは祈りのプログラムの中で、教会全体でのとりなしの祈りをします。ある意味これは鍵を探す祈りです。鍵を捜す祈りをするときに鍵が見出されます。教会が霊的共同体としての理解と共に祈ることが必要です。それが不可能を可能にする祈りとして用いられます。
 ラオデキヤ教会は、神様から「あなたはなまぬるい」と言われました。何がなまぬるかったのでしょうか。十五節に、

『わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもなく、わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。』

と書かれています。「あなた」というのは「ラオデキヤ教会」です。その「行い」とは「務め」という意味です。その大きな意味は「祈り」です。ラオデキヤ教会は、教会としての祈りがありませんでした。そのことを神様が叱責されています。教会をとおして祈っていくということ、共同体の祈りがいかに大切であるかということです。
 そして、「たたきなさい」とは、「霊的戦い」です。たたく祈りは扉を開くための祈りです。「わたしは、あなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」とありますが、「つなぐ」という単語は、ギリシャ語では、「縛り上げる、鎖を掛ける、禁ずる」という意味です。だから、「あなたが地上で縛り上げるなら、鎖をかけるなら、霊的な世界でも鎖がかけられる」という意味です。すごい権威だと思います。また、「解く」というのは、「束縛を解く、解放する、無効を宣言する」という意味です。「あなたが地上で契約の無効を宣言するならば、見えない世界での契約も無効になる。あなたがこの地上で解放を宣言するならば、見えない世界でも束縛が解かれる」と言うことです。祈りの世界において解いたり、つないだりすることは霊的な世界における鍵です。ということは、霊の世界の扉は「二重扉」であると云えます。地上からも鍵を使って扉を開けなくてはなりません。それは、天上に連動して鍵が用いられるのです。ラオデキヤ教会は連動鍵が壊れていました。なぜならば、彼らには祈りがなかったからです。黙示録三章二十節で、

『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。」』

と言われました。イエス様が外からたたきます。しかし、ラオデキヤ教会は内側からたたきませんでした。だから扉が開きませんでした。霊の世界は二重扉で、地上においても鍵を見出してたたくのです。「たたく」とは、ある意味で「霊的な戦い」です。それに連動し、霊的な世界でも扉が開かれるのです。その権威が教会の中に与えられているのです。ということは、教会に属するとは鍵を使うことができる」ということです。この特権を用いて「求め、捜し、たたく」祈りを実践すべきです。これが教会の中に「ライフスタイル」として定着し用いられて行くならば、主が素晴らしいみ業を現してくださると信じます。
 そして、イエス様の祈りについての教えの最終フォーカスは、「聖霊をくださらないはずがない。」というところに結論があります。聖霊様によらなければ、求める祈りも捜す祈りもたたく祈りも不可能だということです。ですから、私たちが聖霊に満たされることが必要です。祈りはそもそも、聖霊様の領域に属することです。
 今週、三つのパンの祈りを受け取りましょう。求め、捜し、たたく。今日この御言葉の祈りを与えていただき、滅び行く魂のために、友人のために懸命に働いた主人のように祈っていきましょう。今日、この祈りが、私たちのただ中に成就しますよう祈ります。皆さんの中で動かない領域があるかも知れません。今まで祈ってきたけれどまだ動かないという課題があるかも知れません。その時は求めてください。必ず、捜す領域に、たたく領域に導いてくださいます。あるときは、求める領域にバックするような感じがする事があるかも知れません。しかし、繰り返しの中で、螺旋階段を上るように、主のもとに近づくのです。「求める、捜す、たたく」祈りが繰り返し用いられるとき、リバイバルが起こされると信じます。一言お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る