今週の礼拝メッセージ
2000..30(SUN)
ケニー・ガン師特別講演記録
 

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 ローマ書 8章1節〜8節

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。
 

    お早うございます。ここに再び来ることができ神様に感謝しています。ずっと前のように感じますが、四年前にこの教会に来ました。この機会を与えて下さった神様に感謝します。私は色々な教会に行くときにできるだけ、その教会のために祈ります。そして神様が皆さんに語ろうとしていることを私が促すことを信じます。私は三ヶ月前から日本のために祈り出しました。そして毎日、今日本のために祈っています。チームと一緒に時には一日に三回祈っています。そして、日本のクリスチャンに神様が教えたい一つのことを強く心に感じています。私が神様に感謝したことは、イエス様を信じている者として、私たちは一つの家族であり、私たちが信者として集まる時に、互いに励まし合い、良い行いをすべきだと書かれています。そして、神様が私に与えて下さるミニストリーは、人が奮い立たされることだと信じます。皆さんが今朝、奮い立たされる準備ができができていることを祈ります。そして主が私たちの心を開かれ、御霊によって触れられることを願います。主が私たちを導いて下さいます。
 今朝の御言葉は私たちが励まされる御言葉です。それは、キリストにある者にとって、罪に定められることがないと書かれているからです。世界中の多くの人が罪悪感と恐れに苦しみながら生きています。この教会が、日本の国が解放される為に祈っていることは素晴らしいことです。しかし、この国でも多くのクリスチャンが罪に定められているところから、解放されることを神様が望まれていると信じています。多くの場合に私は人を恐れます。人が私たちを悪く思うこと、悪口を言うことを恐れます。聖書には、神様は私たちをさばかれないと書かれています。ローマ書八章では、イエス様のみが私たちの罪をさばくことができる、イエス様だけが完全な方であると教えています。またヨハネの八章には、姦淫の罪を犯した女のことが書かれています。多くの宗教家が彼女の罪を訴えました。そしてイエス様に聞きました。そしてイエス様は、「罪のない人が彼女を訴え、石を投げなさい」と言われました。宗教家は自分が他人よりも優れていると思っています。だから彼女の罪を訴えました。イエス様は「あなたに罪がなかったら石を投げて下さい」と言いました。すると誰一人
石を投げませんでした。すべての人には罪があります。誰も彼女を訴えることができませんでした。神様だけが私たちの罪を訴えることができます。イエス様は、「あなたの罪を訴える人はいませんね。わたしもあなたを罪に定めない。もう罪を犯さないようにしなさい」と言われました。イエス様は神の子、私たちの罪を取り除くために来られました。罪は私たちの人生に罪悪感をもたらします。それを取り除くためにイエス様が来られました。ヨハネ八章三十一節から三十二節で、「神を信じる人のために、もしあなたがわたしの言葉にとどまるなら、自由になります。」と言われました。「すべての罪を訴えない。」と語られて私は罪に定められていないとわかりますが、残念ながら多くのクリスチャンが人を恐れ、人によって罪に定められるのではないかと恐れます。人の言葉を恐れています。イエス様は「あなたがわたしの言葉にとどまるなら、自由になる」と言われます。しかし、もしあなたが人の言葉にとどまるなら、束縛を受け、恐れを感じます。今朝クリスチャンは罪から、罪に定められているという恐れから自由にされるべきです。特に人からの恐れ、人が自分について何を言われるかという恐れから解放されるべきです。
 私の育った背景は仏教です。日本もそうです。誰かがクリスチャンになると皆が批判することを恐れます。自分の経験や証をすることについて恐れます。だれかに反対されることを恐れます。しかし、イエス様は私たちを解放して下さいました。どうして再び、恐れに束縛されるところに私たちは戻るのでしょうか。神様の言葉を信じるためには信仰の一歩を踏み出すことが必要です。イエス様は「あなたがわたしの言葉にとどまるなら、わたしの言葉に従うなら、あなたは真理を知り、自由にされるのです。そして、すべての国々を弟子にす
る。福音を宣べ伝えなさい。」と言われました。あなたは聖霊を受ける時に、「力を受けました。能力、そして人々に証をする権威も受けました。・・・救われて聖霊を受けて新しくされました」と言います。そして御霊によって満たされていると言いますが、その一歩を恐れます。これは御言葉の矛盾です。私たちが感じる矛盾です。神の霊は恐れの霊ではなく、私たちに大胆さを与える霊です。多くの場合に聖霊様が私たちにイエス様を証するようにと促します。そしてやりたいと思いますが、肉的な弱さの中に恐れがきます。聖霊様が御言
葉によって私たちに教える時に神様に従う一歩を踏み出すべきです。私は恐れます。しかし、私たちの霊はそれに従いたいのです。イエス様は「行け」と言われますし、主イエス様は「あなたがわたしの言葉に従うなら、あなたは自由になる、真理を知り自由になる」と言われます。私たちが主が言われることを行うときに、「見よ。わたしは世の終わりまでいつまでもあなたがたと共にいます。」という御言葉を経験するのです。私たちが主が言われることを行う用意ができている時に、神様が共におられることを経験します。そして、御霊が
