今週の礼拝メッセージ
2000.4.23(SUN)
死の力は打ち砕かれた
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書  ヘブル人への手紙2章14節〜15節

 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
 
 

  ハレルヤ!イースター礼拝を感謝します。イースターは三月二十一日の春分の日の後の満月の後に来る最初の日曜日です。クリスマスのように決められているとわかりやすいのですが毎年変わります。しかし、イースターは二十億人がお祝いしている世界的な祭りです。世界には色々なイースターの習慣があります。今日もブランチがありましたが、これも一つの習慣です。ホットケーキが出されましたが、ホットケーキや卵を食べる習慣もあるようです。これらは全て復活に関わる意味合いがあります。イースターはイエス・キリストが死からよみがえった日を記念する祭りです。歴史上色々な人物が登場しましたが、死からよみがえったという人物はイエス様一人だけです。イエス様は私たち人類の代表者でもあります。イエス様がよみがえられたということは、私たちもよみがえることができるという希望です。
 世界には色々な文化や習慣があります。今日も色々な国々の人たちと共に礼拝を持っています。少しずつ習慣は違いますが、同じ神を礼拝しています。しかし習慣の違いは結構面白いです。話し方一つをとってみても違いがあります。私たち、日本人が人と話をする場合、どれくらい相手に近づいて話しますか。皆さんが誰かと話をするときに、あまり顔が接近すると嫌だと思います。どれくらいが気持ちの良い距離でしょうか。日本人はあまり近づかれると段々離れます。日本人は両者がお辞儀しても頭が当たらないくらいが気持ちの良い距離です。しかし、アメリカ人の距離感は違います。またヨーロッパの人たちも違います。平均は腕の長さくらいの距離だそうです。この教会には南米の方が多くおられます。南米になるとどれくらいの距離でしょうか。距離がもっと縮まります。南米の方が話すときには他の人が入ることができないくらいの距離で、顔をつき合わせて話します。目と目を合わせて話します。昨年私はアルゼンチンとブラジルに行きましたが、人が話している姿が興味深くてよく見ていました。目と目を合わせて近づいて話す姿には迫力がありました。私たちは恥ずかしくなってしまいましたが。
 色々な文化習慣の違いがありますが、共通したものもあります。それは、人が抱えている問題です。どこの国に行っても同じ問題があります。そしてどこの国に行っても、悲しい死があります。人間はやがて死ななければならないという、悲しい運命があります。人生を全体的に眺めて、「ああ、幸せな人生だった」と言うことができる人はどれくらいいるでしょうか。皆さんも考えてみて、家族親族を見渡し、「本当に幸せです」と言える人は意外と少ないと思います。人間であるがゆえに、多くの悩み苦しみを抱えなければならないのです。
 私の家の周りにノラ猫がたくさんいます。色々な種類の猫がいます。そして、私の家の前を色々な人も通ります。高校生、中学生、小学生、仕事に行く人・・・。人間の顔色はそれぞれ違います。しかし、ノラ猫の顔色はほとんど同じです。あまり悩んだ顔は見ません。ノラ猫は家もないようですが、ほとんど気にしていないようです。いつも明るい顔をして、いくら追い払ってもまたやってきます。しかし、人間は顔色が違います。顔を見れば幸せか、幸せでないかがわかります。人間として生まれて良かったのだろうか、と考えてしまうのが人間です。そして、人間の問題で一番大きな問題は、やがて死ななければならないことを自覚していることです。しかし、イエス様はその一番大きな恐怖から救い出すために地上に来て下さったと聖書は教えています。先程読んだ聖書の言葉には「一生涯、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するために」イエス様が来られたと書かれています。
 一ヶ月前に私は熊本県に行きました。熊本県に天草という所があります。そこには昔、多くのクリスチャンがいました。今から四百年ほど前のことです。ポルトガルからキリスト教が伝わってきました。そして、数万人がクリスチャンになりました。しかし、幕府がクリスチャンを迫害しました。その約九十パーセントが殺されていきました。今でも処刑所や遺跡見ることができます。ある死刑場では、クリスチャンを殺すために海に十字架が立てられました。それも引き潮の時、沖に十字架を立てました。そこにクリスチャンを張り付けました。やがて潮が満ちてきます。今日クリスチャンが多いですが、四百年前に生まれなくて良かったですね。クリスチャンをやめたら助けるけど、信仰を捨てなかったら十字架に付けるというのです。そんな時、あなたならどうしますか。どちらかを選びなさいと言われたら、どちらを選びますか。しかし、その時代のクリスチャンのほとんど百パーセントが、「私はイエス様に従います!」と宣言しました。日本のクリスチャンの先輩も捨てたものではありません。皆、十字架に付けられ殉教していきました。海の水が段々増えていきます。彼らは何をしたと思いますか。その中には五才の子どももいました。今日も子どもたちがいますが、十字架につけられて水が増えたらどうしますか。「お母さん。助けて!」と言って泣き出すかもしれません。しかし、彼らの中に泣き出す人は一人もいなかったそうです。