今週の礼拝メッセージ
2000.3.19(SUN)
信じる者に働く神の力
新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 エペソ人への手紙1章19節
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
 ハレルヤ!お早うございます。今日は久しぶりに、ここで礼拝することができ感謝します。この御言葉はとても素晴らしいです。賛美にもなっていますので共に賛美しましょう。

神の全能の力の 働きによって
信じる者に働く 神のすぐれた力が
どのように偉大な ものであるかを
あなたがたが知ることが できるように

信じない者にならないで 信じる者になりなさい
信じない者にならないで 信じる者になりなさい

信じるなら 信じるなら あなたは神の栄光を見る

 今日は皆さんのお祈りと、尊い献金によって教会の外壁にペンキが塗られたり、会堂のじゅうたんが新しく替えられたりしてきれいになりました。前のじゅうたんは二十年使われました。これから感謝すると共に、大切に使っていきましょう。食堂では自由に食べてください。しかし、会堂の中では飲み食いはしませんので、守っていただきたいと思います。お互いに靴もきれいに磨いて入るようにし、長く会堂が使えるようにしたいと思います。
 今日は「信じる者に働く神の力」というテーマで学びます。私たちのクリスチャン生活は信仰が大切です。『義人は信仰によって生きる。』『信仰がなくては神に喜ばれません。』と聖書に書かれていますので、信じることが大切です。幼子のように単純に御言葉をそのまま信じることです。
 先週私は大阪で礼拝を持ちました。そして午後二時から行われた集会も終わり、その後、牧師先生と共に食事に行きました。木曽路というしゃぶしゃぶの店に行きました。鉄器の鍋で食べるのです。蓋がかぶさっていました。蓋には肉を焼くような網がついており、穴が開いて下に油が落ちるようになっているものでした。私は初めてそこに行ったので店の人にどうやって食べるかを聞きました。すると、まずは白菜、次は肉・・・と言われたので、蓋に白菜、肉を置きましたがなかなか焼けません。すると、「すいません、すいません。」とおねえさんが来て、「蓋を取ってください。」と言われました。取ってみると下にお湯があり沸騰していました。本当はそこに入れて食べるものでした。それで食事中、私たちは大笑いしていました。その話を大阪の祈祷会で話すと、ある姉妹が木曽路に七年間働いており、そういうことを外国の方がよくされると言われました。
 ちょうど、「信じる人には神の力が働く」ということも同じことが言えると思います。蓋を取ったらおいしいものを食べることができますが、ある人は教会に来ても心を閉ざしている人がいると思います。今朝、ここに来てライトをつけようと思ったのですが、電気がつきませんでした。それは元の電源が入っていなかったからです。信仰も同じです。どんなに素晴らしいメッセージを聞いても、心が閉じていたら駄目です。だから今日は心を開いて神様の御言葉をそのまま受け入れてください。
 聖書にはイエス様がナザレの村に行かれ、三十才まで過ごされたことが書かれています。人々が、「何だ、この人は、大工のせがれで家族があるではないか。彼はどこからこの知恵を学んだのか。」とイエス様に対して不信仰を持ちました。だから聖書には『ナザレの町では何の奇跡も行わなかった』と書かれています。イエス様がこの町に来られたとしても不信仰があったら奇跡も起こりません。ですから信仰を持ちましょう。そうすれば、素晴らしいことが起こされます。一章十九節に、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

と書かれています。神様には力があります。それを信仰によって引き出すか、それとも不信仰で引き出さないかです。今日は同じ御言葉を聞いてますが、ある方は不信仰の蓋が塞いでいるかもしれません。しかし、心を開いて信じたら神の栄光が現されます。ですから、今日は単純に信じましょう。信じたら栄光を見ることができます。イエス様が働いてくださいます。問題や、病気がある方は信じてください。
 「信じる者に働く神の力」と書かれていますが、神の力はどのようにして受けるものなのでしょうか。イエス様が十字架にかかられる前に、「あなたがたはまもなく聖霊のバプテスマを受けます。」と言われました。それで皆は十日間、真剣に信じて祈り待ちました。そのことを聞いた人は五百人ほどいた言われます。しかし、最後まで待ち臨んだのは百二十名でした。聖霊が臨まれると力を受けると書かれています。私たちは信仰による力が必要です。今日はどのような力をいただくことができるかについて学びたいと思います。ヨブ記十七章九節に、

『義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。』

と書かれています。力とは「きよさ」です。手のきよい人は、ますます力を得ると書かれています。聖霊によって罪に打ち勝つことができる力が与えられます。私が今考えていることは、日本はイエス様を信じ、新しく生まれ変わり、聖霊を受けることが必要だと思います。新聞には問題ばかり書かれています。警察の不祥事や学校の先生のセクハラとか、知事が問題を起こしたりと、問題がたくさんあります。あれらを見て、警察は悪いと考えてはいけません。クリスチャンは愛して祈るべきです。何十万人の警察官の内、何人かが悪いことをしただけですべてが悪いと決めつけることはできません。
 イスラエルに行ったとき、ゴラン高原に行きました。そこには日本の自衛隊がいました。その時に、田中先生が、大声で、「自衛隊の皆様、ごくろうさまです。私たちは日本から来たクリスチャンです。祝福のために祈っていますよ。家族が守られますように祈ります。」と言いました。すると「ありがとう・・」という声が帰ってきました。そして、ホテルに帰ると、「ありがとうございました、励まされました。」という手紙が来ていました。愛が必要です。ですから、自衛官、警察官、学校の先生のためにも祈ることです。新しく生まれなければ神の国を見ることはできない、新生されなければなりません。祈らなくては新しくされることはできません。

