今週の礼拝メッセージ
2000.2.27(SUN)
恵を数えよ
新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書12章22節〜26節
それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
 ハレルヤ!今日皆さんの前で御言葉を語ることができますことを感謝いたします。先週の聖日の午後は「数えてみよ主の恵み」というタイトルで証し会をしました。皆さんの証しを聞きながら本当に恵まれ、励まされました。神様は確かに生きておられる。兄姉一人一人に神様が触れていて下さることを覚えることができました。救いの証し、家族の救い、癒しの証しなど素晴らしいお証しを聞くことができ感謝しました。誰もがその証しを聞きながら神様は生きていると誰もが再確認したのではないでしょうか。その証しを聞いて恵まれた後、私も神様の前に出て祈る時を持ちました。特別本日の礼拝で何を語るべきかを祈ったとき、神様が先ほど読んで頂いたルカの福音書から「恵みを数えよ」と言うことを教えていただきました。今日は共に神様が教えて下さったことを分かち合っていきたいと思います。もう一度二十五節二十六節を読んでみましょう。

あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。

私たちは神様によって救われ、素晴らしい祝福を頂いています。救われて心から感謝しても感謝しきれない程の恵みを覚えることができます。しかし今のあなたはどうでしょうか。本当に救われて良かったと思っていらっしゃいますか。「当たり前ですよ。本当に救われて感謝していますよ」と言われる人がほとんどだと思いますが、救われて、その後祝福を頂けると思っていたが、先ほどのみことばのように心配してしまっている、心騒いでしまっているなど、神様によって祝福されていると言うこととはほど遠い自分を覚える方も多いと思います。正直言って自分の心の中でも、まだ神様から祝福を頂いていない。心配事、問題があります。また祈っても答えられないことが沢山あります。一秒後のことすら何もわからない私たちです。このまま進んでいって大丈夫だろうかと思うことがあります。ほとんどの方は「私は満たされています」と言えるかも知れません。心を騒がせてはいけないと書いてあるのだから、本当に神様に任せれば良いとは分かってはいます。しかし、理屈では聖書がわかります。しかし、自分はこれは大丈夫だろうかと思ってしまいます。友達に神様を紹介するときには「神様は素晴らしい方です」言ってはいるが、いざ「本当にお前はそのように思っているか」と問われたら、いや、ちょっと自分の中で心配があるというのが本音だと思います。自分が救われて、永遠の命を頂いたことは分かっています。聖書に書かれていることは一点一画変わらないと言うことも分かっています。しかし自分の現状と聖書に書かれていることとなぜこうも違うのだろうかと思うことが正直言ってあると思います。聖書の中には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と書かれています。祈ったら答えられると書かれているけれども、祈ってもなかなか答えられない。神様にすべてを委ねたら、重荷も取り去ってくださるという約束ですが、まだ私たちの中に様々な重荷があって苦しい。「絵に描いた餅」という言葉がありますが、聖書が絵に描いた餅のようになってしまっています。聖書の御言葉どおりに、自分がなっていないことを覚えます。そして自分はこのままで良いのだろうかと思ってしまいます。皆さんはどうでしょうか。正直私はそんな時があります。なぜ自分は神様に愛されているのに、こんな問題があるのだろうかと思うときがあります。そんな時私たちに悪魔が声を出します。「おまえは神様に愛されていない」とか「本当は神なんかいない」「救われていないぞ」等不安を抱かせます。しかしもう一方では聖霊様が「主は生きている」「必ず恵みを与える」と声を出している。大きな問題にぶつかればぶつかるほどそんなことがあります。なぜそんなことが起こるのでしょうか?それは自分が救われたのは確かです。イエスキリストの十字架によって私は天国に行ける。これは確かです。しかしなぜそんな問題にぶつかるのでしょう。それは第一番目に私たちが救われたことによって主は大きな重荷を与えてくださるからです。それは自分だけが救われるのではなく、家族、同僚、友人、そして日本のすべての人々が救われるようにと大きな重荷を私たちに与えられます。