今週の礼拝メッセージ
2000.6.11(SUN)
この一事に励もう
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 ピリピ人への手紙3章12節〜14節

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

     ハレルヤ!皆さんの前で御言葉を取り次ぐことができ感謝します。今日はペンテコステの日です。イエス様が天に帰られて十日後に、弟子たちが祈っている所に聖霊様が訪れられ、教会が誕生した記念すべき日です。この素晴らしい記念日に、皆さんと共に礼拝が持てることを感謝します。ここに聖霊様の臨在があることを感謝します。今日はピリピ三章十二節からの御言葉から、「この一事に励もう」というタイトルで御言葉を学びます。
 今日はペンテコステの日です。教会が誕生して約二千年、正確に言えば一九六七年です。この日は、イエス様の十字架の救いの業の完了と終結とも言うべき日でした。聖霊の働きにより教会は前進し、今私たちにも聖霊の流れが来ています。
 旧約聖書の時代は父なる神様が語って下さった部分が多く見受けられます。続いて、福音書になると、イエス様が現れて下さいました。子なるイエス様です。そしてペンテコステの日に、聖霊様が来られました。現代は、父と子と聖霊の三位一体なる神様が、一緒に働かれる時代です。また今の時代は、特に、聖霊様が世界中に強く働かれています。
 さて、来週は新城教会においても一つ記念日です。それは、宣教五十周年の記念礼拝が行われるからです。新城教会が誕生して五十年を迎えます。この教会も聖霊によって誕生したと信じています。きっと来週はそのようなことも語られると思いますが、いずれにしても、この教会も人間の考えではなく、聖霊によって完成されます。
 時々、歴史を振り返るときに、その中で主が働かれた足跡を見ることができます。また歴史を振り返らなければ知る事ができない、理解できない神からの語りかけもあります。イスラエルの歴史を見ても、その中から、主の語りかけを見ることができます。五十年一昔と言いますが、五十年の歴史は一言では語れませんが、私は生まれて気付いたら、この教会の牧師の息子でした。周辺は人があまり住んでいない所でした。父と母は仕方がないから、生んで増やそうという戦法を企てたのかわかりませんが、何しろ私を筆頭に八人兄弟でした。そして、クリスチャンホームは子沢山で有名でした。私の小さな時は近辺の通学団の半分以上をクリスチャンで乗っ取ったことがあります。それで、イエス様を信じていない子供たちを迫害して、学校からクレームが付いたこともありました。そんな古き良き時代もありましたが、そんな中で神の御業をたくさん体験しました。
 先日、私たちは一つの場所にとりなしの祈りに行きました。この教会の青年会のメンバーと共にとりなしの祈りに行きました。今週は色々な集会があります。今日の夜は中高生の「レッツプレイズ」があります。ぜひ祈っていただきたいと思います。毎回、百名近くの中高生が来られます。食事を目当てに来ても、そんな中で福音を聞きます。また土曜日には青年の為の伝道会があります。そのようなこともあり、何にしろ、祈って始めようということで、とりなしの祈りをしました。どこに行こうかと真剣に祈りました。その時に、主が隣町の豊川に行って祈るように示して下さいました。豊川においては、第二次世界大戦時に軍需工場があり、そこに爆弾が落ちて多くの若者が死にました。ある意味で若者の悲しみの場所でもあります。近頃は豊川で若者による凶悪事件が起こったりしています。だから、その場所で祈りの必要を感じ、兄弟姉妹と共に祈りました。その中で神様が一つのことを教えて下さいました。
 今から五十年前に、東三河に多くのスウェーデン宣教師が来られて働いておられました。豊川においても、何人かのスウェーデン宣教師が働いていました。
 両親は一時間ほど山に入った北設楽郡津具村で伝道を始めましたが、その道が閉ざされて新城中学校近くの、四軒長屋の片隅で教会を始めました。そんな中、豊川に伝道に来ていたスウェーデン宣教師が、父を伝道集会に招きました。どのような理由かかわかりませんが、スウェーデンの宣教師は日本語ができないので、日本語ができる人ならば良いということで、豊川の伝道会に父が招かれました。そして天幕集会が開かれました。
