今週の礼拝メッセージ
2000.6.25(SUN)
リバイバルの為に用いられる者になろう
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 使徒の働き8章5節〜9節

ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。

 

ハレルヤ!いつも皆さんのお祈りによって守られていることを感謝します。先週私は奄美大島と沖永良部島に行きました。あちらはすでに梅雨が明けて真夏です。こちらの太陽が四十ワットだとしたら、向うは百ワットという感じで、ずいぶん日に焼けてしまいました。忙しい毎日でしたが守られて感謝します。
 スーパーミッションが間もなく行われます。この四十日間は確実に聖霊様が働かれる時です。主がこの日本のために起こして下さった働きです。この時にこそ、私たちはリバイバルの波に乗り、リバイバルを手に入れたいと願います。一人一人がリバイバルの波に乗って主に用いられるものになりたいと思います。
 二週間前に私はここに立たせていただきました。その日は丁度、ペンテコステの日でした。今日のメッセージはその続編になります。エルサレムに聖霊が注がれ、一度に三千人が救われる大きな御業が成されました。しかし、その後エルサレム教会に迫害が起こりました。その迫害によって人々は散らされましたが、結果として、ユダヤ・サマリヤ地方で福音が宣べ伝えられるようになりました。
 神の働きは、不思議なもので普通では考えられない方法で進みます。エルサレムで聖霊が注がれた時、弟子たちはある面では有頂天になったと思います。今まで、ユダヤ教に熱心な人たちが三千人も救われました。「これで天下を取れる」と思ったかも知れません。しかしそんな中でエルサレム教会に大迫害が起こりました。リーダーの一人、ステパノが石打ちの刑で殺されるような悲惨な事件も起こりました。人々は追い出されて外に散らされていきました。しかし、それでピリポはサマリヤに行き、その町にリバイバルが起きたのです。この迫害もイエス様が語られた預言の成就でした。イエス様は、「聖霊が注がれるとあなたがたは力を受けます。エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして、全世界であなたがたはわたしの証人になる」と言われました。彼らは、どのようにして証人になっていくのだろうかと考えていたと思います。しかし、まさか、迫害によってサマリヤに福音が宣べ伝えられるとは、全く思っていなかったと思います。神は不思議な方法で福音を外に拡大されたのです。迫害がなければ救いはエルサレムにとどまってしまった事でしょう。しかし迫害によって散らされて、福音が宣べ伝えられました。
 時々、私たちの人生の中に、迫害や考えられない出来事が起こることがあります。なぜだろうか。イエス様を信じたのに、なぜ、良いことばかりではないのだろうか、と思うこともあります。しかしそんな中で、神は福音を拡大する準備をされているのです。
 先週、奄美大島に行きました。すると、「先生、ある家庭を訪問してくれませんか。そして、一家に伝道して下さい。」と言われましたので行くと、その家のお母さんがだいぶ怒っていました。「娘がクリスチャンになって家に悪いことばかり起こる。娘のせいで私の家は不幸になった。」と言われるのです。伝道するどころか、怒っているお母さんをなだめるような始末でした。しかし、「問題があるから、家族全体が本物の神様を求めるのではないでしょうか。」と話しました。その家は代々偶像に仕えていました。その恐ろしさについて語りました。すると、最後にはお母さんが「祈って下さい」と言われ、一緒にイエス様を信じる祈りをしました。そこへお父さんも帰ってきて、お父さんもイエス様を信じました。
 時々私たちの中に迫害や色々なことが起こってきますが、神様はそのようなことを通しても働かれる方です。迫害によって散らされた弟子たちによってイエス様の預言が成就していきました。
 ピリポの働きによってサマリヤの町に大きなリバイバルが起こってきました。八章六節に、

『群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。』

と書かれています。ピリポがまず御言葉を語りました。しかし語っただけではなく、彼が語っていることと共に、「しるし」が伴いました。そのゆえに、人々がメッセージに耳を傾けるようになったと書かれています。リバイバルの中で御言葉を語る時にしるしが伴うように祈るべきです。特にスーパーミッションの宣教大会の中で、ただ言葉が語られるだけでなく、そこに神様のしるしが起こされるようにぜひ祈っていただきたいと思います。
                                                  
『汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。』

 その「しるし」は、「悪霊が追い出され」、「病がいやされ」る事でした。これもイエス・キリストの預言の成就です。イエス様は、福音を宣べ伝える時にしるしが伴うと言われました。「悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます」と言われましたが、ピリポがそのことを実行した時に預言が成就しました。私たちの中にもしるしが必要です。それは魂が救われるためです。
 悪霊につかれた人が解放された時、病が癒されたと続いています。ということは、病の背後には悪霊的な力があるということです。悪霊が追い出されることにより、病の癒しにつながることが事実だとしたら、私たちは日本から悪霊を追い出さなければなりません。日本の教会の中でなかなか癒しが起こらない理由は、日本では特別、悪霊の力が強く働いているからです。日本の悪霊はネットワーク上で働いています。つながりの一つが切られても他が生きるような、日本全国を編み目で覆っている束縛があります。だからなかなか神の言葉が実現しないという側面があるように感じます。ですから、霊的な戦いを更に続けて行くべきです。
 今回の集会に一人の方が来られました。「私は人口三百人しかいない小島から三時間かけて来ました。」と言われました。上り下り一便ずつしか舟がない島だというのです。集会のために、わざわざ大島まで渡り、それからバスを乗り継いで三時間かけて来られました。その島の住民のほとんどが老人だというのです。そこに住んでいると時間や曜日の感覚がなくなるそうです。お店もなく、ただ海をボーっと見ているしかないような場所だそうです。「なぜそんなところに住んでいるのですか。」と聞くと、大阪で原因不明の病気になり、「実家に帰ってゆっくりして下さい。それしか手はありません」と言われて帰って来た、と言われました。心臓が痛かったり、精神的に鬱になったり、色々な症状があるそうですが、手の施しようがない状況で、今は島に住んでいるというのです。それで、私達は、その方のために祈りました。すると聖霊様が働かれ、悪霊の力が打ち破られました。その時、特に、家系的な悪霊の力から解放されるように祈りました。祈るとその方は倒れてしまいました。そして、「先生が家系的な悪霊を追い出す祈りをした時、目の前に平家の侍が出て来た」というのです。祈った時に、その侍が真二つに割れ、自分の心臓も裂けるような気がして倒れてしまったというのです。その地域は、平家の束縛が強いところでした。昔から平家に属するある人物が神として拝まれている場所でした。悪霊の束縛がその人の原因不明の病の一因でした。
 又、今回初めて私は、沖永良部島に行きました。そこでは、三年間私たちと共に礼拝を守った今栄先生が伝道されています。一生懸命に伝道されていました。一年経ちますがすでに二名の方が洗礼を受けられ、他にも色々な方が集っておられました。新城におられたときの彼は動作がゆっくりしていましたが、向こうに行くとそれでピタリと合うのです。とても熱心に伝道しておられました。私の所に電話があり、「順先生、この島は霊的に重い所だからぜひ来て祈って下さい。」と言われました。「救われた方も色々な霊的な環境から救われたので、まだまだ色々な束縛があるので来て下さい。手強いのを集めておきますのでお願いします」と言われました。二日間、お邪魔しましたが本当に忙しかったです。島に着いたらすぐに祈りと伝道に連れて行かれ、くたくたになりました。今回は雅也兄と、娘の里辺架が一緒に行ってくれました。彼らも忙しくて遊ぶ暇など全くないほどに働きました。素晴らしい一時でした。その島はオカルトで縛られています。そこにはユタという占い師がおり、そのユタの言葉によって島民は縛られていました。精神的な病の方が多いように思いました。そのような問題を持った家族が多くあります。家から全く出れない方が多くいます。私はそのような人々を訪問し伝道しました。ある青年の所に行きました。その方は五年も閉じこもって出てこないというのです。行くと丁度トイレのために出て来られましたので、祈りました。その方はこの半年間は風呂に一度も入っていないというのです。手を置いて祈ろうと思うと、こちらの方が倒れそうなくらいでした。その裏には霊的な存在があるのです。
 サマリヤの町のリバイバルはどのような中で起こされたのでしょうか。それは一人の人物が救われたことにより前進しました。

『ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。』

その町に「シモン」という人物がいて、悪霊の力で不思議なしるしを行っていました。十節から、

『小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。』

と書かれています。サマリヤの町は、この男によって牛耳られていました。しかし、ピリポがサマリヤの町に来たときに、シモンが行っていた奇跡とは比べることの出来ない素晴らしい奇跡を起こしました。だからシモンは驚きました。十三節に、

『シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。』

と書かれています。今まで彼は人々を脅かせていましたが、シモン自身もイエス様を信じました。彼が感動するほどのしるしと不思議がそこに繰り広げられていました。
 シモンについて注解書を見ると、「グノーシス派の元祖」などと書かれていますが、私はそうとは思いません。この人が救われたことにより、サマリヤの町にリバイバルが起こったと思います。町の背後の悪霊の力が打ち破られたことによって、この町にリバイバルが起こされたと思います。これが日本にも起こされるべきです。
 沖永良部に行くと一人の方が私たちを待っており、私たちと一緒に行動しました。今栄さんの教会で初めてクリスチャンになった方で、大変元気の良い婦人の方でした。この方はバプテスマを受けたのですが、教会にあまり来たことがなかったそうです。「今回は、不思議なことに順先生が来ると言ったらどうしても来たいと言って、来て下さいました。」と言われました。私は、「どんな中からクリスチャンになったのですか」と聞ききました。
 沖永良部島の人は何か問題があって解決がないと最終的に占い師、ユタの所に問題を持って行くそうです。そして、先祖の声を聞くというのです。それは悪霊の預言のようなものです。そして、悪霊の指示するとおりに行動するそうです。一番強いユタは沖縄から来るそうです。島にもユタがいるのですが、時々、強いユタを沖縄から招くそうです。彼女はそのような時、ユタに島を案内する人でした。ユタたちが沖永良部に来ると、まず神社に行き、力を受けてから悪霊の預言をし始めるそうです。そのような婦人が救われていました。彼女は強い悪霊の影響を受けていました。今回はその方がユタを案内した神社に行って悔い改めと悪霊との断ち切りを祈りました。絶対に悪霊が働くことがないようにと祈ってきました。彼女はそこに着いただけで落ち着きがなくなりました。からだを叩き、かゆくなったり、痛くなったりと大へんでしたが、最後には解放され喜んでおられました。
 人々は魔術師に従い、結果的に彼らの中には問題が山積みとなっていきます。島も本州も変わりません。なぜならば、本州はユタのような存在はいませんが、自分で神社に行き悪霊を拝みます。しかし、あちらではユタのような霊能者が神社を拝み、彼らが力を受けて人々に供給します。サマリヤの町でその様な働きをしていたシモンが、イエス様を信じたことにより町が変えられました。日本においてもそのような方々が救われていく時に宣教が進むと思います。沖永良部島でその様な関係の方が救われていることは、神様のわざが始まっていることだと思います。
 シモンが救われたことは町にとって大きなニュースであったはずです。彼の信仰について十三節に、

『シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。』 

と記されています。彼は、「バプテスマを受けた」と書かれています。イエス様を信じるだけではなく、バプテスマを受けることは大切です。それは自分の信仰告白を公にすることになるからです。続いて、「ピリポについていた」ということは、彼は献身的な働きをしていたということです。自分の仕事そっちのけで、主のために働いていたと思います。また、「奇蹟を見て驚いていた」ということは聖霊様の働きにもオープンだったということです。ここまでを見ると、別に彼は悪い人ではありません。背景的には占い師かも知れませんが、救われて一般的なレベルよりも上の信仰を持った人だということができます。
 そんな中、サマリヤでリバイバルが起こったことをエルサレム教会が聞きつけて責任者ペテロがヨハネとともに彼らの所に来たことが書かれています。八章十四節に、

『さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。』

 サマリヤのリバイバルは、まず、「魂の救い」であったことがわかります。その第二段階で、ペテロとヨハネが遣わされて、彼らの上に手を置いた時に、「聖霊のバプテスマ」を受けたと書かれています。信仰生活の中で魂の救いから次の段階は、聖霊のバプテスマを受けるというう段階です。イエス様が、「あなたがたは出て行って福音を宣べ伝えなさい。そして父と子と聖霊の名によって人々にバプテスマを授けなさい。」と語られました。父なる神、子なる神、聖霊なる神様は三位一体です。三位一体なる神様の中に浸されることが大切です。私たちはイエス・キリストの名前によって救われるのです。しかし、それだけではいけません。父なる神様に対する忠誠心が必要です。しかし、それを支えていただくためには聖霊に満たされることが大切です。ここで初代のクリスチャンが父なる神、子なる神、聖霊なる神のバプテスマを受けたことが「使徒の働き」を通して見ることができます。
 キリスト教会において、「聖霊のバプテスマ」ということについては、色々な神学論議が交わされています。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けるのだから、そこで聖霊のバプテスマを受けている、と主張される方もあります。また、後から受ける「第二の恵み」と語られる方もあります。しかし、私はどちらも正しいと思います。なぜならば、私たちが、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けるのですから、このことをしっかりと捕らえて水のバプテスマを受けるならば、聖霊が注がれます。しかし、その概念がはっきりなければ、やはり、「聖霊に満たされた」という一つの確認がなければならないのです。今までの教会は、「父・子・聖霊によってバプテスマを授ける」語っていながら、はっきりとした、「聖霊のバプテスマ」の概念がなかったと思います。だから、聖霊が触れてくださるという経験が後から必要になったと思います。これからリバイバルを願う中では、バプテスマを受けるときに、父・子・聖霊によってバプテスマを授けるのですから、その時に、聖霊のバプテスマを受けたら素晴らしいと思います。そうすれば、神様のために始めから真剣に働くことができます。
 サマリヤにおいてリバイバルが起こりましたが、聖霊の注ぎの経験がまだありませんでした。だからペテロとヨハネが来て、彼らに手を置いたのです。その時に聖霊が注がれました。サマリヤでの働きは、エルサレム教会の働きの一貫として進められました。ということは、エルサレム教会に与えられた権威がそこに置かれる必要があった為に、ペテロとヨハネという人物が用いられたと思います。彼らが下って行って人々に手を置いて祈ったときに、聖霊のバプテスマを受けたというのです。その時、一番驚いたのが魔術師シモンでした。今まで色々な奇蹟を見てきたが、これほどに感動する奇蹟はなかったのです。それは人々が聖霊を受ける場面でした。これはすごい奇蹟でした。
 私たちに色々な奇跡が起こるかも知れませんが、一番の素晴らしい奇蹟は、私たちに聖霊様が触れて下さるという体験です。皆さんは聖霊様に触れていただいた奇蹟の体験をお持ちですか。クリスチャンはただ救われただけでは、なかなか力ある働きはできません。聖霊様に触れていただいたという、確固たる信仰が必要です。もしも、「私はまだ聖霊に触れていただいたという確信がない」という方は、今朝、受けて下さい。また、皆さんに起こされるように私たちは祈りたいと思います。聖霊が注がれたことによって、サマリヤのリバイバルは更に燃え上がりました。その時、シモンは感動して弟子たちの所に来ました。八章十八節に

『使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。』

と言いました。この奇蹟を見たシモンは、「私もその様な権威が欲しい」と、お金を持ってきました。その時ペテロは彼に向かって八章二十節で、

『ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。』

と怒って、彼に鋭い言葉を投げかけています。ペテロという人物は、リバイバルが起こってから厳しい側面を持っています。五章を見るとアナニヤとサッピラもお金でいのちを落としてしまいましたが、そこに関わったのがペテロでした。また、ここでもシモンがお金に関わるところで、ペテロが関わっています。
 ある面で、私たちはお金ということに対してきよめられるべきです。お金で何でもできるというのが今の世界です。お金さえあれば何でもできる、しかし、お金は神様の栄光が現されるために用いられなければなりません。よく信弘先生がここで、「リバイバルにはお金が必要です」と言いますが、誤解しないで下さい。お金は全て神様の栄光を現すために必要なのです。お金に中心がいくと、人生は大体狂います。シモンも、お金を持ってきて、「その権威を私にください」と言いました。
 しかし、これを普通に見たら別におかしいことでもないと思います。お金を持ってきたとは、「献金」とも見ることができます。「ペテロさん。献金したいのですが。しかし、すいませんが私のために祈って下さいませんか。」これは別におかしくないと思います。しかし、なぜ、ペテロはこのように指摘したのでしょうか。ここで彼が言ったのは二十二節に、

『だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」』

と言いました。ここでの指摘は、ペテロはこのシモンの後ろに、「まだ苦い胆汁と不義の絆がある」ことを見抜き、そこから解放されることを指摘しているのです。
 私たちがここから学ぶべき点は、リバイバルの中で、「主よ私を用いてください。あなたのために働きたいです」と願い出るときに、必要なことです。もしも、私たちの中に、「苦い胆汁や不義の絆」があると、主の働きのために用いられることができない、また、聖霊の働きという中で、私たちが用いられようとするときに、「苦い胆汁や不義の絆から解放される必要がある」ということを教えていると思います。
 シモンの中心的な不義の絆は、「あなたはお金で神の賜物を手に入れようとしている。」とあるように、彼は聖霊の力をも、「自己実現のために用いようとした」のです。そこには、聖霊様の力を借りてでも、自分が偉大なものになろうという野心がありました。それをペテロはしっかりと見抜き指摘したのです。
 そして、他者の力を持ってでも自己実現しようという、最たるものが「偶像礼拝」です。一般的な偶像礼拝と、私たちの信仰の違いは、悪霊の力でも、神様の力でも、何でも良いのでそれを借りて自己実現を目指すのか、決して自己実現のためではなく、「神の働きに使われるために、聖霊の力を与えて下さい」という根本的な違いがあります。
 シモンは昔、占いをしてお金を儲けていました。彼はその力が自己実現の道具でした。ということは、彼の根底にその根が残っていたのです。それは同時に、悪霊とのつながりの根でした。申命記二十九章十八節に、

