今週の礼拝メッセージ
2000..23(SUN)
将来と希望とは何か
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 エレミヤ書31章16節〜17節

主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。
 

    ハレルヤ!今日、このように新城教会で礼拝できることを心から感謝します。また、スーパーミッションのために祈って支えてくださっていることを感謝します。今日も東京で新城教会の兄弟姉妹やスタッフたちが頑張って働いています。さらに、祈って支えていただきたいと思います。すでにスーパーミッションも五日間が過ぎましたが、主が祝福してくださり、救われる魂も多く与えられていることを感謝します。内容も良い集会です。
 しかし、四十日間の戦いは普通の戦いではなく、大きな戦いも感じています。そういう意味で、霊的戦いに勝利できるように祈っていただきたいと思います。そして、スーパーミッションがただの集会に終わることなく、リバイバルにつながるように祈っていきたいと思います。
 今回の、リバイバルミッションのテーマは、エレミヤ書の二十九章十一節の、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

という御言葉です。「あなたに将来と希望」という素晴らしいテーマです。この日本について考えると、将来と希望を見出すことが難しい時代に来ています。しかし、イエス・キリストによって将来と希望が与えられる、というテーマで集会が進められています。私たち一人一人が、このテーマを自分のテーマとして、将来と希望をイエス・キリストによって受け取っていきたいと願います。
 しかしながら、スーパーミッションを開始して、ある意味で大きな戦いも感じています。先週は、とても大きな霊的プレッシャーを感じ、祈らされた一週間であったことも確かです。
 今回、四十日を計画して、その活動に携わる過程で、色々な戦いを体験し、更に祈るように押し出されたところもありました。ご存じのように、田中政男先生が脳内出血で倒れ、一時はひやっとしました。しかし、残念ながら、ミッションを前に亡くなられた方もありました。これをすべてスーパーミッションと関係あると、とってはいけないと思いますが、田中政男先生が倒れられた同じ日に、田中先生の仲の良い長野の先生が、ガンで亡くなられました。また、それと同じ日に、ソン・ミンヨン先生がアメリカで工事現場を見ていて、はしごが倒れて来て転んで背骨を損傷してミッションに来れなくなりました。そんな悲しい事件が一日に三つもあり、緊張が走りました。
 また、推進実行委員会のお一人、三浦先生が東京ミッションが終わってから体を壊され入院されていましたが、スーパーミッションを直前にして亡くなられました。一緒に、推進委員として働いていた先生が亡くなられ、大変悲しい思いをしました。
 また、もう一人、私たちと関係の深い方が先週亡くなられました。それは、穐近祐先生が九十六歳で亡くなられたからです。私の両親はスーパーミッションを前にして、先生から祝福の祈りをしていただきたいと病院に訪問に行くと、「今朝、亡くなられて、自宅に戻られました」と言われました。
 ある意味で、私たちの身の回りに、「死」というテーマがつきまとっているような気がして、戦いを感じた一週間でした。また、現実の集会が始まっても色々な細かい問題が起こってきました。動員、予算等、色々な問題が起こってきました。そのような中、賛美チームの万年兄弟が来られて、「先生、私のために祈ってください。今、娘が大変です。手、足、口病になって水も受けつけないし、食べることもできなくて、点滴だけで生きています。四十度近い熱が続いている」と言われました。それを聞き、真剣に祈りました。そんな交わりの中で、万年さんがこう言いました。「スーパーミッションが始まって、将来と希望というテーマに対抗するような戦いが起こっているように思いませんか。」というのです。
 考えてみると「将来と希望」というテーマを阻止するかのように、色々な問題が周りに起こっているようです。この、「将来と希望」というテーマは、ただのテーマではなく、神が与えたテーマであると確信し、もう一度、「将来と希望とは何か」について、祈るべきだと感じ、先週、真剣に祈り続けました。そして、「主よ、将来と希望というテーマが与えられましたが、この本当の意味はどういうことですか」と聖書を読み、神の前に祈りました。
 今日お読みした御言葉エレミヤ書三十一章十六節にも『あなたの将来には望みがある。』とあります。

