今週の礼拝メッセージ
2000.3.12(SUN)
神にはできるのです
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書18章27節
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
 ハレルヤ!今日皆さんと共に礼拝することができ、感謝します。いつも皆さんの祈りに支えられていることを感謝します。
 今日の週報には色々なお知らせが出ていますが、来週、皆さんが来られると教会のじゅうたんが全部張り替えられて驚かれると思います。会堂が建てられ二十年が経ちますが、だいぶ古くなったのでじゅうたんを取り変えることになりました。色をコンピューターでシュミレーションしましたが、やはり同じ色が一番合うということで、同じオレンジ色ですが、きれいになると思います。ただ外観だけがきれいになるだけではなく、霊的な世界においても一新されるような週になるように祈っていただきたいと思います。また、四月から、バイブルクラスが始まります。皆で聖書を学びたいと願っています。  さて、今日の御言葉は今、皆さんと共に読んだ御言葉です。この御言葉は歌にもなっています。一緒に歌いましょう。

人にはできないことが、神にはできるのです
人にはできないことが、神にはできるのです
ルカ十八章二十七節 ♪♪

これで御言葉を一つ覚えることが出来ました。人には出来ないことがたくさんありますが、神には何でも出来るのです。この神に私たち信頼し、頼れるとは素晴らしいことです。お互いに、「人には出来ないことが神には出来るのです!」と宣言し合いましょう。神様は全知全能のお方です。すべてを支配され、自己存在されているお方です。人間は一瞬しか生きることが出来ません。人間の命は、はかないものです。いつ何時、何が起こるのかわかりません。先週も大きな列車事故がありました。列車に乗っていた人は、次の瞬間に隣を走っていた電車が飛び込んで来るなど誰も思わなかった事でしょう。私も東京でよく電車に乗りますが、今まで隣の電車が自分の乗っている側に倒れてくるなどと、全く考えたこともありませんでした。しかし、あれからは線路側に座るのが怖くなりました。昨日は新幹線で大阪に行きましたが、もし新幹線がそんなことになったら大変なことです。人間は瞬間しか生きることができない存在です。では、神様はどのようなお方でしょうか。人間は過去を取り戻すことは出来ません。しかし、神は過去を現在形で持っておられます。人間は未来を操作することはできませんが、未来も現在形で支配しておられます。神様は過去・現在・未来を現在形で支配されておられるお方です。あなたの過去も未来も、すべて、あなたが今、現在を生きているのと同じように、現在形で支配されておられます。「過去に傷ついた部分は回復できません」と言われるかも知れません。しかし、神に信頼するならば。神様はあなたの過去を現在形で取り扱ってくださいます。「私には、将来に対する不安があります」と言っても、神は将来を現在形で扱ってくださいます。永遠から永遠なる方です。そのお方に身を寄せるならば、人にはできないことでも、神から得ることができるのです。
 「人にはできないことが、神にはできるのです」・・・そもそも、イエス様の誕生は人には不可能なことでした。マリヤは突然、処女であるのにイエス様を身ごもりました。マリヤは戸惑いました。これはどうなっているのだろうかと。その時、天使が、ルカの一章三十七節で、「神にとって不可能なことは一つもありません。」と宣言したことから始まっています。私たちの人生の中には不可能と思われることが数多く存在します。また、「不可能」という文字に、押しつぶされそうな時も多くありますが、神を信頼し、信仰を持ちましょう。今日、もしも何か不可能だと考えておられる方は、神様にとって不可能なことはありませんので、「信頼してください」というのが聖書のメッセージです。
