今週の礼拝メッセージ
2000.6.18(SUN)
神の計画−実現に至らせる神−
新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 ピリピ人への手紙2章13節〜14節

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。

 

      ハレルヤ!今日久しぶりにこの講壇に立つことができ、感謝します。今日は主の日です。礼拝の日です。また、今日は父の日にもなっています。五年ほど前のに父の日にペンサコーラでリバイバルが起こったそうです。また今日は私にとって宣教五十周年記念日です。私が家内と結婚して開拓伝道を始めて五十年です。宣教五十年であり、私にとって金婚式です。イエス様にあって祝福されてきたことを感謝します。このためには多くの方々の祈りや助けがあることを感謝します。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』

と書かれています。「神の計画」というテーマで話していきます。今から五十年前の六月十八日は日曜日でした。十七日は土曜日で私は家内と結婚式をしました。東京の教会で結婚式をし、夜行列車で北設楽郡津具村に来ました。私は結婚式で二つの奇蹟を経験しました。結婚の約三カ月前に家と就職がないので
自分の実家で農業を手伝いました。重労働だったので肋間神経痛になり痛みがありました。仕事は痛くないような顔をしてやっていました。実際は痛みがすごくて大変でした。毎日、朝起きると「明、仕事だぞ。」と言われ、親たちはクリスチャンではありませんので痛そうな顔をしていると証にならないと思い、痛くても仕事をしていました。そして、痛みを抱えたままの結婚式をしました。しかし、結婚式の最中にそれが癒されました。それ以来、肋間神経痛にもならず健康が支えられています。また私の家内にも奇蹟がありました。私た
ちの結婚式は質素に行われました。家内は化粧をせずに素顔でやりました。家内の母が、「あなた、黒い顔で恥ずかしい。」と言いました。しかし、「いいえ。私は神様が与えて下さった顔で結構です。」と家内は答えました。東京は紫外線が強いので日焼けをしていました。しかし、結婚式中、家内の顔を見て
皆が、「斉藤先生。白ろうみたい。」と言いました。とても良い顔をしていました。神様が栄光を現して下さいました。家内の母が、「あまり汚い顔をしていたので、イエス様がきれいにして下さった」と言いました。私の両親も家内の両親も私たちの結婚に反対しました。一人だけ私の兄弟が様子を見に来ました。家内の方は母と弟が来て下さいました。しかし、クリスチャンは大勢集まってくれました。そのような中でスタートし、私たちは北設楽郡津具村に来ました。私にとっては実家なので大丈夫でしたが、家内にとって田舎に入ったことは大変でした。今日まで五十年、支えられてことは神様の恵みです。また皆さんと共に礼拝できることは素晴らしいことです。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』

と書かれています。今日まで伝道者、牧師としてこれたことは神様の導きと摂理しかないと思います。
 私は、十七歳で東京に行き、農業の研究室の学者になるという夢がありました。ちょうど献身しようと思ったときに、先生が私に、研究室に残ってくれるようにと言われました。嬉しいと思った瞬間、それを断りました。「私はキリスト教の伝道者になります。」私の家内はイエス様を信じる前は日本女子大で将来教授になるために勉強しながら学生に教えていました。そういう者が献身することは今まで勉強した事とは全く角度が違います。しかし、牧師になり今日までやってきたことは神様の計画です。親が反対する中でも自分の郷里に伝道に入れたのは神様の計画です。志を立て、事を行わせて下さったのは神です。すべての栄光を神様に帰します。イザヤ六十五章一節から二節に、

『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。』

と書かれています。反対している人に愛の手を差し伸べて下さったと言うのです。もし日本が戦争に負けなかったら、私は今日クリスチャンになっていません。東京に勉強に行かなかったら私はクリスチャンになっていません。これは神様の摂理です。私は田口農林を出ましたが、成績があまり良くありませんでした。しかし東京でイエス様にお会いすることができたことは、神様の恵みです。聖書には「愚かなものをあえて選んだ」とありますので、神様の一方的な愛です。イエス様を信じることは、頭が良い悪いには関係がありません。しかし、神様は『反逆する民に終日愛の手を差し伸べた』と書かれているのでその声に聞き従うべきです。聖書には、

『わたしを遣わした父が引き寄せないかぎり、誰もわたしのところに来ることはできません。』

と書かれています。今日誰かに誘われてここに来たかも知れませんが、皆さんがここに来たことは、神様がここに導かれて救おうとされているのです。ヨハネ十五章十六節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