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 「将来と希望」という計画の背景は、エレミヤ書二十九章を見ると、バビロンに捕らわれていたイスラエルが、バビロンの束縛から解放され自分の国、イスラエルに戻ってくるという預言です。イスラエルが失った都エルサレムに、もう一度帰り、主の宮が建て直される預言が「将来と希望」の背景とテーマです。二十九章には、

『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』

とあります。そして、わたしが持っている計画は、『わざわいではなく、平安を与える計画で、あなたがたに将来と希望を与える計画だ。』と続いています。
 「将来と希望」とは、どのような中からの将来と希望かというと、バビロンに捕囚にされたイスラエルの民が解放されることが、「あなたの将来と希望だ」ということです。旧約聖書の背景から、聖書全体を見て、「救い」という概念はどのようなものでしょうか。
 旧約聖書の「救い」の概念はすべて敵の手から解放でした。イスラエルは度々、敵国に捕囚されました。古くはエジプトに捕囚されました。しかし、敵の手から解放され、カナンの地に戻ってきました。またその他にも、何度も何度も攻められて国が征服されました。しかし、その度に解放されて救いを得ました。また、バビロンに捕囚されて国を失ったけれど、解放されました。一連の流れの中で、旧約聖書の救いは何であるかというと、「敵の手からの救い」でした。
 やがて、イエス様がお生まれになりました。イエス様がお生まれになる前に、ザカリヤによって救いについての預言が語られました。彼はイエス様が生まれる直前に「救い」について預言しました。
 ルカの福音書一章七十一節に、

『この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。』

 イエス様がお生まれになった目的は「敵からの、すべて我らを憎むものからの救い」であり、与えられる救いは、「敵の手からの救い」であると預言されました。続いて、聖霊の時代になりました。イエス様の十字架が完成してから、聖霊の時代に入りました。その時、主は、パウロに語られました。使徒の働き二十六章十七節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

と書かれています。ここでパウロに語られたのは、「サタンの支配から、神の支配に移されること」が「救い」であると語られました。
 してみると、私たちの将来と希望はどこにあるのか。それは、敵の手からの解放される結果にあります。旧約聖書から新約、そして、この聖霊の時代に入って一貫として述べられている「救い」とは、「敵からの救い」です。その、敵からの救いというプロセスの中で、『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』と語られているのです。将来と希望を、私たちが受け取るためには、「敵の手から解放される」ことが必要なのです。敵の手から解放されることが、あなたがたにとって将来と希望であると教えています。
 ということは、今回のスーパーミッションのテーマが、「将来と希望」ということは、それを手に入れる前に、「敵の手からの解放」が条件としてついているわけで、大きな戦いがあるのです。
 私自身も霊的戦いについて理解しているつもりでしたが、テーマとともに悪魔は真剣に将来と希望を消し去るテーマで働いていることを再認識し、もう一度、この事実をふまえて祈り直すべきだと感じました。
 聖書を読むときに、私たちの神様が「平和の神」であることは確かです。神によって与えられる平安は素晴らしいものです。私たちクリスチャンは、戦争や殺人、そして、暴力を肯定するものではありません。しかし、霊的な側面での「平和」は、違った側面があることを認識すべきです。
 ローマ人への手紙十六章二十節に、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』

