今週の礼拝メッセージ
2000.4.16(SUN)
天の御国
新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 マタイの福音書13章47節〜51節

 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。


 ハレルヤ!今日は皆さんの前に立つことができます事を感謝します。先週は、東京の町田市の町田聖書教会という教会でスーパーミッションの決起大会を午後4時から6時まで持ちました。東京近辺では夕方、人が集まることが難しいのですが、感謝なことに60名程が集まり、主を賛美し、祈る時を持つことができました。お祈り心から感謝いたします。またその後、牧師先生が二階でお休み下さいと言われ、お茶を頂いていた時会堂からゴスペルクワイヤーの練習をする声が聞こえました。帰る際会堂をのぞくと、今日この教会でゴスペルクワイヤーの指導をして下さっている粟野さんが指導されていました。活発な教会であり、大変恵まれた教会で御奉仕ができましたことを心から感謝いたします。
 ではマタイの福音書13章の御言葉から今日は「天の御国」というタイトルで聖書を学びます。来週はイースターです。この教会では特別なプログラムを持ちますので時間等をお間違えないようお集まり下さい。また、伝道礼拝となっていますのでお友達をお誘い下さい。ご存じのようにイースターはイエス・キリストがよみがえられた喜びの日です。この特別なよみがえりの日であるイースターということは、今週は受難週という事です。イエス様が甦られる一週間前の日曜日はイエス様がエルサレムに入場されています。人々は「ホサナ。ホサナ。」としゅろの葉を手に持ってエルサレムに入場してきたイエス・キリストを迎えました。私は今日賛美しながら考えました。この時イスラエルの民はイエス・キリストが王様となるためにエルサレムに入城したと思い、自分の上着を道に敷き、大喜びで「ホサナ。ホサナ。」とイエス様の入場を歓迎しました。イエス様を王として迎えています。大喜びしながら迎え、賛美しています。でも今日の賛美の姿勢はどうだったでしょうか。真の王となられたイエス様がここにいらっしゃいます。そのイエスを心から歓迎する思いで賛美していただろうかと考えました。また月曜日には宮きよめがされました。火曜日には宮での数々の教えをされました。水曜日はイスカリオテのユダの裏切り、木曜日は最後の晩餐とゲッセマネの園での祈り、そして金曜日はご存じのようにイエス様が十字架にかかられました。そして日曜日の朝、よみがえって下さったというのです。ですから次週聖日イースターを迎える私たちは、今週イエス・キリストの十字架を覚え、イエス様の愛に感謝していく一週間としていきたいと思います。私は今日の礼拝のメッセージを語るにあたり祈りました。その中でイエス様の十字架の恵み、愛、犠牲、苦しみがあったかと考えながら聖書を読み、祈っている中で多くの恵みをいただきました。今日のタイトルを「天の御国」とさせて頂きましたが、イエス・キリストの十字架の目的は、全ての人が天の御国に行くことです。あなたは天の御国に入ることができますか。ある方は自信を持って「はい」と言われるかも知れません。しかしある方は「わからない」と迷う人もいると思います。私たちは心の底から「ハレルヤ。感謝します。」と喜び、確信を持って天の御国に入ることができる器になるべきだと思います。聖書の中に「天の御国」ということばがたくさん書かれています。今お読みした箇所では、地引き網で魚を取り良いものと悪いものに分けられること、天の御国とは良い者は天国に行く事ができるが、悪い者は地獄に行くという事をたとえで教えています。その前の45節にも「さて、天の御国は・・・」、44節でも「天の御国は・・」と書かれています。マタイによる福音書では「天の御国」についてよく教えています。新改訳聖書の中において「天の御国」ということが33回出てきます。それも全て新約聖書に書かれています。旧約聖書には一度も書かれていません。第二テモテの4章18節に「天の御国」と書かれていますが、それ以外の32回はすべてマタイの福音書に書かれています。マタイによる福音書は、特別私たちに天の御国はこういうものだということを教えています。ヘブル人への手紙9章27節に、