と書かれています。今日ここに私がいることは、皆さんがいることは神様が選んで下さったからです。私たちの信仰は、私が信じるということではありません。神様が愛の手を伸べて救って下さったからです。戦争が終わるまで、日本は天皇を中心とした神の国でした。偶像礼拝、天皇礼拝がされました。日本は神国、必ず勝つと言われていました。しかし、戦争が終わった時、私は無神論になりました。「神などいない。キリスト教はアメリカのもたらした政策だ」と反発しました。ある時私は、キリスト教の友だちと喧嘩したことがあります。「神がおったら手の上に出してみよ。」と言ったことがあります。しかし、ある時、友だちと「人間と死の直前」という議論をしました。十分後に死が来るとしたら何をするかを考えました。友だちは「うまいものを腹一杯食
べて死にたい。」「愛するものを抱きしめて死にたい。」しかし、一人の学生がぽつり「やっぱり自分の魂を考えて神様と呼ぶに違いない」と言いました。その言葉で私の心が揺さぶられました。その時、ちょうど政治経済の勉強をしていました。一人の先生がクリスチャンになり、放蕩息子のような生活をしていたけれど今救われたと書かれていていました。「私の授業を学ぶためには聖書を学ぶように。また、私はクリスチャンであるから酒もたばこも飲まない。」と言われました。立派な人だと思いました。そんな時に私の友だちが「君。君の顔は牧師になると似合いそうな顔をしている」と言いました。なぜ彼がそのように言ったわかりませんが、いつも私の心にその言葉がとどまりました。その時以来、仕事をしていても「牧師に似合いそうな顔・・・」と気に
なって仕方がありませんでした。一度教会に行きたいと思い、一九四九年二月十三日に初めて教会に電話し、教会に行きました。「クリスチャンはなぜこんなきれいな目をしているのだろうか。私は汚い。」泣きたい思いになり、「もし、私もあのような美しい人生が送れるのなら、クリスチャンになりたい。そうだ。わかるまで教会に行こうと」決心しました。今日初めて来られた方はやめてはいけません。必ずわかる時が来ます。次の週、二十日にミスター穐近から、天地を創造した神がいる。人間を愛し、人間のために御子イエス様を身代
わりにされた。このことを信じたら救われます。ヨハネ一章十二節、『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』という聖書が開かれました。そして、「イエス様を信じたら救われます。信じませんか。」と問われて、「はい。」と私は決心しました。「これだ。私の探していたものがあった!」と思いました。「素晴らしい。すごい方にお会いした。この方のために人生を生きよう。」と思いました。ピリピ三章八節に、

『それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』

と書かれています。パウロがイエス様にお会いした時に、いままで素晴らしいと思っていた、特に地位がありましたが、今までのものは塵と同じだ。こんな素晴らしい方にお会いしたら、最高、何もいらないという気持ちになりました。私はイエス様にお会いしたことを心から感謝しています。そして、私が見出したものは神の愛でした。神が私を愛して下さっている、私のために十字架にかかって死んで下さったほど愛して下さっている。「神がおられる、すごいことだ」と思いました。このイエス様を知ることにより経験したことは今までの罪が赦されたことです。「自分の罪が赦された」と興奮しました。私が決定的にイエス様に従う決心をしたことは、ヨハネの福音書三章十六節を読んだときです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

