今週の礼拝メッセージ
2000..(SUN)
人生で最も大切な事
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 マタイの福音書22章35節〜40節

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
 

  ハレルヤ!人生の中で一番大切な事として聖書が教えているのは、今、お読みした御言葉です。「律法の中で一番大切な戒めは?」と律法学者がイエス様に聞きました。これは、「人生の中で最も大切なことは何ですか」という意味の質問でもあります。そこでのイエス様の答えは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めだ」と言われました。そして第二番目は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と語られました。
 人生には色々な条件がありますが、最も大切なこととして聖書が教えているのが、「神様を愛する」ことと「隣人を愛する」ことです。
 また、ルカの福音書十章二十五節からも、同じことが語られています。ここには、「永遠のいのちを得るためにどうしたら受けることができますか」と律法の専門家が聞きました。その時の結論が、

 『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』

と問答されました。永遠のいのちを得るためには、「神様を愛する」ことと「隣人を愛する」ことの二つにかかっています。「いのち」とは私たちの人生そのものであり、「幸せ」とも言い換えることができます。今日、この二つの教えを自分のものにしたいと思います。そうしたら幸せな人生を歩むことができます。
 日本人の中には、「神を愛する」という概念がありません。神は恐ろしい存在だと考えます。神社には太い杉の木が立っています。こんなに太くなるには人間の力では無理だと考えます。「これは神の力が宿っているのに違いない」と思うのです。だから、「あなたを拝みますから、この木から出ないで下さい。神様は時々、人間の世界で悪さをするので、拝みますからここにとどまって下さい」という意味でしめ縄でしめます。日本人の神観念は恐れです。
 しかし、聖書の神様は良いお方であり、愛なる神です。この神観念を人生の中心に据えてください。今、神についての悪いイメージを捨ててください。聖書の神様はあくまでも愛なる神様です。人類は罪を犯して堕落しましたが、救うために御子イエス様を地上に送って下さいました。「私はこんなに罪を犯してしまったから、神様からさばかれる存在だ」と言われます。しかし、神様はあくまでも愛なる神様です。悔い改めるならば赦して下さるお方です。神が初めからさばきの神ならば、人間が最初に罪を犯したときに、蝿かゴキブリをつぶすように、つぶして終わりでよかったのではないでしょうか。わざわざ、御子イエス様がこの地上に来て下さったのですから、相当、愛深い神様です。神様を愛することができるようになったら、素晴らしい人生が始まっている証拠です。
 ペテロというイエス様の弟子がおりました。彼はイエス様と三年半の間生活し、付き合いました。いつもイエス様の側にいました。彼は、後に「ペテロの手紙」という手紙を諸教会に宛てて書きました。その中で、第一ペテロ一章八節に、