『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、』

と書かれています。また、マタイ25章46節に、

『こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」』

と書かれています。誰もがこの地上に生を受けたら、必ず死ななくてはなりません。新聞によると4月2日の午前1時頃と言われていますが、その前の日まで忙しく連立与党の為に働いていた小渕総理が脳梗塞で倒れました。権威と地位ある人であったにも関わらず、4月2日の午前1時頃に倒れて病院に運ばれました。一国の総理であり、注目の的となっていた方が、脳梗塞で倒れて昏睡状態になってしまいました。今まだ二週間ですが現在はどのようなっているでしょうか。総理も森氏に替わり、一夜にして一変してしまいました。ずっと昏睡状態です。明日は本当に分かりません。過去の人になっています。私たちも神様から恵みを頂き、素晴らしい喜びが溢れる生活をしています。しかし私たちもいつかは同じように死を迎えなくてはなりません。いつどうなるかわからないのが私たち人間です。小渕さんが倒れたときにある人が「政治の世界は一寸先は闇だ。」と言われていましたが、私たちだれもが毎日は一寸先は闇なのです。先週も岡本姉が交通事故に遭われて今入院されています。先週の礼拝はここで守っていました。しかしその時点では考えることすら出来ませんでした。しかしその後交通事故に遭い、軽傷ですが新城市民病院に入院されています。私たちは考えもしなかった事ですが、人はいつどんなことがあるかわからない状況です。しかし人は「まだ若いから大丈夫」とか、「今健康だから」などそのようなことを考えたくないため、備えていないのが現状です。私は大丈夫と思っていても、必ず死がやってきます。そしてどちらかに分けられます。ですから今日は「天の御国」にあなたが入る事ができるように信仰を確立していきたいと思います。私たちの新城教会でも多くの信仰の先輩方が天の御国に帰って行きました。私は冠婚葬祭の担当もさせていただいているため、多くの方の最期に対面させていただきました。また葬式のお手伝いもさせていただきました。葬式の準備などをしている時、いつも悲しみの中にその方が天の御国に行く事ができ、私たちも再度会うことができるという喜びがあります。これは感謝なことです。しかし、今は葬式の手伝いをしている私にも、何時かは私の葬式を誰かの手でおこなってもらうときが来ます。そんなことを考えると、今生きていること、そして自分が一生懸命生きていること何時か終わりが来る。また一生懸命金儲けをして金が貯まっても、死を迎えたら全部がストップしてしまう。生きていく中で何が一番大切なのだろうかとよく自分も考えさせられます。その時いつも「神の国とその義をまず第一にしなさい。」という御言葉が響いてきます。私はイエス様によって救われている。しかしイエス様を第一にしているだろうか。イエス様が第一ではなく、第二、第三になっていないのだろうか?自分の生活だけに追われているのではないかと考えるときがあります。来週はイースターであり、今週は受難週ですが、イエス・キリストが私のために、十字架にかかってくだり、そしてわたしの変わりにイエス・キリストは死んで下さった。何の罪も行わなかったイエス様が神の位を捨て、この地上に来られただけではなく、私たちのために地獄に行って滅びを受けて下さり、三日目によみがえって下さいました。この十字架をもう一度私たちはしっかりと覚えて心から感謝したいと思います。
 あなたはこの十字架をどれだけ感謝しているのでしょうか。私たちはどこから救われましたか。それはさばきの場所である地獄からです。先ほど読んだみことばによると、地引き網を投げ、獲れた魚の中で、良いものは良い器に、また悪いものは悪い器に選り分けられると教えています。私たちは良いものとして分けていただきたいと救い主イエス・キリストを信じました。天の御国に行けるのはイエス・キリストしかないということが、わかってこのイエス様を信じました。そして信じた当初は喜びがあり、天の御国に行けるという確信がありました。しかし知らず知らずのうちに、毎日の生活のこと、自分のことだけに目を向けてしまい、神様が見えなくなってしまっています。今日もう一度思い出して下さい。あなたはどこから救われたか。「地獄の苦しみ・さばき」から救われました。地獄に行かなくても良くなったのです。聖書は地獄について教えています。マタイ25章41節に、

