今週の礼拝メッセージ
2000..16(SUN)
主の恵みを忘れないようにしよう
−感謝することの祝福−
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 詩篇103篇1節〜5節

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
 

   ハレルヤ!皆さんと共に御言葉を学ぶことができますことを感謝します。今週から「スーパミッション2000東京」が開幕されます。この教会からも大勢の奉仕者がそちらに出かけます。来週からは、礼拝が少なくなるかも知れませんが、ぜひ、残っておられる方も祈り心を持って支えて下さると共に、ぜひ、礼拝に新しい方をお連れ下さり、四十日間を支えていただきたいと思います。今度、全員が顔を揃えるのは、八月二十七日の日曜日ですが、どこにいても共に主の働きを進めるものとして、心を一つして働きたいと思います。しかし、新城教会のスケジュールは中断せずに続きますのでぜひお祈り下さい。水曜礼拝も礼拝もあります。私も何度か帰ってきて、ご一緒に礼拝を守ることを楽しみにしています。今、御言葉を学びますが、今から主が語って下さるように祈ります。
 今日の主題は、「主の恵みを忘れないようにしよう」というタイトルにしました。また、「感謝することの祝福」という副題をも付けたいと思っています。詩篇一〇三篇一節から二節に、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なるみ名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 「わがたましいよ」とは、自分で自分に言い聞かせている言葉です。一人称で「主をほめたたえよ」と何度も述べています。「主をほめたたえる」とは、主を礼拝する、主を賛美するということですが、同時に、「主に感謝をささげる」という意味でもあります。二節では、『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな』と述べています。「何一つ」とは、「すべて」ということです。「全て」とは、全てをひっくるめてという意味ではなく、「各々」、「一つ一つ」という意味です。イエス様はあなたに良いことをして下さったと思います。その良くして下さったことを、あなたは全て覚えておられますか。案外、悪いことは覚えていますが、良いことは忘れやすいものです。人から良くしてもらったことも忘れてしまいます。しかし、悪くされたことは案外よく覚えています。良くして下さったことを決して忘れてはなりません。今日私たちは、もう一度、イエス様が人生の中で良くして下さったことを覚えましょう。神様はあなたに先週も良いことをして下さったと信じます。今日、健康でこの場に来ることができ、礼拝ができることは主の恵みです。何が起こるかわからない不確定な時代に住んでいますが、主が支えてくださっていることを心から感謝すべきです。
 「今から感謝の祈りをささげましょう」と時々、私は祈祷会で言います。皆が用意ドンで感謝の祈りをし始めると、「感謝します」で祈りを始めるのですが、最後には「〜して下さい。アーメン」で終わってしまうことが多いです。案外、感謝だけで祈りを綴ろうとすると難しいものです。「お願い」という祈りの領域は多くありますが、「感謝」が出てきません。
 主が良くして下さったことを忘れてはいけません。さて、どのように良くして下さったのか、三節、『主はあなたの咎を赦し。』と述べられています。
 私たちは罪深い者ですが、私たちの罪を赦して下さいました。今日、イエス・キリストを信じているのなら、あなたの罪は神の前に消し去られているのです。イエス様が十字架の上で流された血潮によって罪は消し去られ、もう罪人ではないのです。「おまえは罪人だ」と責められる人はいません。クリスチャンには、罪が赦されるという素晴らしい特権があります。日本人には神に対して、「恐れ」という基本的概念があります。ですから、「良い神様」を信じることがなかなかできません。
 詩篇一〇三篇八節から、神様のご性格について書かれています。