 ルカ十八章を読んでいくと、このストーリーは大へん興味深いです。家に帰ってから、ルカ十八章、十九章をよく読んでみてください。ここでイエス様が、「人には出来ないことが神には出来るのです」と語られた背景を見るのです。聖書は、前後のストーリーを合わせて、私たちに教えようとしています。特に、「人にはできないことが神にはできるのです」とイエス様が語られた背景に、一つのストーリーがあります。まず、この始まりがルカの十八章十五節です。イエス様のところに人々が子どもたちを連れてきました。なぜならば、子どもたちをイエス様に祝福して欲しい、手をおいて祈って欲しいと思ったからです。多分、お母さんたちが子供達を連れてきたのでしょう。しかしその時、弟子たちは、「うるさい。子どもたちは帰れ!」と、子どもたちを排除しようとしました。しかしそんな時、イエス様は、幼子たちを呼び寄せてこう言われました。「子どもたちを私の所に来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。」と。
 当時イスラエルにおいては、子どもは、「役にたたない者」の代名詞でした。早く、大人になれ、という感じでした。しかし、そんな文化の中で、イエス様は、「子どもを止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものだ」と言われました。これを単純に言うと、「一番、神に近いのは子どもたちです」ということです。教会の中で一番神に近い存在は誰ですか。「あの方はもう信仰を持って十年、二十年だ。いや、あの人は輝いているから、神様に近い存在だ」と言われるかも知れません。しかし、聖書は、一番神に近い存在は、「幼子たち」だと言います。今日も献児式がありますが、そのような幼子たちに一番近く神の国があるのです。だから、子どもたちは重要な存在です。教会の中である意味、神の国の鍵を持っているのが子どもたちです。子どもたちが主に用いられ始められると、リバイバルが教会に起こってくると思います。だから、教会の子どもたちのために、真剣に祈っていただきたいです。特に、現代の子どもたちを取り巻く環境は大へん悪いものです。先週私は、スーパーミッションの運営委員会祈祷会のために東京へ行きましたが、一人の先生が真剣に、「神様。助けてください。東京は子どもたちを育てるのには、あまりにもひどい環境です」と祈っておられました。東京で子どもたちはまともに育たないというのです。私たちは田舎で良かったと思います。しかし、今は都会も田舎もあまり差がなくなっています。子どもたちをとりまく環境の厳しさを感じます。なぜならば、悪魔もよく知っているからです。子どもたちさえ押さえておけば、国の未来がない、ということをよく知っているからです。しかし、イエス様は、「子どもたちをわたしのところに連れてきなさい。止めてはなりません。」と言われました。それはユダヤ人が持っている世界観とは全く違うものでした。そのことから、問答が始まりました。
 そこにいたひとりの役人が、イエス様の所に来て、「永遠のいのちを得るためにはどうしたら良いですか。」と聞きました。するとイエス様は、「姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。」と、モーセの十戒を役人に伝えました。すると彼は子どもを目の前に胸を張って、「イエス様。そのようなことは、小さい頃から守っています。」と言いました。すごい人です。あのやっかいな十戒を全部守って育ったというのです。その時にイエス様は、「守っているとは大変素晴らしいことです。しかし、あなたは一つしなければならないことがあります。あなたにはたくさんの財産がありますが、あなたが隣人を愛しているというのなら、その財産を全部、貧しい人たちに分け与えなさい。そうすれば、あなたはいのちを得ることができます。」と言われました。それを聞いて役人は顔色を変え、がっかりして、悲しみながら帰っていったのです。その時イエス様は、ルカ十八章二十四節?二十六節、

『イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」』

 今日皆さんは金持ちですか。貧乏人ですか。「貧乏で良かった」と思うかも知れません。「金持ちは天の御国に入るのが難しい」と言われました。イエス様は大胆なことを言うと思います。金持ちと言っても何が基準で金持ちと言うのでしょうか。いくら日本人が金持ちだと言っても、アラブの石油成金と比べたら比べものにはならないと思います。いずれにしても、金持ちが天国に入るのは難しいと言われました。これには色々な意味があります。当時イスラエルにおいては、経済的な祝福を受けた人は、「神によって祝福された」と考えました。ですから、その人は神の前に受け入れられているから、「救われている」と思っていました。しかしイエス様が、金持ちが天国に入るのは難しいと言われた背景に、「努力や律法を守ることによっては救われない」ということを投げかけておられるのです。しかし、イエス様は実際的に、「神持ちが天国に入ることは難しい」と言われたのです。この、「金持ちが天国に入るのは難しい」という事実と引き合いに出されているのが、「らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」ということです。らくだは大きな動物です。それが針の穴を通る・・・、「針の穴」これをは原語で見ると、「縫い針の穴」です。らくだが縫い針の穴を通る方がやさしい、というのです。そんなこと普通では考えられません。あの大きならくだが、針の穴を通ることなど不可能ではないでしょうか。金持ちが救われるくらいなら、らくだが針の穴を通る方がもっと、ら・く・だ・というのですから・・・、それは絶対不可能だということです。 イエス様の言葉を聞いていると、時々混乱することもあります。しかし、イエス様は実際にそのように言われ、その後、「人には出来ないことが神には出来るのです」と言われました。
 問答の後、イエス様は話しをしながら旅をして、エリコの町に近付きました。すると、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」という声を聞きました。それは、盲人の声でした。すると皆は、「うるさい」と言ってその人を排除しました。当時、盲人や、らい病人は社会から差別を受けていました。しかし、イエス様は、「わたしの所に連れてきなさい。」と言われ、盲人の目を癒されました。イエス様は社会から認めらていないような、子どもたちや、らい病人に心から手を差し伸べた方です。イエス様はある意味で、差別を撤廃された方でした。しかし、「金持ちは天国に入れない」という言葉は、別の意味で差別だと思います。一方では、盲人を受け入れ、また幼子を受け入れていますが、金持ちは天国に入れない、というのは金持ちから見たら、「なぜ、私たちを差別するのだ」ということになります。そう考えると、聖書はわからないと思います。しかし、聖書は全体的に理解すべきです。十九章で、イエス様はエリコの町に入りました。そこに有名なザアカイの話があります。
 ザアカイは自分の町にイエス様が来た、ということを聞きました。彼は、有名人のイエス様を一目見たく思いました。しかし、背が小さいのでなかなか見せてもらえませんでした。また、彼はその町で嫌われていました。「見せてください」と言っても、「お前なんかに見せてやるもんか」と意地悪されたのでしょう。そこで彼は前方に出て、いちじく桑の木に登ってイエス様を見ていました。
 イスラエル旅行に行くと、エリコに、「ザアカイのいちじく桑の木」というのがあります。ザアカイはイエス様が来られるのを木の上で見ていました。すると、イエス様がその木の下に立ち止まり、名前を知らないはずなのに名指しで、「ザアカイよ降りてきなさい。わたしは今日あなたの家に泊まることにしているから。」と言われました。そしてイエス様はザアカイの家に泊まりました。そして、十九章九節には、

『イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」』

と語られています。ここにはザアカイが救われたことが書かれています。「今日救いがこの家に来ました。」と書かれています。ここで、救いは「家」に来るものだとわかります。救いは「個人の救い」だと思いますが、そうではありません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」ともあるように、救いは家に来ます。今日、まだ家族が救われていない方でも、あなたが救われているならば、救いは家に来ています。だから、あなたを通して、家族皆が救われるのです。多分、ザアカイには家族親族がいたことと思います。そこでイエス様は言われました。「ザアカイ、あなただけが救われたのではなく、救いがこの家に来ました」と。
 ザアカイは救われました。しかし、ザアカイはどのような人であったのでしょうか。十九章二節を見ると、

『ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。』

 先ほどイエス様は、「金持ちは救われない」と言われました。しかし、何と、イエス様の舌が渇かないうちに、イエス様はエリコの町でザアカイを救いに導かれました。彼は、「金持ち」でした。これはどのような意味なのでしょうか。さらに混乱するようなことです。しかし、聖書は、これらのストーリーを通して、「人には出来ないことが、神には出来るのです」と教えているのです。だから、聖書を詳しく読まなければなりません。神様は決して差別されない方です。先ほどは、「金持ちを差別しているのではないか」と思いましたが、そうではなく、救いは全ての人に提供されているのです。今日、ここにおられる一人一人に、神様は救いを提供されています。全員、神から選らばれた素晴らしい器です。救いはあなたの家に来ているのです。
 そしてイエス様は、「人の子は失われた人を捜して救うために来た」と言われました。「失われた人」とは、「滅ぼされた人」という意味です。また、そのような人を救うために、イエス様がこの地上に来てくださったのです。
 「救い」、「ソーテーリヤ」という言葉が使われていますが、当時の一般的な概念は、「身体の健康」ということでした。まず、「救い」という中に、体の健康を含んでいます。今日、皆さんの中で健康を害しておられる方は、病に対しての救いを含んでいます。イエス様は病に滅ぼされようとしている人のところに、「救い」を与えてくださるのです。今日病の方はイエス様に信頼してください。人にはできないことかも知れません。しかし、神にはできるという信仰を持つべきです。
 盲人がいやされたときにイエス様は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」言われました。「信仰」とは「信頼」という意味です。誰に対する信頼でしょうか。神に対する信頼です。「神にはできるのです」という信頼が「信仰」です。そうするならば、病もいやされるということです。今日私たちはイエス様に信頼をおくべきです。今日初めて教会に来られた方も、今まで色々な神々に信頼してきたけれどうまく行かなかったでしょう。しかし、今度はイエス様に信頼するのです。イエス・キリストという方です。神に対する信仰と信頼が、「あなたを直した」とイエス様は言われました。
 また、詩篇には、『「主よあわれんでください。私の魂をいやして下さい。」』とダビデの祈りが出てきます。癒しは体だけではなく、「心の癒し」も含んでいます。現代の大きな問題は心の傷です。「人間は絶えられない状況に遭遇すると、心のヒューズが飛ぶ」とある心理学者が言いました。今あまりにも色々なことが起こりすぎて、心のヒューズが飛んでしまっている人が多いです。私の家もよくブレーカーが飛びます。ブレーカーを上げなくては、いつまでも真っ暗です。だれが元に戻すかでいつももめます。誰かがブレーカーを上げなくては電気がつきません。心のブレーカーが飛んだときには、誰に上げてもらうのでしょうか。それがイエス様です。イエス様は救い主で、心のいやし主です。だから信頼してください。「イエス様は心のいやし主である」と信頼してください。
 聖書のいやしの概念は素晴らしいものです。個人だけに留まらず、拡大されます。詩篇に、

『見よ。わたしはこの町の傷を癒して直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。』

と書かれています。神は「町の傷」をいやします。日本の町にはそれぞれの特色があります。そしてその根底あるのが傷です。何週間か前に、私は熊本の天草に行きました。天草というところは、今から数百年前にキリスタンが迫害されたところです。何万人という人が死んでいきました。だから、今でも天草地方では、「クリスチャンになると殺される」という恐れがあります。それは町の傷です。だから、クリスチャンに対してはとても警戒心があります。そこの牧師先生が言われていました。「私はそんなことをあまり気にしないでここに来ましたが、不動産屋に家を貸りに行くと宗教を聞かれ、キリスト教だというと、ああクリスチャンには家を貸すことはできません。と言われてしまった」というのです。「なぜか」と食い下がったけれど、「理由はともかく何しろクリスチャンはゴメンだ」と言われたそうです。これは町の傷です。日本の町々には色々な傷があります。町に育つとその町の傷も受け継いでしまうことがあります。しかし、イエス様は、「町の傷をいやして上げる」と言われます。
 また、それ以上の拡大があります。詩篇六十篇二節には

『あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。その裂け目を、いやしてください。地がぐらついているのです。』

「地」というのは「国」と訳すことができます。ぐらついている国をいやして下さるのはイエス様だけです。日本に対して、イエス様に望みを持つべきです。そのような救いをイエス様が日本に提供して下さいます。今日もしも、皆さんの中で、色々な領域に傷を負っておられる方がいたら、病でも精神にしても、イエス様は救い出して下さることを堅く信じましょう。
 そして、最も「救い」についての強い意味は、「解放」という意味です。これは、「敵の手からの解放」という意味です。「敵」とは何でしょうか。「解放」とは、誰からの解放でしょうか。それは、人類がどのように戦っても勝利できない相手からの救いです。これは目に見えない存在です。それが悪魔とその一味悪霊どもです。世界の不幸の根元に控えているのが、見えない霊的な存在である悪魔とその一味悪霊どもです。この悪魔と悪霊に対して人類は全く無抵抗でした。彼らの言いなりでした。しかし、イエス様によってもたらされた一番の勝利は、敵の手・サタンの手からの解放です。今世界には多くの軍隊がありますが、世界最強の精鋭部隊を選び、最新兵器を彼らに持たせて悪魔と悪霊どもと戦わせてみても、決して勝つことはできません。人類を総動員しても絶対に勝つことはできません。しかし、どうしても人類が勝つことができなかった悪魔の力に、イエス様によって勝利することができるようになりました。ヘブル人への手紙二章十四節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

