今週の礼拝メッセージ
2000.5.7(SUN)
サインを見落とすな
新城教会牧師 岡本 信弘

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書  エレミヤ書33章3節

 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

 

   ハレルヤ!主の御名を心から賛美します。今日皆さんと共に御言葉を学ぶことができ感謝します。皆さんは先週のゴールデンウィークをどのように過ごされたでしょうか。ゆっくりと休まれた方もおられると思いますが、私は相変わらず忙しい毎日でした。先々週の土曜日四月二十九日は、スーパーミッションの大阪総決起大会が行われ、とても恵まれました。今回この教会のゴスペルクワイヤーも参加しました。私はほとんど集会には出ることはできませんでしたが、ゴスペルクワイヤーが賛美していたときには会場に入って最後まで聞いていました。最近ある方に、「先生、涙もろくなられましたか?」と言われましたが、そのときも賛美を聞きながら、感動して涙が出ました。ここからも多くの方が行かれて、恵みを受けたと思います。大阪の決起を終えてからも、教会の遠足や仕事で東京を行き来する日が続いていますが、皆さんのお祈りにより健康が支えられていることを感謝します。
 今日は、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう』という御言葉から、「サインを見落とすな」というタイトルで学びます。
 皆さん誰もが神様の御心を歩み、神様に喜ばれる生活をしたいと考えておられると思いますが、その一方で、神様に喜ばれる生活ができていないと感じている方も多いと思います。私も、なぜ、神様に喜ばれる生活ができないのだろうかと考えます。私たちの毎日の生活の中には、色々な問題にぶつかることがありますが、ある人にとっては大きな問題であっても、ほかの人にとってはたいした問題ではないこともあります。また、苦しいとき、悲しいときもたびたびあると思います。ローマ書八章二十八節には、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』