『主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。』

時々、「神はあのことについてさばくべきだ」と思うようなことがあります。理解できない不義に対して、「神はもっと早くさばいても良いのに」と思うことがあります。しかし神様は気の長い方です。「主は哀れみ深く、情け深い」と書かれています。人間は案外情け深そうで非情なものです。しかし、神様は哀れみ深く、情け深い方です。怒るに遅い方です。聖書の中に「早い」とか「遅い」とか「直ちに」「瞬間」という言葉がありますが、それを調べると、例えば、「瞬間」も、神様のスケールだと百年くらい経ってからの瞬間もあります。神様の時間の概念は私たちとは異なります。「怒るのに遅い」と記されているには、神様は相当気の長い方であると言えます。神様は底抜け愛なる方であり、私たちに愛の御手を差し伸ばし続けて下さいます。今日も優しいみ顔を向けてくださっていることを心から感謝したいと思います。
 日本の神々は怒る神です。日本のいつわりの神はすぐに「祟る」神です。しかし、私たちの神様は怒る神様ではなく、「情け深い」神様であり、いつまでも怒ってはおられない神様です。人間は一度怒るとなかなか収まりませんが、神様はいつまでも怒られる神様ではありません。この良い神様を心から感謝しましょう。
 そして、『あなたのすべての病をいやし』と書かれています。私たちの神様は病をいやして下さる神です。今日ここにおられるクリスチャンの方で、イエス様によって病が癒されたという経験がある方も多くおられると思います。「病がいやされる」ということは、全て、神の御手によります。病院に行っても病が治りますが、人の中にある自然治癒力は神が与えたものです。それを何らかの形で後押ししたり、原因をとって結局、病は神が与えた自然治癒力によって癒されていくのです。神様は私たちの病を癒す方です。
 そして、私たちの神様は、時に、奇跡的な癒しをも行って下さいます。私も、奇跡的な癒しを体験したことがあります。一九九二年の甲子園ミッションの時に奇跡的な癒しを体験しました。何度も話しており、あまりきれいな話ではなく恐縮ですが、甲子園ミッション前で忙しい最中、少しお尻が痛くなりました、二〜三日するとそれが激痛に変わりました。椅子に座ることもできないほどの痛みが下半身に走りました。そうしたら皆が私のところに来て慰めて下さいました。「順先生も、地主(痔)になられましたね。」ついに私は全く動けなくなってしまいました。病院に行きたくても動けないほどの痛みでした。その為に、多くの方々が真剣に祈ってくれました。その時の私の予定は、礼拝メッセージを終えてすぐに大阪に行かなくてはなりませんでした。もう、全部をキャンセルしようとしていました。土曜日のことでした。しかし皆祈って下さいました。哀れみ深い方々に感謝しました。
 その時、子どもたちも真剣に祈ってくれました。「順先生が今、攻撃を受けていますので、お尻に刺さった矢を引き抜いて下さい。」と祈っていました。すると、一人の子どもが来て、「順先生、イエス様は瞬間的にも癒すことができるお方だ。順先生が信じたらその瞬間に癒される。」と偉そうなことを言いました。私は、「うるさい。お前に言われたくない。オレは痛くて苦しんでいるから、あっちに行ってくれ。」と言いました。しかし、神様がそのように語っているというのです。「信じると言っても、この痛さでは、どうやって信じたら良いかわからないのです。神様信じたいけれど、信じられないのが現状です。」と祈りながら眠ってしまいました。
 寝るとすぐに夢を見ました。何と、夢の中では、お尻を気にしていない私が走り回っているのです。「ああ、ここは天国か。この夢がずっと続けば良いのに・・。」と夢の中で思いました。そして、ふっと我に返りました。眠ってから十五分後のことでした。お尻を押さえてみると、何の痛みもありません。完全に直っていました!私は教会に走って行き、「ハレルヤ!癒されました!!」と入って行きました。その時、何人ものが「順先生が癒されますように・・。癒されますように。」と祈っていたのです。「癒されました!」と入ってたので皆、驚きました。丁度、牢から助け出されたペテロのように、信じられないという表情で私を迎えて下さいました。あの時、本当にイエス様は癒し主だと体験しました。あれは本当の意味での瞬間的な癒しでした。
 しかし、イエス様は瞬間的ではなく、時間をかけて癒されることもあります。長い時間をかけられることもあるかも知れませんが、主は癒し主です。皆さんに病があっても今、元気になっていたとしたら、「イエス様。癒して下さって感謝します。」と癒しを感謝すべきです。
 続いて、四節に、『あなたのいのちを穴から贖い』と書かれています。究極的には、イエス・キリストを信じることによって、死からいのちに移されているがゆえに、「滅びの穴」から救い出されているのです。イエス・キリストを信じるならば、私たちは永遠の滅びの穴から解放されているのです。私が望んでいることは、誰一人として滅びの穴に行かないことです。スーパーミッションが四十日間開かれます。考えてみると、この新城から人を送り、東京で働くことは割に合わないような気がします。しかし、四十日間、宣教大会が開催され、そんな中で、多くの人たちは滅びの穴から救われると信じます。今まで滅びの道を歩んでいた人が、救い出されていのちを得る。素晴らしいことです。日本の同胞が救われることを、もっと心から喜ぶべきです。また、教会の存在価値は滅びの穴から人々を救い出すためです。誰一人として滅びないために、永遠の地獄に行かないために私たちは働いています。クリスチャンは、滅び行く魂のために責任があります。その為に働くのです。
 時々、あるクリスチャンは天国に行く確信がないと言われます。昔、私も小さな時によく脅かされました。「お前、そんな信仰生活で天国に行けると思うか」と言われると、「ちょっと無理かな」と思います。あれは殺し文句で、あまり良いとは思いません。救われている条件は、私たちが正しい歩みをしているからではありません。私たちが聖人君主になったら、救われているというのではありません。ローマ書十章十節では、