今までは自分のことで精一杯。家族のことで精一杯という現実でした。しかし主は今まで目をとめたことも考えたこともないような人、それも日本のため、特に敵のために愛を持ち、その人のために祈れと言われます。大きすぎる重荷がクリスチャンになって神様から与えられます。自分のことで精一杯の小さな器である私が、日本の救いという考えたことのない、重荷を神様から授かったからです。もう一つの原因は、「霊的な戦い」です。今まで悪魔の陣営にいた私が、イエス様の十字架によって買い戻されて救われました。素晴らしい救いに私が入れられたという事は、悪魔の陣営は大問題であり、痛手です。だから私が信仰をやめるように、何とかして信仰を落とすように、私というひとりに総攻撃をしかけて狙って来ます。家族の迫害など、私たちの一番弱いところに問題をぶつけ、「こんな問題がある。駄目だぞ。」と語ってくるのです。ゴスペルサパーなどで来られるゲストで私たちは証しやみことばを頂いて、「確かに神様は生きている」と思います。しかし悪魔は「あんなに祝福される人がいるのにお前はどうなのか」と見せます。人と比較させ、結局勝利を失わせ、立ち上がらせないようにするのが霊的な戦いの始まりだと思います。また、私たちは罪から救われました。十字架の血潮によって罪が赦されました。そして私たちは神の義を教えられました。しかし、私たちは弱い者であり、知らないうちに罪を犯しています。やめなければならないとわかっているにも関わらず、いけないとわかっていながら弱さのゆえに負けてしまう時があります。怒ってはいけないと誰もがわかっています。が怒って悪口を語ってしまいます。そうしていると悪魔は私たちに叫びます。「お前そんなことをしていてクリスチャンなのか」「神の義は完全だぞ」「罪によって滅ぼされるぞ」と私たちに訴えます。そうすると私たちは罪に目を向けてしまいます。そして罪の呵責に悩まされます。また聖書に天国と地獄について書かれています。私たちは救われたことにより天国に入ることができます。また聖書より地獄がどんなに苦しみの場所か、永遠のさばきの場所と言うことを知っています。悪魔は「おまえは罪人だから地獄だ」と語ってきます。それを聞いて、今の自分がこんな状況では地獄にいってしまうのではないかと恐れてしまうのです。また毎日仕事をして朝から晩まで働き、家庭に帰り、日常生活を送るとき、疲れ切ってしまう。喜びも感謝もなくなってしまうときがあります。しかし、聖書はイザヤ書四十四章四節で、

わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

と書かれています。イエス様は生きておられ、あなたを愛していると語って下さっています。自分の命を懸けて、あなたを世界で一番愛していると言ってくださる。愛の応答をこの聖書の中で読むことができます。しかし私たちは今の自分に目をとめてしまいます。愛されている。命をかけて救って下さった。でも今の自分はだめだ。そんなことを考えて私たちは信仰が揺らいでしまう時があります。世の中の人を見ると、何か世の中の人の方が自由に伸び伸びと生活しているように見える、好きなことをしている。だから、逆にその恵みが見えなくなり、結局世の中の方が魅力的に見えてしまいます。皆さんはどうでしょうか。そんなことありませんでしょうか。クリスチャンの人には自分がそんな状態だとは悟られないように振る舞い、ひとりで思いめぐらせている時はないでしょうか?正直言って恥ずかしいのですが自分もそんな時がありました。しかし、今日今から話すことを覚えていただきたいと思います。ぜひこのままの思いでで帰らないで下さい。
 人間は一つのことを見ても色々な見方があります。ここに大きなかごを用意したとします。立派なリンゴを用意して山積みに積んだとします。全員がそのリンゴを見て様々なことを思うと思います。それが何という種類のリンゴだとか、色が悪いとか良いとか。美味しそうなりんごだと思われる方、またりんごに傷があるのを傷ばかり気になる人など様々の所に目をとめるものです。昨日ホサナクラブという子ども会で、私は正直言って傷つきましたが、「上條実、私を見てみんなどう思う?」と言いました。「一人一人何でも良いから私を見なさい。人は様々な見方をするものだよ」言って聞きました。いつも私に叱られたりしているからでしょうか、その腹いせというところもあると思いますが、最初に言われたことは、「白ブタ」でした。その他にも「めがねサル」「デブ」などと言ってくれました。