今週の礼拝メッセージ
2000.8.6(SUN)
人生回復の秘訣
新城教会牧師 滝元順

<今週のメッセージの御言葉>
第二歴代誌 34章1節〜5節

ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。
彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。彼は、祭司たちの骨を彼らの祭壇の上で焼いて、ユダとエルサレムをきよめた。
 

 聖書はイスラエルと大きな関わりがあります。神はイスラエルを選ばれ、イスラエルを通して働かれました。イスラエルを見ると、歴史に神がどのように人々に関わられたのかを見ることができます。聖書には、国民がどのように神と関わったときに国が安定し、神から離れた時、国にどのようなことが起こったのか、その歴史が記されています。この箇所は、イスラエルが二つの国イスラエルとユダ王国に分裂しましたが、ユダの王ヨシアのことが書かれています。イスラエルに色々な王様が出ましたが、神様に仕えた王様の時には国が安定していました。しかし、神様から離れたときには必ず国に問題がありました。ヨシアは神様に仕え、真剣に神様を求め神に仕えました。その時に国に回復、即ち、リバイバルが起こりました。そして、神は国に祝福をもたらされました。この中から、祝福の秘訣をここから学びます。また、それは同時に、国だけでなく私たちの人生にも適応されます。
 ヨシヤは八歳という若さで王様になり、三十一年間、その治世は安定してきました。二節に、

『彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。』

と書かれています。この一語は、彼の人生のすべてを現しています。私たちもヨシヤのような人生を過ごしたいと思います。私たちも、やがてこの地上から出て行かなくてはなりません。そして、何らかの歴史が残ります。私たちがクリスチャンであるならば、教会の週報の片隅に記載される事でしょう。例えば、順牧師逝去と書かれた後に、何と書かれるかが重要です。「彼は主の目にかなうことを行い、生涯、右にも左にもそれなかった。」と書かれたら素晴らしい人生であった証拠です。皆さんもお互いに、そのような人生を歩めるように主に仕えていきたいですね。「彼は主の目にかなうことを、行っていたけれども、時々、右と左に大きくそれた」というコメントではいけません。ヨシヤは神の道・真理の道をまっすぐに、右にも左にもそれなかったのです。今日、皆さんの人生が右にも左にもそれず、真理の道をまっすぐに歩めるように祈ります。
 三節は、彼がどのように神と関わったのかを見ることができます。

「彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始めた」

と書かれています。治世の第八年ということは、彼の十六歳の時です。彼は十六歳の時に神を求め始めたというのです。聖書は、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」と書かれています。
 私は生まれて気が付くと、まわりが皆クリスチャンでした。しかし、周りがクリスチャンだからクリスチャンになるというのではありません。体内感染というのがあり、お母さんが病気だと子どもにまで感染してしまう病があります。しかしクリスチャンは体内感染はしません。人間は罪人として生まれます。ですから、だれでも神様を個人的に求める必要があります。今日ここには若い方が多くおられますが、なるべく若いときに神を求めなさい、というのです。子どもたちもいますが、小さな頃から神様を求めることが大切です。
 昨日のスーパーミッションでは、子ども大会がありました。私は司会をしましたが、子どもたちが最後に皆で聖霊の火と油を求める祈りの時を持ちました。そして、皆、恵まれて帰っていきました。大人たちも、子どもたちに注がれている火が欲しいと言っていました。子どもの時に主に出会うのは最も、素晴らしいことであり、生涯幸せに歩む秘訣です。ヨシヤも若かったですが十六歳で個人的に神を求め始めました。私たちが神と出会うために必要なことは、個人的に神を求めることが基本です。家族がクリスチャンで、家族が祈ってくれているから大丈夫というのではなく、個人的に神を求めるときに神は近づいて下さるという霊的な法則があります。神様と交わり、神を求めていく生活を崩してはいけません。
 神は、「わたしを呼びなさい。そうすれば、わたしはあなたに答える。」と言われます。私たちが祈らなくても求めなくても、神は私たちの要求を知っておられるし、答えることもできる方ですが、私たちが呼ぶときに答えるというのが霊的世界の法則です。今週も個人的に主を求めましょう。
 スーパーミッションに行くと、朝から晩まで集会です。御言葉づけで、そこにいると聖書を読まなくても賛美しようと言わなくても、祈りがあり御言葉があり、賛美があり、神の霊が動いています。しかし、そのような中でも、個人的に主と交わるときが必要です。私も必ず、宿舎に帰ってからも聖書を読み祈ります。ヨシヤも個人的に主を求め始めたときに、主が近づかれました。そして国を回復するための計画書をヨシヤに手渡されました。あなたも神様を個人的に求め始めるならば、神はあなたに対する人生の計画書を手渡されます。回復の計画書を与えて下さいます。
 当時ユダの国は荒れ果てていました。人々は目的を失い、国は崩れていました。しかし王が神を求め始めたとき、国を回復するプログラムを渡されました。どんなプログラムが渡されたのでしょうか。三節に、

『彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。』

と書かれています。彼が個人的に神様を求めたときに、神は、国の回復のために、また、彼自身の回復の為に計画書を与えました。当時、ユダ王国には偶像がたくさんありました。それは、手で作った神々です。そして、それを除くことをヨシヤに神様は命じられました。神は回復のために、普通では思い浮かばないような方法を与えて下さいます。
 さて、ユダの人たちはなぜ、偶像に仕えていたのでしょうか。それは、自分たちが幸せになりたかったからです。今の日本も同じです。自分の手で作った神々を拝んでいます。考えてみたらむなしいものばかりです。石や木で作られたものや動物を拝んでいるのです。考えられないことです。そんなのは、普通考えたらばからしいことだと思います。しかしある意味で、偶像を拝んでいる人に、「そんな石や木の神々を拝むことは馬鹿らしいことです」ということは、その人たちを傷つけることになります。なぜならば、人々はそれをただの「石や木」という理解をしていなからです。もしそのような理解をしていたら、拝まないはずです。キリスト教会の中で、「木や石の偶像は全くむなしいものだ」と語られることは基本的には正しいですが、文化的背景でそのようなストレートな発言がもたらされたと思います。なぜならば、キリスト教が西洋から宣教師によってもたらされました。彼らにとって、日本人が石や木を拝んでいることは全く理解のできないことでした。しかし、日本人はただの石や木だとは思って関わってはいません。その背後に、何らかのうごめく霊が働いていると信じて関わっています。特定の石や木の中に、神の霊が住んでいるのではないかという考え方を持っています。だから、人々の意識としては、ただのむなしいもの関わっている意識ではありません。そこから、何らかの恩恵を受けているのも確かです。「あの神様のところに行くと病気が治るから行きましょう」と多くの人たちが行きます。それは、「石や木の所に行きましょう」というのではありません。何らかの存在と、石や木という媒体を通して神と関わりを持つことができると考えるのです。しかし、聖書は、その背後でうごめいているのは決して神ではなく、人間を不幸にする「悪魔とその一味、悪霊が動いている」というのです。日本人が今、神だと思って関わっているのが、実は、神ではなく人間を不幸にする存在であると気づいたら、必ず、そこから離れます。誰でも、人間よりも崇高な、力ある存在に関わりたいと願っています。しかし、関わりを間違っています。今日もし、イエス様のことを知らない方がおられたら、現在、自分が仕えている神が本物か、または人間を不幸に陥れる悪霊なのかを、はっきり見極めて関わるべきです。では、それをどのように見極めるのでしょうか。
 イエス様がこの地上に来られたときに、歴史上、なかったことが起こりました。それは、今まで人々を不幸に陥れていた悪魔と悪霊の存在が明らかにされたからです。人の背後から、悪霊が姿を現し、出て来ました。皆は驚いて、「イエスとは何者だ。イエスは悪霊の親分を使って追い出しているのではないか」と言いました。しかし、イエス様が答えました。「わたしは神の霊によって悪霊を追い出しているのだ。あなたがたはよく考えた方が良いですよ。あなたがたが今、信じ頼っている存在は、実は、あなたがたをさばく存在だから。」と語りました。この意味は、「あなたを助けてくれそうな顔をしていくる存在が、実は、あなたの敵である」と教えられたのです。