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

と書かれています。イエス様が救い主だと心で信じ、口で「イエス様が私の救い主」と告白することによって救われます。そして十三節には、

『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』

と書かれています。あと、五分しかいのちがない人に「伝道して下さい」と言われたら、皆さんはどうやって伝道しますか。「それでは聖書を開きましょう。」と言って創世記から読んでいたならば、一章読み終わる頃に死んでしまいます。聖書を全部知らなかったら救われないとしたら、何と不幸でしょう。救いだけは真に時間を要さず、「瞬間的」に与えられるのです。何しろ、主の御名を呼び求めるときに、救われるのです。五分間しか命がない人に対しては、「イエス様と呼んで下さい。口で言えなくても、心の中でイエス様!と告白して下さい」と伝道すれば良いと思います。イエス様を主と告白することができたら、私たちは救われます。
 イエス様と一緒に強盗が十字架に付けられました。右と左に付けられました。左の強盗は、イエス様をののしりました。「お前は神の子か」と言ってののしりました。しかし、右の強盗は、「イエス様。あなたが今日、御国に行かれる時に、私を覚えて下さい」と願いました。するとイエス様は、「あなたは今日、私と共にパラダイスにある」と言われました。右の強盗は悪いことばかりして、自分の罪のために十字架に付けられていました。そして、イエス様に対しても、彼は何もできませんでした。祈りも、献金も、何も良いことはできませんでした。しかし、「私を覚えて下さい」とイエス様に言っただけで、救われて天国に行きました。何の努力もなしに天国に行ったのです。
 「エホバの証人」は、努力しないと救われないという教えです。あれは間違いです。だから、朝早くから子どもを連れて家々をまわります。どれだけ奉仕したら救われるのか分からないのです。昔、私はエホバの証人のおじさんと議論したことがあります。彼は、一生懸命努力しないと救われないというのです。私は、「では、イエス様の右側の強盗はなぜ、瞬間的に救われたのですか」と聞くと「そうだね?」と言って困っていました。「ちょっと、上の人に聞かないとわからない」と言われました。「では、その答えを持ってきて。」と言いましたが、もう、二十年程が経ちますが、未だに答えを持ってきません。私たちの救いは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われます。「穴からあがない」とありましたが、「あがない」という言葉は、わかるようでわからない言葉です。「あがない(贖)」とは難しい言葉です。そこには、「買い戻す」という意味がありますが、ヘブル語では、「ゴーエール」と言うそうです。このゴーエールという言葉のオリジナルの意味を調べると、「自分の親族を保護し、敵に報復する義務を持つ近親者のこと」と書かれていました。昔のヘブルの文化の中で、そのような存在があったようです。そして、「主なる神がその役を引き受けて下さる」という意味です。悪魔は時々、私たちの家族を攻撃してきます。家族を傷めようとしますが、あがない主イエス様は、私たちの家族をかくまい、家族を守って敵に報復をして下さるのです。今まで皆さんの家族、親族に悪魔は手出ししてきました。悪魔は家族の中に働こうとします。家族に、破滅をもたらそうとします。しかし、イエス様はその家族を保護し、敵に復讐される方です。そんなイエス様が私たちの中におられ、教会も大きな家族ですので、教会をも保護して下さっている事を感謝しなければなりません。
 これらが、『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主をほめたたえよ。』と何度もダビデが述べている理由です。
 ダビデはこの真理に目覚めました。そして、何一つ神様が良くして下さったことを忘れないようにと、自分に言い聞かせたのです。
 私も、このように語っていながら、恵みを忘れがちな者です。先週、私は少し時間をとって、スーパーミッションのメッセージのために祈り備えました。ミッション事務所から、「早く、メッセージ・タイトルと御言葉の箇所を教えて下さい」と言われていました。「メッセンジャーは祈って講壇に立つものだ。だから、講壇に立つ時まで何を話すのかわからない。」と言いました。すると、「では、早めに祈って決めて下さい」と言われました。そう言われて困りました。それで、祈りました。「神様。助けて下さい。ミッションで語る御言葉を与えて下さい。」と主の前に出ました。
