今週の礼拝メッセージ
2000.6.4(SUN)
スリヤ佐野師特別講演記録
ーダビデの幕屋の回復ー
 

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 アモス書 9章11節〜15節

その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。・・これをなされる主の御告げ。・・見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。

 

    主の御名をほめたたえます。新城教会に来ることができたことは大きな特権であり、光栄です。愛する兄弟姉妹の顔を見ることができ、嬉しいです。主にある兄弟姉妹の愛溢れるもてなしを感謝しています。
 この国は主のものです。私たちはこの王国に召された者、私たちも主と共に王であり、祭司として主と共にその地を治めるために造られました。日本のリバイバルの震源地とも言えるこの新城に来ることができ感謝します。そして素晴らしい環境です。東京はごみごみしていて、毎朝多くの人に押しつぶされながら電車に乗ります。電車に乗ると持っているカバンから手を離すとそのままです。喜んで良いのか悲しむべきかわからないような特殊の環境から来たことを覚えます。ここに来て主のいのち、新しい主の愛を体験しています。このようにして日本の色々な教会と交わることは大切です。私たちは共に主にある兄弟姉妹であり、日本のリバイバルを信じることにより一つであることを感謝します。今日はアモス書九章の御言葉からダビデの幕屋の回復について学びます。

十一節に、『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし・・・。』と書かれています。その日とは聖書の中で終わりの時代を現しています。『終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』と書かれています。旧約聖書の預言の中のその日、終わりの日はイエス様が再臨される時代の最後の日を指すことを信じます。
 新城という町にはかつて私は愛知県民の森にキャンプがあった時に来ましたが、この新城という町を神様が特別な目的を持って造られたと思います。昨晩この御言葉を祈りながら考える時に、主から新城の町について示されたことをお分かち合いたいと思います。どうぞ吟味下さい。新城という町は、新しい城と書きますが、神様の前に城のような働きをする町であると信じます。城は敵が攻めてきても城壁が建っており、敵の攻撃をくい止め、すべての戦いの基地のような働きをする場所です。そこには王が住まわれ、その国を治めその国とを統治する、敵との戦いの中で要塞のような働きをする中心的な場所です。新城は新しい城と書きます。古い城ではありません。神様は私たちにこの時代に神様は新しい聖霊のぶどう酒を与え、それを入れるための新しい革袋を備えられます。この町にある十字架が天に延びており、どこからも見えるようなロケーション、また霊的な意味でこの町の真ん中に神様によって置かれた新城教会は、終わりの時代に注がれるご自身の新しい霊・新しいぶどう酒を入れるための新しい革袋であることを信じます。そしてただの革袋ではなく、その革袋は城の役目を果たします。それは神の王国にとって今はまだ世界中で働いているサタンの王国に対して、サタンはやがては縛られますが、今はまだ働きが許されています。サタンの王国に対して神の王国として、また神の国の要塞、城として、基地として宣教の中心として神がこの教会を選ばれていると信じます。それゆえ、神様は数十年前から多くの恵みを与えられ、ビジョンを与え、多くの器たちを形造り、これはすべて神の御手の働きです。そしてこの教会から色々なミニストリーが生まれ、育ち、それが全世界、全日本に福音を伝えるための力強い砦として成長し続けています。滝元明先生は日本を代表する伝道者として何十年も前から主に仕えて来られました。また滝元先生のお子さまたちはこの教会を導いておられますが、チームとしてお父様の意志を継ぎさらに拡大し、神様のために働き、多くの器たちが生み出され、形造られこの町だけではなく、日本全国に対して霊的な要塞となり、戦いのために必要な機材・材料を送り出し、全日本を勝利に導くために仕えている教会です。昨晩そのように与えられました。主はこの場所を愛され特別な好意を持たれています。驚くべき恵み、主の好意がこの教会、町に、一人一人に注がれていることをもう一度確認したいです。主の御名を賛美しましょう。

 旧約聖書のダビデの幕屋の意味について解き明かしたいと思います。神様は終わりの時代にイエス様が再臨される直前に「倒れているダビデの仮庵を起こす」と語られました。新城教会も神様が終わりの時代に建て直そうとされるダビデの幕屋であると信じます。ダビデの幕屋を建て直す、現代では幕屋は教会の意味です。ダビデの教会を建て直すことの意味は、十二節に、

『これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。』

と書かれています。ダビデの幕屋・教会が回復される目的は全世界が勝ち取られるためです。これはリバイバルの収穫のために何千年も前から神が計画されたことです。ダビデの幕屋が回復されているこの時代に神様は別なタイプな幕屋も存在することをこの預言は前提にしています。ダビデの時代には、同時にもう一つの幕屋が存在しました。旧約聖書に書かれています。昔、イスラエルは出エジプトの時にエジプトから出て荒野を四十年間さまよい、ヨルダン川を渡り、ヨシュアの時代に約束の地カナンに入りヨシュアが死に裁き司の時代になり、士師の時代にイスラエルは苦労しました。最後の士師であるサムエルがイスラエルに王が必要だという民の声を聞き、サウル王様を立てました。この時、イスラエルは初めて王国時代を迎えました。サウル王様の四十年の統治後ダビデという王様が出ました。そしてその後はソロモンが出て、王国は偶像礼拝の罪のために北と南に分かれました。ダビデの時代にはかつてダビデの前の世代、モーセの時代に造られたモーセの幕屋がありました。両方とも神様がご臨在された神の御住まいです。アモスの預言している時はダビデとモーセの二つの幕屋がイスラエルにありました。神様はどうしてモーセの幕屋を昔のように建て直せ、と言われなかったのでしょうか。たまたま、ダビデの名前を神様が使ってダビデの幕屋と言われたのでしょうか。ここには大きな意味が隠されていることを信じます。ダビデの時代にはギブオンの高き所にモーセが作った幕屋が存在しました。第一歴代誌十六章三十九節から四十節に、

『祭司ツァドクと彼の兄弟である祭司たちを、ギブオンの高き所にある主の住まいの前におらせ、全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた。』

と書かれています。これはダビデの天幕が造られた所で、同時期にギブオンの高き所にある主の住まい、これはモーセの幕屋を意味します。ここで生け贄がささげられました。モーセとダビデの幕屋の違いは、モーセの幕屋の中にはかつて存在した契約の箱がありませんでした。契約の箱は大祭司エリの時代に、敵ペリシテ人の手によって奪い取られたと記録されています。モーセの幕屋の外庭に聖所、至聖所の中に契約の箱と贖いの蓋があり、その上に昼は雲の柱、夜は火の柱として神様の臨在がありました。すなわち契約の箱は神様の臨在を意味しています。モーセは契約の箱の贖いの蓋にあるケルビムの翼の間で神と語ったと記録されています。契約の箱、神様の臨在、御力の箱が敵の手によって奪われてしまいました。モーセの幕屋とダビデの幕屋は教会の雛形です。現在、モーセの幕屋とダビデの幕屋とは同じような形では私たちの所にありませんが、これは教会の雛形です。神様はモーセの幕屋型の教会と、ダビデの幕屋型の教会が同じ時代に存在するということです。それは世の終わりの出来事です。アモス書の「その日」は、「終わりの日」を意味していますので、この時代にモーセの幕屋型の教会ではなく、ダビデの幕屋型の教会を回復する、それは旧約聖書の型として現されているモーセの幕屋の特徴とダビデの幕屋の特徴を見る時に、ダビデの幕屋の中にある教会が回復されることを意味すると信じます。
 モーセの幕屋は神様がモーセに律法を与えた時代の出来事です。モーセの幕屋は律法による支配があり、そこでは動物が生け贄としてささげられました。モーセの幕屋に牛や羊が引かれてきてほふられます。イスラエル人の罪のために犠牲として動物が死ぬということでした。その幕屋は重苦しい雰囲気で包まれていました。そして悪いことをすると罰があり、そこには血が流され、動物のうめき声が聞こえました。少しでも音を立てたならば警告されるほどに厳粛でした。そして無断で聖所・至聖所に入るならば神のさばきがありました。さばきは正しいものでしたが、人々は恐れながら幕屋に近づきました。そのような雰囲気の教会があるでしょうか。これはモーセの幕屋型の教会、律法を意味します。もちろん律法は正しいものですが、私たちは律法によっては救われません。律法はむしろ私たちを罪の中に閉じ込めます。「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」と言われれば言われるほど、破ってしまうと言うのが罪を持っている私たちの弱さです。これはモーセの幕屋です。
 それに対してモーセの幕屋からペリシテ人によって盗まれてしまった契約の箱をダビデは取り戻しました。第一歴代誌十五章一節に、

『彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った。』
 また、十六章一節に、
『こうして、彼らは、神の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中に安置した。それから、彼らは神の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。』

と書かれています。ダビデはモーセの幕屋から奪われた契約の箱をペリシテ人の手から奪い返し、自分がエルサレムのシオンという所に造った幕屋の真ん中に置かれたと書かれています。また、ダビデの幕屋の周りには全焼の生け贄と同時に、賛美の生け贄がささげられました。ここで初めて生け贄としての「賛美」がささげられました。モーセの幕屋にはありませんでした。モーセの幕屋にあったものは動物の生け贄、ダビデの幕屋にあったものはもちろん動物の生け贄もささげました、律法も守りました。しかし、同時に生け贄の本質であるところの私たちの砕かれた心、また私たち自身が生きた供えものとしてささげていくという霊的な生け贄がダビデの幕屋で初めてささげられました。そしてダビデは人は律法によらず、愛によって変えられるとダビデがささげた賛美と感謝の生け贄は神の恵みを感謝するものでした。ダビデも大きな罪を生涯の中で犯してしまいます。ダビデは人間的な力で進んだら、とても進むことができなかった人でした。もちろん私たちも同じです。私たちは律法を守ることではなく、神の恵みによってその恵みを信じる信仰によって救われます。それがわかった教会は、もちろん律法が守れるよう主との交わりを求めますが、それ以上に神の赦しと愛を受け取り、神に感謝の霊的な生け贄である「賛美」をささげるようになります。この教会もそのような意味で、神の恵みを理解したダビデの幕屋だということができます。そのような神様のご計画の中で、この教会も回復されるべきダビデの幕屋としてあることを知って下さい。
 また、ダビデの幕屋の中には賛美の務めが存在します。ダビデの幕屋という召しを受けた教会は、自分たちも神の選びを悟り、益々賛美について聖書を学んでいきたいと思います。歴代誌十三章から十七章まで賛美の生け贄をささげるためのダビデの幕屋のことが九章に書かれています。この時だけでは分かち合うことができませんが、今日はダビデの幕屋についてです。
 ダビデの幕屋に対して大きな攻撃が来ます。十五章二十八節から二十九節に、

『全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。こうして、主の契約の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。』

と書かれています。このことはサムエル記にもっと詳しいことが書かれています。ダビデ王が踊って跳ねたことについて、ミカルがたしなめました。ダビデも喜びのあまりか体が動いてしまい飛び跳ね、小踊りして神の前に喜んで賛美をささげました。「私は私の家来に卑しめられても私を愛して下さる神の御前で敬われたい」と彼は人を見ませんでした。神様を見ました。人を見ると恥ずかしい、どう思われるのだろうか。あの教会は狂ったと思われるのではないか。しかし、神様を見ました。神様が自分を愛して下さっているという喜びのゆえに、賛美と踊りが飛び出してしまいました。それは主の霊が下ったのです。その時に私たちはじっとしておれません。神の御前で小踊りし、神に賛美と礼拝をささげるようになります。サウルの娘ミカルはさげすみました。サウルの時代には契約の箱を取り戻すことを言いませんでした。ダビデの時代に初めて私たちに必要なのは神の臨在なのだ、これを取り戻すべきだと国を挙げてペリシテ人から奪い取るのだと精鋭をあげて勇敢に立ち向かいました。サウルの時代にはあまり省みられなかった契約の箱・主の臨在を現すと言いました。すべての教会を愛しますが、ある教会は主の臨在を求めません。主の契約の箱があってもなくても別に関係ありません。そのような教会は主の臨在、主に喜びに溢れて踊り出す教会を批判します。これは教会を批判するのではなく、聖書について言っています。誤解しないで下さい。この教会がダビデの幕屋であれば、ミカルの批判を受けたと思います。
 私はあまり知りませんが、皆さんは踊りや賛美についてたくさんの攻撃をおそらく受けてきたと思います。私たちの教会も受けました。「何だあれは教会らしくない、はしたない」と言われてきました。しかし私たちはそれを続けています。もっと上品に踊れるようにもがんばっていますが・・・。聖霊がくだる時に体が動いてしまいます。なるべく人々をつまずかせないような麗しい踊りが良いのですが・・・。ともかく私たちは今、この教会の歴史の中で色々なところを通ったと思いますが、それは聖書に預言されていたことです。これは特別に変わったことが起こっているのではなく、神が何千年も前から、「その日わたしは倒れているダビデの町を建て直す。」と預言されていました。そしてそこには批判や戦いがあります。ダビデの時代にその雛形として様々な事件が起こっている記録が残っています。ダビデの時代は今の時代の雛形です。そのまま当てはめることはできませんが、これは型です。旧約聖書の四分の三の分量を持っています。新約聖書だけでは神の計画の全体を理解できません。新約聖書は福音の本質を語っていますが、それを更に理解するため、また、教会を理解するために神はイスラエルという教会の型である肉のイスラエルの姿と歴史を通して霊のイスラエルである教会、特に世の終わりに望んでいる私たちに教訓とするためにパウロはそれを教会への手紙で解き明かしています。旧約聖書から解き明かして現代の教会に語ることが神様の方法です。私たちが旧約聖書を学ぶと、そこにある今この教会が通っているところは預言されているのです。預言は確認です。新しいことを語るものではありません。預言は私たちの歩みが果たして神様のみこころの真ん中を歩んでいるかということを確認するための神からの助けです。
 旧約聖書のダビデの幕屋の回復の預言はこの教会のためだと信じます。そして神は益々この教会をダビデの幕屋として回復され、ダビデの時代にあったすべての祝福をこの教会に回復して下さると信じます。第一歴代誌十七章五節から十四節に、