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

と記しました。ペテロは実際にイエス様を自分の目で見て知っていましたが、イエス様が天に帰られて後の伝道で救われた人たちが、イエス様を見ていないのに心からイエス様を愛し、喜んでいる姿を見て、「それは救われている結果です」と語ったのです。
 「牧師さん。あなたはイエス様を見たことがありますか?」と聞かれても、私は一度も見たことがありません。しかし、見たこともない存在ですが私はイエス様を愛しています。今日、クリスチャンの方々はイエス様を愛されていますか。イエス様が好きですか。イエス様を現実の方として愛していますか。それは、救われている証拠です。こうなると人生は今までとは違ったものとなります。今日初めて教会に来られた方も、やがて、イエス様が実在される方として、愛することができるようになります。創造主なる神様と「愛し愛される」という関係に入ることができます。これは人生で最も大切なことです。
 イエス様は良い方です。私たちを愛して下さっています。これを人生の中心に据えて下さい。そうすればいのちを得ます。「これが人生で最も大切なこと」と聖書は教えています。
 そして、次に述べられていることは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということです。
 教会に来ると不思議なことが起こってきます。今まで、見も知らずの他人同士が隣の席に座り、同じ神様によって一つになるのです。
 人間はお互いを三段階で評価しているそうです。一つは「人間グループ」です。それは、親子関係、友人関係など、実際に人間付き合いしているグループです。しかし、もう一つのグループがあります。それが「機械グループ」です。たとえば、銀行で入・出金するのには、カウンターに座っている女性がいないとお金を出すことも入れることもできません。しかし、近頃はそんな女性がいなくても、ATMという現金自動支払機があり、それで充分間に合います。だからその人は人間ですが、機械と同じ働きをしているのです。私たちにとってなくてはならない存在ですが、実は、機械でも代用できる存在です。だから、「機械グループ」という付き合いです。
 またもう一つのグループがあります。東京に行くと人が溢れています。昨日はスーパーミッションのために全都トラクト配布が行なわれました。昨日は台風が去った後で雨も上り、あまり暑くなかったので良かったです。東京ではトラクト配布がおもしろいです。この辺でトラクト配布を行うのは大変ですが、東京だとあっという間に飛ぶように配ることができます。私は昨日、ほんの三時間弱で一五〇〇枚程配りました。郵便受けがあると嬉しかったです。ある所では集合ポストがあります。東京に行くと多くの人々がいます。それは人間ですが、現実には人間として扱っていません。「風景」として扱っています。新宿に行くと人がたくさんいますが、これが新宿の風景なのです。新城は人がいないのが風景です。それが「風景グループ」だと言うのです。そう考えると、人間付き合いをしているグループは少ないです。しかし、イエス様を信じると、今まで機械グループの存在が、人間グループに入ります。風景グループが人間グループに入るのです。今日ここにおられる方も、お互いにかつては機械
や風景グループの付き合いでしたが、イエス様を中心とした人間的な付き合いに変わりました。風景の一部のような存在も、神によって造られた素晴らしい存在として、隣人として人間グループになります。
 来週から、スーパーミッション東京が四十日間開催されます。特に、関東一円は新城市から考えると風景にも入らない地域だと思います。しかし、そこに隣人として福音を宣べ伝えるのです。隣人を愛することは大切なことです。福音を伝えることにおいても、すべての人々を、隣人として愛することが必要です。
 しかし、そんな領域に入る前に、一つの重要なことがあります。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とあるように、まず自分自身を喜んで愛する者になる必要があります。皆さんは自分を愛されていますか。
「私は自分のためには、お金も時間もたっぷりとかけています」と言われるかも知れません。しかし、自分を愛するとは、そのような意味ではなく、ありのままの自分を喜んで受け入れるということです。
 日本人を調査するとその多くが、自分を喜んで受け入れることができないのです。何らかの理由があって、自分自身を受け入れることができないのです。
その理由に劣等感があります。そして、人は、一般的に四つの劣等感を持っているそうです。一つが社会的劣等感です。格が下がるという「降格」という言葉がありますが、企業などで自分のポジションについての劣等感があります。上が存在すれば下も存在するということです。また、「身体的劣等感」があるそうです。自分の体を見て「素晴らしい」と鳥肌がたつ人はうぬぼれています。たいていの人は、「なぜ私はこんな体つきをしているのだろう」と思います。鏡を嫌う人もいます。また、もう一つは「性格的劣等感」があります。ある人は明くるく、ある人は暗いです。しかし性格も神様が一人一人に用意されたものです。全員明るかったら疲れてしまいます。やはり少しは暗めの人がいて丁度良くなっていると思います。しかし自分の性格はなかなか受け入れることができません。また、もう一つは「能力的劣等感」です。これには私も長いこと悩まされました。しかし、最後にはあきらめましたが。これらによって、「こんな、自分は受け入れることができない」という考えにはまります。しかし聖書を見ると、決して、自分は受け入れることができない存在ではないことがわかります。エペソ人への手紙二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