 問題が起きると問題をある神のところに持っていきます。そうすると、問題が消えていきます。「良かった。この神様は効果ある神様だ。」と、石や木の神に一生懸命関わります。しかし問題が消えて行くけれど、しばらくするとまた違った方向から問題が起こってきます。すると、「この間、願いを聞いてくれた神様のところに行こう」と拝んでもらいます。すると、問題が軽減されます。「良かった」と思います。しかし、やがて問題が再発します。問題と助けが交互に来るのです。これは、問題が起こす側と、問題解決する存在が、同じ存在なのです。
 実は、今回のスーパーミッションで、一人の僧侶がクリスチャンになりました。ある時、彼は胃ガンで入院したそうです。すると、六人部屋でそのうち、五人がクリスチャンであったそうです。それでみんなから彼は伝道されたそうです。そして、「教会に行きなさい。聖書を読んで下さい。スーパーミッションに行ってみなさい」と言われたそうです。私は彼を一目見て、坊さんだとわかりました。私が、「新城から来た」というと、「あそこには大洞山という寺があり、行ったことがありますよ。」と言われていました。彼は病気を通して、神について考え出したのです。私は、「問題と助けが交互に来るのは本物の神様ではないですよ。これは、助ける側と問題を持ち込む側が同じですよ。」と言いました。そうすると彼は、「わかります!」と言いました。「私は、僧侶をやっているけれど、人生にいつも、問題と助けが交互に来る」と言いました。彼は、「これは違う」と病気を通して感じ始め、今回、イエス様をはっきりと信じました。
 ある人が「先生。この方のために祈ってあげて下さい。」と言われるので、今の事柄を話した後に祈ってあげました。「神だと思って仕えてきた神が、悪魔であることがわかりますように。」と祈りました。私のあとについて悔い改めて祈りました。「悪魔の力から解放して下さい」と祈りました。すると突然、彼の声が出なくなり、告白できなくなりました。「イエス様。彼の口を開いて下さい。」と祈りました。そして、解放を受けました。翌日出会うと「昨日はなぜか、ぐっすりと眠れました。」と言われました。毎日来て、招きのときに前に出て祈りを受けています。彼がやがて牧師になれるように祈って下さい。
 「私が僧侶だということを人前で言わないようにして下さい」と言われていましたが、いつのまにか彼はうれしくなってリバイバル新聞に、昔の写真まで提供していました。このように、深く悪魔に関わった人はその存在についてよくわかっています。
 神様は人生を回復するために、最も重要なことを教えています。それは、「あなた方は手で作った神々から離れなさい」と言われます。「それは、ただの石や木ではない。その背後に、人間を不幸に陥れる悪魔がいる。手を離しなさい」と言われます。今日、クリスチャンの方々は、石や木の神々から離れていると思います。これが、ただ、「むなしいことから離れた」と思わないで下さい。それは、「悪魔の力から離れた」ということです。皆さんの人生から、あなたを苦しめる存在が手を引いたのです。素晴らしいです。それだけでも大きな恩恵です。
 今日、もしも、手で作った神々を拝んでいる人がいたら、「即刻」離れて下さい。離れても絶対にたたりは来ません。こんなことを全国で話している私が、一番たたられてもおかしくありません。しかし私は元気です。偶像から離れることを恐れないで下さい。イエス様は、悪魔とは比べることのできない強いお方です。
 神は、ユダの国に、ヨシヤ王に、まず偶像から離れることを徹底するように示し始めました。そして、ヨシヤはそれを実行しました。彼の治世の十二年、彼の二十歳の時に、国から偶像を取り除き始めました。するとこの時から、国が回復してきました。今日も皆さんの中で、「私の人生は崩れている、どこから建て直したら良いのか」と言われる方がおらたら、まず、偶像を捨てることです。偶像と縁を切ることです。それらを捨てて、真の神、イエス様に向いていくときに、自然と回復が成されます。そして、次の段階に導かれます。八節に、