『わたしは、イスラエルを導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕から天幕に、幕屋から幕屋にいた。わたしが全イスラエルと歩んできたどんな所ででも、わたしの民を牧せよとわたしが命じたイスラエルのさばきつかさのひとりにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』と、一度でも、言ったことがあろうか。今、わたしのしもべダビデにこう言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前で、あなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい名をあなたに与える。わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を押えつけることはない。それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたのすべての敵を屈服させる。わたしはあなたに告げる。『主があなたのために一つの家を建てる。』あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」』

と書かれています。ダビデがわが子ソロモンに宛てたものと思います。しかし、ソロモンは罪を犯し彼の王国はとこしえに立つことはありませんでした。彼がダビデの子孫に与えよう彼の王国を確立させようと言われた預言は、ダビデの子孫であり、ダビデの血であるところの私たちの主イエス・キリストに対する預言でした。彼の王国は決して滅びることがない、「わたしはダビデの子孫であるわが子イエスに彼の王国を与えよう、その王国を確立しよう」この預言は主イエス・キリストが確立される所の神の教会を意味すると信じます。この王国は永遠に続いていきます。これはダビデの幕屋です。ダビデによって現されている本体はイエス・キリストです。そしてキリストの王国である神の教会です。これがダビデの幕屋です。アモス書九章十一節に、

『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。・・これをなされる主の御告げ。・・見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。』

と書かれています。その日には種を蒔くとすぐに刈り取るというリバイバルが来ます。そしてその時代、「彼らは、荒れ果てた地に住み・・」
 新城市はどうでしたでしょうか。かつての町の歴史を開先生から聞きました。多くの血が流されました。戦いがありました。犠牲者がありました。それによって荒廃がやってきました。しかし、神はこの地を選び、この地をあがなおうと決心されました。そしてこの教会を打ち立てられました。そしてこの教会は荒れ果てた地を潤し、ここに町を作り、教会を作り、彼らはぶどう畑や果樹園を作ったとありますが、この教会もプレイズ出版を作ったり、あらゆるミニストリー、ぶどう畑・果樹園を作り、その実を食べています。たくさんの収穫に預かり、潤い、多くの働き人がそれによって養われ、この町は荒れ廃れた状態からぶどう酒・ぶどうの実が豊かに算出される神の地・潤いの園に造り変えられました。この教会はもう引き抜かれることはありません。神は何千年も前からこのことを預言されています。そしてこれはただ漠然としたものではなく、それはこの新城市にある教会をも具体的に預言しています。アモス書九章の預言を具体的に自分に対する神の言葉として受け取って下さい。神はこの場所に目を留めておられます。そして更にこの教会の賛美を豊かなものにされ、賛美と礼拝の霊に満ち溢れる教会にして下さると信じます。ダビデの幕屋にある賛美と礼拝の霊を求めて祈りましょう。ダビデの幕屋として一人一人がまた教会が回復されることを祈りましょう。
 
 
 
 
 

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