 そして、今から三十数年前のことです。宣教師の教会に外国から一人の伝道者が来て、リバイバル集会が持たれました。その時、集会に聖霊が注がれました。まだ聖霊様の働きについてわかっていない頃でした。しかし、聖霊が注がれて力を受けました。何が何だかわかりませんでしたが、喜びに満たされました。同時に、東三河の教会に聖霊様が働かれ始めました。そして新城教会の子どもたちにも聖霊が注がれました。
 この教会の伝統として、土曜日に子ども集会が行われています。今も「ほさなクラブ」といって、集会が持たれています。この伝統は四十数年続いています。(最近リバイバル新聞の「私の献身の証」というコーナーに、私は証を掲載しています。ぜひ読んで下さいそれらの事柄を書いています)
 その日、祈祷会を誰も導く人がいませんでした。しかし子どもたちが集まって祈っているところに聖霊が注がれました。当時すでに私は高校生でした。高校が半日で終わって帰ってくると、昔の木造の教会の母子室が騒がしいのです。何かと思ってそこに行くと、先ほどここに立って司会をしていた岡本信弘牧師や、上條実牧師や、賛美リードをしていた滝元開伝道師らに聖霊が注がれて、すごい勢いで祈っている子どももいれば、笑っている子ども、聖書を開いて伝道メッセージをしている振りをしている子もいたり、ある子どもは教しえるような振りをしていました。これは、「預言的な行動」だったと思います。信弘先生は笑っていました。「どうしたのだ?」と聞くと、「笑いが止まらなくなってしまった」と言って笑っていました。正に、そこに聖霊様が訪れられました。豊川の集会から、この教会にまで聖霊様の恵みが伝わってきました。
 なぜ、豊川や東三河にスウェーデンから宣教師が来られていたのでしょうか。それには、神の深い摂理があります。
 一九〇六年四月に、世界の教会史に残るリバイバルがアメリカ、ロサンゼルスのアズサストリートに起こりました。リバイバル集会に聖霊が注がれたことにより、三年間、毎日集会が続けられました。そして多くの人が聖霊に触れられ、救われました。ペンテコステ運動の原点になった集会でした。そこには素晴らしい神の臨在があり、ストリートにはいるだけで聖霊様に触れられる場所となりました。そして皆が聖霊に満たされて賛美して、伝道して爆発的にその働きが広がっていきました。一九〇六年のことですので、まだ交通手段や通信手段はありませんでしたが、瞬く間に世界中に噂は広がっていきました。カナダやイギリス、ヨーロッパからもその集会に山を越えて海を越えてやってきたそうです。
 一人のノールウェイのメソジスト教会の牧師がそこに来たそうです。バラットという人でした。そして、聖霊を受けて自分の国に帰り、オスロでペンテコステ集会を開催しました。すると今度はその聖霊の働きが、周辺のスカンジナビア諸国や、ドイツ、スイス、イギリス、ヨーロッパ諸国に広がりました。そんな中で、スウェーデンにリバイバルが起こりました。人口、数百人の小さな村に聖霊が働かました。木こりとして働いていた人々が斧を振り上げると、罪が示されたそうです。「お前は罪人だ。悔い改めなさい・・・。」そして彼らは泣き崩れて仕事ができなくなり、山からの降りて村の教会に行ったそうです。すると村中の人が集まっていたそうです。皆、聖霊によって罪が示されて、泣き崩れていたというのです。聖霊が下るときに、「罪について義についてさばきについて教える」とイエス様は語られました。
 三十数年前、ここに聖霊様が訪れたときにも、「罪について義についてさばきについて」教えるために訪れて下さいました。新城教会で最初に救われた方は、もう亡くなられましたが、見城しずえさんでした。その方に聖霊が注がれ、その方を通して主が語られた時期がありました。彼女の祈りの中に、預言的な祈りがありました。私たちはあまりわかりませんでしたが、おばさんに祈ってもらうと主が語られるという経験をしました。
 ある時に、私は一人の友だちと共に、おばさんに呼ばれました。「あなたたちのために祈るようにと示されたから・・」と祈ってくれました。すると、私と一緒にいたもう一人に主が語られました。彼は少しイエス様から離れ、堕落した生活をしていました。その時、主は名ざしで、「地獄は恐ろしいぞ。」と何度も言われるのです。私たちは震え上がりました。「地獄は恐ろしいぞ。悔い改めよ!」と言われました。そして、彼は悔い改め牧師になりました。聖霊が来るときに、罪について教えられます。
 スウェーデンでも同じことがあったそうです。皆が罪を悔い改めてリバイバルが起こり、多くの若者たちが献身し、世界中に宣教師として遣わされ、日本にも来られたのです。何とも不思議なことです。アメリカのアズサストリートから始まったリバイバルの火が、何と、ヨーロッパ諸国、そして、スウェーデンにまで飛び火し、スウェーデンの山奥に下った聖霊の火が、人々を押し出してこの東三河にまで伝わったのです。そして、私の父や、田中政男先生が巡回伝道者となりました。あの時にスウェーデン宣教師が父や田中先生を招いて下さらなかったら、きっと今でも父は片隅で細々と伝道しているかも知れません。