『あなたがたは真理を知るでしょう。しかし、真理はあなたがたを自由にします。』

と書かれていますが、本当にイエス様にお会いしたら自由になります。私は十九才の時にイエス様にお会いしたことにより、聖霊様が私の中に宿られたから今日まで幸せに生活ができたと感謝しています。
 私の友人が、東京の区長を三期続けた功労で国から勲四等をもらい、三月一六日に祝賀会がありました。「もし、時間があったら来て下さい」と招待されたので出席しましたが、知らない人ばかりで心細く思いました。四百五十人程いました。私の番号は十五番でしたが、行ってみると昔の田口高校の同級生がいました。五十五年振りに会いました。懐かしくて楽しい時を持ちました。そして一部が終わり、二部は食事会でした。乾杯の時がありビールが注がれましたが、「私はビールを飲みません。ジュースをください。」と言いました。私一人だけがジュースでした。すると友だちが「酒を飲まないのか」と言いました。「私はクリスチャンですから酒もビールも飲みません。」と言うともう一人の友が「クリスチャンでもワインくらいは良いではないか。」「そういう人もいるけど私は飲まないようにしている。」と言いました。今日まで酒を飲まないことも神の力です。今日まで健康という面でも神様が罪に打ち勝つ力をくださいました。今まで、女性問題もなかったことも聖霊様の力です。クリスチャンは力を受けるべきです。力とは信仰を守り通す力です。信じたけど少したったらやめておこうではいけません。一週間に一度は礼拝において、しっかりと神様の前に出て神の御言葉を聞くことも神の力です。これはとても大切なことです。韓国は今リバイバルで、一番多い教会は七十万人のクリスチャンがいます。韓国教会のクリスチャンはしっかり祈っています。日本のクリスチャンは今五十万人と言われます。実際に礼拝を守っている人は二十五万人しかいないと言われています。韓国はある意味で先輩たちが戦っていたからです。
 私は先日、岡本先生から一冊の本をもらいました。「日韓の歴史のはざまにて−韓国元老牧師たちの証言−」という、戦争中、韓国が植民地化されているときにクリスチャンがどのように戦ったかについて書かれています。昨日、東京に行く途中、バスの中で読みました。とても感動しました。日本は申し訳ないことを韓国にし、クリスチャンを弾圧しました。その本によると、その中で朱基徹という先生が殉教しました。日本人に爪をはがされたり、天井から中吊りにされて叩かれたり、奥さんと娘も逮捕されて、彼の見える前でむち打ち、気を失った後で唐辛子の入ったお湯を鼻から入れたそうです。しかし、最後まで信仰を守ったことは神の力でした。一度釈放され、帰ったときに、彼は五つの祈りを語りました。

(本文より)
 彼が獄中にいた時に、苦しみの中で祈り続けた五つの項目の祈りであったことを語り、同時に自分の遺言になる説教であることもつけ加えた。

@死の力に勝たしめて下さい
 私は正にただ今、死に直面しています。おおよそ命のあるすべてのものが死の前に嘆き悲しみ、おおよそ息のあるすべての人間が皆、死の前で恐れおののいています。しかしこの死が怖くて義を捨て、死を免れようと信仰を捨てることのないように、主よ御手にすがらせて下さい。

A長い間の苦難に耐える力を与えて下さい。
 剣に切られ、火に焼かれる刑罰も幾度かは耐えられますが、ひと月、一年、十年続けば、弱い肉体では耐えられません。それも絶対に逃れる道のないことだったら耐えられますが、自分の意志いかんによって妥協する道がある時、どうして耐えられましょうか?いわんや私のような弱き人間が・・・・・。
 しかし、今受ける苦難は長くて七十年であり、やがて受ける栄光は復活された主と共に勝つ力を与えて下さい。

B老母と妻子を主にお委ね致します。
 私には、八十近い老いた母と、病の床にいる妻と、幼い子が四人もおります。母を養わねばならぬ子としての義務も、夫として、父としての責任も果たせないこの身が、他人の足蹴にされ、鞭打たれ傷つけられる時、母はどんなにか胸を痛めたことでしょう。また、病弱な妻は一生を私のために犠牲になっているのに、私は夫として何もしてやれなかった無能者でした。父として子どもの養育もできませんでした。獣も自分の子を本能的に愛するのに、幼い子を捨て置いて、死の道を選ばざるを得ないこの身の苦しみは言うまでもありません。
 願わくは、あわれみ深き主よ、家族に対する愛が、あなたに対する愛に勝ることのなきように弱き者を強めて下さい。殉教に臨む勇気を与えて下さい。