水が増えてくると、誰ともなく賛美し始め、それが全体に広がっていったそうです。神を心から賛美する歌声が海に響きました。しかし、さらに水が増えていきます。そして、瞬間的に歌声が波間に消える時がありました。彼らは死んでいきました。それを見ていた人々は本当に驚いたそうです。「クリスチャンはどういう人か。死を全く恐れていない。」処刑をした兵隊たちはその姿を見てクリスチャンになったそうです。なぜそんな決断ができ、殉教までできたのでしょうか。それには一つの理由があります。イエス様が救い主であるということを信じていたからです。そして地上の人生がすべてではない、ということも知っていたからです。彼らは死の恐怖につながれていませんでした。この地上の肉体のいのちがなくなっても、イエス様とともに永遠に生きることができるという、永遠の希望を持っていました。現実に、彼らは死の恐怖から解放されていました。
 聖書の救い、イエス・キリストの救いは永遠の救いです。世の中には色々な宗教があり、救いについて述べています。しかし、救いの定義とは難しいものです。例えば、病気の人が直ったら救いと言います。しかし、いくら病気が直っても、いつしか人間は病気になります。また病気になったら、「救いを失った」ことになります。お金のない人にお金が与えられたら救いだ、というかも知れません。しかし、またお金はなくなる時が来ます。そうしてみると、救いは短期間の救いでは本当の救いではありません。本当の救いと言えるのは百年後でも救われていなければなりません。千年後も、一万年後でも救われているべきです。ということは、本当の救いは「永遠のいのち」です。イエス様が皆さんに提供して下さっている救いは、短い期間の救いではありません。「永遠のいのち」を与えて下さるのです。教会に来たら、イエス様を信じるならば、永遠のいのちが与えられるというのです。やがて私たちはこの肉体から離れなければなりません。しかし、今度は二度と死なない体に宿って、永遠に生きると聖書は教えています。聖書はそのことについて面白く説明しています。
 神様はすべてのものを造りました。色々な種類の肉を造りました。今日は鳥の肉を食べました。色々な種類の肉があります。それら全て神様が種類を変えて作られたものです。あのように種類を変えて神が肉を造るとしたら、天においての肉体、二度と朽ち果てない体も造っておられるというのです。今日イエス・キリストを信じていたら、永遠のいのちが与えられています。このお付き合いは永遠です。お互いに顔を合わせて下さい。お隣の人とは永遠に過ごすのです。クリスチャンは教会に来たら永遠に過ごす仲間なので仲良くすべきです。隣の方に「永遠に宜しくお願いします」と挨拶してみて下さい。永遠のお付き合いが始まったということです。
 なぜ、人類の中に不幸があるのでしょうか。それは聖書によると、人類の中に罪が入ったときから不幸が始まったと教えています。初めの人類はアダムとエバです。神様がアダムとエバを素晴らしい環境の中に造りました。彼らは神様の存在を自然に理解していました。神様と話もできたというのです。聖書は神様は目に見えない存在だ、と書かれていますので、アダムとエバは霊的な目が開かれていたのです。今、皆さん神様が見えますか?神様の声が聞こえますか?多分、聞こえないでしょう。しかし、初めの人間は神様の声も聞こえ、神様の姿も捕らえることができたようです。そして彼らは人類の敵である悪魔もわかりました。悪魔が彼らを誘惑しに来ました。それは蛇の姿で来たと聖書は記録しています。それが彼らにはわかりました。この世界に人間を不幸にするため、二十四時間休まず働いている悪魔とその子分、悪霊がいるのを知っていますか。それは普通ではわかりません。
 最近よくストーカーという存在によって人々が苦しめられているのが報道されています。ストーカーは仕事場に、家についてくるのです。仕事もできなくなってしまいます。喜びがなくなってしまいます。霊的にも同様のことがあるのです。聖書は人間を不幸にするための悪魔・悪霊が存在すると言っています。そんなのが見えたら大変なことです。しかし、見えたら逃げることも対処もできます。見えないから悪魔・悪霊の餌食になるのです。しかし、アダムとエバにはそれがわかりました。人間が造られた時にはそのような霊的な感覚が開かれていました。しかし、悲しいことにアダムとエバが悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、その感覚をなくしたのです。
 神様は、「罪を犯したらあなたがたは不幸になります」と言われました。しかし、残念ながらアダムとエバは罪を犯してしまいました。それが全人類に広がりました。だから不幸なことが多いのです。ある人は、「初めの人間が罪を犯しただけで、全人類が不幸になってしまったのですか」と言われるかも知れません。
 一昨日、私たちの周りに一つの問題が起こりました。それは、今話題のコンピューターウィルスの侵入でした。コンピューターウィルスをご存知ですか。コンピューターウィルスは、コンピューターを狂わしてしまうプログラムです。最近、電子メールが流行っています。とても便利です。郵便局に行って切手は張らなくても良いのです。世界中にあっという間に手紙が出せます。私はよくそれを使っています。二日前に私のところに電子メールが来ました。私の電子メールは優れていて、受信すると知らせが携帯電話に来ます。どこでも瞬間的に把握できます。