という御言葉が書かれています。神様は私たちのすべてのことを益としてくださり、私たちに素晴らしい祝福を与えようとしてくださっています。生活の中で、いろいろ苦しいこと、問題にぶつかったときも、この御言葉で私たちはいつも勇気づけられます。
 毎日の生活の中で思いがけないことが起こることもあります。皆さんご存知のように、最近私の母がオートバイに乗っていて、車と接触するという事故に遭いました。初めに連絡を受けたときに私の姉が、「意識がないみたい」と言ったので、とても驚きましたが、事故の前後の記憶が薄れているということだけで大したことはなかったようです。しかし、肋骨が折れて、今も入院しています。丁度今外泊して家にいますが、つい最近しみじみと母が言いました。「今まで私もたくさんの恵みを受けてきた。健康でどこも痛いところもなくて、夜眠れないということなどなかった。それなのに、今は胸が痛くて夜も眠れない日が続いている。今までは、誰かが夜眠れないと言っても、そんなことがあるだろうかと思うくらいだったけど、こういうふうになって、痛みを持ち苦しみで夜眠れないというときを過ごし、神様が苦しみの中を歩む人を思いやる人の気持ちを与えてくださった。そしてこんな中でも神様が共にいてくださるという日々を送らせていただいていることはとても感謝だ。多くの人が私のために祈っていてくださることも本当に感謝だ」と。私にとって耳の痛い話だと思いました。私も今まで恵みによって健康が与えられ、今まで入院することもなく、過ごしてきましたから、苦しんでいる人の痛みがわからない者の一人だと思います。先週、私の息子が家に帰ってきてから母のところに行き、「首が痛い」という母のために、話をしながら首と肩をもんであげていたそうです。私は外に出かけていることが多いのでなかなか世話ができないのですが、昨日私が行くと、母は、「息子よりも孫の方が優しい」と言いました。その言葉を聞いて反省させられました。痛みは人にはわからないものです。神様は私たちにサインを送られます。神様は母の事故を通して私にも人を思いやる気持ちを持つようにとサインを送られたと思います。
 皆さんにも、神様がどのようなサインを送っているかをしっかりと受け取っていただきたいと思います。有名人が色紙などに書くのもサインです。サインとは、署名、暗号、合図という意味があります。日本ではいろいろな書類に印鑑を押しますが、アメリカではサインが一番有効な証明の手段です。スポーツにもサインが使われます。私はプロ野球が好きでよくテレビを見ます。キャッチャーがピッチャーに、どんな球を投げるかというサインを送ったり、監督やコーチが選手にサインを送っているのを見ます。一つのサインを見落とすだけで勝敗が決まってしまうような大きな問題・転機になることもあります。私たちにとってもサインは不可欠です。私たちが神様から出されているサインを的確に受け取っているかどうかはとても重要なことです。サインには表す、印、メッセージという意味もあります。
 昨日はスーパーミッションのテーマ別祈祷会に行ってきました。毎月テーマ別祈祷会があるのですが、私は祈祷会のリードをする人がいないところへ、よく遣わされていきます。今までに栃木、山形、茨城、神奈川と行かせていただきました。ポスターを持って集合場所で待っていても誰も来てくれず、あるときは私一人ということもありました。今回は順牧師が行くことになっていた東京へ、急きょ行くことになり、原宿と渋谷の真ん中くらいにあるNHKホールの前で祈りました。さすがに東京なので、三十数名が集まり共に祈り、恵まれました。祈り始めたときは、通行人が誰もいなかったのですが、真剣に祈って顔を上げると、たくさんの人が、けげんそうな顔で見ていました。人目をはばからずに大声で「サタンを打ち砕く!」などと祈っていたので、変な宗教と思われたのかも知れません。しかし、熱い祈りをささげ、祝福されたときでした。今回の祈祷会は、「マスメディア」というテーマでした。マスメディアには、電波・情報・お互いをつなぎ合わせるもの、などの意味がありますが、テレビを見たりラジオを聴くこと、新聞・雑誌を読むことなどの報道全般も意味します。
 今日、このメッセージも外国人のためにいろいろな言葉に通訳されていますが、どこに座っていてもトランシーバーがあれば聞くことができます。外国人の方を見て、ふと、この私の速いメッセージをどうやって通訳しているのか、どのくらい通じているのだろうか、と考えたりもしますが・・・。電波が飛び交っているのは事実です。しかし、電波があるからといって、電波が邪魔でメッセンジャーの顔が見えないということはありません。今は携帯電話を持っておられる方も多いのですが、それも全国に電波が飛び交っています。
 テレビのスイッチを入れればテレビを見ることができます。それは目に見えない様々な情報が、電波に乗って飛び交っているからなのです。しかし、受信するものが整っていなければ、いくらたくさんの電波が飛び交っていてもそれは無いに等しいのです。世界各国の情報を日本にいながら受信できる現代において、どんな情報を選び取るかということも、とても重要です。メディアが、神様のために用いられたら素晴らしいですが、テレビにおいても雑誌においても、いろいろな形で情報が悪い方法で悪魔に用いられ、知らずに聴いているうちに、だんだん侵されて、惑わされていく危険があります。ですから、注意が必要です。同じように、私たちは気をつけていなければ神様からのサインを見誤って、間違った情報を得たり、祝福を失ってしまうことにもなりかねません。ですから、私たちは整えられるべきです。
 ここにいらっしゃる多くの皆さんは、神様からの「イエス様は救い主である」というサインを受けることができました。使徒四章十二節にある、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです』

の御言葉を、皆さんは「アーメン」と、納得されていますね。しかし、多くの人々が今なお、そのことを知らないまま生活しています。自由気ままな生活をしています。皆さん、ご自分が救われたときを考えてみてください。不思議に思いませんか。周りにたくさん人がいるにもかかわらず、たくさんお金があったのでも、頭が特別良かったわけでもない。特別熱心に神様を求めたわけでもない。それなのに、どうして私が、みなさんが、救われたのでしょうか。それは恵みです。それは神様から発信されたサイン、メッセージを受け取ることができたからなのです。
 先日、イースターの日に多くの子どもたちがバプテスマを受けました。ほとんどがクリスチャンホームの子どもたちでしたが、クリスチャンホームに生まれたからバプテスマを受けたというわけではありません。子どもたち自身が自分の罪がわかり、イエス様が罪を帳消しにしてくださる救い主であるとはっきりと信じたからこそ、バプテスマを受けたのです。私も三十数年前のことを思って見ていましたが、私も、イエス様が救い主であるというサインを受け取り、今もイエス様が救い主であると確信しています。
 また、私たちは病気のために祈ります。特に親族、友人、知人のためには真剣に、癒されるように、主のわざ、奇蹟が現されるようにと祈ります。しかし、全員が癒されるわけではありません。信仰が強い人が癒されるのでもありません。時々、ガンの人が癒されたり、絶対に駄目だという人が癒されたりします。この人が癒されて、あの人が癒されないのはなぜだろうと思います。しかし、病気の中にあっても、喜びをもって主をほめたたえている方もいらっしゃいます。その病気を通して神様の栄光を現している人たちです。病気が癒されるということも、また病気の中で輝いていられることも、神様が生きておられるというサインの一つです。
 私たちは神様の御業が現されるようにとも祈ります。祈ると倒れたり、笑い転げたりする人もいます。見てて不思議に思います。ある人は「これは、やらせだ」と言ったりします。もちろんやらせなんかではありません。では、どうしてそのようなことが起こるのかというと、これも神様が生きておられることを示しているサインです。しかし、全員にそのような現象が現れるのではありません。現象が現れることも素晴らしいことですが、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』