 そんな中で、私がかつて語ったメッセージを読み返してみました。一九九二年から二〇〇〇年までに、私が礼拝で語った御言葉は全て、データとしてコンピューターの中に入っています。新城教会では、礼拝を休まれた方のために、メッセージを印刷しています。あれを読むと恵まれます。講壇からは結構ラフに語っていますが、印刷されたメッセージは少し手を加え、読みやすくしてあります。ぜひ、お読み下さい。また今はインターネットでもメッセージを読むことができます。結構このメッセージを全国の方が読まれています。時々メールで質問が来ます。難しい質問をされることもあります。それだけで何時間も考えなくてはならないことも時々あり困りますが。
 九二年からのメッセージを読み返しました。私も何を語ったか忘れてしまいました。しかし、九二年に語ったメッセージの中で、自分の証をしているメッセージがありました。それを読み、「私は感謝を忘れていた。もう一度、感謝しなければならない」と教えられました。スーパーミッションのために、何をしたら良いのだろうかと焦る気持ちがありますが、それはさておき、「今までの恵みを心から感謝しなさい」と主から語られたような気がして、もう一度、「イエス様。私を生かしてくださっていることを、心から感謝します。」と感謝の祈りをささげました。
 私が牧師になったのは、一九八四年のことでした。その時の事を思い出しました。その時、多くの牧師先生方が、私のために按手して祈って下さいました。昨年も、主任牧師になるということで、有賀喜一師をはじめ多くの先生方が私のために祈って下さいましたが、はじめて牧師になるときの按手の祈りのは、はっきり言ってうれしくありませんでした。「按手するな!バリアー、バリアー。」という感じで、手を置かれたくありませんでした。なぜならば、当時の私は、とてもいい加減で、伝道する気などは全くなく、魂に対する重荷はなく、成りゆきで牧師になったような者であったからです。
 先日、リバイバル新聞に、「私の献身の証」を連載したのですが、結構、反響を呼んだようです。私は牧師になったけれど、個人伝道が大嫌いでした。私はクリスチャンホームで育ったので、何を話せば良いのかわからず、ミッションバラバのような証があったら良いのですが、「救いの証をして下さい」と言われると、訳のわからないような証しかないので個人伝道が嫌いでした。しかし、私は、無理矢理、牧師になるように押し出されたような所がありました。それで、牧師になった時、「このままでは駄目だ。牧師というタイトルをもらったら、きっと、神様が私を鍛えるのに違いない」と思いました。しかし、手を置かれてしまいました。
 神様は、先に立場を与えて、それから、徐々に鍛えられることがあります。私もその部類でした。鍛えられてから立場を与えるということもありますが、多くの場合、先に立場を与えて訓練するのです。私も訓練されました。
 私が家内と結婚するとき、「結婚するけど、私は絶対に牧師にならないから、安心して下さい。絶対、この教会を継ぐようなことはしないから。」と言うと、「それなら結婚しても良いよ。」と家内も言いました。家内も、私が牧師にならなかったら良いという感じがありました。そんな思いで結婚したので、いつもの生活はだらしなく、教会の仕事は午前中に少しトラクト配布をして、午後は海に行って釣りをして遊んでいました。悪かったと思います。ごめんなさい。今ここで告白します。しかし、神様は、私を鍛えられました。牧師になった次の年から、私を鍛えるプログラムが始まりました。
 当時教会の中に、色々な問題がありました。特に、多くの方が病気になったり、ガンで亡くなったりと、色々と苦しみがありました。ある時、私は家内と共に病院訪問に行きました。そして、ある病の方のためにお祈りしました。あまり行きたくないと思いながらも行き、祈って病室を出てくると、家内がこう言いました。「ちょっと、今、私のために祈って欲しい。何か知らないけど、ガンの悪霊みたいのものが、私のところに来たような気がするから。」と言うのです。私は、「何を言っているのだ。そんなの気のせいだ。恐れがあるからだ」と笑って、何とも思っていませんでした。しかし、家内は霊的に鋭く、そういう感じがしたそうです。
 しばらくすると、家内の体調が徐々に悪くなりました。病院で検査したら、「精密検査する必要がある」と言われました。それを聞いて怖くなりました。教会の中で同じような年代の方々が亡くなられたりして、さらに怖くなりました。その時、私は真剣に主に仕えてなかった為に、神様が何らかの悔い改めを迫っておられる感じがしました。それで私は、神の前に出て、真剣に夜教会に来て祈るようになりました。「神様。これから、主のためにへりくだっていきますので、助けて下さい」と祈りました。悔い改めたらイエス様が、すぐに助けてくれるかと思いましたが、すぐには助けがありませんでした。どんどん、家内の体調は悪くなり、当時三十数キロまで痩せてしまい、食べることもできなくなり、このまま放って置いたら死んでしまうのではないかと思いました。
