今週の礼拝メッセージ
2000.4.30(SUN)
私の避け所
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書  詩篇91章1節〜13節

 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

 

   ハレルヤ!昨日は大阪で、「スーパーミッション大阪総決起大会」があり、皆さんに祈っていただき、また参加していただき、大変素晴らしい総決起大会ができ感謝します。六、七百人が集まり、恵まれた集会でした。また、当教会のカントリー・ゴスペル・クワイヤーが大変好評でした。昨夜、遅く帰ってきて眠たい方もおられるかも知れませんが、今から御言葉を学びたいと思います。また今日は、四名の方がバプテスマを受けられます。先週は九名でしたが、今日は海外から来られた兄弟姉妹がバプテスマを受けます。
 さて、今日は特別に「私の避け所」というタイトルで御言葉を学びます。私たちは御言葉を知るだけでなく、実現することが大切です。特に今日の御言葉は知るだけでは何もなりません。御言葉が実現されることが重要です。今日、皆さんとともにお読みした詩篇九十一篇の御言葉が、私たちの直中に実現することを祈りたいと思います。『主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。』とあります。病から守ってくださいますように。また、全ての事故やわざわいからも守られるように共に祈っていきたいと願います。
 教会も人数が増えると色々なことがあります。主の守りがないとやっていくことができません。近頃も二人の姉妹が交通事故に遭われて入院されていますが、そのような中でも主が守ってくださったと聞いています。いのちには別状なく、主がいのちを守ってくださいました。事故が起こったときに守られたことも素晴らしいですが、事故が起こらない方がもっと良いです。病がいやされることも素晴らしいですが、病にならずに守られる方がもっと大切です。この御言葉が私たちのもの、又、教会のものとして神の国が現されますように。教会に現わされ、地域に広がって行きますように。

『私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。』

と書かれています。新共同訳聖書では「主に申し上げよ。」と命令形になっています。今、私たちも御言葉に沿って主に申し上げたいと思います。『「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」』イエス様をほめたたえましょう。一節に、

『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。』と書かれています。全能の神様に頼れるとは素晴らしいことです。今、私たちは、全能者なる神様の陰に宿っていることをはっきりと確認したいものです。四節に、

『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。』

と書かれています。羽とは「主の権威」を表しています。私たちは主の権威の傘の下に身を避けることができます。イエス様には天においても地においてもいっさいの権威が与えられている、あります。ということは、私たちは主の権威の傘の下にあるということです。どこの国から来ていても、主の権威の下にあります。これは全能者の傘の下にあるということです。素晴らしいことです。「あなたは全能者の権威の下にあります」と宣言し合いましょう。今日、皆さんが全能なる神様の権威の下に守られますように。
 同時に、「羽の下」とは天の軍勢、天使たちを意味しています。イザヤ書六章にはセラフィムという天使が出てきます。それは翼があって飛んでいた、と書かれていますので、ある意味で、羽や翼とは天使たちや主の軍勢を意味していると思います。九十一篇の十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