『この地とこの宮とをきよめたのは、彼の治世の第十八年で、彼は、その神、主の宮を修理するため、アツァルヤの子シャファン、この町のつかさマアセヤ、エホアハズの子参議ヨアフを遣わした。』

と書かれています。
 国から偶像が取り除かれて、次にヨシアは神の宮を修理しました。神の宮とは、神を礼拝するために特別に建てられた建物でした。それを修理することを始めました。聖書に出てくる「神の宮、神の家」とは、ただ建物だけを現しているのではありません。これは私たち自身の、「人生そのもの」をも現しています。皆さんは、神の宮、神の家です。そして、人生の修復は、「偶像の神々から離れる」ときに、宮の修理のステップへと入れて下さいます。私たちが偶像の神々から離れていくときに、人生が自然と修復され始めます。
 人間には、元々、神により自然治癒力が与えられています。いやしの力はすでに、私たちの内側にあります。人間は手を切っても、自然に血が止まります。ずっと流れていたら死んでしまいます。しかし、自然と血が止まり、かさぶたができて治っていきます。しかし、かさぶたができた時に、かさぶたをはがしたら治りません。治りかけたとき、かさぶたを取ったらまた元に戻ってしまいます。私たちも人生の中で、心や体に色々な傷を受けることがあります。しかし、自然治癒力があるので、心の領域も、肉体の領域も治ってくるのです。それは、神が人間に与えている癒しの能力です。しかし、治らないときがあります。それは、かさぶたが途中ではがされる時です。心の傷が治りかけのときに、かさぶたをはがす存在がいるのです。それが悪魔・悪霊です。その悪魔の力が手を引き始めると、元々神が人に与えた力によって、心や体が治っていきます。
 偶像から離れるとは、悪霊から離れることであり、癒しの根本的なものであると思います。色々、人間の心を癒すためには、カウンセリングや精神医学等の方法があります。しかし、そこに、かさぶたをはがすような存在が隠れていたら、治るものも治りません。人生から敵が去っていくことは、いやしの根元です。
 神の宮が修理されたときに、神は次のステップに国を導かれました。十四節に、

