今週の礼拝メッセージ
2000.4.2(SUN)
あなたに働くキリストの力
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 コロサイ人への手紙 2章12節〜15節

 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。


 ハレルヤ!今日は久しぶりに新城教会で奉仕できることを感謝します。いつも皆さんのお祈りに支えられていることを感謝します。今日から新しい年度になり、教会のプログラムも少し変わりました。今日から大人の「サンデースクール」が持たれ、いくつかのクラスに分かれて、既に多くの方が学ばれ始めました。ぜひ、聖書を深く学び、神のみこころをつかんで下さい。
 今朝、私はギリシア語のクラスに出ました。クラスに出た方は今日の礼拝のメッセージの箇所をギリシア語で読んでいます。
 また、今週は、「リバイバル聖書神学校」が新しい年度として始まります。今年の新入学生として、全国から教室制が20名、通信制が9名、合計29名が与えられました。昨年度の卒業生は29名で、今年はどれくらい入って来られるだろうかと心配していました。一昨年は東京ミッションがあり、献身者もたくさん与えられましたが、今年はどうだろうかと心配していました。しかし、感謝な事に、結果的に教室制が昨年よりも増えています。明日は入学試験と面接、入学聖会があります。この教会が会場になりますので、ぜひご参加下さい。
 今日は先ほどお読みしたコロサイ人への手紙から学びます。聖書の御言葉は、その意味をしっかりととらえることが大切です。信仰生活において、「知る」ということはとても大きなことです。例えば、救いについてもイエス様が二千年前に完成されましたが、それを知らないがゆえに暗闇の中にいました。しかし、救いについて知った時に、救いが現実として自分のところに来ました。ということは、御言葉を知り、意味を理解することが重要です。さてコロサイ2章12節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と書かれています。コロサイ人への手紙は、パウロが書いた手紙です。彼は生涯、内側に力強く働く神の力によって信仰を全うしました。コロサイ1章29節に、

『このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。』

と語っています。「知る」という領域と共に、「体験する」ことも大切です。皆さんの人生の中にイエス様の力が力強く働いていますか。今日皆さんが、「イエス様の力が力強く働いている」と言うことができたら、どんなに幸せでしょうか。今日はそのために御言葉を学びたいと思います。
 2章12節の中に、『よみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』と書かれています。イエス様は十字架で死なれました。しかし、死んだだけではなく三日目によみがえられました。私たちは常に、イエス様の生涯に目を留めるべきですが、特に、よみがえりのイエス様に目を留めるべきです。カトリック教会の十字架にはイエス様がついていますが、プロテスタント教会の十字架にはイエス様はついていません。なぜ、イエス様が十字架についていないのでしょうか。それは、イエス様のよみがえりを象徴しているからです。私たちが日曜日の朝、礼拝する意味もイエス様がよみがえられたのが週の始めの日、日曜の朝だったからです。日曜日の朝に礼拝があることは、よみがえりのイエス様に出会う、という意味があります。今日、よみがえりのイエス様と出会うことが大切です。よみがえりのイエス様は、3年半の公生涯のイエス様とは違いました。そして、この御言葉では、私たちがよみがえりのイエス様と同じポジションにつくことができると教えています。死からよみがえられたイエス様と同じようになることができるのです。イエス様と同じライフスタイル、いやそれ以上に、イエス様と同じポジションに立つことができるのです。私たちは御言葉を信じる者ですが、どのようにしたらよみがえりのイエス様と同じようになることができるのでしょうか。コロサイ2章12節に、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

と書かれています。何と、そのきっかけとなるのが「バプテスマ」です。バプテスマはただの儀式ではありません。バプテスマは水に入って出ることですが、これはイエス様とともに葬られて、よみがえりを体験することです。しかし、そのことには信仰が伴わなければなりません。御言葉を信じてバプテスマを受けることが大切です。バプテスマも信仰がなくては、お風呂に入るのと同じです。しかし、神の力を信じ、信仰を持って受けるとよみがえりのイエス様と同じようにされるというのです。今日まだバプテスマを受けておられない方は、決断し受けられることをお勧めします。人生の中に新しいことが起こってきます。また、既にバプテスマを受けていても、ただ教会員になったということに止まっていたり、キリスト教についてあるところまで知っている、ということに止まっていても仕方がありません。バプテスマの意味は、「キリストとともに葬られ、よみがえった」ということです。先日もバプテスマがありましたが、古い人が死にイエス様のよみがえりの姿と同じようになったということです。

