今週の礼拝メッセージ
2000.5.21(SUN)
空を打つような拳闘
新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書  コリント人への手紙第一 9章26節

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空をつような拳闘もしてはいません。

 

    ハレルヤ!久しぶりに礼拝でメッセージできることを感謝します。スーパーミッションまであと二ヶ月程になりました。更に祈り備えましょう。三月二十日には東京総決起大会がありました。その時に一人の方が私の所に来られ「私のために祈って下さい。私は尿道結石で一睡もしていません。今日は集会の始めから終わりまで四時間ずっと痛くて・・・」と言っていたので祈りました。彼女の話によると祈った途端にトイレに行きたくなり、「感謝なことに石が全部出てしまいました」と言われました。イエス様が共にいて奇蹟をされることは素晴らしいと思いました。また、四月二十九日は大阪で総決起大会がありました。初めに二十四区のとりなし祈祷会がありました。その時、一麦教会から来られた方々と共に祈りました。その一人は甲子園で癒された方です。その方はお湯をかぶって大やけどをして医者から移植手術しなければならないと言われましたが、甲子園ミッションで奉仕がしたいということで終わってから手術することになっていたそうです。しかし、二日目の夜の集会では罪の赦しと病の癒しについて祈りました。彼女もやけどに手を置いて祈ったそうです。そして祈りが終わって自分の持ち場に帰った時、やけどの跡が全部なくなっていたそうです。嬉しくて次の日に医者に見せたら、驚かれたそうです。「昨日甲子園で集会があって、そこで手を置いたら癒されると聞いたのでそうしたら癒されていました」と言ったそうです。私が完全に癒されたのかと聞くと、真ん中にやけどしたという跡が少し残っていると言われました。これは確かにやけどをしたという証拠として残されたと思います。先週は福島県に行きました。一つの集会が終わってから岩城市に行きました。そこで立派な紳士が、私に会うのを待ちわびていたと言って感動して来られました。「どなたですか?」と聞きました。
 私が甲子園ミッション前に集会に行った時、牧師先生が昼食に連れて行ってくれました。その時、どういう理由かわかりませんが、食堂と間違えて病院に入ってしまいました。先生は、「ああ。間違えました。病院でした・・・。」と言い、「まあ、私の知っている人が入院していますから祈って下さい。」と言われました。その方は精神病で十年間入院されていたそうです。クリスチャンではないので少し話して祈りました。その時にイエス様が来られ、触れて下さったことがわかったそうです。そして精神病が癒されて退院しました。病気が癒されたのが彼でした。神様は素晴らしいことをして下さいました。色々な問題がありますが信仰もって祈り、期待していきましょう。
 皆さんはスーパーミッションについてどのように感じられているでしょうか。重く感じているでしょうか。軽く感じているでしょうか。サタンの陣営では重く感じていると思います。サタンにとっては四十日間やることは何とかして妨害しなくてはならないと考えると思います。私も二週間ほど前に名古屋や岐阜で決起大会を行いました。毎晩、夜遅く帰りましたが、二回くらい事故に遭いそうになりました。聖書の中に、『主の守るのでなければ、守る者の働きはむなしい』と書かれていますので、主の守りがあるように祈って下さい。また、油断することがないように祈っていきましょう。事故や病気から守られるように。東京のスーパーミッションを通して日本のリバイバルが現されることを祈りましょう。

『ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。』

徒競走で走るコースを間違えて迷う人はないと思います。決勝点をはっきりと定めて走ります。又、拳闘の選手が勝つためには相手をノックアウトしなくてはなりません。しかし、人生の決勝点がわかっているでしょうか。生きることについて目的があるでしょうか。自分の生きる目標をクリスチャンはしっかりと持つべきです。
 ある時に大学生に会いました。そして、彼の学校の教授が人生の目的について話していたことについて聞きました。「人間とは、色々な定義をしてみたが、結局、二つの欲望によって生きる動物に過ぎない。一つは食欲という本能があるから我々は働いて食べて生きていくのだ。もう一つは性欲という本能があるから、年頃になると結婚して家庭を作り、子どもを設け子孫を残して死んでいくのだ。」と話したそうです。これで納得できるでしょうか。人間が生きることは食欲と性欲という本能があるから生きるというのです。それなら豚にもあります。豚の方が人間よりも多く子どもを生むので人間より優れているのかも知れません。これは神を知らない人たちの人生論です。また、ある県会議員は人生を振り返って「私の人生は、丁度行くべき港もなく航海している舟のようなものであった。」と話しました。船の中で一番大切なものは羅針盤です。羅針盤を見ながら方位を正していきます。もし、それが狂っていたら大変です。「船長さん、今どこを走っていますか。」「今、羅針盤が壊れていてわかりません。お客さん、まあ、そんなことは考えないで、船中には踊るところも食べるところもあるので楽しんで下さい。」と言われても、行くあてなく航海していたことを知れば、誰でも不安になると思います。皆さんの羅針盤はいかがでしょうか。私たちクリスチャンの羅針盤は聖書です。聖書を読みながら軌道修正しながら一つの目的に従っていきています。クリスチャンははっきりとした真理をつかんで生きることがわかっています。
 まず第一に何のために生きているか。最近考えることは、どんな有名人であっても知識人であっても、創造主である神がわからなければ人生の生き方がわかりません。聖書を知らなければ生きることができません。今の時代は何が正しいことで、何が悪いことかが時代と共に変わっていくからです。聖書は真理を教え、私たちはどこから来たのか、何のために生きてどこにいくのかについて、はっきりと教えています。私たちの生きる根本的な目的は、私たちを造られた創造主なる神が持っています。神様が私に対する目的を持っています。だから、創造主なる神様を信じなければ、私たちの人生の目的は出てきません。日本の教育の土台は進化論です。進化論では人生の目的を見い出すことはできません。また色々な宗教がありますが、人間の作った宗教は人生の目的にはなりません。しかし、私たちを造られた真の神・創造主を知るときに、私に対する目的がわかります。色々なものを作るとき、時計やラジオ、テレビ、自動車・・・など、必ず作る目的があります。時計は時間を見るためにあります。しかし、根本的には時計の存在目的は人間のためです。服もネクタイも人間のためです。なぜならば人間が作ったからです。そうであれば、私たちは神様によって造られたので、根本的には神様のために存在しています。コロサイ一章十五節から十七節には、