 田中先生も主に語られて出ていきました。見城しずえおばさんを通して主が、「政男。浦川に行きなさい。」と語られたそうです。彼もおばさんも浦川という場所を知りませんでした。しかし、地図を見たらありました。そこに行き、人が救われ、今は浜北教会や水窪にも宣教が拡大しています。そんな中、日本のリバイバルを祈るように導かれました。当時、クルセード形式の集会がはやっており、そんなこともあって一九七〇年、クルセードを旗揚げすることになりました。それを日本リバイバルクルセードと言いました。それがきっかけで、翌年から愛知県民の森でリバイバル聖会が行われるようになりました。日本中の牧師先生に呼びかけて、「何しろ日本のリバイバルのために祈る」という運動が始まりました。毎年、日本全国から百名近くの牧師が来て、山にこもってリバイバルを祈り出しました。折しもその時は韓国のリバイバルの時でした。そこから申賢均師や、多くのリバイバリストたちが県民の森に来られました。そこで強調されたのは「祈り」でした。祈りによってリバイバルが進むと語られました。そこで祈りの火が燃えていきました。
 そんな中で下條師を通して、甲子園球場で集会をするという、きっかけが与えられました。そして甲子園ミッションが現実的に行われました。このような流れを見ると、不思議な感じがします。アメリカから起こってきた流れが、スウェーデンに行き、スウェーデンから日本に来て、そして、日本でその火が燃えて行きました。
 しかし、同時に、もう一つのリバイバルの流れがありました。文明開化の明治初期、一八七二年三月、アメリカ人宣教師ジェームス・バラが横浜に来ました。日本の教会史上有名な人物です。彼により、「横浜バンド」という、伝道グループができました。彼は学生たちを集めて教えながら、祈祷会を持ちました。すると聖霊が注がれて、祈りが止まらなくなりました。その人数はたった十一人でしたが、日本のリバイバルを横浜で真剣に祈ったのです。その中の一人の実家が東三河でした。そこで、彼は自分の実家で伝道してくれるようにとバラ先生に頼みました。その実家が北設楽郡津具村でした。私の父親の出身地、また、私の生まれた村です。そこにバラ先生が来ました。横浜から馬車に乗って来られたそうです。今もこの教会に北設楽郡や豊根村から礼拝に来られている方もいますが、当時、道がなくてどのように来たのでしょうか。津具村まで行ったそうです。そこで伝道集会をしました。するとそこに聖霊が注がれました。記録によると、村人の半分がクリスチャンになりました。しかし、当時はとても迫害がひどかったそうです。もし、イエス様を信じたならば、戸籍から抹消されるような状況もあり、村の墓場にも入れてもらえなかったそうです。クリスチャンになると村の墓場から追い出されるので、墓石を持ってきて、自分の家の敷石にした歴史も残っています。
 してみると、父が救われたことも偶然ではなかったと思います。その火がある意味で、もう一度吹き返したようなものです。そんな流れがこの地域にもあったのです。それらの流れが合流し、甲子園ミッションに導かれたと思います。
 私は甲子園ミッションをあまりやりたいとは思いませんでした。またそんな大きな集会は、経験もありませんでしたので、あまり深く考えていませんでした。しかし始めてみると大変でした。「これは手を出すべきではなかった・・・。」さすがの私も「祈らなくてはいけない」と思いました。私はクリスチャンホームに生まれ、一番嫌いだったのが賛美と祈りでした。賛美歌でも五番、六番と続き折り返しが隣のサビに飛ぶ歌が特に嫌いでした。当時父は結構とげとげしており、食事の前には聖書を一章読み、祈らなくては食事をさせてくれませんでした。私は聖書を食前に通読してしまいました。そんな中で一つ恐れていました。「詩篇の一一九篇の時はどうなるだろうか」でした。これを読んだら、朝から昼までかかってしまうと思いました。何とか交渉して短くしてもらいましたが・・・。だから聖書を読むのも祈るのも大嫌いでした。しかし、甲子園ミッションの前後には、神様から押し出されて祈り出しました。そして忘れもしない一九九二年。甲子園ミッション事務所が開設された次の週、一週間祈ろうということになり、教会スタッフやミッション・スタッフと共に山にこもって祈りました。