この時私はすでに神様を信じていました。世とは私です。私をイエス様が愛されている。このことがわかった時、私はイエス様を信じているとしたら永遠のいのちがある。私はその時、嬉しくて飛び上がりました。
 永遠ということを考えたことがありますか。永遠は一億年、一兆年ではありません。クリスチャンになったら永遠に生きることができます。天国に生き、死も叫びもない所で永遠に生きることができる。やがてイエス様が来られた時には復活して生きることができる、これは神の約束です。東京に出て勉強しても、いつかは死ぬ。有名になっても金を儲けても全部終わり、地上に残していく。人生はむなしいと考えた時に、これがわかり、「これで良い。永遠のいのちを持つことができる」と決定的な私にとっての確信でした。心の中に信じるものは永遠のいのち、信じなかったら滅びる。はっきり言えば、イエス様を信じなかったら地獄に行く、ということだと思いました。「信じない者は底知れない火と硫黄の燃えている地獄で日夜苦しみ続ける」という言葉を読んだときに、私は「これは大変だ、何と大変なことだろう」と思いました。私は下津具にいる両親のことを考えました。「私のお父さんとお母さんはどこに行く?イエス様を知らなかったら地獄に行ってしまう。津具村の人、北設楽郡の人が地獄に行く」と考えた時、「神様いったいどうしたら良いのですか。」と祈りました。神が私に立てた計画は、「自分の郷里に帰って伝道しなさい。」・・・人生の中に、「神はみこころのままに志を立てさせ、事を行わせて下さる。」
 私たちは人生の中には二つの道があります。第一に、「自分の道」という計画があります。成功する人、失敗する人があります。しかし絶対に失敗しない道があります。それは、「神が計画した道」です。神が計画した道に皆さんの人生を任せたら失敗しません。神様があなたを使って神様のみこころを行わせて下さるということです。私は十九歳でイエス様を信じ、自分の人生を神に委ね今日まで生きることができたことは幸せです。
 五十年は短いようで長く、長いようで短いですが、ここまで信じることができて今があることは素晴らしいです。私は燃えて伝道していました。「ひえ飯食べてでもイエス様を伝えていく。」と言っていました。どんな貧乏でもと言っていました。すると友だちが、「本当にひえ飯食べても伝道するんだって。感動するよ。」と誉めてくれました。「どんなものだい。」と思いました。しかし続けてその友人が、「お前は熱しやすく、冷めやすいから気をつけろよ。」と言いました。私は上から水をかけられるような思いになりました。彼は私の性格を知っていました。それからしばらく私は平安を失いました。私は、「今こんなに熱心だけど、いつか冷めるかも知れない。罪から救われたと言っても、また罪を犯すかなあ」と思った時に、熱しやすくて冷めやすいのは私の性格であり、今信じたのは私の性格ではなく、「神を信じる信仰」だと思いました。『あなたがたが心を騒がせてはなりません。神を信じ、また、わたしを信じなさい。』「・・・そうだ、私が信じたのは性格ではない。大丈夫
だ」と思いました。大丈夫でした。今日まで私は自分の頭ではなく、意志ではなく、神様に頼りました。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』

神に信頼することは最高です。五十年ずっと続いています。クリスチャンでも傷ついた、と言われる方がありますが、私はその気持ちがよくわかりません。なぜ、イエス様を見上げないのでしょうか。ある方は自分のことばかり考えています。かつてマルチン・ルターが宗教改革をしたときに、彼は迫害の中で失望しました。奥さんはそのとき喪服を着てマルチン・ルターの所に出てきたそうです。ルターが、「誰が亡くなったのか?」と聞くと、「はい。あなたの信じている神様が亡くなりました。」と言ったそうです。すると彼は怒りました。
「何を言っている、私の信じている神は生きている。」
「あなたの信じている神が生きているならどうしてそんな死んだような顔をしているのですか。」
彼は気が付きました。クリスチャン生活で傷つくことがあっても十字架の血潮できよめられたら良いのです。聖霊に満たされていることです。イエス様を見上げるべきです。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』イエス様はいつも同じです。今日は勝利。昨日は駄目だったではいけません。五十年間、信仰が持てたことはイエス様を見上げてきたからです。私と家内が結婚して五十年、今日まで来れたことは神様の恵みです。今日まで浮気をせずに来れたこともイエス様です。頭が良いだんなさんであっても、浮気したら仕方ない。良い家庭を与えて下さったのは神様です。今日まで導かれてきたのはイエス様です。皆さんも神の計画の中にいます。イエス様を信じてください。サウロはイエス様を信じる人を迫害し、ダマスコ途上でイエス様に出会ったときに彼は倒れ、

『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

と言われました。神に反抗している人生は傷を負うだけです。神様に従ったら素晴らしい人生が与えられます。今日イエス様を信じたら永遠のいのち、神の使命、私たちが今日まで夫婦仲良くして来れたことはイエス様という同じ方を信じ、人々が地獄に行かないように伝道するという同じ使命を持ってきたことにもあります。これは神様が成して下さったことです。今日あなたの人生も神様にささげてみて下さい。神様があなたを使って下さいます。それは何かわかりません。私のように伝道者になる人もいます。そのままでイエス様のために商売をし、政治家、教育者、それぞれの働きがありますがイエス様のために人生を生きたら最高の人生を持つことができます。神の計画のままにいきる人生を歩いていただきたいと思います。一言お祈りします。
 
 

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