今週の礼拝メッセージ
2000.3.5(SUN)
神が備えて下さるもの
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙第一 2章9節
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったたものは、みなそうである。」
 ハレルヤ!私が御言葉を取り次ぐ前の祈りは、「イエス様が今日ここに来てくださったら、何を語ってくださるのだろうか」ということです。今朝の礼拝のメッセージにイエス様が講壇に立たれたら、何を私たちに語ってくださるだろうかと考えます。そして、私もイエス様ご自身からのメッセージを取り次ぎたいと願います。そのためにはどうしても祈りが必要です。祈らなければその扉は開かれません。そんな訳で、私のためにも多くの方が祈ってくださっていることを心から感謝しています。祈りの賜物が与えられている方が新城教会には多くおられ、すでに祈ってくださっていますが、更なる祝福がもたらされるために、これから毎週土曜日、夜七時半から礼拝のための「とりなし祈祷会」を行うことになりました。ぜひ、お越しくださり、礼拝のために祈ってください。必ず、翌日には神のみこころが語られると信じます。昨日も祈りましたが、今日、主の御心が現されるように願っています。
 また、四月からは、礼拝前のプログラムを変えようと思っています。聖書をもっと理解していただき、神様のとの交わりが前進するように、サンデースクールを始める予定です。長い期間だと途中で挫折するので、「短期バイブルクラス」を計画しています。ぜひ出席し、学んでみてください。この教会にはリバイバル聖書神学校や、その他の神学校を卒業し、教える賜物を持っている方が多いです。そのような方々を中心に礼拝の前にバイブルクラスを持ちます。「聖書の歴史」、「マタイによる福音書から学ぶ」、「ヨハネによる福音書から学ぶ」、そして、「ギリシア語で聖書を読んでみよう」というのもあります。挑戦してみてください。また、「キリスト教教理入門」、「中高生のための特別クラス」もあります。ぜひ、出席していただき、イエス様との交わりを深められますように。
 さて、今日は「神が備えてくださるもの」というタイトルで学びます。先ほどお読みした、第一コリント二章九節から、神様が備えてくださるものはどのようなものか、またそれを受け取るためにはどうすべきかについて学びます。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったたものは、みなそうである。」』

神様があなたに備えてくださるものは、目で見たことのないもの、耳で聞いたことのないもの、また、心に思い浮かんだことのないものです。これを今日信じましょう。すでに見たもの、聞いたものは予想がつくものです。しかし、神様は見たことのないもの、聞いたことのないもの、思ったこともないような素晴らしい事をあなたに用意されているのです。この御言葉を自分のものとして受け取り、お互いにこの御言葉を宣言をして下さい。
 「今日、あなたに見たことも、聞いたことも、思ったこともないものを神様が与えて下さいます!」
この素晴らしい祝福を受け取る条件はただ一つです。それは、「神を愛する者のために・・・」と書かれていますから、神を愛する者になりましょう。神を愛する者になるならば、見たことも聞いたことも思ったこともないような祝福を受けることができます。
 聖書の御言葉は、互いが補完しあっていて一冊を形成していますが、この箇所について実際的に説明しているような箇所があります。それが、マルコによる福音書十六章一節から五節です。

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。』

 このストーリーは、イエス様が十字架にかかられ墓に葬られてから三日目に、三人の女性達がイエス様の遺体に油と香料を塗ろうとして出かけた事から始まっています。この背景には、女性達のイエス様に対する愛があります。墓に入れられて三日も経っている遺体に近づき、油を塗って香料を塗るなど、愛がなくてはできないことです。三人の女性は、イエス様が生きておられたときにイエス様から祝福を受けた人たちでした。イエス様に対する愛がわき上がっていました。イエス様が十字架にかかった後も、その愛は消えていませんでした。だから墓に行ってイエス様の体に油や香料を塗ってあげたいと考えました。
 ある意味で、これは女性が持ち合わせている賜物だと思います。男性ならこうはならないと思います。イエス様が十字架についた後、三日目によみがえるという噂も出ていたので、ローマは兵隊を出してイエス様の墓を守らせていました。また、イエス様の墓の入り口には大きな石を置き、ローマの総督の印鑑で封印をし、絶対に墓を破ることはできませんでした。そのことは、みなが知っていました。絶対にイエス様の遺体に触れる事など出来ないのがわかっていました。このような状態で男性はなかなか行動できないものです。それでも、なお行動ができるのは女性の賜物だと思います。男性だったら、そんな状況では近づけないと思い、やめてしまうと思います。女性に与えられている神様に対する愛情は一つの賜物であると思います。仮に、石が封印されていなかったとしても、女性たちの手によっては石を除くことはできないでしょう。そんな状況の中でも、彼女たちはイエス様に対する愛の動機だけで墓に行きました。この箇所の背景にある、イエス様に対する愛をくみ取ることができます。
 しかしながら、実際にイエス様がこの地上におられるならば、このような愛情を抱
 マルコの福音書十一章二十二節から二十五節に、

