今週の礼拝メッセージ
2000.820(SUN)
ここを離れないで、目を覚ましていなさい。
新城教会牧師 上條実

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書26章35節〜38節

ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
 

  ハレルヤ!お早うございます。久しぶりに新城教会の礼拝に出席できますことを感謝します。スーパーミッションの直前の礼拝の時は西村兄と明定姉の婚約式で大阪の一麦高槻教会に出席しました。そしてスーパーミッションの今までの礼拝は、現地にて奉仕者たちのための礼拝があり、そちらで参加していました。ですから一ヶ月ぶりに新城教会の礼拝に出席することができ感謝しています。皆さんのお祈りにより、牧師達はじめ、スタッフの兄姉は健康が支えられていることを感謝します。お祈りを心から感謝いたします。今日皆さんにリバイバル新聞とクリスチャン新聞が配布されました。特にクリスチャン新聞にはプレイズ出版の記事やスーパーミッションの記事が書かれています。それを見ていただきますと、スーパーミッション二〇〇〇の状況がある程度、ご理解いだだけると思います。まだ人数はあまり延びていません。最高で一三〇〇人ぐらいです。しかし招きの時には多くの人が涙を流して決心の祈りをささげています。イエス様を信じる方や、もう一度神様に立ち返ることを決心される方が多くいらっしゃることを感謝しております。その決心の姿を見るだけで疲れが取れるような思いがしました。ぜひ最後の最後まで守られるようにお祈って下さい。色々な戦いがあります。思わぬことが起こります。八月十五日は終戦記念日でした。その為にも数日前からとりなしの祈りをしていました。しかし八月一四日の最後の時に思わぬことが起こりました。皆が感動してメッセージを聞き、ロン・ブラウンさんの演奏を聴いている中で、暴力事件が起きました。ある奥さんとアメリカ人のご主人がメッセージで心満たされ、感動して小さな声で話していました。決してうるさいと思わないのですが、その御夫妻の後ろに座っていた男性が突然奥さんに頭を殴り「うるさい。出て行け」と言われたそうです。普通ならば肩を優しくたたいて、「静かにして下さい」と言うくらいだと思います。しかし数発殴られたそうです。次の日その奥さんから電話を頂き「家の主人が外国人だったから、こんな事が起きたのですかね。」と言われていました。顕著に戦いが現れています。そんなこともありますが、魂が救われている事を心から感謝いたします。今日の礼拝では明牧師と順牧師は東京都内にある教会で奉仕しております。更に先生方はじめスタッフ達が守られるようにお祈り下さい。あと七日間です。明日からは国際フォーラムAホールです。五千人が入れる大きなホールです。魂が多く救われるように、また多くの方が集まる事ができるように祈って下さい。また経済的にも満たされるように是非お祈り下さい。
 それではみことばを学んでいきたいと思います。今回のスーパーミッションでの奉仕中に、神様に教えられたことを学びたいと思います。先程お読みいただいたマタイ二六章三十五節に、

『「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」』

と書かれています。私たちは神様によって救われました。だから神様のために精一杯奉仕したいと思っています。今読んだみことばにあるように、ペテロは死ななければならないということがあっても、神様のために奉仕しますと宣言しています。今回東京での私の宿は荻窪という所にあります。その荻窪は私が十四年前に入院した病院のある場所です。それも今回宿泊している所からその入院した病院は五十メートルぐらいしか離れていません。あの病気時は夢も希望もなく一ヶ月間苦しく痛んで入院したことを思い出します。しかし、今回はその荻窪で宿泊し、リバイバルのために働くことができることを感謝だと思います。三十八節では、