と書かれています。死の力の根源には悪魔の力があるのです。人間の不幸の根元は死ですが、その背後に悪魔の力があり、それから解放出来る唯一のお方が「イエス様」だというのです。イエス様の名前がなかったら私達はどうすることもできません。しかし、イエス様に身を避けるときに、サタンの力から解放されて救われるのです。
 私の友だちの牧師に、以前、この新城教会で起こった霊の戦いのことを話したら、「先生。今日の先生の話を聞いて、今までだったらそんな話はわかりませんでしたが、今日はよくわかりました。なぜかというと、私も同じような体験をしたからです。」と言われました。その方は、聖書を翻訳されているような、賢い先生ですが、こう話されました。  
 ある女性が悪霊にとりつかれて、女性なのに男性の声になって、「おれは先祖の霊の○○だ」と言ったそうです。家の中で暴れまくり、病院に連れて行かれましたが直らないので、家族は困り果て、除霊をしてもらおうと、新興宗教の真光の所に行ったそうです。しかし、懸命に真光の人たちが拝んだのですが悪霊は出て行かなかったそうです。それでその人たちは、「困ったね。これは私たちの手には負えません。」と言いました。するとその女性の中の悪霊が、「教会以外の所では、絶対におれはこの女から出て行かない」と言ったそうです。すると指名があり、どこどこにある○○教会におれを連れていってくれ。そうしたらおれはこの女から出ていく、と言ったそうです。そして、悪霊に指名された教会が、何と私の友人の教会でした。家族はその女性を連れて教会を訪れ、「悪霊を追い出して下さい」と言われたのです。先生はそんな経験がなくてどうしようかと思ったそうですが、出来ないとも言えないので引き受けて、「イエス様の名によって悪霊よ。出て行け!」と命じたそうです。すると悪霊が、「おまえじゃ、弱すぎるからもっと強いのを出せ。」と言ったそうです。それで先生も負けじと、「私がこの教会の牧師だ。オレが一番ここでは強い」と言ったそうです。すると、悪霊がまた笑い出し、「お前は弱い。お前の力ではオレは出ていかない。」と言ったそうです。これは、○○教会で追い出されるというのではなく、悪魔の教会に対する挑戦ではないでしょうか。
 そこで先生は宣教師を呼び、真剣に祈ったそうです。「イエスの名によって悪霊よ出て行け!」と命じると、また笑われ、「もっと強いのはいないのかなあ。」と言われ、全く出ていかないのです。二時間くらい真剣に祈ったのですが歯が立ちませんでした。横で奥さんがおろおろし始め、「ちょっと、あなたでは無理じゃあないの。ペンテコステ派の教会の先生に頼みましょうか。」と言ったそうです。しかしそれもはずかしいので出来ませんでした。「出て行け!」と何度も叫びましたが、駄目でした。ついに、「もう駄目だ・・・」と思ったそうです。そこで、神様の前にひれ伏して、「イエス様。私にはどうすることもできません。助けてください。」と涙ながらにイエス様の前にひれ伏したそうです。すると、その途端、悪霊が出て行きました。自分の力で出て行けと言ったときは、「もっと強いのを連れて来い。」と言われたけど、その先生が、「私は駄目です。イエス様。助けてください。」と心の底からイエス様に願った時、全てを明け渡したときに、悪霊が手を引いてその方は正常に戻り、今では教会に続けて来られていると言われました。
 私たちがサタンの力に勝つためには、イエス様の陰に宿るしかありません。イエス様は私たちをサタンの力から解放してくださる方です。経済力に頼っても、地位や名誉、教育に頼っても悪霊は出ていきません。しかしイエス様に頼るときに、瞬間的に悪霊は出て行ったというのです。これは、御言葉が真実であることをその先生に教えるために、神様が、このような出来事を許されたと思います。私たちが全幅の信頼をイエス様に置くときに、イエス様が事を起こして下さいます。時々、私たちは試練にあいます。この試練から解放されることがあるのだろうか、と思うような試練にあうことがあるかも知れません。しかし、第一コリントに

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』

と書かれています。今日、神は、脱出の道をあなたに備えておられます。その後には、

『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。』

と書かれています。「偶像礼拝」と「試練」に強い関係があるのです。イエス様は分け隔てなく、救いを与えて下さいます。最終的には永遠の国・天国が用意されています。イエス様は全ての人に必要です。今日、イエス様を自分の救い主と信じて歩んでいきましょう。一言お祈りします。

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