 よみがえりのイエス様の力は、イエス様の公生涯の力とは違いました。福音書の終わりの部分をよく読むと、それがよくわかります。よみがえられたイエス様は、ただ者ではありませんでした。
 十字架の死の後、弟子たちは色々なうわさを聞きました。それは、イエス様がよみがえられたということでした。しかし、彼らは信じることができませんでした。彼らは目の前でイエス様が死んだのを見て、今度は自分の番かも知れないと、部屋の中に閉じこもって恐れていました。すると、鍵がかかっているのにも関わらず、死んだはずのイエス様が、「平安があるように」と言って入ってこられました。彼らはとても驚きました。鍵を閉めていた部屋に人が入ってきたら、それも、先日死んだ人が入ってきたらなお、驚きます。イエス様は、「わたしは幽霊ではありません。肉体を持っています。生きています。食べるものがありますか。」と言われ、食べることもされました。また、トマスはよみがえりのイエス様のうわさを聞くと、「そんなことは絶対に信じることはできない。イエス様の手のひらには、釘を打たれた跡が手にあるはずだ。その穴に指を入れて、脇腹にも腕を入れてみなくては信じることはできない。」と言いました。しばらくすると、イエス様が現れ、「わたしの釘の跡に指を入れてご覧。また、脇腹に腕を入れてご覧。」と言われました。イエス様はトマスのつぶやきを聞いておられました。自然界の法則を全く越えてしまう姿でイエス様はよみがえられました。私たちもこんなイエス様と同じように、ともによみがえったのです。しかし、それを、私たちがイエス様のような超能力を持ったと勘違いしないで下さい。それは、イエス様とポジションが同じという意味です。このことを表しているのがマタイ28章18節からです。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 ここによみがえりの力について書かれています。イエス様の生涯には、始めから権威がありました。その事についてはイエス様ご自身も3年半の生涯の中で、多く言及しています。しかし、イエス様がよみがえる前の権威は、よみがえりの時の権威とは違いました。そこには多少の制限がありました。イエス様が伝道を始められる前に、悪魔が来てイエス様を誘惑しました。また、宣教を妨害しました。これはある意味で、イエス様の公生涯中の権威に制限があったことを表しています。しかし、イエス様はよみがえられた時、「わたしには、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と語られました。「いっさい」という言葉は、「すべて」、「あらゆる」、「あらゆる種類の」、「あらん限りの」とも訳すことができます。これを語られたのは、イエス様がよみがえられてからです。私たちはイエス様のどの部分に照準に合わせれば良いのでしょうか。それは、「よみがえりのイエス様」に目を向けるべきです。いっさいの権威が与えられているイエス様に目を向けるべきです。
 今月の終わりにはイースターがあります。いつもブランチ礼拝が行われますが、イースターはイエス様のよみがえりを祝うときです。イエス様は死からよみがえられ、いっさいの権威が与えられました。「あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と語られています。バプテスマを受けることによってコロサイ2章12節にあるように「キリストとともによみがえられた」というよみがえりの権威に預かることができるのです。「父、子、聖霊の御名」の「御名」という言葉は、「単数」で記されています。それは、「三位一体」を表しています。その神様の御名によって私たちは、バプテスマを受けます。その時に、イエス様と共によみがりの力を受けることができます。既にバプテスマを受けられた方は、このことを感謝して下さい。また受けられていない方は、バプテスマを受けられることをもう一度お勧めします。
 もちろん、バプテスマを受ける前にも、神様は触れてくださり、祝福を与えて下さいますが、ある意味でそこには多少の制限があります。しかし、バプテスマを受けたら、制限無く、「すべて」の支配、権威を持っておられるイエス様の力が、あなたの上に臨むということです。
 しかし、これからの時代は、バプテスマを受けていなくても、イエス様の権威を知ることが必要です。そうすれば、もう一歩進んでバプテスマと受けることができます。
 先日、ある方が水曜礼拝に来られました。初めて来られた方でしたが、御名によって手を置いて祈りました。その時に聖霊様が触れられました。その方は腰が悪かったのですが、祈ったときに激しく触れられ、倒れてしまい腰のコルセットがはずれてしまいました。帰ってから、「私は今日、神様に出合った。」と言っていたそうです。それは神様の力を体験したからです。しかし、そこで止まっていてはいけません。続いて、バプテスマを受けるとイエス様が持っておられる、「すべての資産」を受けることができます。権威を受けることができます。その中身は、2章13節から書かれています。