と書かれています。今日初めて来られた方も、この言葉を神からの言葉として受け取って下さい。私たちは神の作品です。「作品」の意味を辞書で調べると「作者が心を込めて制作したもの」と書かれています。会社で作っているものは作品ではなく、「製品」です。製品は寸分狂わず同じものを作ります。製品も心が込められているかも知れませんが、製品とは「販売を目的に大量に作った品物」と辞書に書かれていました。今日、私たちの中に神の製品という人は一人もいません。皆、神様の「作品」です。時々、私たちは隣の人と比べて、「なぜこんなに違うのだろうか。あのようになれたら良いのに」と思います。しかし、隣の人と比べてはいけません。一点一点が違うのが作品です。絵は一点一点が違います。コピーは作品ではありません。自分で書いた字は、上手くても下手でも作品です。聖書は私たちは神の作品だというのです。それも良い作品です。隣の人も神様が造られた良い作品です。人間に悪いものは一つもないのです。
 日本に色々な問題がありますが、何処に触れたら日本全体が変わるのだろうかと人々は考えています。政治、教育、経済・・・どこか?と論議しています。森内閣も日本新生を掲げて、なにやらやっていますが、どうしたら本当に新生できるのでしょうか。そのためには、価値観が変えられるべきだと思います。日本人は進化論をあたかも真理のように聞かされています。学校に行くと、人間は進化したと聞きます。アメーバーのような生物から進化し、やがて強いものが生き延びたというのです。強いもの生き残り、弱いものは滅び去って今があるというのです。進化論の中心に流れてい考えに「自然淘汰」があります。それは、強いものが生き残ったという主張です。その考えが知らない内に価値観の根底に据えられ、「強くなかったら生き残れない」と考えるのです。その考えは、社会に良い影響ではありません。神様はある意味で人類に競争を許されています。しかし、日本の根底に進化論があるために、過度な競争社会を生み出しています。進化論ではなく、神が人間を造られたという創造論の価値観に立つべきです。そして、聖書の価値観が人々に教えられるならば、日本は変わります。
 聖書は個人を、「強いものに価値がある」と位置づけてはいません。どのように位置づけをしているかというと、『キリストをかしらとして私たちは各器官である』と教えています。今朝、ここにおられるお一人一人は、イエス様をかしらとした各器官です。そして聖書は、人間は目立つ器官を尊ぶものであるが、本当に大切な器官は見えるところにはないと教えています。
 体の事を考えても、身体的劣等感の対象となるのはどこですか。「私の胃はおかしいです。レントゲンを撮ったら一般的な胃の形とは違いおかしな格好をしていて・・・」と言われる方はいません。こだわるのは顔などの見えるところです。しかし、生きるためには見えるところはあまり関係ありません。見えるところより、見えないところがもっと大切です。今日も高齢の方々がおられますが、長生きされている方々は一般に内蔵が強いです。目が大きくて、顔立ちが良いからという理由で長生きはできません。内蔵が強い方が元気に生き抜いて行きます。見えないところに価値の高いものがあります。そして本当は弱く見えるような器官が、なくてはならないのです。
 人間の器官の中で一番弱いものは「脳」です。脳は豆腐のように柔らかいものです。それが堅い頭蓋骨で覆われていなかったらすぐに壊れてしまいます。しかし、その柔らかい存在が、体全体をコントロールしています。弱い器官が一番大切です。
 教会は決して世の中の価値観で成り立っていません。教会は、神の国の価値観で成り立っています。神の国の価値観は、強いものに価値があるというのではありません。皆、からだの各器官の位置づけです。それぞれがなくてはならない存在です。今日、ここにおられる方で、いらない存在はありません。皆、重要な方々です。神様により目的をもって造られて、ここに集められています。だから聖書は、『他の人を自分よりもまさったものと思いなさい』と教えています。そして教会はお互いがお互いを必要としている場所です。世の中でもそのように言われますが、本当の意味でそれができるのがキリストの身体です。愛により聖霊によって一つにされるときにキリストのからだが出来上がります。からだとしての働きが出来上がります。