 一昨日、私の知り合いからメールが届きました。この教会の関係者からでした。だからその人が私に良いことを書いてくれたと思いました。楽しみにして、その手紙を開きました。開きましたが何も反応がありません。おかしいと思いました。何も反応がありませんでした。私はその時、茨城県にいました。その夜、コンピューターをそのままにして寝てしまいました。朝起きてコンピューターを見ると、コンピューターが勝手に何度も電話していたのです。どうして私に黙ってコンピューターが勝手に電話したのかと思いました。しかし、私は感謝なことに電話線を抜いておきましたので送信はされていませんでした。私は、コンピューターが故障したと思い、もう一度立ち上げ直しました。しかし、再び勝手に電話しているのです。何と、原因は、私の友人から来た電子メールの後ろに、コンピューターウィルスが付いていたからです。そして私のコンピューターに入りました。そしてコンピューターに保管されている全てのアドレスに勝手に電話しメールを送るのです。その悪いウィルスを付けて送り付けているのです。そして、送り主は滝元順です。さらに、まともなメールを送っても、それにも隠れてウィルスは付いていくのです。私は教会に原稿を送りました。しかし私のコンピューターの中にウィルスが入っていました。何とそのウィルスは二、三日前にブラジルから来たものでした。その人から受け取ったメールが二、三日経ったら何十人という被害です。「順先生。ウィルスが入っているから気を付けて下さい。」と言われました。気を付けて下さいと言われましたが遅かったのです。そして、「気を付けて下さい」という電子メールも幾つかもらいました。しかし、そのメールにも全てウィルスが付いていました。二、三日前に私からメールを受け取った方は、ぜひ開かないで捨てて下さい。このように、コンピューターウィルスは瞬間的に世界規模で広がって被害を及ぼします。
 罪も同じです。一人の罪が全世界に影響を及ぼします。初めの人間アダムとエバの罪によって、全世界が汚染されました。そのコンピューターウィルスは、放っておくとそのコンピューターの情報を全て持っていかれてしまうそうです。私のコンピューターから情報を持っていっても、伝道されるくらいですが・・。銀行や大会社からデータを取られたら大変なことになります。罪も同じことです。
 教会に行くと罪についてはっきり語ります。「これが罪ですので気を付けて下さい」と語られます。ある方は、「罪のことばかり言うのであまり教会には行きたくない」と言われます。また聖書を読むと、罪についてたくさん出てきます。「厳しい本だ。あまり読みたくない」と言われます。しかし、なぜ、聖書は罪について警告しているのでしょうか。罪が私のたちの人生を壊すからです。だから神は、「罪から離れて下さい」というのです。
 世界的に有名な伝道者にビリーグラハムがいます。アメリカ人であったら誰でも知っています。世界中の人が知っています。彼はメッセージの中で罪についてはっきり語ります。「罪から離れなさい。」と語ります。しかし、ある人が、「先生。なぜ、罪のことをそんなに厳しく語るのですか。」と聞きました。罪について語ったら皆、あまり気分良くないではないか。言わないで下さいよ。と言ったそうです。すると、先生が一つの瓶を持ってきたそうです。それには毒が入っていました。すると、ビリー・グラハムは「これは、毒薬の瓶ですが、この瓶のレッテルをハッカキャンディーと直しても良いですか。」と聞いたそうです。その毒入りの瓶をキャンディーと書いたら食べた人が死んでしまいます。毒であったら「毒」と表示すべきです。罪も同じことです。聖書は人生を壊してしまうコンピューターウィルスのような毒が、「罪」だと教えています。
 最後に、その中でも破壊力の大きな三つの罪について話したいと思います。人間は肉体だけでできているのではありません。肉体と魂があります。魂があることがわかりますか。魂はあなた自身です。心は魂と置き換えても良いと思います。肉体と魂があります。しかし。もう一つ「霊」という領域があります。これは神様と交わる領域です。「罪」は霊か魂か肉体のどこかに着きます。一度つくとそれが徐々に動き出し、やがて人生を破壊します。特に恐ろしい罪は「霊の領域」に着く罪です。霊の領域は意識がありません。体は刺したら痛いです。感覚があります。心も感覚があります。しかし、霊の領域は全く感覚がありません。深いところです。見えないところです。そこに罪が入ると恐ろしい破壊が起こってきます。それは、「偶像礼拝の罪」です。私は他の宗教の批判や攻撃をしているのではありません。偶像礼拝は本物の神様がおられるのに、自分で神様を造って拝むことです。天地宇宙は神様が造られました。それは偉大な方で目に見えない存在です。しかし、偶像礼拝は偉大な神様を何かの形にすることです。日本人が神々として拝んでいるのは石、木、紙などです。これが、偶像礼拝です。偶像礼拝は一番深い部分にウィルスが入るようなものです。その背後に恐ろしい悪魔の力が入り込むのです。偶像礼拝から離れるだけで幸せになります。絶対に偶像から離れることを恐れないで下さい。偶像礼拝から離れたら祝福があります。私は牧師をしていますが、偶像から離れて不幸になった人を見たことがありません。偶像から離れるときに本当の祝福が来ます。
 次に魂の領域を蝕むウィルス(罪)は何でしょか。聖書は、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