C義に生き、義に死ぬことができますように・・・
 国民は国に対する忠誠の義があり、妻は夫に対する貞節の義があるように、基督者は基督者としての義務があります。この身が死に果て、白骨が土に変るとも、君(王)をしのぶ、ただ一筋の心は永久に変わりません。この詩調(韓国固有の定型詩)は我が先祖の愛国心と、王に対する忠義を表した詩です。国民の国に対する義もこのようであれば、いわんや、基督者においておや。キリストの花嫁は、他の神に貞節を犯すことは決してあり得ません。幼い時から主が共にいて下さり、主のみ前に献身することができました。誰が、キリストの愛から私を切り離すことができましょうか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。主よ、どうぞあなたの義のために死ぬことができるようにして下さい。

D私の最後の祈りは、私の霊を主にお委ねいたします。
 獄中であっても、死刑場であっても、この身が召される時、主よ、私の霊を御手にお委ねいたします。十字架を両手にあなたの御前に進み出る時、私の霊をお受け下さい。御父の天つみ国は私の故郷であり、御父の宮は私の家です。汚れた地を踏んでいた私の足を洗い潔め給い、私にみ国の黄金の道を歩ませ給うて、罪に汚れたこの世から、私を全き者に変わらせ、御国の栄光のみ前に立つことのできるようにして下さい。私の霊を我が主イエス・キリストにお委ねいたします。 アーメン。
(ここまでが本文)

   殉教するときにも神の力が与えられました。この人が強かったのではありません。これは聖霊の力です。また『神は志が堅固な者を守られる』と書かれています。救われた以上、イエス様のために貞操を守る。神を愛する。イエス様に従って行きます、という志を持つことも神様の力です。ですから、力が与えられるように信仰を持ちましょう。皆さんも罪から解放される力、死から解放される力、また、悪魔に打ち勝つ力が与えられています。
 昨日は東京でPPHが行われました。浅草には浅草観音があり、そのとりなしの祈りに行きました。私と滝元典子姉と谷都姉と三人で祈りに行きました。初めてでした。私は小さな時に東京に対して初めて持った印象は、親戚のおじさんたちがこう話していたのを聞いたことによりました。「男は東京に行ったら吉原に行くべきだ」と話しているのと聞いてそう思っていました。私はそこがどのようなところか知りませんでしたが。行ったことはありません。しかしあれは遊郭の町です。だいたい偶像の側には淫乱があります。偶像礼拝は霊的姦淫です。ですから日本人が「あちらの神」「こちらの神」と言っているのは不貞操です。クリスチャンは一人の神様だけです。クリスチャンの結婚も一人の方に貞操を守ります。そして特に今度は二十三区の区別の祈り会があるので守られるように、PPHも祝福されるように祈りました。そこで日本の罪を悔い改めました。驚いたことは、拝む人が道に一杯いました。外国人の方も来ていました。そこでは線香を燃やしてその煙をもらうと御利益があると言っているのです。むなしいことです。しかし私たちは天地を造られた真の神を知っています。悪魔は恐れを与えます。イエス様は愛を与えます。悪魔は、「拝まないと罰を与える、たたりがくる」と言います。しかし、イエス様に信頼したら罰やたたりは恐ろしくありません。信仰を持ちましょう。ルカ十章に、

『確かにわたしは、あなたに蛇やサソリを踏みつけ、あらゆる敵の力に打ち勝つ力を授けた。』

と書かれています。クリスチャンは神からの力でサタンに勝つことができると聖書は教えています。ですから私たちは、悪魔に対し、死に対して勝利する力を神様が信じるだけで与えてくださるのです。病気の時に癒しを信じ信仰を持つべきです。私は聖書には、『貧しい人をとって信仰に富ませる。』と書かれていますが、医者も薬もない時にはイエス様を真剣に求めます。私の子ども達はもう大きくなりましたが、小さい頃にはとても貧乏な生活でした。私の家も、岡本さんも見城さんも貧乏でした。見城さんの家は十二人の子どもがあり、当時は何か病気があるとすぐにイエス様と祈りました。金もなかったのでイエス様に真剣に頼っていました。私たちは豊かになってもならなくても信仰を持つべきです。十二年長血を患った女性が医者に行っても直らず、イエス様が来たときに、「衣の裾にでも触ったら癒される」と信じていました。イエス様が来られたときに、イエス様の側に行って触ったら途端、イエス様の力が出て痛みがなくなったのです。「誰だ。わたしに触ったのは。」「先生皆があなたのところにこんなに押し迫っているのに、誰が触ったということはありません。皆、触っているではないですか。」「いや、わたしから力が出ていった。」すると女性がおののきながら、「イエス様私です。十二年煩っていました。せめて御衣にでも触ったら癒されると信じて触りました。」イエス様は喜ばれました。「娘よ。達者で幸せに生きていきなさい。」と言いました。これは信仰です。今日はイエス様を信じる者に触れてくださいます。愛してくださいます。力があります。解決があります。信仰を持ちましょう。そして、イエス様によって力ある歩みをしましょう。一言お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る