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 私たちがイエス様を信じ、バプテスマを受けたときに現される事、それは、十字架と復活の勝利の中に現されることは、まず第一に、「すべての罪を赦してくださる」ということです。「すべて」ということは、「あらゆる、あらゆる種類、あらん限りの罪」を赦して下さるということです。この地上においては罪の償いはできますが、罪の赦しは経験できません。犯罪を犯して刑務所に行っても、「赦し」は受けることができません。それは償いの場所であり、出てきてからもずっと良心が責められます。しかし、イエス様を信じたら、すべての罪を赦されることができます。全員の方がイエス様によって赦されます。バプテスマを受けることによって、「すべて」という確信が深まります。
 また第二に、

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 今まで教会で、十字架の勝利の恵みとして語られていたことの中心は、「罪の赦し」についてでした。これは神との和解が成立することであり、とても大切なことです。イエス様を信じてバプテスマを受けるならば、罪人としては扱われず、ご自分の子として扱ってくださるのです。
 しかし、もう一つ忘れてはならない側面があります。それが、「私たちを責めたてている債務証書を無効にする」ということです。このことは、今まで日本のキリスト教界がはっきりと気が付かなかった点であると思います。最近、サラ金地獄に陥る方が多くいます。そのほとんどが多重債務です。一軒のサラ金業者からお金を借りて、忠実に返していれば良いのですが、金銭問題が生じると色々なところで借金をします。そして、借金が重なり、一つの所に返しても次の所から請求が来ます。だから、いくら返しても追いつかないのです。サラ金業者からの請求は、金を借りたという事が問題ではなく、「契約した」ということが問題なのです。家を建てるときに契約書にサインしますが、何でも、契約書にサインする時はとても緊張します。今の時代は契約書だらけです。最近はクレジットカードがあり、カードで簡単に決済ができます。食事をしても現金ではなく、カード一枚で事が済みます。近頃はコンビニエンス・ストアーでもカードが使えます。コンビニに行くと、財布に小銭がたまるのでカードを使うと便利です。しかし、これも契約行為です。クレジットカードを使うと明細書にサインをしなければなりません。その時に、しっかりと金額を確認してサインしなければいけません。ありがちな話ですが、海外では手書きの明細が多くあり、よく見ないとゼロが一つ多くて、日本に帰ってから請求されて驚くことがあるようです。しかし、契約書にサインがしてあるので、いくら間違った金額であっても変更はできません。私たちの人生の中で、一番問題となるのは罪の赦しと同時に、人生を妨害する力があることで、その力が「契約書」にあります。しかし、イエス様の十字架は、その契約書を無効にするものです。
 聖書は「契約」を重要視します。聖書は旧約聖書と新約聖書があります。旧約とは古い契約、新約は新しい契約です。そこには神様と私たちの間の契約があります。それは対等の立場のものではなく、支配者が、しもべと結ぶ契約です。それが聖書の契約の世界です。そこには当事者があり、約束があり、罰則があります。神様と私たちには、契約を守る上での条件があります。これを守りなさい。そうしたら、この約束を与えます。しかし、それが守れなかったら、「罰則」という側面もあります。旧約聖書の十戒は、神と人との契約でした。守ることができなければ、罰を受けなくてはならないのです。しかし、イエス様の十字架は、まず、そのような律法の束縛の契約から解放しました。責め立てる律法の側面からの解放です。
 同時に、この契約の当事者が、神様ではなく悪魔と結ぶ契約もあります。それが「偶像礼拝」です。それは、悪魔とだけでなく、神と人間との間にもたらされる契約でもあります。なぜなら、その裏付けとして御言葉があるからです。偶像礼拝は、ただ神様に対する反逆だけではなく、悪魔に対する契約をも結ぶことになります。サラ金地獄と同じように、霊的な世界で契約が交わされるのです。
 新年になると多くの人が初詣に行きますが、これは悪魔との年間メンテナンス契約のようなものです。その結果、悪魔は悪魔のやり方で私たちに関わってきます。そうしてみると、宮参りは、「一生涯この子を渡しますのでこの子をお願いします」という契約ですし、「雛祭り」も女性に対する契約です。その結果、女性であるがゆえに、悪魔が関わってきます。七五三、成人式、結婚式・・・などすべてのところで、日本においては、悪魔との契約が交わされます。それが私たちを責め立てます。私たちに敵意を持って責め立てるもの、それが悪魔との契約だとコロサイ人への手紙二章では教えています。
 人生において不幸な方が多いです。私は奉仕する中で、色々な方に会いますが、なぜここまで不幸になるのだろうかと不思議に思うことが多くあります。先週、九州で三日間霊的戦いセミナーをしました。皆さんの祈りによって支えられ、とても恵まれた集会でした。二日目は朝十時半から集会が始まり、終わったのが夜十一時でした。過去、悪霊に結ばれた契約書が無効にされるように祈り始めると、皆が悪霊から解放され始めました。偶像礼拝は人を不幸にします。その時、私は、偶像礼拝とともに家庭にある問題を書いてください、お願いしました。すると、一人の女性が「これが私の母方の家系です」とリストを持って来られました。十人くらい親族の名が書かれていて、その全てがガン患者でした。それも皆違う部分のガンでした。そして、「私も、今ガンです。」と言われました。
 その一週間前に、兵庫県で奉仕した時も一人の方のために祈りました。「私がこれから神様のために仕えることができるように祈って下さい。」と言われました。しかし、私は何かその方に問題があるような気がしたので、聞きました。「あなたの家に何か問題がありますか。」と聞くと、「息子が最近、白血病で亡くなりました。」と言われるのです。そこで、「あなたの家系の中に息子さんと同じような病気の方がいましたか。」と聞くと、「私の母方は、父も母もガンで亡くなりました。そして今、私もガンです。」と言われました。そのような家系には、だいたい、悪魔との強い契約があります。私はその方のために真剣に祈りました。「今までこの人を苦しめていた悪霊よ。捕虜となって姿を現せ。」と祈りました。その時、その背後の悪霊どもがあばかれ、聖霊により解放が起こりました。
 もう一人の方は、「私は再婚ですが初婚の時に一人の子どもが生まれ、再婚した時にもう一人の子どもが生まれました。しかし、二人とも同じ、筋ジストロフィーという病気で若くして亡くなりました。」と言われました。そこにも、偶像礼拝の強い契約がありました。人生を責め立てる、不利な契約書があるのです。あの家系は問題が起こっても仕方がないと言ってあきらめてはいけません。よみがえりのイエス様の力は、「すべての不利な契約書」を「無効」にしてくださるのです。さらに、無効にするだけではなく、十五節に、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