『彼らが、主の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を発見した。』

と書かれています。
 宮が修理され始めたときに、一つのものが発見されました。それは、主の律法の書が発見されました。モーセの五書であろうと言われます。神の言葉、御言葉が発見されたのです。神の言葉は、元々、神の宮にありました。しかし、偶像の神々が覆い被さって神の言葉を発見することができませんでした。偶像の神々から離れ、宮が修理されたとき、神の御言葉が発見されました。私たちの心の中には、元々、神の御言葉、「律法」が備えられていると聖書は教えています。聖書を読んでいない人にも、神の言葉である、神の律法がすでに備えられているのです。聖書は、「良心は神が与えた律法」であると教えています。どこの国に行っても、盗みは悪い事です。「あの国においては、盗みは正しい行為だ」ということはありません。どこの国に行っても、盗みは悪いことです。殺しも悪い事です。聖書にも、「盗んではならない。殺してはならない。」と書かれています。ということは、人間の中に良心があるのは、神の律法が置かれている証拠です。しかし、良心が神の言葉であるとは全く気づいていません。良心は、どうなってしまったのだろうかと思います。今、日本では、良心という言葉は死語になっています。
 アフリカの人に、「良心とはどんな形をしていますか」と聞くと、おもしろい答えをしたそうです。「良心は三角形だ。そして、悪いことをするとその三角形が回転する」と言いました。回転するから角が当たって心がいたいのです。泥棒すると、角が当たっていたいのです。悪いことをすると心が痛みます。良心の呵責があります。しかし、いつも回転していると角がとれて丸くなって痛みがなくなるのです。現代は結構、良心が丸くなって痛みがなくなっている人が多いです。神の御言葉はどうなってしまったのでしょうか。しかし、偶像の神々から離れる時に、良心が回復します。これは神の御言葉の回復です。神様の御言葉は力強いものです。初代教会にどのようなことが起こっていたでしょうか。
 イエス様は約束されました。「あなたがたが福音を宣べ伝える時に、しるしが伴います。悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば病人は癒されます。」・・・奇蹟が伴うと、約束されました。しかし、今、福音を宣べ伝え、そのような奇跡が起こるかというと、全く起こりません。どこに原因があるのでしょうか。それは、偶像礼拝に問題があるのです。日本においては奇跡が起こりにくい原因がここにあるのです。その根本的原因が偶像礼拝です。そこから立ち返るとき、悪魔の力から解放され神の御言葉が回復し、奇跡が起こります。車椅子の人が立ち上がるような奇蹟が起こります。
 先週の土曜日に、「いやしPPH」がありました。私は丁度、賛美リードをしていました。病気の人を前に招き、その方々のために祈りました。そうしたら、車椅子の方が来られていました。三人の方が、足に手を置いて祈っておられました。私は他の人のために祈っていましたが、ふっと、「この人が立ち上がるよう言いなさい」いう思いが来たので、「この人が立ち上がるように手を貸してあげて下さい。」と言いました。靴を履いておられたので、少しは歩ける人かとは思いましたが、立ち上がるようにと言いました。周りの人が手助けをするとその人は立ち上がりました。するとその人が歩き出しました。しかし、よろよろとしていました。もう一度祈りました。手を置いて祈りました。すると聖霊によって倒れてしまいました。そして、もう一度祈ると、歩けるようになりました。周りで奇跡を見た人は涙、涙で栄光を主にお返ししました。本当に、イエス様は素晴らしいことをして下さいました。これ以外にも、癒しがたくさん起こっています。毎日、いやしが祈られていますので、さらに不思議なことが起こってくると思います。また、悪霊から解放される人も多いです。
 神がそのような方々を送られるタイミングもあります。大体、集会が終わり、時間があいたときに、祈って下さいと来られます。その時が霊的解放の祈りになります。先週も一人の方が来られました。「質問があります」と言われました。メッセージに対しての質問を私にされました。見ると、その方は両腕に包帯をしていました。異様に思い、「両腕が悪いのですか。」と聞くと、両腕が傷だらけでした。彼は自分の体を切り刻んでいたのです。血が流れるのが好きで異常な行為を続けているというのです。同時に、何度も自殺未遂をし、両腕の傷は編み目模様のようになっているのです。それで、彼の質問とは全く違うことを話しました。「死にたいのは、自分の思いとは違い、悪魔の力です。その力から解放されるべきです」と言いました。そして、「祈りましょうか」と言いますと、「祈って下さい」と言われました。背が大きな男の人でした。「私のあとについて祈って下さい」と祈り始めると、急に「うるさい、俺に触れるな。」と拳を振り上げて襲いかかってきました。それまではおとなしかった人が突然で凶暴になりました。しかしそのような時は、主の支配の中ですので私は、何も恐ろしいと思いません。その時、こちらも拳を上げていたら、肉の戦いになってしまいます。イエス様の名によってその背後の悪霊が打ち砕かれるように祈りました。すると皆が私のところに駆け寄ってきましたが、彼は倒れてしまいました。そしてしばらくして彼は起き上がり、「私はどうしたの。今何があったの」と言っていました。その日から彼は変わりました。午後から夜までずっと来ています。友だちを連れてくると言っていました。あまりにも苦しんでいる人々が多いです。この人たちが解放されるためには聖霊様の力と御言葉がなければ回復されません。私たちは神の御言葉の回復のためにも、偶像礼拝という根元の力から解放される必要があります。
 このようにして、ヨシヤは国を回復することができました。他にも条件がありますが、偶像礼拝から離れて悪の力から解放されるときに人生がもう一度回復されて御言葉の力が現実に現されてきます。ぜひ、祈って下さい。日本において教会において神の御言葉の権威が回復しますように。スーパーミッションでは多くの主の業が起こっています。今日私は、東京に戻りますが、今夜は油注ぎPPHが行われます。皆が油注がれ、新しい力を受けてリバイバルのために用いられるようにという集会です。その中にも神の奇蹟の業が現されますようにぜひ祈って下さい。主に感謝し、み業が全日本に広がるように。ちまたで、人々がスーパーミッションで奇跡が起こっているのを知り、会場に来るように祈りたいと思います。最後にお祈りします。
 
 
 
 

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