と書かれているように、目に見えないものを信じることが信仰です。皆さんの前に神様が現れて、あなたが迷っているときに、右に行きなさいとか、左に行くようにと直接言われたら簡単なことです。迷うことがないと思います。しかしそれは信仰ではなく現実です。私たちの目には見えないけれども、生きておられ、私たちの理解を越えたところにおられる神様が、示してくださるそのサインを信仰によって受け取って行くとき、祝福されるのです。神様は私たちの信仰を喜ばれます。明日のことは誰にもわかりませんが、神様と共に歩むときに神様がその道を導いてくださる、これは信仰です。神様はそのときに応じて、私たちが道を誤らないように、サインを送っています。しかし、一方で、私たちは時々罪を犯しそうになってしまいます。誘惑に負けそうなことがあります。それは神様が私たちにサインを送っているのと同時に、サタンも私たちにサインを送っているからです。第一ペテロ五章八節には、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

とあり、サタンが私たちの周りをうろついて、何とか私たちが神様とともに歩むのをやめさせ、自分と同じように地獄に連れて行こうとしていることが記されています。サタンは巧妙に私たちに誘いをかけ、惑わしてきます。神様から、「そっちは危ない」と警告のサインが出されているにもかかわらず、「そんなのは関係ない、大丈夫だ」といって一線を越えさせるのがサタンの手です。誘惑に負け、惑わされて信仰から落ちてしまう危険性があります。ですから、『目をさましていなさい』と主が語られるのです。
 また、神様は私たちに「宣教の拡大」というサインを送られます。甲子園ミッション、東京ミッション、スーパーミッションと、この教会では宣教の働きをサポートしてきました。ある人は、スーパーミッション東京四十日間と聞いて、「そんなに続けてやらなくてもいいのに・・・」と言います。しかし、この働きは誰か個人の考えではありません。これも先生方が、神様からの宣教の拡大、リバイバルのサインを受け取ったからこそ行なっているのです。時期も、今でなくても、もっと前に、あるいはもっと後にやればいいのにと思うかも知れませんが、これは私たち人間が計画して、いつやろうとか、ああしよう、こうしようというものではありません。神様がサインを送ってくださり、それを受け取って、今この働きが進められています。そして確実にこのリバイバルの働きは進んでいるのです。神様が一番必要なときにサインを送って、させてくださるのです。
 今年は西暦二千年。これからの時代、どうなるのだろうかと心配します。週末についても聖書は語られています。

『パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。』

とマタイ十六章一節、二節には書かれています。これは一つのたとえです。地震、疫病、争い、戦争・・・いろいろな問題が出てくると聖書に書かれています。人間は身近なことでなければなかなか考えることができないものです。日本には食べることにこと欠くことはありませんが、世界を見ると人口の三分の二が飢えていると言われています。週末についてのサインは語られており、実際にそのときが近づいています。ですから、私たちは神様からのサインをしっかりと受け取り、宣教の働きに邁進しなくてはなりません。
 テレビも、妨害電波が入るとよく映らなくなります。受信線があっても錆びついているときれいに受信できません。私たちの信仰生活も同じです。皆さんは神様が送られているサインを、どれだけ正確に受け止めているでしょうか。テレビやゲームに熱中しているとき、また仕事や自分の趣味に没頭していると、誰かに声をかけられても気がつかないことがあると思います。神様からのサインと、サタンからの惑わしのサイン。目を覚ましていなければ、また、いくら聞こうとしても騒々しい雑音の中で聞いていたら、神様が私たちに与えてくださるサインを逃してしまいます。神様は重要なことは何度もサインを送ってくださいます。しかし、さまざまな妨げによってそのサインを見落としたり、聞き逃してしまったら大変です。
 神様はどのような形でサインを送られるのでしょうか。神様が私たちに語られる方法はいろいろあります。それは、目に見える形の事故や病気によって語られるときもありますし、素晴らしい良いこと、嬉しいことの中で語られることもあります。また、不安を抱いているとき、神様が慰めてくださったり、大きな喜びのうちに、さらに喜びが増し加わったり、目に見えない魂や心の部分に直接神様が囁いてくださることがあります。また、霊的な部分で語られることもあります。それは一人一人違います。ですから私たちは、そのサインを注意深く、見落とさないようにしなくてはなりません。
 普通のこと、頭で考えて理解できることは神様から語られても、それを受け取ることは簡単です。しかし、今日掲げた御言葉、『あなたの知らない、理解を越えた大いなることをあなたに告げよう』と書かれているように、私たちの知らない、理解を越えたことを告げられたらどうでしょうか。日本人が日本語を聞くのは難しくありません。多少の雑音が入っていても理解することができます。外国人の方であっても、ある程度日本語ができる人なら、雑音がなくて、はっきり、ゆっくり話してもらうとわかるでしょう。しかし、私のようにしゃべるのが速かったり、方言があったりすると、理解してもらうのはかなり困難になります。神様が私たちに語ってくださっても、私たちが今まで耳にしたことのないこと、思ったことのないことを聞くなら、私たちは耳を疑い、そんなことがあるだろうか、そんなことあるはずがないと、打ち消してしまうことがあるのではないかと思います。自分の理解できることは受け取れても、思いがけないこと、思ったことのないことはなかなか受け取れないものではないでしょうか。大いなる事とは、「素晴らしいこと」といえると思いますが、あなたが考えたことのないもっと大きなこと、素晴らしいことを神様は告げようとされます。そのためには、ここに『わたしを呼べ、そうすれば』とあるように、まず、神様に求めることが大切です。しかし、ここで注意しなければならないことは、先程も言ったように、神様からのサインが、私たちの思っていることと違っていたときにどうするかということです。自分の願ったことがかなえられなければ、神様が応えてくださっていないと思うのは間違いです。神様は、私たちの理解を越えた大いなることを告げられるお方なのですから。神様は皆さんの願いに必ずサインを送ってくださいます。ですから、私たちは神様から与えられるサインを、受信機を整備し、雑音がない状態で、受け取らなければなりません。また、スイッチが切れていては何も入ってきません。ですから、私たちはいつもそれを受け取ることができるように、目を覚ましていなければならないのです。
 多くの方が神様に用いられたいと思っています。私たちの考えで、ああなったら良い、こうなったら良い、ということだけでは不十分です。自分の理解できる範囲で日本のリバイバルを願っているだけではいけません。今まで、百年以上の宣教の歴史があります。私たちよりもっと熱心な人が、頭の良い人々が、さまざまな方法で伝道してきましたが、それでもクリスチャンが二十五万人から三十万人しかいません。私たちの頭で理解できることだけをやっていては神様の業が起こることはありません。私たちが起こしていただきたいのは、私たちが考える範囲の神様の業ではなく、私たちの理解を越えたところに働く大いなること、素晴らしいことです。ヨブ記三十三章十二節、十三節に、

『聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない』

と書かれています。一人一人に神様が語っておられます。神様のチャンネルに合わせ、私たちがそれを一言一句漏らすことなく受け取り、また、サタンが私たちに語ってくることを全部シャットアウトして神様の御心を現していくものでありたいと思います。神様は祈りの中で、メッセージの中で、御自身の御心を現し、サインを送っておられます。
 それでは御心とは何でしょうか。ローマ書十二章二節に、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい』

と書かれています。私たちは誰もが良いことをしたいと願っています。人間的に考えて、良いと思うことを行うことも大切です。しかし、神様の御心とは、神様から見る良いことです。神様が皆さんに対して何を望んでいるか、神様が皆さんに何をさせたいと思っておられるのかということです。神様から発信されているサインをしっかりと受け止めるためには戦いもあります。しかし、それを知ってそれぞれの役割を果たしていくならば、この地に大いなるリバイバルの業が現されます。そして、より素晴らしい喜びに満たされたクリスチャン人生を送ることができます。ぜひ、互いに祈り合い、しっかりと神様からのメッセージを受け取ってこれからのクリスチャン生活をしていきたいと思います。お祈りします。
 

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