 ここにおられる一人一人に、神様は目的を持っておられます。各器官としての機能を持っておられます。「教会の中で誰が一番偉いのだろう」と考えないで下さい。牧師は講壇に立っているから偉いと思わないでください。これは私たちの役割です。皆にそれぞれの役割があります。そして、目立たないところに価値があり、教会の中でも目立たない人が重要な人です。目立たない人が重要な存在だと思って下さい。私はいつも岡本康宏君を見ると、「神様は素晴らしい」と思います。彼がいなければ岡本家も多分、クリスチャンになりませんでした。岡本牧師も康宏君が生まれなかったらクリスチャンでなく、今頃、マルイチで魚でも売っているのかも知れません。今は牧師として、また、スーパーミッションのためにも忙しく働いています。神様は岡本家に康宏君を置かれました。そして、全体をコントロールされています。だから、人は、「この人は能力がある」とか、「ない」と判断をしますが、教会の中ではそのような判断をすべて忘れてください。世の中ではそのようなことがあるかも知れませんが、教会の中ではそのようなことはないのです。互いに、神が与えられた素晴らしい各器官として、受け入れ合うべきです。大切な器官として、尊び合っていくことが大切です。世の中で疲れたらぜひ教会に来て下さい。教会は決して、「あなたの職業は素晴らしいですね。では、あなたはもう少し上の座に座ってください」というようなことはありません。皆、横一列です。イエス様が親分です。
 先日ある本を読みました。今、ちまたで話題を呼んでいる、『たいせつなきみ』という絵本を読みました。マックス・ルケードという人が書きました。彼はテキサス州のアントニオにある教会の牧師です。そのストーリーは、エリという彫刻家が「ウイミックス」という小人をつくりました。小人たちが動き始めて、やがて、お互いに成功すると金色シールを、失敗すると灰色シールを貼る社会を作りました。皆、金色シールを目指して頑張りました。しかし「パンチネロ」というウイミックスはいくら頑張っても金色のシールを貼ってもらえませんでした。彼は体中、灰色のシールだらけで、一目見ただけで失敗者だとわかる存在でした。それで、彼は出歩くのが嫌でした。金色のシールを多く貼られたウイミックスは、肩で風を切るように外を歩いていますが、彼は灰色シールばかりで、いつも悲しみながら生活していました。
 そんな中、ある時、同じウイミックス仲間のルシアに会いました。すると、彼女には金色のシールも、灰色のシールも全くついていないのです。彼は驚いてルシアに、「なぜ、金色のシールも、灰色のシールも付いていないのですか。」と聞きました。すると彼女は、「私たちを作ったエリという彫刻家に出会って話しをするととシールは付かなくなりますよ。」と教えてくれました。彼は信じることができませんでしたが、ルシアが教えてくれたとおりに、エリの所に行きました。そして、そっとエリの家に入っていきます。するとエリは彼を見つけて抱き上げ、作業台に置き、「たくさん駄目シールが付いたものだね」と言いました。彼はすかさず、「ぼくは一生懸命やったんだよ」と弁解します。しかし、エリは、「ああ。何もかもわかっているよ。愛しい子。他の誰かがお前のことを何と思おうとかまいはしないさ。だめシールを貼ったのは、おまえと同じウイミックスではないか。」と言いました。「みんなが何と思うかなんて、大したことはないんだ。問題は、私がどう思っているかだよ。そして私は、おまえのことをとても大切だと思っている。」と話しました。それを聞いてパンチネロは声が出ないほど嬉しかった、というのです。
 私たちも人生の中でシールが貼られます。人は金のシールを見て、「素晴らしい人だ」と思います。しかし、ある人は負けシールが付きます。降格されて負けシールがたくさん付きます。「何だ、あの人には失敗シールが貼ってあるではないか・・・」皆さんの中にも、金色のシールの人もいれば、灰色シールの人もいるかも知れません。ある意味で教会を訪れるのは灰色のシールが貼られたときかも知れません。しかし、イエス様はあなたを抱き上げて、「このシールを付けたのはわたしではない。あなたの仲間が評価しただけだ。一番大切なのは、わたしがどう思っているかだ。」
 今日、イエス様はすべての人に、「わたしの評価は人の評価とは違う。人があなたをどう評価しても、あなたは高価で尊い。」と言われます。この言葉を受け入れるときに、自分自身を心から受け入れることができます。そして、隣人を愛することができるようになります。
 今日、世の中でたくさんのシールを貼られた人がいたらイエス様の前に出ましょう。イエス様はシールを全部取ってくださり、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語られます。神を愛する人生に入るときに、あなたの人生に素晴らしいことが始まるのです。
 人生で最も大切な、「神を愛する」、「隣人を愛する」を事を実行しましょう。一言お祈りします。
 
 
 

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