と書かれています。人生を蝕むもう一つの罪が憎しみです。どうしても赦すことができない存在がありますか。もしもみなさんが誰かを赦せなかったら、魂にコンピューターウィルスが入っているのと同じ状態です。憎しみと悪霊の働きには密接な関係があります。憎しみによって人類がどのくらい被害を受けているでしょうか。憎しみから離れることは祝福される秘訣です。今日どのような理由があっても憎んでいる人を赦してあげてください。憎しみから離れるだけで神様の祝福があなたに来ます。
 最後に肉体を通して蝕む罪は何でしょうか。聖書は、

『不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。』

と書かれています。体を通して侵入してくる罪は、不品行、姦淫などの性的な罪です。今、日本や世界の性道徳、モラルが下がってしまいました。その結果として多くの離婚が起こっています。また家庭崩壊、社会崩壊、教育の破壊が起こっています。また、離婚された子どもたちは傷ついています。最近青少年の犯罪がたくさんありますが、その背後には必ず、不品行、姦淫の罪が必ずあります。不品行姦淫に手を出していると、そこから罪の力、悪魔の力が入り込み、人生を完全に破壊します。不品行・姦淫の罪から離れるべきです。
 しかし、人間は弱いものです。それらから離れたいけれども離れることができません。罪の力は最終的には死の力です。その人を死に引き込んでいきます。一度そのような罪に手を出していくと、滝壷の中に吸い込まれる小船のようにどんどん落ちていきます。どうすることもできません。止めることができません。しかし、イエス様はそのような罪の力に勝利させるためにこの世に来られました。私たちがイエス様を見上げるときに罪の力から解放されます。イエス様を信じると偶像礼拝、憎しみ、不品行から離れることができます。「クリスチャンは我慢強いですね」と言われる方がいます。そうではなく、イエス様が助けてくださるのです。瞬間瞬間、イエス様の助けを感じることができます。そしてイエス様に喜んで仕えて行く力も与えられるのです。そして罪の根元である死の力にもイエス様は勝利してくださいました。もう死の恐怖の奴隷になることもありません。また罪の奴隷になることもありません。そして、罪の根元である悪魔の奴隷から解放されます。イエス様はそのためにこの地上に来られました。一度罪を犯したら、本来、滅びなくてはなりません。しかし、イエス様が代わりになって私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして、滅びの世界、地獄にまで行ってくださいました。しかし、そこからよみがえってくださいました。それは私たち人類には、「望みがある、救いがある」ということの証明でした。そして、このよみがえりを記念するのが「イースター」です。人類がどうしても勝つことができなかった罪の力に勝利されたのがイエス・キリストです。皆さんもぜひ、イエス様に人生を預けてみてください。
 昨日私は汚染されたコンピューターを新城教会のコンピューターに詳しい友人に預けました。私の家に来て、しばらくなにやらコンピューターに触っていました。そして、しばらくすると、「はい、できた」と私に渡してくれました。見ると私のコンピューターは元に戻っていました。そこにはもはや、ウィルスはありませんでした。礼拝メッセージのアウトラインを引き出すことができませんでしたが、回復してからはすぐに引き出すことができました。
 皆さんの人生にも良いものが詰まっています。しかし、罪のウィルスによって動かなくなっています。良いものを取り出すことができないのです。しかし、イエス様の手に人生を渡してみてください。回復されます。良いものを取り出すことができます。あなたの人生に素晴らしことが起こっていきます。恐れずに、イエス様にあなたの人生を預けてみてください。最後にお祈りします。

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