初めは元気よく祈っていましたが、最後の日は寒くて祈りに行くのも嫌になってしまいました。私はその時、祈祷会のリーダーでした。リーダーには特権があります。自分の気持ちで祈祷会を長くも短くもできる。だからその日は短く、三十分でやめようと思っていました。三十分間、誰も声を出さないような暗い祈祷会でした。しかし、最後、聖霊が注がれました。外で音が聞こえはじめました。「ゴーッ」という音でした。又、それが覆いかぶさってくるような体験でした。そこにいた、兄弟姉妹が堅いコンクリートの上に倒されました。驚きました。そのとき、「聖霊様が来て下さった」とわかりました。長い間、県民の森で祈られてきたリバイバルの、何らかの答えが来たとわかりました。「ハレルヤ。感謝します」と言いたかったのですが、あまりにもショッキングな出来事で、私はすぐに祈祷会をやめて帰りました。倒れた人を起こして教会まで逃げ帰ってきました。倒れた人を起こしましたが、タコのようにグニャグニャでした。しかし、小屋から一歩出した途端、走りだしてしまいました。真っ暗い中で女性たちが走り出しました。私たちは追いつくことができませんでした。やっとの思いで彼女たちを捕まえて、教会に帰ってきました。始めは三十人ぐらいで祈り出しましたが、最後はたった八人でした。ペンテコステの時は最初は五百人でしたが、十日目には百二十人でした。途中であきらめて去っていく人はいます。しかし、その時は、去っていったというよりも仕事が忙しくてその場にいなかったのです。そんなことが起こったので、真夜中に皆に電話しました。「今晩、すごいことが起こったから、すぐに教会に集まってくれ。」と電話をしました。私は皆、驚いて起きてきたかと思っていましたが、そうではありませんでした。その晩は祈祷会に出席してない、兄弟姉妹やスタッフも胸騒ぎがしていたそうです。「何かが起こる」と思っていたそうです。だから、電話がかかってきたときに、すぐに「聖霊が注がれた」と思ったそうです。
 家内はその夜、県民の森の集会に来ていましたが、祈祷会には出ませんでした。子ども達のこともあって帰ろうとした時に、聖霊様から語られたそうです。「今日は帰るな。素晴らしいことが起こる。」
 その夜に聖霊が注がれ、激しい戦いでしたが甲子園ミッションを乗り切ることができました。そして東京ミッションを乗り切り、次にスーパーミッションが控えています。これは、歴史を見なくてはわからない主の深いご計画があるのです。誰かが思いつきで始めたことではありません。その裏に、神の大いなるご計画があることを私たちは知るべきです。そして、御霊によって始められたことは、必ず御霊によって完成されます。ですから、神は必ずリバイバルを実現して下さいます。私たちはこのことを堅く信じて働くべきです。
 同時に、聖霊が働かれるときに悪魔も真剣にその働きを止めようとします。個人についても同じです。聖霊様が私たちの所に訪れて下さるときには、必ず、悪魔も目を覚まします。その時に、戦うことが必要です。
 三十数年前に豊川、そして、新城に聖霊の流れが来た時でした。燃えていた最中でした。この教会の方ではありませんが、特にリバイバルの火が燃えていた教会の中に問題が起こり、中心的な人が信仰から堕ちてしまうようなことがありました。同時に、その方の九才の娘さんが友だちの家に遊びに行き、二階から落ちて亡くなりました。悲しい出来事がありました。それで皆、恐れました。「聖霊の働きを強調していくと、何か事件が起こるのではないか」と心を閉ざし、それ以上求めなくなってしまいました。
 津具村にリバイバルが起り、村人の半数がクリスチャンになったとき、強い迫害が起こりました。彼らは、その信仰を捨ててしまいました。何とも悲しい事ですが、私の生まれた故郷は現在、偶像で満ちています。聖霊が働かれるときには、必ず、悪魔も立ち上がってくるのです。甲子園ミッションの前に聖霊が注がれた時、次の週から大リバイバルが起こると思いました。そのくらいすごい体験でした。「さあ大変だ。リバイバルが日本中に起こる」というくらいの体験でした。しかし、その後、予想に反して、色々な問題が起こってきました。これは霊的な戦いでした。それまで、色々な問題が起こったとき、霊的な戦いとはわかりませんでした。しかし、甲子園ミッションの時に、「これは霊的な戦い」だと主が教えて下さいました。「悪霊と戦わなくてはいけない」と教えて下さいました。それで、みんなが立ち上がって戦うようになりました。そして、今まで神様が助けて下さいました。この働きはこれからも続いていきます。
 先ほどお読みした箇所は、パウロが語った言葉です。