『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』

と書かれています。本来はサタンのその使いである悪魔のために地獄を用意しました。しかし、マタイ13章41節には、

『人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』

と書かれています。また、13章49節には、

『この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、』

地獄はキリストを拒んだ者、罪を行った者が選り分けられて入ると書いてあります。そして、マタイ13章50節には、

『火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』

と書かれています。地獄では火が燃えています。そして、マルコ8章49節では、

『そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。』

地獄は苦しみの場所です。この世の中にある苦しみには例えることのできない永遠の苦しみを私たちが味わうのです。そしてその地獄からは逃れることはできず、永遠にさばかれるのです。しかし今日イエス・キリストがあなたのために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さったことを信じたなら、私たちは天の御国に入る事ができます。あなたはイエス様を信じ、信仰を持っていますか?そしてあなたはどこに土台を置いているでしょうか?イエス・キリストを信じているといいながら、永遠を見ずに目の先の事ばかり考え、神様に頼ることも、求めることも自分の生活だけに土台を置いていないでしょうか?祈ることは自分が祝福されるようにと言うことだけ、困ったときの神頼みという言葉がありますが、苦しいことがある時だけ祈る。日々の生活が幸せになればそれで良しと言う信仰ではないでしょうか?しかし、今日覚えてください。イエス様があなたのためにわざわざ天の位からこの地上に来て下さり、あなたのために、滅びの場所である地獄へ行って下さり、三日目によみがえって下さった意味は、あなたが「天の御国」に行くことです。地上でも幸せを与えて下さいますが、永遠をどちらかに行く。その永遠を天の御国で過ごしてほしいと、愛と犠牲を持って十字架にかかって下さったのです。イエス・キリストのその愛を覚えていただきたいです。天の御国をあなたに与えたい。どうしても天の御国に入って欲しいからこそ、イエス・キリストは自分の命をあなたのためにささげたのです。何の罪もないイエス・キリストが、十字架にかかり、滅んで三日目によみがえって下さった。この世界最大の犠牲を払ってくれたのは、あなたのためです。だから、永遠なる神様にしっかりと土台を置いて、いつも永遠を何処で過ごすのかを考えながら毎日の生活をしていくべきです。私たちはこの世の中のことしか考えていません。だから新しい学校に入り就職して、自己紹介の時に大胆にクリスチャンだと告白できません。また地域の組みつき合いを考えると、やはり神社などの戦いがあります。神社費の問題、祭礼の問題など地域の問題があります。そんな中で、クリスチャンとして立っているけれど偶像のことを拒否ばかりしていると、何と思われるのだろうか。疎外されてしまわないだろうか。そんなに偶像の戦い、霊的な戦いの中で私たちが堅く立ったら近所つきあいがうまくいかないのではと思ってしまいます。そして私たちは妥協してしまいます。また罪についてもこれくらい良いではないか。だれでもやっているではないか。そして罪に対して妥協的になります。友だちが離れて行って欲しくない。周りがうまくいけば良いからということだけを見て、永遠から目を背けてしまっています。家族が信じることを反対したから、付き合っている異性が信じていくことを反対したから、等々まわりだけを見て、永遠に生きて天の御国に入るということを忘れてしまいます。あなたのために苦しみの場所、永遠のさばきに行かないように罰を受けて下さったのです。今日もう一度あなたの信仰をチェックしてみて下さい。あなたの信仰は妥協的になっていませんか?十字架の愛を軽く考えてしまっていたのならば、もう一度イエス様の十字架の愛を覚えていただきたいのです。これからは永遠を何処で過ごすかをしっかり見つめ、戦いがあっても負けることがないように、しっかり戦っていきたいと思います。私たちがこの戦いに負けてしまったなら、地引き網で引かれて、悪いものと認められて悪い方の器に入れられるときが来ます。それがいつかわかりません。だから私たちはいつ神様が来られても、いつ命が終わっても良い器の方に入れて下さるようにしなければなりません。信仰をもう一度チェックし、妥協しているところはしっかりを建て直していきましょう。私たちは信仰の戦いを死にものぐるいで、命をかけて従うという姿勢を持っていくべきです。十字架の愛に答えるべきだと思います。また、私たちの愛する友や家族のために私たちはどれだけ語っているでしょうか。祈っているでしょうか。誘っているでしょうか。イエス・キリストはすべての人のために十字架にかかられて罰を受けて下さいました。今日私たちの周りの人たちのためにも、十字架にかかって下さっています。