『万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。』

と書かれています。ペテロが指摘して、「あなたの中に苦い胆汁と不義の絆が残っている」と語ったのは、「偶像礼拝の根」ということが言えます。これから、私たちがリバイバルのために用いられるためには、苦い胆汁や不義の絆を取り除くべきです。それは偶像礼拝の根です、私たちの教会では、偶像礼拝を悔い改めて、そこから断ち切られるという祈りが行われていますが、苦い胆汁や不義の絆から断たれることによって、リバイバルのための器が作られるのです。私がリバイバルのために用いられるためには、毒草やにがよもぎを生じる根が抜き取られるべきです。シモンは救われてバプテスマを受け、献身的な働きをし、聖霊様にも心を開いていました。しかし、彼がリバイバルの中で奉仕していこうと決意したときに、ペテロからこのことが指摘されました。
 ということは、私たちもこれから主のために、リバイバルのために用いていただくためには、苦い根が引き抜かれることが必要です。
 そして、聖霊の働きとは一体何でしょうか。聖霊が来るときに、「あなた方は力を受けます」と書かれています。聖霊には「力」という領域があります。しかし、もっと深い領域があります。ヨハネの福音書十六章十八節に、

『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』

と記されています。「誤りを認めさせます」と言う言葉は、別の言葉にすると、「さらけ出します」という言葉になります。「暴露される」ということです。聖霊様の一番大きな働きは、「暴露される」ということです。それは、「罪について、義について、さばきについて」の暴露です。
 阪神大震災の時に、一つのものが暴露されました。それは建物が倒壊したときに、土台が暴露されました。それで、土台が弱くては上の建物が倒れてしまったことがわかりました。土台から立て直すべきだとわかりました。建物も土台がなくては倒れてしまいます。聖霊様の働きは大風のようなものです。大地震が起こるようなものです。そこには力があります。しかしその力が成すことは、「普段では見えないものを暴露する」ということです。それは、土台が見えるのです。土台から作り直さなくてはなりません。
 私たちの教会に、九十二年に聖霊の訪れがあり、素晴らしいことが起こされました。しかしその後起こってきたことは、教会の土台が暴露されました。「これでは駄目だ。これは神様のものではない。人間的なものだ。もう一度作り直して下さい」ということでした。私たちの所に聖霊様が来られるときに、普段見えないような部分が暴露されるのです。「信仰の中に苦ヨモギや、苦い根が残っている。悪霊とのつながりがあるではないか」と暴露されました。又は、「私はなぜこんな汚れた思いがあるのだろうか、なぜ怒りがあるのだろうか。なぜこんな弱いところがあったのだろうか。」聖霊の働きが始まったのに、なぜこんなことが起こるのだろうか、と思うかも知れません。しかしそれが聖霊様の働きです。
 シモンという男も聖霊が下ったときにそこにいました。彼にも聖霊様が触れられたはずです。そして暴露されました。「あなたの中に苦い根がある、それを悔い改めなさい」と言われました。その後のことは書かれていませんが、きっと彼は悔い改めてサマリヤのリバイバルのために用いられたと思います。第一コリント三章十一節に、

『というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』

と書かれています。私たちの土台がイエス・キリスト以外のものであったら、聖霊様は暴露されます。そして私たちの土台をイエス・キリスト中心に変えて下さいます。今週は、聖霊に満たされて、私たちの気が付かなかった部分を現していただきましょう。そして、それが築き直されるときに、リバイバルのために用いられる器になるのです。
 スーパーミッションを前にして、今、祈りたいと思います。「今日私を満たして下さい。同時に、私の気づいていないような土台をもう一度暴露して下さい。」土台を築き直して下さいます。また私たちの罪も赦すことができる方です。ですから聖霊様によってそのことがさらけ出され、それを立て直すときに更なるリバイバルの器として築き直されます。聖霊を受けて、リバイバルのために用いられる者になりたいと思います。聖霊様は私たちを作り変えることを願われています。今日一人一人に聖霊様が来て下さり、私たちの土台を築き直して下さるように祈りたいと思います。お祈りします。
 
 
 

バックナンバー
戻る
戻る