ある子は「その髪型が変」などそこまで言うかと思うほど言われました。極めつけは「変なおじさん」「誘拐しそうなおじさん」と言われとても傷つきました。しかしある本の中で、こんな事が書かれていました。「人はただ自分が捜しているものに目を留める。」とありました。今あなたは何に目を留めていますか。人は様々な所に目をとめますが、今自分は何に目をとめているのだろうかと考えました。私は神様によって救われたことは確かであり、必ず天国に行けるという確信はあります。しかし自分の中に問題に目を留めてしまっている部分があると思わされました。自分の今の現状に目を向けてしまっている。一秒後のことすらわからないのだから全て委ねれば良いとわかっているのですが、色々な問題に目を向けてしまい、神様に任せるということができません。わかりやすくいうならば、イエス様に救われると言うことは神様の手が私の手を握りしめてくださったということです。しかし神様の代わりに問題に目をとめてしまうというのは逆になって神様の手を自分が握ってしまっています。これで大丈夫だろうか祈りを聞いてくれるだろうか。解決されるだろうかと、信仰がなくなり思いの中で逆に神様を握ってしまっている部分があると思います。不信仰になってしまっています。また私たちは色々な人と接していきます。聖書は「隣り人を自分自身のように愛しなさい」とあります。また良きサマリヤ人のように敵をも愛しなさいと聖書は教えています。しかし兄弟姉妹や会社の中で神様の目で見ることができず、人間的な目で人を見てしまっている事がほとんどです。人の欠点ばかり見えてしまいます。人を見ると批判してしまうのです。裁いてしまうのです。I・ハニーという人が「愛が薄れると、欠点が濃くなる」と言いました。私はこれをある書物を通して読んでドキッとしました。夫婦の中でも色々な問題が出てくると相手が悪い、自分のことを分かってもらえない。と裁くのです。結局夫婦の中に愛がなくなってしまっているのです。しかし夫婦に愛がなくなったとか言いますが、神に対して愛が薄れているのです。問題に目を留めたり、神様の愛が薄れているから不平不満、問題、また人の欠点ばかり見てしまうのです。理想ではクリスチャンはこうであれば祝福を頂けるとわかっています。しかしその歯車がずれてしまっています。祝福という歯車がガタガタと音を立てながらかみ合わず、うまく回っていない状況が今の現状だと思います。
 あなたの神様は今あなたの心の中で生きていますか。「勿論生きています」と言われると思います。しかしもしかしたらあなたの神様は重い病気になって苦しまれているのではありませんでしょうか?いやある方は自分の神様が死んでしまっている人もいるかも知れません。何度もここで証ししていますが、もう十三年になりますが、私の神様も死んだような状況になりました。何がなんだかわからない病気にかかってしまい、何カ月か床に伏したことがあります。仕事もできずに入院したことがあります。約一ヶ月間検査ばかりで何の治療もしてもらえず、激痛の中で苦しい闘病生活を送ったときがあります。あの当時を振り返って見ると様々な検査をしても全く何の病気であるかわからず、苦しみました。その時肉体が苦しむと、すべての部分が苦しみ、色々な部分で私は神様に疑いを持ちました。一つは祈ったら答えられる、癒しのために祈りましょうと色々な先生が一生懸命祈ってくださいました。また兄弟姉妹も祈ってくださいました。しかし現状はどんどん悪くなっていくのです。祈りが聞かれないのです。罪があるからかと思って、全て悔い改めました。しかし祈りは答えられません。どうしてだろうと思いました。また、一生懸命主のために奉仕して肉体も、精神的も使い過ぎて病気になったので、あれだけ神様のために一生懸命やったのに、なぜ神様は自分をこんな苦しいところに置かれるのだろうか?私の働きは神に認められていないのかという思いがありました。そんな中でやせ衰え、苦しんで、青白い顔をして新城に帰ってきたことがありました。礼拝に出ようと思い、会堂の玄関を入たときに丁度ある兄弟に出会い、その兄弟がにやっと笑って私に「あなたはイエス様を信じたら病いも癒されると言っているけど、癒されないじゃないか」と一言言われました。その時私は傷を受けました。自分はここにいるべきではない。新城の教会にいたら神様の栄光をストップしてしまう。証しにならない。いっそうのこと家内の実家がある東京に行って生活した方が良いではないかと思ったこともありました。自分がこれから教職者として立つことができない。