今週の礼拝メッセージ
2000.5.28(SUN)
前進して主のみこころを知ろう
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 マルコの福音書 6章41節〜52節

するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

 

   ハレルヤ!皆さんとともに御言葉を学ぶことができることを感謝します。いつもお祈りに支えられて働きができることを感謝します。スーパーミッションも近づいてきましたが、日本のリバイバルのためにご一緒に前進していきたいと願っています。今朝は、「前進して主の御心をつかんでいく」というテーマで話したいと思います。
 今日お読みした御言葉は、イエス様の起こされた奇蹟の中でも最大の奇蹟ともいうべきことです。五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人を食べさせたというのです。当時ユダヤでは男性だけしか数えませんでした。少し差別があったようです。女性と子どもを合わせたらたぶん二万人近くが五つのパンと二匹の魚によって養われたという大奇蹟です。時々、聖書の中の奇蹟はイエス様がトリックを使ったのだろうとか、あれは何かのインチキだと言う人がいますが、五千人にパンを食べさせるのはトリックのきかない奇蹟です。なぜならば、お腹が空いている人を満腹にさせるには、実際の食べ物がなくては満足させることができないからです。イエス様は「五つのパンと二匹の魚」だけで五千人以上の人々を満足させるほどパンと魚を増やされました。
 私たちが聖書を読むときに、どのようにして読むべきでしょうか。そのひとつの方法が、自分も群衆の一人となって読むと感じ方が違うと思います。五千人の群衆の一人になってこの奇蹟に預かったら、どんな感じがするでしょうか。あなたの目の前で、五つのパンと二匹の魚がどんどん増えるのです。あなたの手の上にもパンが渡ってきます。それを裂いてみるとまたもと通りに大きくなります。そして隣の人に渡すとまた隣でもパンと魚が増えていきます。その時の興奮はすさまじかったと思います。「増えた!また増えた!・・・」とその場は、大混乱と興奮のるつぼであったと思います。、私たちが聖書を読むときに、自分もその中の一人として、イエス様と相対して奇蹟に預かっている気持ちで読むことは大切だと思います。
 同時に、私たちが聖書を読むときに、「イエス様」から目を離してはいけないと思います。イエス様がどのような動きをされているか注目すべきです。それで今朝は、特にこの大きな奇跡を起こしたあとのイエス様の行動に注目してみたいと思います。イエス様はこんな大きな奇跡を起こしたにも関わらず、そのあと、どのように行動されたのでしょうか。それは、群衆を解散させてご自分はすぐに山に登って祈りに行かれました。お腹が一杯になったり、神様の素晴らしい祝福に預かったりするとそこにとどまっていたいと思います。ずっと余韻を楽しんでいたいものです。次のところに向かって出発することはあまり好まないと思います。一つの仕事を終えた時は、「やれやれ」という感じでなかなか次の行動に移れないものです。
 皆さんの祈りに支えられて、私も毎日のようにスーパーミッションの決起大会に飛び回っています。先々週は大変忙しい日々でした。群馬県を廻りましたが、何と一日に三回もの集会が入っていた日もありました。同じところで三回ならば良いのですが、朝・昼・夜と会場も違い、会衆も色々なタイプの方々で一考を要する仕事がたくさんありました。朝は養老院で集会でした。おじいさんおばあさんに何を話したら良いのかと悩みました。そして午後・夜と続きました。私の集会は結構長いのです。三時間、四時間という長い集会です。いくら私がタフだといっても三回終えて、「やっと終わった」という感じでした。終わったときはほっとしました。終わってからコンビニに行き、宿舎に戻りネクタイをとって寝ころび気がつくと朝になっていました。案外ホッとしてしまうと祈ることも、聖書を読むことも忘れるものです。