 この御言葉は、霊的世界においての平和が、どのようなものかを教えています。この平和はサタンと平和条約や不可侵条約を結び、「私はあなたに手を出しませんから、あなたも私に手を出さないでくださいよ」という平和ではない、ということです。霊的な世界での平和は、『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』です。この平和とは、「敵を制圧して奪い取る平和」であるということです。今、多くの人々が苦しんでいます。日本において多くの問題があり、背後に働いている悪魔の力があります。その悪魔の力が完全に打ち破られ、そこから奪い取るものが平和であるのです。それゆえに、『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』と書かれているのです。
 イエス様は十字架の上でサタンのかしらを踏み砕いてくださいました。蛇という動物は、気持ちの悪い動物で、あまり好きな人はいないと思います。私は昔、蛇をよくいじめて殺したことがあります。蛇は頭を石でつぶしても、体はまだグニャグニャと動いています。頭がつぶされたら人間は絶対に動きませんが、蛇は動いています。ある意味でサタンの働きはそのようです。もう十字架の上でイエス様はサタンの頭を踏み砕いてくださいました。しかし、まだ、尻尾が動いているのです。イエス様が再び来られるまでサタンは動いている。しかし頭はすでに砕かれているから、もうかみつくことはできません。彼はイエス様のかかとにかみつきました。しかし、私たちにはかみつくことはできません。しかし、尻尾は動いているような所があります。その動きを止めるために、私たちもイエス様が十字架でとってくださった勝利に続き、『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』と書かれているように足が必要です。
 誰の足が必要でしょうか。それはクリスチャンの足です。将来と希望は敵の手からの解放です。このために、「先に主を信じた者たちの足」を主は求めておられるのです。私たちが主の兵士となり、リバイバルのために祈って共に参戦すべきだと教えられます。
 今日、皆さん一人一人に神様が語っておられます。平和の神は、「あなたの足」を必要とされています。「将来と希望」が、この日本に与えられるために必要なものは、私たち、「クリスチャンの足」であるのです。
 スーパーミッションにおいて、新城教会の多くの兄姉が奉仕してくださっています。足を使っています。「神様。全部あなたがやってください」と言いたくなるような時もあります。しかし、神は「あなたの足が必要だ」と言われます。日本の将来と希望のために、私たちの足を主が用いようとされているのです。
 さらに、サタンの支配から、神の支配に変えられるために何が必要であるかと考えます。「どうしたら良いのだろうか」と考えます。しかし、神はそのための約束を与えてくださいました。イエス様を通して実現したことですが、イザヤ書六十一章一節には、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、』

と約束されています。解放のためには何が必要かについてイザヤ書六十一章一節には、『神である主の霊が、わたしの上にある。』と書かれています。聖霊は初めにイエス様の上に注がれました。そして、この御言葉が実現しました。私たちも同じです。この国を勝ち取るために必要なことは、まず、聖霊に満たされることです。聖霊の力を求めるべきです。そして「油の注ぎ」です。聖霊の油注ぎと共に、足を使って出ていくのです。教会にとって、「油注ぎ、聖霊の注ぎ」がいかに大切であるかがわかります。イザヤ書十章二十七節には、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。』

と書かれています。英語の聖書には、「Because of the anointing Oil.」と書かれています。これは「油注ぎのゆえに」くびきと重荷が肩からおちる、という意味です。解放のために必要なことは、聖霊の油注ぎです。油注ぎが肩から重荷を落とし、首からくびきを落とすのです。
 「肩の重荷」とは何でしょうか。肩に大きな重荷がのっているということがあります。しかし、聖書は肩について特別な意味を持っています。「主権は肩にある」とあります。「肩の重荷」という意味は、「主権的な領域の重荷」という意味です。今、日本は主権的には、まことの神様の手ではなく、悪魔の手に奪われています。さて、この主権的な重荷がおろされるためにどうすれば良いのでしょうか。これが、「聖霊の油注ぎによる」という事です。
 ぜひ、今回のスーパーミッションの中に、神の霊がもっと注がれるように、また上からの油の注ぎが強く注がれるように祈っていただきたいと思います。主の霊が注がれて、油の注ぎが来るときに、「私たちの肩から重荷が、主権的な力が落ちる」のです。これは、国においても、また、個人にとっても同様です。聖霊様が、私たちのところに来られるときに、肩から重荷が落ちます。
 私も教会で長年奉仕させていただいていますが、人を変えることができるのは聖霊の力以外にない事がよくわかります。聖霊様が触れてくださるときに、私たちは変えられます。
 私はこの教会のお年寄りの方からよく言われます。「新城教会で奇跡が起こりましたが、一番の奇蹟は、順牧師が変わったことだ」と言われます。このことは、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちです。だいぶ私も変えられたようです。まだまだ、途中ですが、昔はもっといい加減でした。
 私の友人が、「順。お前は案外、悪知恵が働き、頭はそんなに悪くはないけど、お前にかけているところがある。それは、聖霊に満たされていないところだ。」と一緒にサウナに入っていて言われました。
 「お前に、聖霊が注がれたら、本当に良い働き人になるのに」と、私の良い友人が語ってくれました。「そうか。聖霊に満たされるとは、どういうことなのだろうか」と思ったことがあります。しかし、こんな私にも、聖霊様が触れてくださいました。リバイバルのために、真剣に働き、リバイバルの重荷を受け取るものとしてくださいました。決して、クリスチャン生活は努力ではありません。主の霊が私たちの上に臨むときに、私たちは力を受けて変えられます。ぜひ、聖霊の油注ぎを求めてください。聖霊の満たしを求めてください。私たちの中に生きた神が働かれることを体験します。
 この教会に来られる方が、聖霊によって変えられる姿を見ることほど、私にとって嬉しいことはありません。何もしていないのに、聖霊様が触れられるときに、人が変えられていきます。そして、主の兵士となっていきます。
 この国に、主の油が注がれるように、私たちの中に主の油が注がれるように、祈るべきです。
 エレミヤ書三十章八節には、