先に選ばれた私たちが、神様のことをしっかりと伝え、また、神様のことを知らない人のためにとりなしていく必要があると思います。しかしいざその人に伝道しようと思うとき、なかなか語ることができません。恥ずかしいという気持ちや、何を話して良いのかわからないのです。自信がなくなってしまうのです。私たちは魂に対してもっと熱い情熱を持っていくこと、その魂も永遠のどちらかに行くと言うことを覚えていただきたいのです。あなたは家族のためにどれだけ信仰を持って祈っているでしょうか。あなたの救われていない家族、またあなたの親族を思うときにあなたの親族、家族があの苦しみの場所、地獄におかて永遠に苦しまなければならないということをあなたは考えているでしょうか。それがどんなに大変なことかを考えたことがあるでしょうか。天国と地獄のどちらかに行くことが定まっているのです。家族、友人のために私たちが本気で祈らず、語らなかったら彼らは地獄です。罪だらけの世の中になってしまっています。そのような中にどっぷりと浸かっている私たちの家族、親族、友人が罪だらけの生活、サタンに縛られてしまっています。目の前に大きな滝壷があり、そこに知らずに向かっているボートがあるときに「危ないよー」と小さな声で叫んで終わるでしょうか。それも自分の家族、親族、友人が乗っていたならば大声で「危ないー」と叫び、同時にその川に入っていきそのボートを押さえて命がけで助けると思います。私たちはあまりにも永遠がわかっていないのです。日本の魂が、兄弟が家族が救われることに熱心さがなくなってしまっています。自分のことばかり、病気や自分が受けることばかり考えてしまい、永遠を目隠しにされてしまっています。その救いがどんなに貴重で大切なものであるか分からないのです。明日友だちに話そう、明日誘おう。私たちはすぐに延期してしまいます。しかし命はいつ終わるかわかりません。私たちは必死になって魂に対して祈り、語り、滝壷から救うように努力しなければなりません。私たちは人々を神のところに連れてくるべきです。今日私たち一人一人が友だちの永遠を考えて祈ることができるように、また今度の礼拝は幸い伝道礼拝です。そのイースターの伝道礼拝に命をかけて友だちを誘うことができるように祈りたいと思います。イエス様がかしらで私たちは各器官です。先程言ったように、語ることのできる賜物があるかも知れません。またある人は祈ることができるかも知れません。人それぞれ神様は賜物を与えて下さっています。先日はこの教会でスーパーミッションの決起大会をし九十万円がささげられました。ある方は献げる賜物が与えられているかも知れません。その方は命をかけて、献げてみて下さい。また、自分はこれができると思っなら、その事を神様に精一杯してみて下さい。あなたができることでなんでも結構ですのであなたがし始めることです。出エジプトの時に祭司たちが契約の箱を担いで移動しました。ある時目の前に大きなヨルダン川が現れました。この川をどうやって渡ろうか。後ろには民がたくさんいます。彼らは一歩ヨルダン川入りました。するとヨルダン川は分かれて乾いた所をイスラエルの民が渡ることができました。またその前にも紅海でもかわいた地を通る事ができました。大きな紅海が目の前にあり、また後ろには追手であるエジプトの大軍がいたにも関わらず、モーセが信仰を持って祈り、モーセの杖を紅海に指すと絶対に分かれるはずのない紅海が分かれて、乾いた地を歩いたことが書かれています。私は神様のために何をすることができるか。何もできないと言ってそこに止まって良いのでしょうか。あなたのために命をかけて下さった神、天の御国に入れて下さる神様にあなたは恩返しするべきではないでしょうか。だからあなたのできることを、大きなことでなくても良いのです。あなたのできることをまず行い始めて下さい。それが神様に対してお返しすることだと思います。一歩行い始める時、聖霊様は力を与えて下さいます。助け主です。自分は語ることができないと思っても、語らなくてはならないと示された方は語り始めて下さい。不思議なように語る言葉が与えられます。語ること祈ること何でも結構です。あなたが神様のために、天の御国に入れて下さる神様のために何か行い始めて下さい。天の御国に入れて下さる神様です。ですから今日もう一度妥協せずに命がけで信仰を守り通していきましょう。中国や韓国でも殉教していった方がいます。またこの日本でも命をかけてイエス様を信じて殉教した先輩たちがいます。それは永遠が分かっていたからです。永遠を忘れてしまい、信仰が妥協的であったならば悔い改めましょう。命を握っているのは主です。だから今日いのちを握ってる主が、喜ばれるように、天の御国に入ることができるように、私たちは今日悔い改めて、妥協せずに従っていきましょう。私たちが一歩行い始めたとき、ヨルダン川に入ったとき、神様が大きな業を現して、無力なものでもそれを使って神様が大いなるリバイバルの業を初めて下さるということを覚えて下さい。あなたは天の御国に入ることができますか。今日今から聖餐式を行いますが、この聖餐を頂く前にもしふさわしくないことがあったなら悔い改めて、神の前に出てましょう。命をかけてこのイエス様を伝えていきましょう。お祈りします。

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