今週の礼拝メッセージ
2000.3.26(SUN)
あなたは量られています
新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 テモテの手紙第二 4章14節
銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。
 ハレルヤ!今日ここでお話ができますことを感謝いたします。今読んでいただきましたテモテの手紙はパウロという預言者が書きました。新約聖書はほとんどパウロが書いたと言っても過言ではありません。第二テモテの四章十四節は『銅細工人のアレキサンデルがひどく苦しめた』というように、パウロがひとりの人アレキサンデルを思い出している箇所です。パウロはその他にもあります。ローマ書十六章ではパウロが色々な人たちのことを思い出しては、「彼はこのように助けてくれた・・・」などと書いています。ローマ書十六章では人々を誉めていますが、第二テモテの十四章は違います。『得を高めなさい』と聖書には書かれていますし、『さばいてはいけません。さばかれないためです』という御言葉もあるにも関わらずなぜここではパウロはアレキサンデルについてこんなひどい事を言っているのだろうかと思いました。
 人間は面白いもので様々のことをイメージで捕らえます。ですから、誰かと会い第一印象で考え、この人はこういう人ではないかとイメージで捕らえてしまいます。また学校時代のことを思い出すとき、色々な友人と恩師を思い出します。その友人も恩師も「あの人はこういう人だ」とイメージがあって語ります。良いイメージであれば良いのですが、なんと聖書の新約聖書は約二千年程前に書かれましたので、二千年後になってもアレキサンデルという人はパウロを苦しめた人だと書かれています。人を見る目と言うか、イメージは恐ろしいものです。私たちも同じように私たちの生涯のなかで悪いイメージを与えてしまったらいけないとつくづく教えられます。実際はそんな人ではないのにも関わらず、間違って思われてしまっている時があると思います。先日私は小学生時代どんな友だち、先生がいただろうかと考えました。ふと思い出した人は小学一年生の時の担任の先生はよくタバコを吸う先生で近づくだけでもたばこ臭かった先生です。そんな先生の思い出というと、ハーモニカの練習をしているとき、うまく吹けなくて困っていたとき、わたしのハーモニカを貸してと言われて模範演奏をしてくれました。それまでは良かったのですがその後、自分で演奏しようと思ったときに臭くてたまらず、必死に洗ったイメージしか私の中にはありません。やさしくとても良い先生だったのですが、その先生と言われるとまずその事が頭に浮かびます。また中学校では生徒会長をし、素晴らしい大学に行き、今も良い仕事についている友だちがいます。その子のイメージは中学生時代恥ずかしそうに泣いているイメージです。それは一つの事件がありました。体育の授業でクロスカントリーのようなことをして山を下りているときに、肥だめに足が落ちて、からし色のような色に染まって泣いている姿があまりにもイメージが強かったです。だから、彼のイメージはあまり良くないイメージしかありません。そんな事を思い出しているとき、自分もみんなからどのように量られているのだろうか、どのようなイメージで捕らえられているのだろうか不安に思います。使徒二十四章十六節には、