自分なんか証しにならない男だ。神なんか自分を愛してくれていない。と自分の目の前で神様の仕事が全部ストップしてしまったことがありました。また、検査の最後に疑われたのが、悪性腫瘍でした。ガンではないかと疑われたとき今まで築いてきた家庭や仕事等が全て私の目から全部崩れ去りました。そしてガンと考えたとき私の心は死の恐怖で一杯になりました。怖くて怖くてたまりませんでした。今まで何人かの方のお葬式を手伝わせていただき、クリスチャンの最期がどんなに希望に満ちあふれているかをこの目で見て、クリスチャンというかイエスさまを信じていたら死は恐ろしくないと言うことを自分が一番よく分かっていました。理屈ではイエス様を信じたら大丈夫とわかっていても現実に死の恐怖が目の前にきたとき、自分は怖くてたまりませんでした。恐ろしくてたまりませんでした。自分の信仰生活は何もかもがメチャクチャになり、神様は私を愛していない、もう神様は私の心の中に生きていない、死んだも同然だと思うような事態になりました。しかし、神様は不思議でした。こんな私にも神様は不思議なところを通らせてくださいました。どん底落ちたとき初めて耳元で聖書の御言葉を語ってくれました。有名な御言葉でヨハネの福音書十四章一節の言葉でした。

あなたがたは、心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

真っ暗だったとき、死の恐怖でいっぱいな時に、その御言葉が入って来ました。そしてハッと気が付かされました。今まで慰めの手紙をもらい、慰めの言葉をもらっていましたが、それが逆にプレッシャーになり、重荷となって苦しんでいましたが、どん底状態の中に落とされた時、暗やみの中に光が差し込んだように「ああ神様がいた」と分かり、もう一度神様を見上げることができました。その時一瞬にしてその暗やみがなくなりました。ああ、自分は死んでも大丈夫だ。自分は天国に行くことができる。じゃあ、何もこわくない。瞬時に死の恐怖から解放され、神様がいて私を救ってくださったという恵みがハッキリわかりました。肋骨が痛くて、苦しみ、傷みが出てくると熱が三十九度から四十度にまで上がり、痛くて三時間ごとに座薬をうちながら、病気が分からないため何の治療もしてもらえずに苦しんでいました。もう駄目だと思っていたとき、「賛美の力」という本でどんな悪いことがあっても感謝するという事を読み、「私は今こんな状況だけど、やれることがあるかも知れない。今どんな状況でも何でも感謝しなさいという御言葉どおり、感謝してみよう」と思いました。その本に書かれているのはアメリカで起きた奇蹟について書かれていますが、同じ神様だから感謝してみようと思い、朝起きてから一つずつ感謝してみました。耐えられない程の傷みがあり、苦しんでいましたが、同じ傷みでも傷みに目を留めて愚痴を言うのではなく、神様に「傷みがあることを感謝します」と初めて言いました。正直心の中でそんなことなんか感謝できないと思いながらも口で告白し、「神様痛いことを感謝します」と告白しました。当時、新城教会の方で下半身マヒでやけどしたにも関わらず感覚がないためにひどいやけどになってしまったことをふと思い出しました。そう思うと痛みが感じられることは感謝なんだと教えられました。そんな中で次々と感謝が浮かび、一日中感謝し続けました。あの人は感じることができないけれど自分は痛いことを感じることができる。感謝だと思いました。また、今まで看護婦さんが色々親切に介抱してくれていましたが、病人は都合の良いものでちょっとしたことで腹が立ちます。朝眠たくてウトウトしているときに、看護婦さんが「起床です。お早うございます。」と言ってカーテンを力強く明けると「もっとそっと開けてくれれば爽やかな気持ちになれるのに」とそんな小さなことで批判をしてしまいます。しかし自分の為にいくら仕事とだとしてもこんなに自分のことを考えて、看護してくれると思い感謝しました。一つ一つ感謝していく中で、自分の中で全くと言って良いほど感謝が足りなかったという事が分かりました。何もすることがないためその日は感謝し続けました。目を上げて外を見たとき、風で葉が揺れていました。はじめは都会だから緑が少なくて不平を言っていたのですが、その時は緑が見えることは感謝だと、今まで当たり前のようでしたが一つずつ、目を神様に向けて感謝しました。あの時確かに神様は、私に振れてくれました。その日以来、今まで三時間、四時間感覚で傷みが襲ってきたため、座薬を打ち続けていました。しかし感謝を始めた日、なんと痛みが来ないのです。