『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』

 私たちも、「この一事」に励むべきです。日本のリバイバルの一事に目標をめざして走るべきです。私は今までの歴史をお話ししましたが、パウロは、「後ろを振り返らずに前を向いて真剣に走る」と語りました。私たちは歴史に学ぶ必要はありますが、それを懐かしんでいても何も起こりません。ピリピ三章一六節に、

『それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。』

と書かれています。リバイバルの流れが各時代、各民族に引き継がれています。私たちはそのバトンを受け取り、すでに達しているところを基準にして、これからも進んで行くべきです。それも、「聖霊の力」によって私たちは進むべきです。そして、今までの歴史の中で、私たちが体験した色々な苦しみや悲しみは、意味のないものではありません。ピリピ四章十一節から十二節に、

『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。』

とあります。今まで経験した戦いの中で、良いことも悪いこともありました。パウロの生涯にもありました。しかし、彼が学んでことは、「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と記しています。私たちも今までの歴史の中から、あらゆる境遇に対処する秘訣を学ぶべきです。そしてパウロは結論的に、『私は、私を強くして下さる方によって、どんなこともできるのです。』と語っています。強くして下さる方はどなたですか。それは聖霊様です。私たちは聖霊様ご自身によらなければ、何もできない者です。時々、私たちは聖霊の力をもらって、自分が何か別者になったような、力強い者になったような錯覚を起こすことがあります。それは危険なことです。私を強くして下さる、「聖霊様によって」何でもできるのです。
 海に行くと、フジツボという貝があります。岸壁などにびっしりついています。それは何の力もない、また、自分では動くこともできないような存在です。でも、あのフジツボでも太平洋を渡ることができます。荒波を乗り越えて、日本からアメリカに渡ることも可能です。どうやって渡るのでしょうか。それは、船底にピタリとついて渡るのです。私たちもフジツボのような弱い存在かも知れません。しかし、聖霊様にピタリとつくならば、どんな荒波でも荒海でも越えることができます。この方によって私たちはどんなこともできるのです。これからもリバイバルの戦いがあるかと思います。しかし、どんなことでも聖霊様によってできます。自分の力ではありません。聖霊様ご自身によって、どんなこともできるというのです。
 そしてパウロは十四節で、『それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。』と語っています。私は兄弟姉妹に感謝しています。今まで歴史の中で、色々な困難がありました。苦しいことがありました。どうしようもないこともありました。そんな中で、いつも私と共に、教会と共に、困難を分け合って下さいました。それにより今があります。キリストのからだは素晴らしいです。一人なら、きっとつぶれていました。しかし、皆さんがおられたことによって困難が分けられたことによって今があります。リバイバルの働きは、困難を分け合いながら目標を目指して一心に走って行くなら、起こされます。スーパーミッションも、決して人の思いから出たのではなく、日本のリバイバルのために用意されているものであると信じます。この一事に、私たちは心から励んでいきたいと思います。そして、聖霊の力を受けて、主のためにさらに前進していきたいと願います。そのためには祈りが必要です。祈りの霊が注がれたときに、必ず、聖霊様の働きも伴います。今日も私たちの中に、祈りの霊が注がれていることを感謝します。更なるリバイバルの扉が開かれますように。すでに達しているところを基準に、これからも前に進んでいきたいと願います。一言お祈りします。
 


 
 
 
 
 

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