『そのために私はいつも神の前にも人の前にも責められる所のない良心を保つようにと最善を尽くしています。』

という御言葉があります。人にも神にも責められない良心を持ちたいと、私が結婚する前に与えられた御言葉です。ずっと結婚前から心がけていますが、上條実というと悪いイメージに捕らえられてしまっているのではないかと反省することがあります。私は土曜日に子ども会である「ほさなクラブ」を行っていますが、昨日ほさなクラブの子ども達に私のイメージを聞いて見ました。前回も一人の子どもに「誘拐しそうなおじさん」と言われて大ショックを受けましたが、昨日は良いことも言ってくれました。「お話がわかる人」と言われ嬉しかったですが、ある子は「白ブタ」とか一人の子には「ポット」と言われました。髪の毛が出ている部分がポットのようだということでした。子どもなりに色々なことをイメージしていると思いました。ちなみに「明先生」と言うと子どもは何と言ったでしょうか。子どもに写っているのは、「白髪頭」「イエス様に忠実な人」「激しいメッセージをする人」とうっているようです。順先生はというと頭のことと、「祈りが激しい」「祈ってもらうときに頭を押さえつけられる人」「お駄賃をくれるので優しい人」と言っていました。信弘先生は「早口の人」「刺身を切る人」「子どもを怒る人、メチャ怖い人」と言っていました。ちなみに今日賛美リードをした雅也兄は「お腹が出ている人」と言っていました。子どもは色々なイメージで捕らえています。そんな事を話している私も一つの人に悪く見られたという大きなショックなことがありました。それは、ひとりの人から教会に電話がありました。自分のお母さんが時々教会に来ているのだが、問題があるので祈って欲しいと言われました。そこで私は、「祈りましょう」と言いました。すると、誰かいないかと聞かれ、「誰もいないので私で良ければ」と言うと、彼がこう言いました。「あんたは駄目だ。」「何で」と言うと「家のお母さんがあんたの姿を見てつまずいたことがあってあんたには祈ってもらいたくないと言っているんだよ。」と言われて、大変傷ついてショックでした。「何のことで」と聞くと、私はいつも礼拝の時、子ども達と座っています。子どもたちがうるさくしているので子どもに注意しますが、時々うるさくて困るときには、つついたり、ある時は叩いたりしています。二階席から子ども達が座っている座席がよく見えるので、私なりに少し気を使いながら子どもに怒っているのですが、その事でつまずいたということでした。先生という立場で子ども教育のためにやっていたにも関わらず悪く取られてしまったのです。だから私ではだめだ。他の先生に祈ってもらいたいということでした。私はショックでした。自分の中で正直言って辛いと思いました。しかし私は自分の言葉や私のとった態度でつまずかせてしまったなら申し訳なかったとな思いました。忙しくて言われた事もその人の耳にその言葉が聞こえずにそのまま立ち去ってしまったり、ふざけて言ったことがまともに取られてしまったり、軽率な態度等が相手に不快な思いを与えてしまっていたらならば、悔い改めなくてはならないと思いました。そんな中でマタイの七章一節から二節に、

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』

  と書かれていました。あなたがたが量るとおりにあなたがたも量られると書かれています。私は今日、この講壇に立つ前に、神様の前に厳粛な思いで悔い改める時を持ちました。御言葉は人を量ったら同じように量られるということです。人を悪く思ったら、同じように悪く思われるのです。あなたが働いている会社の中でもそうだと思います。ある会社の重役とか営業の方と出会った時、第一印象でその人を見ます。そしてその人が私よりもまさっていると思うと低姿勢で敬う態度をとります。しかし、自分にはあまり利益がない、関係ないと思うと、自分は見下し、適当にあしらう自分。ある時は自分が立場が上だからということで怒ってしまう。言わなくても良いことまでも言ってしまい、その人を傷つけてしまったり、見下す自分があると思います。ピリピ二章三節に、