もう来るだろうと思っても来ないのです。その日少し痛みの違和感があると思い、一度だけ座薬をうちましたが、あれだけ苦しい傷みが来なくなってしまいました。感謝だけしかしていないのに傷みがなくなっていました。それと同時に見るものすべてが暗い物ではなく、光って見えました。何で今までの気持ちとは違う、全く同じベッドの中で、なんの治療もしない中で、何の原因か分からない病気にも関わらず、何とこんなに変わってしまうのだろう。何か神の力に恐ろしくなりました。私は何も現状は変わっていません。しかし、変わったのは私がどこに目を向けたかです。あの時に感謝の力がどんなに大きいかがわかりました。感謝で癒されました。当時全部検査してもう何も検査するところがないと言うまで検査してもらいました。そして最後の検査も終わり、もう何も検査する事がないと言われたときに、私は退院させてくださいと頼んで無理矢理退院させてもらいました。その後も毎日感謝を続けていくうちに結局原因は何もわかりませんでしたが、元の体に神様が戻して下さいました。そして神様が確かに生きている事がハッキリ分かり、もう一度神様のためにご奉仕できるようになりました。今日主の与えて下さった恵みを数え、感謝しましょう。皆さんが今問題を持っていてもぜひ、神様のへの感謝を始めてみてください。私たちは現状しかわかりません。神様は私たちの生涯に幸せを与えようとされています。私もあの苦しいとき、どん底の所を通らなければ今の私はなかったと思います。あのままですんなり言ってしまったら、神様が生きていることが皆さんに堂々と話すこともできなかったし、死の恐怖からも解放ていなかっただろうし、もしかして死んでいたかも知れません。今日神様に目を向けてください。感謝し始めましょう。それ以上に問題を足台にして祝福を頂くことができます。あなたが神様に目をとめていくとあなたの人生は変えられます。今日覚えてください。あなたに必要だからこそ問題を与えてくださったのです。そして絶対に「絶えることのできない試練にあわせない」と書かれているので、必ずそれを通して祝福を与えてくださる神様です。御言葉は、わたしの目にはあなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。愛しているからこそ今の問題を与えてくださいました。そんな問題を今日あなたが神に目を向けて私のためだ感謝しますと感謝し始めてください。今までは問題ばかりを見て人がああ言ったこう言った、またこういう問題がある、とそんなことばかり言っていないで感謝しましょう。目を神様に向けましょう。あなたのためにいのちを懸けてくださったほどの神様ですから、絶対このままでは終わりません。必ず神様は祝福を与えてくださいます。私たちは見えない天国に入れると信じています。目には見えなくても天の御国があり、その天の御国には入れると信じています。その同じ信仰を持っていただきたいと思います。今の現状がどうあろうともその延長上に素晴らしい祝福がある。「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させる」とあります。駄目だと思ったら駄目になります。然し、信仰は望んでいる事柄を保証しとあります。最高の祝福を神様がくださると信じてその問題ではなく、神様に目を向けて感謝し始めてください。私たちのようなちっぽけな頭でこうなったら良いと考える以上の事をして下さいます。三十倍、六十倍、百倍の恵みで祝福してあげると書かれています。今日悪魔は私たちの目の前で問題というハタを振ります。私たちはそのハタを見ないで、神様を見て下さい。その悪魔が振っている旗を目にしないであなたは神様を信じていますから、神様を見上げてください。あなたのためにいのちを懸けてくださったイエス様があなたの心の中に住んでくださっています。その神様を今日信じて、「神様。今まで問題に目を向けていたことを赦して下さい。自分に神様に対して愛が欠乏していたことを赦して下さい。不平不満、欠点ばかり見ていたことを赦して下さい。あなたに目を向けます」と神様の前に出ましょう。そして恵みを数えましょう。「主を待ち望む者は、新しく力を受ける。鷲のように翼をはって上ることができる」と書かれています。恵みを感謝しつつ忍耐を持ってください。今忍耐して神様をあがめてください。必ず、主を待ち望む者は新しく力を受けることができます。お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る