 しかし、イエス様は違いました。五千人にパンを分け与える大奇蹟を起こしながら、イエス様の行動は、すぐに弟子たちを岸辺に送り出し、自分は山に登って祈られたのです。今日、皆さんにお勧めしたいことは、一つ一つの仕事の後、祈りを持って結ぶという習慣です。私も大変忙しいのですが、愛知県民の森祈祷会が月曜日の夜にありますが、それは私にとって欠かすことができません。その祈祷会に行かないと一週間神様の前に働くことができないように思います。何しろ、少しくらい疲れていても真剣に主を求めて油注ぎを求めなければ、一週間の戦いの中でガス欠になるような気がします。だから私はどうしても、月曜日の夜は色々な仕事があっても全部おいて県民の森に潜り込んで祈ります。また水曜日の夜にも祈ります。そうすると違います。自分の働きではなく、主ご自身が動いて下さることを経験します。私も色々な場所で奉仕させていただいていますが、自分の力の無さがよくわかります。主が働かれなければ何もできないことがよくわかります。そのためには一つ一つの仕事を終えた後、主の前に出るべきだと思います。
 一昨年、「東京リバイバルミッション」が行われました。十日間、日本武道館で祝福された集会が持たれました。最後の日はすごく恵まれました。その日の宣教大会で救われて、今日ある方もいますが、本当に恵まれた集会でした。最後の賛美では全員が踊りまくって、天国の饗宴のようでした。私は、集会が終わって片付けを少し手伝って帰ってきました。私は終電で新城止まりの電車で帰ってきました。新城駅からここまでタクシーを拾おうと思いました。しかし、イエス様が「あなたはタクシーではなく、歩いて帰りなさい」と言われたような気がしました。なぜなら、「十日間の集会を感謝して、祈りながら歩くよう」にと語られたように感じたからです。そのような思いが響いてきたので仕方がないと思いながら、荷物抱えて教会まで数キロ歩いて帰りました。そうしたら教会のバスが私を追い抜いていきました。いずれにしても、一つの大きな仕事が終わったときに、どのような行動をとるかが大切だと思います。
 この大奇蹟の中でパンや魚を持ち運んで人々に渡したのは弟子たちだったと思います。奇蹟の詳細を見たのが十二弟子であったと思います。彼らは興奮したと思います。「イエス様って何て方なのだろうか。イエス様と一緒にいたら食糧難はないのではないか」「ずっと一緒にいたい」と思った事でしょう。しかし、その奇蹟のあとでイエス様は、弟子たちを「すぐに」舟に乗り込ませて、向こう岸に行くように言われました。彼らはお腹がいっぱいで動きたくなかったかも知れませんが、すぐに送り出されました。
 さて、「すぐに」とマルコは記していますが、本当に「すぐに」弟子たちは向こう岸に行ったでしょうか。聖書には、色々な視点があります。そんな中、マルコの視点は割合大まかです。しかしながら、今、サンデースクールでヨハネの福音書を学んでいますが、ヨハネの視点はもっと細やかです。じっと観察しています。私たちの中でも、大ざっぱに見ている人と、細かく見ている人がいると思います。この礼拝の中でも色々と細かく見ている人と、大ざっぱな人と色々とおられます。教会のスタッフの中も、細かくやってくれる人と、メチャクチャ大ざっぱな人と両極端ですが、それでうまく行くのではないかと思います。ヨヘネは細かく見ていました。マルコは「すぐに行った」と書いていますが、ヨハネの福音書六章で同じ事を扱っていますが、十六節で、

『夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。』

と記しています。イエス様は「すぐに行きなさい」と言われました。この奇蹟が行われたのは昼間のことであったと思います。大群衆の中で、このような奇蹟は暗くなってから出来るものではないと思います。イエス様が群衆を解散させたのも明るいうちだったと思います。そしてイエス様は弟子たちに「すぐに」舟に乗って向こう岸に行きなさいと言われたと思います。しかし、弟子たちはイエス様に強いられ舟に乗ったかのような感じを受けますが、ヨヘネの観察によると、『夕方になって、弟子たちは湖畔に降りていった。』のです。彼らはあまり向こう岸に行きたくなかったのかも知れません。私たちもイエス様から言われたならば、すぐに行動をとる人間になりたいです。しかし人間は悲しいことにイエス様から言われたとおりになかなかできない者であることも確かです。しかしイエス様は、「すぐに」山に登って祈られました。弟子たちはその間、ぐずぐずして夕方になってから湖に出ていきました。その時にどのようなことが起こったでしょうか。湖に大風が吹いてきて、船が転覆してしまいそうな大きな事件に巻き込まれたのです。
 福音書を見ていくと、ガリラヤ湖に二つのタイプの風が吹いたのを発見することができます。ガリラヤ湖周辺は、イエス様ご自身の宣教の中心地でした。同時に、イエス様の生活の中心地でもありました。これは私たちの人生にも置き換えることができると思います。ガリラヤ湖はイエス様の生活の中心地であったように、また私たちの宣教の中心地は私たちの生活の中にあります。私たちの人生のただ中に二つのタイプの風が吹くということです。一つはマルコの福音書の四章の終わりのところに、イエス様が乗っていた舟に強烈な風が吹いたことが書かれています。それは、イエス様がゲラサという地に宣教に行かれる途中でした。その途中に大風が吹いて舟が沈没しそうになったことが四章後半に書かれています。しかし、イエス様はその風と波に向かって「黙れ。静まれ。」と命じられたときに、凪になったという記事があります。そして五章には、イエス様がゲラサの地に着いた途端、悪霊につかれた男が出てきて、「イエス様。私たちを苦しめないで下さい。」と叫んで飛び出てきたとあります。これはある意味で、「妨害の風」です。これはサタンがイエス様がゲラサの地に来たら追い出されてしまうので、自然をも操作して風を吹かせイエス様をゲラサの地に来させないようにしたということです。私たちの信仰生活の現場の中で、宣教地という現場の中に妨害の風・サタンの風が吹くのです。これに対してはイエス様が「黙れ、静まれ」と権威を使われました。私たちもサタンと戦わなければならないのです。私たちのただ中に妨害の風が吹くということです。
 甲子園ミッションの時のことを忘れられません。一九九二年九三年の頃、私たちは強いて舟に乗り込ませられて沖に出されたようでした。その時に「霊的戦いの風」が吹いてきたことを私たちは経験しました。これは人ではなく背後の悪魔の騒ぎの風です。人生の中でも、私たちが主のために立ち上がって前進しするとき、必ず吹いてくる風、それは、それを止めようとするゲラサの風です。これに対して私たちは敢然と戦わなければなりません。
 しかし、今日学ぶべきところはもう一つの風です。それは五つのパンと二匹の魚の奇蹟のあとで吹いた風です。これは、「主の訪れの風」でした。なぜならば、イエス様が湖の上を歩いて近づいて来られたからです。私たちの生活、宣教のただ中には妨害の風だけではなく、「主の訪れの風」が吹くのです。私たちは主の訪れの風を受け、心を開いてその風を受け入れる必要があるということもここから教えられます。
 イエス様が水の上を歩いて近づかれました。しかし、弟子たちの反応は、何とそれを幽霊だと脅えてしまったのです。しかし、これは当然のことだと思います。昔はサーチライトなどはなかったので、夜中の三時頃舟をを漕いでいると、白いものが目の前を通っていたら誰でも幽霊だと拒否すると思います。私もそこにいたら、きっと弟子たちと同じように叫んでいただろうと思います。主の訪れを私たちは待ちますが、主の訪れは必ずしも私たちが受け入れやすい状態で訪れるのではないということもわかると思います。リバイバルの為に私たちは真剣に祈ります。しかし、リバイバルが来ると逃げ出す人が多いと言われます。本当にそうだと思います。
 一九九二年二月十三日に県民の森で祈っていたときに、聖霊様が私たちのところに訪れ下さいました。しかし、私たちは恐れました。これで良いのだろうか、何が起こるのだろうか。九十二年、九十三年を新城教会で過ごされた方は、「教会に何が起こってしまったのだろうか」とある意味で、恐れたと思います。主の訪れは私たちが受け入れやすい形で訪れないということです。そして、一方では閉めなければならない扉もあります。まず、閉めなければならない扉は「経験の扉」です。私たちはそれぞれ、一つの方程式を持っています。昔、中学校の頃、方程式を学びました。例えば、直線のグラフのy=axです。aのところにいろいろな代数を入れます。クリスチャンは一つの方程式に、信仰という代数を入れます。それを一としたり二としたり、三としたり・・・それによって傾きが変わっていきます。しかし、基本の方程式は自分自身が備えたものです。その方程式を捨てなければならないのがリバイバルだと思います。リバイバルは今まで私たちが経験で得たような方程式を全部捨て去らなければならない事態が現れます。それでも恐れないで主の訪れを受け入れるようになりたいと思います。これから日本のリバイバルがどのように進むのかわかりません。また、スーパーミッションを通してどのような業が起こるかわかりません。今後、主がこの国をどのように扱っていかれるのか私たちには予想がつきません。そのような中で、自分の経験に頼るのではなく、主ご自身の御心を受け入れるものにならなくてはならないと思います。また、同時に恐れや偏見の扉も閉めなければなりません。そうではなくては主の訪れを私たちは受け取ることができません。
 弟子たちもイエス様が近づいて来られたときに、そのような「経験の扉」や「恐れの扉や偏見の扉」を閉めさせられました。そしてイエス様ご自身を舟にお迎えしたときに、程なく舟は目的地に着いたとあります。主の訪れは、扉をノックされるようなものです。個人においても教会においても、主の訪れの時が来ます。その時に私たちがどのように対応するかが大切です。
 黙示録三章にラオデキヤ教会が出てきます。その教会に主が訪れられた様子が書かれています。黙示録には七つの教会が出てきます。そんな中で、ラオデキヤ教会はあまり評判の良い教会ではありません。読むと、「このようには、なりたくない」と思われる教会の一つです。三章十四節から十六節に、

『ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』

と書かれています。私たちも、ラオデキヤ教会のように、生温いと言われたくはないと思います。熱いか冷たいかどちらかと言われるので、熱くなるべきだと思います。しかし、ラオデキヤ教会の人は決して自分たちが生温いとか冷たいとは思っていなかったのです。三章十七節に、

『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』

と語られています。彼らは自分たちは決して生温いものだとは思っていませんでした。自分たちは、恵まれている、富んでいる豊かになった乏しいものは何もないと感じていたのです。そんな時にイエス様が戸の外に立ち、ノックされました。これは、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の後の弟子たちの状態とよく似ていると思います。ここからわかるのは、イエス様が訪れられるときはどのような状態の時かというと、案外私たちが飢え乾いて、「主よ。今私は飢え乾いています。助けて下さい。」と言うときもイエス様は訪れて下さるのも確かなことですが、それ以上に、「何の乏しいこともない、富んでいる。豊かになった、貧しくはない」というように、満足しているときに主は私たちのところに来られるという事です。丁度、弟子たちがお腹がいっぱいになり、もう良い、動きたくないという時に、「向こう岸に行きなさい」と言われたのと同じように、恵まれて満足しているただ中に主が訪れてノックされるのではないかと思います。もしも皆さんが、今日、何も不自由がなく、恵まれていて感謝しているとしたら、「こんな時に、主は訪れないだろう」と思ってはいけません。そんな時にこそ、主は外に立ってノックされ、「ドアを開けて下さい」と語られるのです。「私はお腹がいっぱいなのだからドアを開けたくはないです。」と言わないで下さい。主の訪れは、意外なときに起こるのを知らなければならないと思います。
 同時に、主が成された奇蹟は、それで終わりではないということです。次の意味を求めなければならないのです。「弟子たちは堅く心を閉じていた」とありました。イエス様が五つのパンと二匹の魚を五千人以上の人に食べさせた大奇蹟で彼らは感動していました。しかし、彼らの心は閉じていました。ヨハネの福音書六章はそのことについて説明をしています。イエス様と弟子たちが向こう岸に行ってしまったのを群衆は知りました。それで群衆はイエス様の後を追いかけてきました。当時、イエス様は人気者だったので多くの人が追いかけていました。追っかけがイエス様を見つけました。イエス様はカペナウムにおられました。六章二十五節で、

『そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」』

イエス様は「パンを食べたという奇蹟だけにお前たちは捕えらわれている、しかし、奇跡を行ったのには、他の目的があった」と言われています。イエス様が五つのパンと二匹の魚の奇跡を行ったのは、人々がお腹が空かしていたから食べさせた、ということだけではありませんでした。その意味は、パンはイエス様ご自身でありで、裂かれることは十字架を現し、増えるとはご自分のいのちを皆に分け与えられ「皆が生きる」という、それは、イエス様=神ご自身であるということを奇跡を通して現したかったのです。
 また湖を歩いたイエス様が、「弟子たちの側を通り過ぎようとされた」と書かれています。「通り過ぎるなんてひどい」と思われるかも知れません。しかし、「通り過ぎる」という行動にも、意味合いがあると思います。旧約聖書中の神の顕現に、「通り過ぎる」というのがあります。モーセに神様が現れて、『わたしがあなたの前を通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。』と出エジプト記三十三章で神が語られました。また、エリヤがイザベルから逃れて四十日間走ってホレブの山に来たときに、神はエリヤに「あなたは主の前に立ちなさい」と言われました。その時に「主がエリヤの前を通り過ぎられた」とあります。通り過ぎることは神がどこかに行ってしまわれた、ということではありません。これは、神ご自身が人の前に現れた証拠であったのです。
 イエス様が弟子たちの前を通り過ぎたということは、イエス様ご自身が神であるということを、五つのパンと二匹の魚の奇蹟と共に弟子たちに教えたかったのです。しかし、彼らの目は閉じられていました。ただ五つのパンと二匹の魚が「増えた」ということだけの理解でした。それで、イエス様は、「あなたがたはただ、パンを食べて満足したから来たのではないですか。なくなる食物ではなく、なくならない食物のために働かなければならない」と言われました。
 私たちの中にも、神様は色々な奇蹟を見せて下さいます。素晴らしい御業を見せて下さいます。そんな時に、私たちはそこで止まっていてはいけないのです。その奇蹟が教える意味について主に祈るべきです。求めなければなりません。私たちの中に色々なことを主が成して下さいます。そのような中で私たちは「主よこの意味は何ですか。」といつも、主に返す態度を信仰生活の中に持つように語っておられると思います。そして、「受けるのではなく、与えるものとなるように」というのが主からのメッセージであると信じます。
 リバイバルは二段階で推移するものだと信じています。出エジプトしたイスラエルの民が、初めは荒野を巡りましたが、やがてモーセからヨシュアに世代交代したとき、ヨルダン川を渡りカナンの地に入りました。リバイバルも初め、「荒野型のリバイバル」が起こって来ると思います。しかし、それだけではいけません。ヨルダン川を渡り、今度は「カナンの地型リバイバル」に進まなければなりません。
 荒野の生活は四十年間でした。時々、イスラエルは四十年間荒野を巡って死に絶えた、彼らは大変な目に遭った、というメッセージが多いです。しかし私はよく考えてみて、四十年間は彼らにとってそんなに辛いときではなかったと思います。なぜならば、昼は雲の柱、夜は日の柱が彼らを導き、朝になると何も仕事をしなくてもマナが降って、また肉が食べたくなるとうずらが飛んできました。水も湧き出ました。何もしないで、四十年間遊び暮らしたようなものです。結構楽しかったと思います。エジプトからカナンの地はそんなに遠くありません。簡単に行けます。すべてを把握できないような場所ではありません。砂漠と言っても、起伏があって結構変化に富んでいます。今でも住んでいる人がいます。イスラエルが何も仕事をしなくても食糧は与えられていました。何もしなくて食糧が与えられたら、こんな嬉しいことはありません。新城教会に、何もしなくても食糧が準備され、何もかも揃ったら楽しいと思います。皆で朝から晩までPPHでもして楽しいと思います。時間になれば食糧が出てきて、何もかも準備され、今ならお金も出たら素晴らしいと思います。そんな良い生活はないと思います。だから、あの四十年間は案外彼らにとっては抜け出すことのできない、暖かい環境であったのかも知れません。しかし、神様はそこで止められなかったのです。ヨルダン川を渡らされました。渡った時にどのようなことが起こされたのでしょうか。カナンの地に入り、ギルガルに宿営したときに、ヨシュア記五章十二節に

『彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルには、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫したものを食べた。』

と書かれています。カナンの地に入国した途端マナが降らなくなりました。自分たちが働いて収穫しなくてはならなくなりました。同時に、イスラエルの軍隊の長、ヨシュアのところに不思議な人物が現れました。五章十三節に、

『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこでヨシュアはそのようにした。』

 主がヨシュアの目の前に現れたのです。しかし、その時の主の姿は彼らが四十年間付き合ってきた主の姿とは全く別のものでした。今までは雲の柱、火の柱で神と関わり、マナをくれた、うずらをくれた神様は大体わかっていました。しかし、カナンの地に入国してから現された主の姿は全く予想のつかない姿でした。抜き身の剣を持った姿で現れた主の姿は、ヨシュアは敵か味方かわからなかったのです。何とそれが主の姿でした。そしてヨシュアがイスラエル軍の将ではなく、「主ご自身が軍隊の将」であることが告げられました。そして彼らは、カナンの地を奪回するために働かされました。出エジプトの目的もカナンの地の奪回にありました。
 クリスチャン生活にも色々な段階があります。しかし、最終的な段階は、その地の奪回という大きな目的があります。日本において私たちが救われたのは、ただ私たちを祝福し、食べさせ肥やして喜びを与えるだけではないのです。一人一人を主の軍隊に入れ、主のために、神の国を回復させるために私たちを選んで下さったのです。この日本のために、私たちが、又、私たちの教会が何をするべきなのかを求めるべきです。また、主の軍の将として来られているイエス様に私たちは従って行くべきです。いくらマナがあってもなくても、主の臨在の火がなくても主の軍隊の中に入って私たちは働くべきです。私たちも今の段階から次の段階に進ませていただき、主の御心を知る者にさせていただきたいです。今週、「なすべきことを成させて下さい」と祈って下さい。そして、一つの行動の後で必ず祈りを持ってつないでいくイエス様のライフスタイルを自分のライフスタイルにしましょう。一言お祈りします。
 
 
 
 

バックナンバー
戻る
戻る