と書かれています。「羽」とは主の権威とともに、主の権威によって遣わさる「御使いたち」によって守られることを意味していると思います。十節には、

『まことに主は、あなたのた わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。』

と書かれています。「えやみ」とは病気という意味です。共同訳聖書には、

『あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。』

と訳されています。天幕というのは家です。ということは、あなたの家族の中にそのようなものが近づくことはない、ということです。「わざわいはあなたにふりかからず、病気もあなたに近づかない。」と言うことです。素晴らしい言葉です。これが実現されるよう宣言しましょう。「わざわいはあなたにふりかからず、病気もあなたの家に近づかない」と主の権威の中で宣言しましょう。この御言葉を忘れずに持って帰ってください。「まことに主は」と書かれていますが、「まことに」という言葉は、「なぜなら」とも訳すことができます。「なぜなら、主はあなたのために御使いたちに命じて、すべての道であなたを守る」となります。「なぜなら」という言葉に鍵があると思います。私たちが守られるためには、「主の権威の中で、天使たちが遣わされるとき」に、「わざわいが近づくことはなく、病は近づくことがなく、家族が守られる」と理解できます。そして今日は家・教会に、また一人一人に主が天使たちを遣わされ守られますように。先週私自身そのことを祈ってきました。主が御使いたちに命じて、すべての道で私たちを守るように。「すべての道」とありますから、霊も、肉体も、魂も、経済的にも守ってくださるはずです。
 今、世界には色々な問題が起こっています。家庭の中にも、問題があります。その問題の背後には、必ず、悪魔と悪霊の力が関わっています。先週、私はビリーグラハムが書いた「天使」という本を読みました。そこに、「すべての問題の背後には暗闇の力が関わっている」と書かれていました。人間はいくら正しく生きようと思っても正しく生きられません。世界情勢は滝壷の中に吸い込まれる小舟のように、どんどん悪くなっています。その背後に暗闇の力があります。
 悪魔・悪霊がどうして存在するようになったかについて聖書は教えています。それがイザヤ書十四章十二節から十七節に書かれています。これはバビロンに対する一つの宣告ですが、それ以上に霊的な世界についても教えています。

『暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』

 悪魔は元来、位の高い天使であったようです。しかし、地に落ちて悪魔、悪霊になっていったことを教えています。今この世界の背後で人々を不幸にするために働いている力は、元天使族であった存在です。そして十六節十七節に、

『あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。「この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。」』

と書かれています。色々な事件や病気、苦しみは自然に起こるから、防ぎようになく、仕方がないと思います。しかしやがて私たちが神様の前に出るときに、自然ではなかったことと、その原因を知ります。それがこの言葉です。新共同訳聖書では、

『お前を見る者は、まじまじと見つめ/お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ/国々を揺るがせ/世界を荒れ野とし/その町々を破壊し/捕らわれ人を解き放たず/故郷に帰らせなかった者か。」』

 やがて私たちが天に帰ったとき、しっかりと知ることができます。悪魔が見えるようになるからです。「こいつらか。国に苦しみを与え、人類を不幸に叩き落としていた存在は」と知るようになります。しかし、天に帰ってから知っていては遅いのです。聖書は今でも私たちに手がかりを与えています。国々に破壊と不幸をもたらせ、人々を捕らえて帰さない存在。・・それが悪魔や悪霊と呼ばれるものだと教えています。
 神の前で天使たちが反乱を起こして地に落とされました。謀反を起こし、神の世界から追放されました。同様に人類も神に反抗して追放されました。同じです。悪魔、悪霊が神の前から追放されたとき、神の一人子が堕落した天使を救うことはなさいせんでした。しかし、人類が堕落したときには、神の一人子イエス様がこの地上に来られ、救うために働かれました。なぜ違うのでしょうか。同じ被造物です。天使たちが堕落したときには、神様は助けようとされませんでした。しかし、人間が堕落したときには助けようとされました。よく考えると色々な疑問があります。天使たちよりも人間の方が能力的に低いのに、そんな私たちをなぜ、神様が助けに来てくれたのだろうか、と思います。そのことに対して、ビリーグラハムは、「天使が堕落した時、地には彼らを苦しめるものは誰もいなかった。しかし、人間がこの地に落ちたときには、人間を苦しめる悪魔、悪霊の存在があったから、神が人となってこの地上に来て、助けたのではないか」と語っていました。天に帰ってからイエス様に聞くべきことがありますが、何しろ人類を救うために神の一人子がこの地上に来てくださいました。
 そこから救い出されるためには、どうするべきでしょうか。そのためには私たちが全能者の陰に宿り、その全能者の権威の中で、光の御使いが送られる事により守られるのです。これは詩篇九十一篇の意味であると考えます。
 神様は秩序ある方です。神様はご自分の手で悪魔を粉砕することもできますが、悪魔、悪霊は被造物に過ぎません。神様と被造物とでは戦いになりません。御使いたちが遣わされて悪魔のの力が粉砕され、わざわいから守られるのは神の秩序であると思います。主が命じてくださり、天使が来て、私たちの生活全体が守られるように祈っていきたいと思います。
 礼拝後、子どもたちのために祝福を祈るときがあります。五月五日は子どもの日ですので、子どもたちの祝福を祈ります。先週も子どもたちがバプテスマを受けました。大人と子どもを比べると、子どもたちの方がより守られているように感じます。大人よりも子どもの方が問題が少ないのは事実です。大人は問題が多く、自殺まで考える人が多くいます。子どもたちにはあまり聞きません。精神的に幼いと言えばそれまでですが、或る面で守られているのです。子どもたちの方が大人よりも守りを手にしています。しかし、ある時に、その守りを失うのです。なぜ子どもたちが守られているのでしょうか。イエス様は言われました。マタイの福音書十八章十節に、

『あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。』

 子どもたちには御使いが共にいるとイエス様は言われました。大人に対しては言われませんでした。大人よりも子どもたちに問題が少ないのは、環境もありますが天の御使いが守っているのてはないでしょうか。今日は子どもたちと共にいる御使いが強められ、さらに多く派遣されて守られ、祝福され、成長の途中に守りを失うことがないように祈りたいと思います。
 歴史を見ると一人の人物が悪魔に支配されたことによって、多くの人が危害を受けた事件が多くあります。それを聖書から見ると、イエス様がゲラサという所に行かれたときに一人の男が墓場から出てきました。それは悪霊に支配された男でした。なんとその一人の男によって、ゲラサという地域全体が苦しみを受けていました。皆、恐怖に縛られていました。イエス様は悪霊に支配されているその男を解き放ちました。マルコの福音書五章八節から、

『それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』 

と書かれています。イエス様は、「男から悪霊よ出て行け」と命じられました。同時にイエス様は、「お前の名前は何か」と聞きました。すると男の背後の悪霊が、「レギオンです」と答えました。それは「レギオン」と言う名前の悪霊でした。しかし実は、レギオンと言う名前は、太郎、次郎というような固有の名前ではありません。「私たちは大勢だ」と答えたように、レギオンとは当時のローマ軍の一個大隊のサイズでした。六千人の兵隊を擁するグループを一レギオンと言いました。そして、レギオンとは「軍団」という意味でした。と言うことは、「名前は何か」聞かれたとき悪霊達は「私たちは軍団だ」と答えたのです。悪霊は軍団で動きます。一人の男が軍団に支配されたときに、その地域全体が苦しみに会ったのです。
 私たちの知っている歴史の中でも、一人の男が悪霊に支配されたことによって、多くの人が苦しみを受けた歴史があります。第二次世界大戦の時に、ドイツのヒットラーという人物によって、多くの人が苦しみを受けました。あの人物の背後には軍団がいたのです。レギオンが共にいたので、他の人は彼をどうすることもできませんでした。彼は一人ではなかったのです。背後に悪霊の軍団が組織的に動いていたのです。しかし、イエス様はその組織的な軍団、レギオンを打ち砕かれました。
 このレギオンは、「この地方から追い出さないで下さい」と言いました。その地方に固執していました。ある意味で、悪霊は地方に固執しています。「この地方を絶対に離さない」と言っています。それぞれの地方にレギオンがいて、人々を縛っています。「絶対にこの地方から離れたくない」と言っているのです。レギオンが打ち破られなければなりません。そのレギオンが打ち破られるときに、新しいことが起こるのです。
 この「レギオン」という単位は、イエス様ご自身も使われました。マタイの福音書二十六章五十三節を見ると、悪いレギオンではなく、「神の軍隊のレギオン」のことが書かれています。マタイ二十六章五十四節に書かれています。これはイエス様が十字架にかかられる前、ゲッセマネの園で捕らえられた場面です。弟子達は憤って、特にペテロは一人の男の耳を切り落としました。その時イエス様は、「やめなさい。剣を元に納めなさい」と言われました。そしてイエス様は、

『それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」』

と言われました。この十二軍団の注訳に「*レギオン」と書かれています。原語においては同じです。先週はイースターでしたが、イエス様は敵に捕らえられて、無理矢理引っ張られたのではありません。自分から進んで十字架につかれたのです。聖書の預言が実現するために、自ら進んで行かれました。敵に捕らえられたのではありません。その時イエス様は、「十二軍団以上の御使いたちの軍団を呼ぶこともできるが、呼んでしまうと聖書の御言葉が実現しない」と言われました。
 しかしこの言葉の中に、勝利の鍵が隠されているように思います。もしも、十二軍団以上の天の御使いたちが来たら、何と、十字架という、すごいプランでも変わってしまう可能性があったのです。それならば、悪魔が持っているプランなど完全に変わってしまうということです。
 日本には悪魔のプランがありますが、十二軍団以上の天の御使が送られるならば、そのプランが変わってしまうのです。十字架のプランでも十二軍団のレギオンが来たら変わってしまう可能性があったとしたら、悪魔の持っているプランは粉々に砕かれて、何もすることはできないはずです。
 今日は教会あげて祈りたいと思います。「主よ。どうかこの教会に、天の軍勢、それも十二軍団以上のレギオンを送って下さい。」
 クリスチャンと、イエス様を信じないときの違いはどこにあるでしょうか。それがゲラサの男のレギオンと、ゲッセマネの園でイエス様が語られたレギオンに現わされています。ゲラサの男はレギオンに「支配されて」いました。レギオンの下でした。しかし、イエス様は、十二レギオン以上の軍隊を「支配下に置く」と語られました。私たちの支配者は神ご自身です。全能者の陰に宿るのです。そして、神の軍隊たちは私たちの支配下につくのです。私たちは決して天使には支配されません。神様に支配されます。そして御使いを支配下に置くのです。今日は皆さんに天の軍勢が遣わされ、守りのために配備につくのです。ヘブル人への手紙一章十四節には、

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』

と書かれています。主を信じるものたちのために、主は天の軍勢を送ってくださり、支配下に置いてくださいます。また、第一コリントの六章三節では、『私たちはその御使いをもさばく者』と記されています。
 その時に起こることが、「わざわいはあなたにふりかからず、えやみもあなたの天幕に近づかない。」という御言葉が実現すると私は信じます。九十一篇の十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』

と書かれています。
 イエス様が宣教を開始されたとき、悪魔の誘惑に遭いました。荒野の四十日間の断食の後、悪魔はイエス様を神殿の頂に立たせて「ここから飛び降りて見よ。彼らはその手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする、とあるからやって見ろ」と言いました。
 これは悪魔が御言葉を曲解させた良い例です。イエス様は完璧な方でしたが、人となり私たちを代表して下さった方です。そのような誘惑に遭うことにより、悪魔の手口を私たちのために引き出して下さいました。
 悪魔は、「彼らはその手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当たることがないようにする」という言葉を、「飛び降りたときに守ってくれる」という意味で使いました。しかし、これはそのような意味ではないのです。「その手であなたを支える」とは、天の軍勢があなたの支配下に来て助け、「あなたの足が石に打ち当たることがないようにする」とは、飛び降りて石に当たるという意味ではなく、私たちが踏むのは「石」ではない、苦しめ、不幸を与える「獅子やコブラ、即ち、悪魔・悪霊を踏みつぶす」という意味なのです。悪魔はこの御言葉を曲解させて違う方向に持って行こうとしました。この御言葉は、空を打つような闘いではなく、獅子やコブラを踏みつける霊的戦いの鍵となる御言葉です。あなたも、今までは悪魔に踏まれていたかも知れません。いろいろなわざわいや苦しみ、悲しみに出会っていたかも知れません。しかし、今度は、悪魔どもを踏みつける存在になるのです。ローマ人への手紙の十六章二十節に、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』

と書かれています。そのためには、私たちに御使いの軍団が遣わされ、サポートされることが大切なポイントです。それらを詩篇九十一篇から学ぶことができます。
 今日、天のレギオンを支配下に置き、足が石に打ち当たるのではなく、蛇やコブラを踏みつける存在として用いられますように。同時に皆さんの天幕、家にわざわいや疫病がふりかかることがないよう、「天の軍勢を送ってください」と主に祈りましょう。十二レギオン以上の天の軍隊が私たちの配下に来るように、特に、日本に主が送ってくださるように祈りたいと思います。お祈りします。
 

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