と書かれています。
 戦争が終わったとき、降参した相手国の軍隊に対して武装解除が行われます。武装解除とは、武器を取り上げることです。武器が取り上げられたら兵士達は働けません。私たちの人生に武器を持って攻めてくるのは悪魔と、その一味悪霊たちです。イエス様のよみがえりの力は、私たちと悪魔の間にある契約を無効にするばかりか、彼らが持っている私たちを攻める武器を取り上げ、武装解除して下さいます。今まで、あなたを攻めていた武器が全部取り上げるのです。そして、悪魔と悪霊は捕虜として、戦利品として、凱旋の行列に加えられるというのです。
 ナポレオンが各地に遠征して帰ってきた時には、戦いの勝利のしるしに捕虜を連れてきました。そして、国民への見せものとしました。同様に、私たちを責め立てていた悪魔と悪霊の武装解除がなされるばかりでなく、主の勝利の凱旋の行列に加えられるのです。これはまさに、完璧な勝利です。
 すべての罪を赦し、不利な契約書を無効にし、悪魔の武装を解除し、捕虜として引き出されるという、いっさいの権威がよみがえりのイエス様によって与えられており、それを受け取ることができるのです。こんなにも素晴らしい祝福が、イエス様のよみがえりによってもたらされているのです。主を信じる恵みを、クリスチャンであることを心から感謝します。主をほめたたえます。
 最後に今日は、武装が解除された捕虜を連れてきました。さて、みなさまの中で花粉症の方がたくさんおられると思います。この病が武装解除され癒されて、奴隷となったら素晴らしい事です。今日は近頃、花粉症が癒された方から証を聞きたいと思います。それは日吉伸也兄です。彼は、彼の統計によると、2分間に10回ティッシュを使っていたそうです。

<日吉伸也兄の証>
 「3月の12日の礼拝の時に祈っていただきました。その時以来、花粉症が直りました。鼻をかまなくなりました。毎日多いときには2分間に10回、部屋中がティッシュの山になるほどに鼻をかんでいました。頭がいつもボーっとしていました。そして、あきらめかけていましたが、イエス様が癒して下さいました。
<ここまでが証>

 私はその日、気がつくと彼のために、「花粉症の背後に働いている悪霊を打ち砕く」と祈っていました。祈りながらそんなことがあるのかな、と思いましたが、考えてみると、杉や檜は偶像に関係しており、ささげられている事が多いです。神社に行くと、杉は拝まれており、また、社は総檜作りであったりします。彼に起こったことは、同様に起こると信じてください。今日は武装が解除されますように。武装が解除されるだけではなく、癒され、彼らが捕虜となりますよう祈ります。

バックナンバー
戻る
戻る