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

と書かれています。この御言葉を読んだとき、神様の光が私の心に照らされた気がしました。自分は人を見て量ってしまい、いい加減な姿勢をとる。見下すと言うことがどんなに聖書的ではないと言うこと、罪だと言うことがわかり、心から悔い改めるようにと語って下さいました。聖書の中に立派な服装をして会堂に入ってきた人は前の良い席に案内し、汚い格好の人が来たときは通路に座りなさいと言うような御言葉があります。主は私に、全ての人を自分よりもすぐれた者と思いなさいと語って下さいました。二十日の月曜日に行われた東京総決起大会の時のことですが、六百名が集まりとても祝福された集会を持つことができました。ここからも多くの方が参加してして下さったことを感謝しました。六百人ほど集まった中のひとりで、東京のPPHなど色々な集会に顔を出される方がいます。その方は浮浪者で、その方が来られるとものすごい体臭がします。だから受付にその人がいて、後から来られる人が「何かくさい」と言われたりして、自分の中でその方を見る度にいらだっていました。「早くどこかに行けば良いのに・・・」と私の中で、彼をさばき、追い出したい。いなくなれば良いと考えていました。ひとりの魂が天国に行くか地獄に行くか、主の愛の中でその人を見る事ができませんでした。主はそんなことを思い出させ、悔い改めるように教えられ、悔い改めの時を持ちました。この御言葉を私に神様が与えて下さいました。私は足りない者です。高ぶった者です。すぐさばいてしまう者です。私に語って下さったみことばですが、あなたはどうでしょうか?あの人に傷つけられた、あの人に、あの人に・・・と人の事は気づきますが、自分のことは見えていないのです。『互いに自分よりもすぐれた者と思いなさい。』どんな人でも、自分よりすぐれた者と思いなさいと言うのです。すべての人です。今日ある人に対して偏見を持っていたり、悪く思っていたら、悔い改め、その人の祝福を祈りましょう。その人を愛しましょう。そしてその人が自分の一番大切な人と考えてましょう。聖書ははっきりと『互いに人を自分よりもすぐれた人と思いなさい。』と書かれています。もしここに天皇陛下が突然入ってきたら私たちはどうするでしょう。うやうやしく出迎え、最大限の気の配り用と、接待をすると思います。しかし自分が嫌いな人、見下した人には、関心がないと言うよりも、意地悪くするのです。主の前にへりくだりましょう。今日あなたの心の中で、もしそのような人がいたならば、神の前にへりくだり、悔い改めましょう。
 また自分対人ということで考えてきましたが、もう一つ覚えたいことは、神様も私たちを量られているということです。聖書の中には色々な人物が出てきます。特別今日注目したいのは、ダニエル書五章にひとりの王様です。ベルシャツァル王です。その王様は宴会をしていたときに突然壁に指が出て、神様が文字を書いたというのです。後五章全部を読んでいただきたいと思いますが、その壁には「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」と、壁に書かれました。その時王は驚いて宴会をストップし、この文字が読める人を呼んで来いと命じました。そして占い師、呪術者が呼ばれ、懸命に解読しようしますが全くわかりませんでした。その後ダニエルが召し出されました。彼はベルシャツァル王の前に引き出され、壁に書かれた文字を判読しました。それが「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」という言葉です。「メネ」という言葉は、ダニエル書五章二十六節に、

『「メネ」とは、神があなたの治世を数えて終わらせたということです。「テケル」とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。「パルシン」とは、あなたの国が分割され、メディアとペルシヤとに与えられるということです。』

と書かれています。神様がベルシャツァル王を量りました。そしてもうこの人は駄目だと見切りをつけて、王から引きずりおろし、メディアとペルシアに分かれさせてしまうというのです。ダニエルが「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」と壁に書かれた御言葉を読んだその夜、このベルシャツァルは殺されたと書かれています。神様が「お前を量った」と言いました。ベルシャツァルは殺されています。この王様の聖書では父上と書かれていますが、注解書を見るとおじいさんにあたると書かれているネブカデネザルという王様がいました。彼は富を持ち、主に祝福された人でした。素晴らしい王様でしたがあるとき夢を見てました。大きな木があり、その下には色々な動物も憩って素晴らしい状況がありました。しかし天から声が聞こえました。「この木を切り倒せ。」と声を聞きました。この事はダニエル書四章に書いてあります。その時もダニエルが解きあかしを行いました。そして彼は七年間野の獣と同じようにネブカデネザルは突然理性を忘れて、今まで君臨していた王の姿を忘れ、地をはみ、草を食べ、全く野の獣と同じ生活をしました。爪も鷹のように伸び、髪の毛もぼさぼさになり七年間が過ぎました。七年が過ぎたとき神は彼を我に返しました。その時王はもう一度神様に立ち返ったことが書かれています。それをベルシャツァル王はお母さんから聞かされていたはずです。知っていたはずです。神に従わないこと恐ろし事だと知っていました。権威ある神様がわかっていました。わかっていたにも関わらず、知らず知らずのうちにやりたい放題やり始め、エルサレムの宮から盗んできた金の器などで酒を盛って、飲み交わし、どんちゃん騒ぎをしました。そんな時にベルシャツァルの目の前に神の指が現れ、「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」と書かれてしまったのです。今日あなたの心の中の壁に、「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」と書かれてしまったら恐ろしいことです。あなたは神様の祝福を頂きました。それはイエス・キリストがあなたのために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さいました。ただ私たちは御言葉を信じて、私のために十字架にかかって下さったことを信じたときに私たちは赦されたのです。これは、ただ恵みです。血潮によって全ての罪は赦されたとあります。永遠の国・天国に入ることができるのです。こんなに素晴らしい恵みを頂いたのです。私は天国に行ける、感謝だと思いましたが、その祝福が続いていく中でその恵みが感謝できなくなってしまいます。知らず知らずのうちに恵みではなくなります。礼拝が面倒くさくなります。貴重な時間でこんな礼拝をしなくても何も変わらない。仕事をした方が良いと思うようになります。毎日の生活の中で神様の恵みだから、感謝の祈りをささげなくてはいけないとわかっていながらも、日々の生活に追われ、祈れなくなってしまいます。神第一とわかっていながらも第一にできなくなるのです。村の付き合いや、会社の問題等、様々な問題、特に人間関係の中でつらいことがあるとすぐに神様のせいにしてしまいます。自分は愛されているとわかっていながら、なぜこんな問題があるのだろうか、もう自分は信仰をやめたいと思い、離れていく人もいるかも知れません。今日覚えていただきたいことはあなたの今の神様に対する姿勢が神様に喜ばれているかどうかです。皆さんの心の中に量りがあると考えて下さい。もしかして心の壁に指が出始めて「メネ」の「メ」の字が書かれ始めているかも知れません。いや、ある意味で『メネ、メネ、テケル、ウ、バスシン』とはっきり書かれてしまい『あなたの治世は終わった』とベルシャツァルが言われたように、あなたにも語っているかも知れません。第二テモテ四章十四節に、

『銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。』

と書かれていますが、主はあなたを見て量っておられます。そして「そのしわざに応じて主が彼に報いられます」と言っています。あなたが主に喜ばれる生活をしたならば、そのしわざに応じて報いられます。しかし罪を犯し続けるときさばかれます。今日あなたにみことばによって光を与えて下さっていると思います。今日は十字架の血潮を仰ぎましょう。あなたのためにイエス様が十字架にかかって下さいました。あなたが天国に入れるのはただ十字架しかありません。自分でいくら努力して良いことをしても天国に入ることはできません。あなたを天国に入れるのはイエス様の十字架です。神から離れていた人、今日神の前にひざまずいて悔い改めましょう。いつ神様が来られるかわかりません。今日はまだ忍耐をもって私を愛し、みことばを下さっています。悔い改めましょう。私も先週一週間総決起大会の時に人を裁いてしまったなど多くの罪が示され、自分は神の前に、また皆さんの前に立てないと思いました。「神様赦して下さい。何を語れば良いかわかりません。」と神の前に降参したときに、「お前が教えられたことを語りなさい」と語られ、今日語らせていただきました。私は神様に赦されて信じてここに立っています。そしてこれから神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つようにと最善を尽くそうと願っています。これが今日あなたの御言葉となりますように。そして今日新城教会への御言葉になりますように。祈っていきたいと思います。私たちは「赦しました」と口先では簡単に言いますが、心の中にまだ赦せない心があったらもう一度神の前に徹底的に悔い改めましょう。教会の中でも今まで分裂があり、傷ついたこともありました。それも悔い改めたいと思います。傷ついたと言うことは、私たちも同じ事をしてしまっているのです。私たちの生活の中で神の前に悔い改めなくてはならないところがあったら、へりくだってイエス様の流して下さった十字架の血潮を仰いで今日は祈りましょう。幸い今日は聖餐式があります。その聖餐をいただくとき「自分を吟味して・・。」と書かれています。だから自分自身を吟味して悔い改めましょう。神の前に出ましょう。「あなたが告白したならば、その罪は赦して下さる」と第一ヨハネに書かれています。私たちが益々きよめられ、益々へりくだっていくときに神様が力を与えて下さると信じます。霊的戦いというときにきよさがなくては戦うことができません。また祝福を頂くためには私たちがきよさを頂いてへりくだっていかなくては祝福を頂くことはできません。今日、大きな祈りの課題、癒しや問題解決等祈りの課題があるならば自分を吟味しましょう。自分を点検し、神の前に出ていきたいと思います。お祈りします。

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