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。また、立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」』

 ここではイエス様が、「山に向かって海に移れ」と命じたら、そのようになると言われました。私たちには、「山に向かって移れ」と動かすくらいの権威が与えられているというのです。山とは、物理的なものだけでなく、霊的な山も含みます。それは色々な問題と置き換えることができます。それらの山に向かって海に移りなさいと命令するならば、その通りになるというのです。この話は、先ほどのストーリーとは全く視点が変わっているような気がします、しかし、ここには共通点があります。山に向かって「移れ」と言える条件として、もし憎しみがあり赦せないような享ちがあったら、まずその人を赦し、山に向かって命じるようにというのです。山を動かすために必要な条件は、「恨み事を赦す」ことです。もし、皆さんが困難に立ち向かっていたら、その権威を使えば良いのですが、誰かに対して恨み事があると山は動かないのです。
 さて、この事と、先ほどのイエス様に対する愛と何の関係があるのか、と言われるかも知れません。しかし、聖書は神様を愛することについて、第一ヨハネ四章二十節から二十一節に、

『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。私たちはこの命令をキリストから受けています。』

そして五章三節に、

『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』

と教えています。具体的に神様を愛するとは、兄弟を愛することとイコールでつながるというのです。私たちが恨み事をもたないこと、兄弟を愛することは神様を愛することにつながるのです。兄弟とは、親、兄弟、子も含みますが、「共通の同胞」という意味です。親、兄弟というよりも、同志という意味があります。「同志」とは、「キリストのからだに属する者達」のことです。今日、私たちは色々な背景から教会に集められましたが、キリストのからだの中で互いに愛し合うことが、「神様を愛する」事なのです。即ち、「互いに愛し合う」ことが「神を愛すること」です。
 「愛」という言葉は日本語には一つしかありませんが、ギリシア語では四つあります。ここで使っている愛は、「アガペ」という言葉です。これは多くの場合、神様の愛について使われます。またもう一つ違った概念の愛は、「フィリア」という言葉です。これは「親愛の情」を表すのに使う言葉です。アガペは神を愛する、兄弟を愛するという場合に使います。「兄弟姉妹を愛しましょう」とは、「いつも教会で出会っているので情が深くなり愛する」というのとは違います。アガペの愛は、「私にとって何より大事だ」という、「主体的な判断と選択を表現するもの」だというのです。それは、私にとって無くてはならない存在だということです。ここにおられる一人一人は、背景が違っていても、これはただ、情によって、「愛しています」というのではなく、お互いがなくてはならない存在だということです。これが神様を愛することにつながるのです。そして、これがキリストのからだの姿です。教会は私たちの体の器官に例えられています。人間の体は色々な器官でできていますが、一つとして不必要な器官はありません。すべてが必要です。ある人は、「人間の体の中で、盲腸はいらないではないか。中には盲腸のような人もいる」と言われるかも知れません。しかし、盲腸も大事です。宇宙では盲腸がないと宇宙酔いになってしまうそうです。盲腸がなかったら宇宙で生活できないそうです。神様は宇宙時代が来ることを想定して盲腸をつけておかれたと思います。教会の中でも盲腸的存在の方がおられるかも知れません。リバイバル時代が来ると機能するような方もおられます。私もそうかも知れません。いずれにしても、私たちは神様を愛すること、兄弟を愛するのは、「アガペの愛」で愛することです。隣の人は、「無くてはならない存在です」という愛で愛しているなら、あなたは神様を愛しているのです。あの人は憎い、顔も見たくないというのは論外です。愛は何しろ、互いが互いを必要としているという愛情です。今日ここにおられる皆がそうです。隣、近所の方に、「私はあなたを必要としています!」と挨拶したいと思います。体は互いが補完し合っているので大切です。三人の女性はアガペの愛でイエス様を愛していました。ただ情だけではありませんでした。彼女たちは、そんなイエス様に対する愛でイエス様に近づいていきました。神を愛しているというバロメーターは、「兄弟を愛する」というところに現されます。どれくらい私たちが、お互いに、兄弟姉妹を必要としているか、ということで神様に対する愛情を計ることができます。これを自分自身にあてはめて計ってみてください。
 イエス様は律法の中で一番大切なことは、「神を愛すること」と、「隣人を愛すること」だと言われました。私たちが恨み事を赦して、互いが必要だという愛によって山に立ち向かっていくときに、山が動くというのです。
 人を赦すときにのパワーはすごいものだと思います。しかし、世の中には逆のパワーで生きている人がいます。恨みのパワーは恐ろしいものです。時々、解放の祈りの中で、「私の生きる力は憎しみだ」と言われる方がいます。憎しみがその人を生き生きさせるそうです。憎しみのパワーがそんな力を与えるとしたら、赦しの中にはどれほどの力があるでしょうか。
 三人の女性が墓に行ったときに、「誰があの大きな石を動かしてくださるだろうか」と悩んでいました。しかしそう話しながら歩いていくと、すでにその石が除けられていたのです。今まで心配していた問題がなくなっていました。石は、聖書を見ると天の使いたちが除けたと書かれています。マタイの二十八章一節二節に、