共におられ、できないことをできるようにして下さいます。神様に従う最初の一歩を踏み出すときに、真理があなたを恐れから自由にして下さっていることに気づきます。
 恐れています。しかし、真理は行きなさいと言います。真理は「わたしはあなたがたと共にいる。」と言っています。あなたが行くその時に神様が共にいるということを経験します。神様が共に行くときに恐れはありません。私はこのことについて過去二十三年間経験しています。多くの場合に人間的に考えると恐れます。私の恐れは、自分を恐れるのか、神様を恐れるのかのどちらかです。悪魔の言葉を聞いて「あなたにはそれはできない。」という言葉を聞きますか。それとも神の言葉を聞いて「行って行いなさい」という言葉に聞きます
か。イエス様は「あなたがわたしの言葉に従うなら、あなたは真理を知り自由になります。」と言われます。恐れから自由にされます。あなたについて他人が何を言おうと自分は十分ではないという思い、できないという思いから解放されます。あなたは神様には不可能がないことに気づくからです。私たちは弱いです。しかし、神様は強いことに気づきます。私たちには何もありません。そして神様にすべてがあることがわかります。私たちは訓練されていません。しかし、神様がその能力を与えることがわかります。そしてそれが、私たちを
多くの恐れから解放します。これは神様が日本の多くの人に願われていることです。私の国でもよく見ますが、文化や宗教団体の恐れに縛られていることがよくわかります。
 一つお願いしたいことがあります。どうか、救われていない人たちの自由だけを祈るのではなく、神の国の民の自由をも祈って下さい。神様の家族が御言葉を自由に伝えるために祈って下さい。なぜならば、良い知らせを伝えることだからです。そして多くの日本にいる人がこれを聞く必要があります。その良い知らせとは、罪、恐れから解放されるということです。そして罪悪感・恥から解放されます。「イエス・キリストにある者は罪に定められることはない」と聖書に書かれているからです。私たちは恥ずかしく思うことはありません。罪悪感に苦しめられることはありません。恐れることもありません。神様は私たち側にいるからです。「もし神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対することができましょうか」アーメン。この真理を私たちがつかみ、これにしっかり立ち、これに生き、これに従い、自由にされることを祈ります。そして、大胆に歩くことができます。自信を持ってその罪悪感・恥・恐れから解放されて生きることができます。イエス様は私たちを罪に定めることはありません。私たちを訴える人は誰もいません。サタンさえも私たちを訴えることはできません。神様が私たち側にいるからです。「私は世に勝つ者です」とあなたはイエス様と共に言えますか。私はイエス・キリストによってこの世に勝ったのです。あなたの信仰、あなたのイエス様にある自信があなたを世に勝たせる
ことです。イエス様の言葉を信じて下さい。聖書には「とどまるように、従うように」と書かれています。それについて行くときに自由にされるのです。それは神様が私たち一人一人に願っていることです。イエス様のために自由に生きることができます。恐れによって縛らたままで人間のために生きることではありません。イエス様が私たちを解放したのは人間のために生きるのではなく、イエス様のために生きるためです。私はクリスチャン人生をドキドキしています。あなたは自分の信仰生活にエキサイトしていますか。イエス様のことを嬉しく思い、イエス様を思うと嬉しくてエキサイトしていませんか。イエス様のことを嬉しく思ってエキサイトするのがこの教会の中だけではなく、教会の外でもできることを祈ります。自分が歌っている時にイエス様のことを嬉しく思うのは簡単なことです。多くの兄弟姉妹がともにいるからです。そして教会を出るときに、自分が一人であると感じます。それで恐れます。神様が共にいることを忘れているのです。私たちには父と子と聖霊がいるのです。神様が自分の民に声をかける度に「わたしはともにいる」と言われます。
 神様はモーセに不可能なことをお願いしました。「あなたは共にいる」と言われました。ヨシュアにも頼みました。「わたしはあなたと共にいる」と言いました。サムソンやギデオンも呼び出しました。ギデオンは三人で一万人と戦うように言われました。神様は「わたしはあなたと共にいる」と言われました。エリヤはひとりの人でした。そして四百人の偽預言者に対して戦いました。彼は神様が共におられたことがよくわかったからです。そして悪に満ちた王様の前にも立つことができました。神様が彼と共におられたからです。あなたは今朝神様が共にいることを信じますか?アーメン!あなたがどこに行ってもあなたと共に神様がいることがわかりますか?アーメン!「すべての国々の人を弟子にしなさい。行きなさい。」とイエス様は語られます。イエス様の名前によって自由にされることを宣言します。ともに祈りましょう。
 
 
 
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