『その日になると、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。』

ダビデとは、やがてイエス様のことになります。その日になると、彼の首からくびきがおちるというのです。将来と希望というテーマでスーパーミッションが行われている意味は、「日本の主権的な力との対決」であるということです。「将来と希望」というテーマは、響きの良いテーマかも知れません。しかし、その背景は、「バビロンからの、捕囚からの解放」です。この国が解放されるためには、どうしても、敵の手から奪い返されなければならないのです。そのために必要なのが霊的戦いであり、主の霊が私たちの上に臨まれる時、油の注ぎによりくびきが肩からおちるのです。
 今一度、「スーパーミッション」の直中で、このことを覚えて祈りましょう。「神様。私たちにもう一度、上からの力と油を注いでください。」と。スーパーミッションの期間中はぜひ、祈りの火を絶やさないでいただきたいです。これが日本の主権的な戦いであるとしたら、誰一人としてそこから逃れることはできないのです。牧師たちがやっていれば良いと思ってはいけません。
 第二次世界大戦の時に、天皇がアメリカと連合軍に宣戦布告をしました。その日、日本対連合軍という戦いの構図ができました。「私は兵隊ではないから、その戦いに参加しなくても関係ない」ということができませんでした。全国民が敵になって、戦いの中に入りました。
 「将来と希望」とは国に関わることです。そして、この戦いはリバイバルの戦いです。ということは、日本教会に所属する、クリスチャンは誰も逃れることはできないのです。すでに戦いの中に入っているのです。このことを覚え、「将来と希望」に対抗するような戦いが、私たちの中に起こってくることを予測して先に戦うべきです。恐れることはありません。そのことを知って戦うならば、決してやられることはありません。
 先週、色々な問題で心が暗くなりました。そして、水曜日には水曜礼拝の為に朝、新城に帰ってきました。心が重くて、「すべてやめて、このままどこかに行ってしまいたい」と思うくらいの気持ちでした。東京の多くの人々を見て、「なぜこんなに多くの人がいても、集会に来ないのだろうか。日本にはリバイバルは無理かも知れない。リバイバルなんかもうやめてしまいたい。」すべてを投げやってしまいたい気持ちになりました。とても暗い気持ちで戻ってきました。
 水曜礼拝が終わり、食事中に私の携帯電話が鳴りました。すると、「順先生、大変なことが起こりました。」という電話でした。「またか!」と思いました。「悪いことはついでに、一つでも二つでも聞くよ」と開き直って聞きました。電話は石塚姉妹からでした。「先生。息子が大変な病気になりました。今から病院に行きます。そのために祈ってください。息子が川崎病と診断されたのです。」
 川崎病の判定法が五つあるそうですが、四つに該当しており、あと一つ心臓の検査をして、反応があれば即、本格的な治療に入らなければならないので、「今日から入院するので祈ってください」と言われました。四十度ちかくの熱が何日も続いていると言われました。それを聞いて、さらに心が暗くなりました。「今どこにいるの」と聞くと、「今は家で入院の準備をしていて、病院に行くところだ」と言われました。「では、入院する前に教会に来てください」と言いました。