『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』

と書かれています。すべてのものは神によって造られ、神のために造られたということです。ですから、十字架につけられて死んでよみがえったイエス様を本気で信じたら人生の目的がわかります。私は十七才の時に東京に勉強に行きました。その時、偶像に向かって山中鹿之助が祈ったことを願いました。「我に七難八苦を与えたまえ」と願って東京に行きました。私は、あの時に願い事をしたと思い出しました。そして、悔い改めと断ち切りの祈りをしました。
 聖書から見ると基準が違います。イエス様は、「私たちを試みに会わせず、悪より救い出して下さい。」と祈りを教えられ、私たちもそのように祈っています。イエス様は「わたしの愛の中にいなさい。」と言われる方です。十九才の時に私がイエス様のことを知ったことにより、生きる目的を見い出しました。人生の根本的な目的は、創造主を知ることが第一です。『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。』と書かれています。今青少年犯罪が多くあり、教育改正の必要があるなどと言われていますが、本当の解決の鍵は日本の青少年たちも創造主なる神様に出会い、生きる目的を知ることです。ですから、すべての小・中学生、高校生、大学生たちに創造主なる神様を教えたら犯罪がなくなると思います。大人も聖書を読むべきです。子どもたちも日曜日は教会に来るべきです。イエス様を恐れていたら人生を間違えることはありません。創造主なる神を知り、神に喜ばれる生活をすることは大切なことです。皆さんは、「どうしたら人生の意義を見い出せるか」という本を読まれたことがありますか。ぜひ、お読み下さい。この本は私が書いた本です。今一般書店でのベストセラーは、「人生の目的」という五木寛之著の本です。この本について金光石さんが言われました。「結局人生の目的はない。目的を探求するのが人生の目的だ」と言っています。仏教には結論はありません。しかし、私が書いた本には結論があります。造り主である神様がおり、神様がどのような目的を私たちに持っておられるか、行くところもわかっています。この本を持っていくとほとんど売れてしまいます。これは、いのちのことば社から出てベストセラーになり、今は版権が返還されて、プレイズ出版から出されています。また、「われ土方なれどは」二十五版出されました。これもベストセラーです。一般の図書館にも置かれています。最近、まだあるかどうかをいのちのことば社に聞くと、品切れになっていました。そこで版権が返還され、今度プレイズ出版から出されます。しかし、今度出版するときには、「土方」とは差別用語なのでタイトルを変え、「私は足の裏でも良い」というタイトルで副題を「われ土方なれど」として出します。今日多くの人が劣等感を持っています。足の裏は人間の体の一番下です。体は誉められるところもあれば、誉められない所もあります。中学生、高校生時代には頭が良いことが誉められます。しかし、娘時代になると容姿が誉められます。足の裏は誉められたことはありません。しかし足の裏は全身を支える偉大な働きをするところです。多くの人は人からの評価を求めます。きれい、頭が良い・・・などと。人生の目的は造り主なる神様から評価を受けるべきです。造り主なる神様に喜ばれる。これで良いのです。誰からも誉められなくても良い。造られたところで足の裏でも良い。神様のために生きよう。これが私のモットーです。また足の裏は聖書では「ああ。麗しきかな、良きことを伝える者の足は」と書かれています。ある意味で私の中には福音を伝える足ということもあります。福音を伝える足という目的があります。ですから、いつも私たちは人生において、神様に喜ばれることを考えるべきです。山に行くと山ユリが咲いています。いい匂いがします。誰も来て誉めてくれませんが、きれいに、力一杯咲いています。だから私は県民の森に行くと、ユリに「ユリちゃん、きれいだね。」と声をかけます。私たちは神様に喜ばれるために生きることです。ですから、神様によって喜ばれるために生き、神様の栄光のために生きましょう。パウロはコリント人への手紙第一の九章十六節で、

『というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。』

と言っています。パウロにとっては『生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。』彼はダマスコ途上でイエス様に会いました。

『「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」私が「主よ。あなたはどなたですか。」と言いますと、主がこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」』

そして彼は「主よ私は何をしたら良いですか。」その時イエス様は、「あなたはこれからダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決められている仕事がそこにおいて告げ知らされるでしょう。」と言われました。彼の人生の最大の仕事は十字架につけられてよみがえられたイエス様を伝えることでした。イエス様以外に救いはない。イエス様を信じなかったら地獄に行ってしまう・・。だから彼の人生は決勝点のわからないような走り方ではなく、イエスを伝えること、これが私の与えられた目標だと信じたのです。私たちもはっきりとした目標を持って生きるべきです。今の時代、あなたは何を目標にしていますか。ある人は金のこと。金儲けは悪くありませんが、神様のためにするべきです。「自分のために金銭を愛するものは自分自身をさし通す」と書かれていますし、「金持ちたちは未来に対して良い備えをしなくてはならない」と書かれています。教育を目標にしている人は、良い学校に入れることだけを考えてはいけません。生まれたときから程度が良い人もいます。一度聞いただけで覚えてしまう人もいます。ソンミンヨン先生の奥さんは、歌を一度聞いただけで全部覚えてしまいます。しかし、頭が良いか悪いかではなく、その才能をどこに使うかです。神様のために才能を使うべきです。子どもたちも一番大切なことは、「人はたとい全世界を手に入れても、自分のいのちを損じたら何の得になろうか。」と書かれているので、最終的には天国に行くことを目標にするべきです。
 今年は二千年です。ミレニアムと言われています。先日家庭集会に行くと、開催家庭の側の美容室にミレニアムパーマと書かれていました。どのようなパーマかわかりませんが。ミレニアムという言葉を調べました。すると、「千年紀」という意味でした。辞書にはキリストがもう一度この世に来られて世を治める時と書かれていました。外国ではこのことを喜んでいますが、これは間もなくイエス様が来られるという喜びです。クリスチャンにとっては素晴らしいことであり、クリスチャンではない人にとっては恐ろしいことです。テサロニケ第一の手紙四章十三節から十七節には、

『眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』

と書かれています。平岡先生が私に「先生。いつとはわかりませんが、二十一世紀にはイエス様が帰って来られるでしょうね。」と言われました。千年の間イエス様が王様になられます。聖書はもう一度帰って来られると教えています。アダムからイエス様までは四千年、イエス様から再臨まで二千年、それから千年までは千年王国という解釈を多くの人がされています。いつ帰って来るとは言ってはいけませんが、クリスチャンはいつイエス様が来られても良いように用意することも必要です。申賢均師は、いつイエス様が来られるかと言うと、多分、朝来られるに違いないと言われました。なぜならば韓国では早天祈祷会で祈っているのでイエス様はきっと朝来られると話されました。しかし、他の所は昼かも知れないし夜かも知れません。しかし、私は一番良い時は、礼拝の時に来ていただきたいと思います。礼拝で主の前に出ているときに天に携えられたら素晴らしいことです。次の礼拝に来たら皆いない。どうしたか・・・と驚くかも知れません。礼拝は休まないようにして下さい。忙しいと言ってもイエス様を第一にするべきです。何があっても礼拝をしっかりと守ること、イエス様に会い、御言葉を学び、祈ることが大切です。やがてイエス様が来られます。私たちの目標は、イエス様が来られる時のために人々に何とかして福音を伝えることです。『生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。』朝起きたら「今日も誰かに福音を伝えることができますように。」と祈ります。毎日福音を伝えています。
 私は今年大阪のインタ・ナショナル教会で三回聖会をしました。そこへ私が招かれた理由は、「最近うちの教会員は伝道しなくなった」ということで、もう一度福音に生きるためにお願いしますと言われました。自分のことだけ考えて問題があるとか、傷ついたということではいけません。夢中になって人々のため、魂のために伝道したら自分のことは大したことはありません。正直言って病気も直る人と直らない人がいます。生まれつき重度障害者の方もいます。精神的に弱い方もいます。しかし、イエス様が再臨されたら、よみがえることができます。この世の中で少しくらい苦しみがあっても、イエス様が来られたら死も、傷みも、悲しみも、叫びもない復活の体に与れるのです。ですからパウロが言うように、

『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』

 私たちに必要なことは伝道することです。十字架の福音はクリスチャンがどうしても伝えるべきことです。イエス様を信じなかったら人々は地獄に行ってしまうのです。黙示録二十章十二節から十五節に、

『また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』

と書かれていま
 
 
 
 

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