 決して、私の真似をしないでいただきたいのですが、その時、主から、「お前はこれを祈って勝利しなさい」と私と家内に語られたような気がしました。だから、何しろ祈らなくてはいけない、神様は祈りを要請されていると確信しました。もう一度言いますが、決して私の真似をしないでいただきたいのですが、何しろ、病院に頼るのではなく、祈り出しました。すると、私だけではなく、教会で一緒に働いていた仲間たちも真剣に私の家内のため、私のため、リバイバルのために祈るようになりました。そんなことで、県民の森祈祷会が始まり更に祈りが進んでいきました。
 しかし、祈れば祈るほど、状態が良くなるどころか悪くりました。私は、「これは、もしかしたら、家内は死んでしまうかも知れない。そして、私が病院に連れていかないで死んでしまったら、私は大変な立場になってしまう」と感じ、板挟みになりました。しかし、祈って勝利することを語られていると確信しましたので、何とかがんばって祈っていこうと思いました。しかし、状態は良くありませんでした。
 ある夜、家内は調子が悪く、倒れて、全く動かなくなってしまいました。ついに来るときが来てしまったと思いました。すぐに救急車を呼ばなくてはならないと思いました。私は二階に寝ていましたが、下に駆け降りてきて一一九番をしようとしました。すると、「お前は、ここであきらめるつもりか。」と語られたような気がしました。それで、電話を置きました。そして、動かなくなった家内を担いで、会堂に連れてきて十字架の前に置きました。そして叫びました。「イエス様。今まで私は祈ってきましたが、何も起こりませんでした。これで何も起こらなかったら、今から即、病院に連れていきます。」と祈りました。すると突然、家内が「ゲッ、ゲッ、ゲッ」と吐き出すような症状になり、ムクッと起き上がりました。それから、主が立ち上がられました。徐々に主が家内に働かれました。しかし、まだ完璧ではありませんでした。その時、やっと、「これは霊的な問題ではないか」と気が付きました。始めに家内が霊的なものを感じて調子が悪くなり、「霊的な攻撃では」と気付きました。しかし、私は気づかなかったのです。
 それからもっと、真剣に祈るべきだと感じ、夜中に愛知県民の森に一人で入って行きました。そして、広場で叫んで祈りました。「主よ。もしも、私の家内を病にしている悪霊が背後で働いているならば、悪霊どもが打ち破られますように。」と祈りました。その時に、私の後ろに黒い影が映ったような気がして、突然、「パン、パン、パン」と音がしました。私は驚き、逃げ帰ってきました。しかし、その時から家内は良くなりました。徐々に食べられるようになり、健康体になりました。それから十数年経っていますが今は健康です。そんなことがあってから、県民の森で聖霊が注がれ、今があるのです。この事をもう一度思い出し、「私の家族に、悪魔は真剣に死をもたらそうとしていたけれど、助けて下さったことを感謝します。」と祈りました。あの時、少しでも狂っていたら、今はないと思います。あの当時、死の霊が新城教会に襲いかかっていました。
 私の家内が病気なってからしばらくして、上條実牧師が病気になりました。彼は昔、体格が良かったのですが、ある時にへんな咳をし始め、徐々に食欲がなくなり見る見る痩せてしまいました。そして、見る影がないほどに痩せてしまいました。東京の慶応大学病院に入院し、精密検査までしました。背骨の中にガンがあるのではないかと言われ、最新機器を使って調べても全くわかりませんでした。症状は進行するばかりで、このまま彼も死んでいくのではないかと思いました。私の家内も、上條師もげっそりと痩せてしまい、周りの方が病気で亡くなったり、いくら祈っても祈りは聞かれないし、一体、何なのだろうと思いました。しかし、神様が助けて下さいました。彼も何が原因かわかりませんでしたが癒されました。最近少し、腰が痛いと言っていますが、昔以上に健康体です。私の家内もそうです。
 当時、新城教会に死の霊が襲いかかり、教会を叩きつぶそうとしていたと思います。あの時につぶされていたら、甲子園ミッションも、東京ミッションもなかったと思います。ましてや、スーパーミッションもありませんでした。そうしたら、今日いない人もかなりいると思います。甲子園ミッション、東京ミッションがあったらから救われた、という方が多くおられます。
 悪魔は、次に来る神様の目的や計画を少しは盗み見していると思います。「この人が進んでいくと、このように用いられる。自分に挑戦してくるから、先につぶしてしまえ」という訳です。もしも、今日、皆さんが何らかの試練に出会っているとしたら、これは必ず次の段階があります。だから悪魔も真剣にそこで止めようとします。あの時は、死の霊が教会をつぶそうとしていた時でした。私は、「主が立ち上がられた日」という本の中に、そのことを書いていますので、またお読み下さい。当時、私たちは霊的戦い知りませんでしたが、神は助けて下さいました。そして最終的に、その原因が霊的なものであることをはっきりと教えて下さいました。今はそのようなものに対して、対抗して祈ることができるようになりました。感謝なことです。「今あるのは、イエス様が助けて下さったからです。」と、もう一度感謝しました。良くして下さったことを忘れないことは素晴らしいことです。詩篇一〇三篇は、