『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。』

と書かれています。私たちが神様を愛する愛で行動するときに、神様が天使を送って下さいます。そして私たちの前に立ちはだかる、大きな石や山を動かして下さいます。私たちクリスチャンには、天の軍勢を支配する権威が与えられています。この地上には悪霊もたくさんいますが、天使はさらに多く存在します。天使たちの関心事はクリスチャンです。私たちクリスチャンに対して一番の関心を払っています。「何をしようか」といつも関心を持っています。しかし、神様の命令がないと動くことができません。又、私たちの要請がなくては動けません。私たちが、神様に、「天使を送って下さい」という祈りによって天の軍勢が送られ、私たちの先に問題の山が取り払われるのです。神を愛するとは素晴らしいことです。あなたと共に天使が動員され、問題が解決されるのです。
 三人の女性達が墓に行くと、彼女たちの一番の問題であった大きな石が取り除けられていました。それで、彼女たちは喜んで、始めから期待していたことを行おうとしました。彼女たちが期待していたこととは、イエス様の体に香油を塗ることでした。彼女たちが今まで望み、期待していた環境が整いました。彼女たちは、喜んでその墓の中に走り込んで行った事でしょう。そうしたら、何と、彼女たちが見たことも、聞いたことも、思ったこともないことが起こっていました。そこには、すでに、イエス様の遺体はありませんでした。イエス様はよみがえられていました。今まで、予想もしていなかった奇蹟を見ました。私たちは時々、色々な問題に出会うときに、「この問題さえ取り除かれたら、私は幸せになれるのに」と思うかも知れません。しかし、神様は私たちクリスチャンに、何の目的もなく、問題の山を置かれることはありません。私たちは山が取り除けらる解決だけを期待してはならないのです。神様が備えてくださっているものは、見たことも、聞いたことも、心に思いに浮かんだこともないものです。そんな、大きな事を私たちに備えてくださるのです。まさに、この三人の女性が経験したことは、第一コリント二章九節の実現でした。これから私たちが隣人を愛して物事にあたっていく時に、神様が私たちの目の前の問題を解決してくださるばかりか、私たちの期待していなかった「見たことも、聞いたことも、思ったこともなかったこと」を用意してくださっているのです。これから私たちは主に期待したいです。私たちは今、日本のリバイバルを祈っています。リバイバルはこんなものかというイメージがあると同時に、私たちの目の前には多くの問題の山もあります。私もスーパーミッションのために働かせていただいていますが、色々な山を経験し、その山を取り除けるために祈りが必要だと感じています。しかし、なぜ、私たちはリバイバルを祈るのでしょうか。これは「魂を愛する」という愛が基本になければリバイバルも無意味です。そして、山が取り除けられて、その彼方にあるものは私たちの想像をはるかに超えた、見たことも、聞いたことも、思ったこともないようなことを、神様は私たちに備えてくださっています。今日、神様がこの御言葉を語って下さっていると受け取りましょう。「神を愛する者のために」とあります。神様を愛することに徹したらこのことが成されます。
 最後に一つの証をしたいと思います。今私は色々なところで決起大会をしています。一月の終わりに大阪のある教会に行きました。皆さんの祈りによって素晴らしい集会でした。昨日は、東京でテーマ別祈祷があり、特に、「経済」のために祈りました。三十名程の方と共に祈りました。すると、スーパーミッション東京事務所で働かれている姉妹が来られて、私に、「先生、先日は私の教会で決起大会をしていただき、ありがとうございました。」と言われました。「あの時に、最後の祈りの時間にひとりの女性が激しく倒れたのを覚えていますか。後からその人から電話があって、私だけ激しく飛ばされたのは、なぜだろう、と相談を受けました。それで私は、きっと神様があなたに特別な祝福を与えられたのではないですか、と答えました。」と言いました。
 その後で彼女は病院に行くことになっていたそうです。子宮ガンの検診の予約があって病院に行って検査したそうです。すると医者が、「あなたは確かに子宮ガンでした。その痕跡はあるけど、ガンは全くなくなっている」と言ったそうです。その時彼女は、「あの時、神様が触れてくださって私をいやしてくれた」と気が付いたそうです。
 私たちが神様に向かうとき、私たちが期待した以上のことを神様がしてくださいます。私たちの人生の中で神を愛していくときに、私たちが思ってもみないようなことを起こしてくださいます。既に起こしてくださっていると思います。私たちは天国に行ったらそのことをはっきりと知ることができると思います。私たちひとりひとりが、いつも神様を愛していくならば必ず、私たちのただ中に、このことが起こされ、また日本の中にも起こされると信じます。今日この御言葉が皆さんのものとなりますように。そして、皆さんが神を愛して、見たことも聞いたことも思ったこともないような素晴らしいみ業を体験できるようにお祈りしたいと思います。一言お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る