 しばらく待っていると、彼女が焦った顔をして生後六ヶ月の赤ちゃんを連れてきました。顔を見て、「これはまずい」と思いました。右半分と左半分と顔の形が違いました。何か傾いでいました。唇が真っ赤で、目が腫れ上がっていました。ゼイゼイと息苦しそうでした。しかし、その時、「これは将来と希望を脅かす悪魔の挑戦だ」と思いました。「この時に勝負し、戦って祈らなくてはならない」と思いました。それで、そこにいた兄弟姉妹とともに祈りました。そこに森良音くんがおり、彼は霊的な目が開かれているので、彼にも祈ってもらいました。「悪霊が見えるか」と聞くと「あっ。いる。」「どんなのがいる?」と聞くと、「目がつり上がっているのと、角が生えている悪霊がいる」というのです。それで、「悪霊よ出て行け。」と祈りました。「日本の将来と希望を脅かす、悪霊よ出て行け。」と真剣に祈りました。
 その後、お母さんは赤ちゃんを連れて、病院に行きました。「結果が出たらすぐに電話をして下さい」と言いました。しかし、夜になっても電話が来ませんでした。私は心配になり、自宅に電話してみました。すると、三歳の息子が電話に出て、「お母さんはいない。」と言いました、実家のお母さんが手伝いに来ており、電話に出られ、「まだ結果はわかりません。」と言うのです。「祈ったけれど、駄目だったのかな」と不安に思いました。
 確かに、祈ったあとで顔つきが変わったようでしたし、今までとても熱かったのが、熱が引いたような気がしました。何かが起こったと思いました・・。
 さて、彼女は6ヶ月の息子を連れて病院に行きました。医者が本格的な治療に入るために検温すると、高かった熱が、平熱の三十六度五分になっていたのです。平熱に戻っていました。「先ほどまで悪かったので、様子を見るために入院してください」と言われ、入院しましたが、何もなかったのです。そして、二日後に退院しました。イエス様に感謝します。主の御名をあがめます。川崎病になったら大変なことです。今朝の礼拝にお母さんも息子も来ています。
 この勝利を下さったと言うことは、スーパーミッションも必ず勝利を与えてくださるという証拠だと受け取りました。今、見えるところは問題もありますが、必ず、戦いに勝利を与え、この国を取り返してくださるのです。
 「救い」には癒しも含んでいます。不可能なようなことに神は勝利を与えてくださいます。先週、聖書を読んでいる時に与えられた御言葉が今日の御言葉でした。エレミヤ書の三十一章十六節です。

主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。

 この御言葉を主から受け取りました。「この戦いに必ず勝利を与えてくださることを信じます」と祈りました。
 「将来と希望」というテーマは、「敵の手からの解放」による、将来と希望であるということをもう一度、認識し、勝利を受けることができるように祈っていきましょう。
 すでに主は油注ぎを与え、霊を注ぎ、働いてくださっています。ここに主の御わざが起こっています。この主の業が全国的に広がるように、日本の多くの苦しんでいる方々が救われるために、私たちは戦うのです。主は、あなたの足を必要としています。平和の神は、「あなたの足」を必要としているのです。神様の足ではなく、あなたの足が必要です。ぜひ、スーパーミッションのために祈って支えていただきたいと思います。今週もぜひ、祈り心で同じ戦いに、主権的な力に挑戦する戦いに参加していることを覚えていただきたいと思います。一言お祈りします。
 
 
 

バックナンバー
戻る
戻る