『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

と書かれています。ここでダビデは、自分にも、他の人にも言い聞かせています。彼は、感謝する中で受ける祝福、「感謝の効能」についての真理を受け取りました。そして、それを実践していました。「人生の中で、数々の戦いで死にそうになったけれども、主は助けて下さった」と心から感謝しました。そして、感謝するときに、「良いもので満たして下さる」ことを経験しました。良いもので満たされ、若さが鷲のように新しくなるという経験をしたのです。その経験を、他の人に伝えたいので五節の歌をうたいました。
 感謝することは、人生を良いもので満たし、若さが鷲のように新しくなる、「祝福につながる鍵」であるのです。「感謝する時に祝福を受ける」のです。
 先週は、感謝するときに、スーパーミッションを更に祝福して下さると理解し、もう一度主の前に感謝をささげさせていただきました。
 「良きもので満たされる」とは、「好ましい、楽しい、嬉しくなる」という意味もあります。神様は私たちに、良い、好ましいもの楽しいもの、嬉しくなるもので人生を満たして下さいます。また、「良いもの」とは、「装飾品」「飾りもの」という意味もあります。神様が与えて下さる素晴らしいものであなたの人生を飾ってあげる。それも、感謝に伴ってあなたに与えると教えています。
 今日、主が良くして下さったことを忘れずに、もう一度、感謝する者になりたいと思います。しばらく具体的に感謝する時を持ちましょう。
 
 
 

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