『「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」』

イエス・キリストが苦しみ悲しんでいるからわたしと共にいてくれという、ある意味でイエス・キリストの非常事態時でした。そんな非常事態時にペテロは「私は死ななくてはならないとしてもあなたを知らないとは言いません」と言いました。非常事態時に忠誠を誓ったのです。しかしその後すぐに、六十九節でイエス様の裁判の時に、ペテロは一人の女中に「あなたはイエス・キリストの弟子だったでしょう。」と言われると、「知らない。」と答えてしまいました。また、もう一人の女中が来て「あなたはイエスの弟子ですね。」といわれ「知らない」と再度答えてしまいました。三度目にはパリサイ人や律法学者に言われたのではなく、周りの立っている人に「お前はあのイエスの弟子だ」と言われてペテロは三度「私は知らない。」と最後は呪いをかけて誓ってしまいました。忠誠を尽くしたすぐ後、いとも簡単にイエス・キリストを知らないと呪いをかけてしまいました。私は十四年前の病気の時、苦しみの中で動くこともできず、奉仕もなにもできずにベットの上で考えたことは、教会の掃除でも良い。何でも良いから神様のために仕えたいという思いで、神様の前に「何でもしますので癒して下さい。」と祈りました。しかし今スーパーミッションにて奉仕する中で、はじめは何でもしますと思っていても、知らず知らずの内に何でこんなに大変何だろうとか、疲れてもう奉仕するのはイヤだ、と奉仕をいやがってしまっています。スーパーミッションで恵まれて素晴らしい御言葉を聞きました。つい最近北海道から三橋先生ご夫妻が来られ御言葉を話されました。その中で先生が天の御国でしたいことがあると言われました。先生は小児麻痺で歩いたことがなく、車椅子に乗っています。右手が動かず、左手が少ししか動きません。いつも奥様に背負われたり、車椅子でいつも移動しています。先生は天国でどうしてもやりたいことがあるといわれました。それは天国で奥さんを背負って色々なところ見せてあげたいと言われるのです。天国で人を背負っている姿を見たら私ですのでよろしくお願いしますと言われていました。それを聞いたとき、私はあの病気から癒されて元気になって働けるようになり、私も天国に行くことができる。何と感謝だろう。「神様のため為なら、何でもします」と神様に祈っているにも関わらず、なぜこんなことが起こるのだろうかと思います。知らないうちに自分の奉仕が神様のためであったはずだったのに、一人の魂が救われて天国に入れるということをどこかで見失っていると教えられました。イエスさまを信じて天国に行けることは恵みであり、喜びであり、感謝であるにも関わらず、周りを見る時に色々な状況に襲われる時に私たちの心は騒ぎ、聖書の御言葉は何でもできるから神様に頼りなさい、祈ったら祈りは答えられるイエス様には解決があるとわかってはいますが、知らない間にペテロと同じように目の先の状況だけを考えて状況が悪くなると、神様を否み自分で一生懸命自分の人生をどうしようかと考えている自分があると教えられました。今日皆さんも色々な生活に対して大変なことがあるかも知れません。家庭問題、対人関係、信仰生活、過去の傷、病気などなどで様々な問題があります。しかし、神様が言われたことは、

『それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」』

『そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

最後のゲッセマネでの祈りの時にイエス様が弟子たちに言われたことです。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」という非常事態の祈りをされました。イエスさまは一番大切なときに弟子たちに言われました。三十六節をよく読むと「祈っている間ここに座っていなさい」と弟子たちに言われました。そして弟子たちから少し離れて、悲しみもだえながら祈り、帰ってきました。しかし弟子たちが寝てしまっているのを見て、「ここを離れないでわたしと一緒に目を覚ましていなさい」とイエス様は言っています。私が教えられたことはイエス様と私たちと共にいます。私たちはすぐに祈ることができます。「イエス様助けて下さい」と祈ることができます。イエス様はいつも私たちと共にいます。しかし三十八節に、「ここを離れないで私と一緒に目を覚ましていなさい。」と書かれています。イエス様の近くにいた弟子たちは知らない間に眠ってしまっていました。一時間でも私と一緒におれないのかと書かれています。真夜中にイエス様が深く苦しんでいる状況で、寝ていたのです。弟子たちはイエス様がすぐ近くにいるにも関わらず、眠りこけてしまっていました。目を覚ましていませんでした。弟子たちは眠りこけてしまいました。私はそこを読んだときに、私も神様のために奉仕し、祈ってはいるけれど弟子たちと同じように大事な時に眠っているのではないかと思いました。知らずに眠っているところをきずかせて頂き、今日イエスさまに起こしていただきましょう。「そこに座っていなさい。」と言われたことはわたしを信頼しなさいということかもしれません。「目を覚まして一緒にいなさい」と言われました。弟子たちは三年六ヶ月の間、イエス様と共にいて祝福をいただき続けていました。姿をいつも見てはいましたが、目を閉じていた部分、眠りこけていた部分が弟子たちの中にあると思います。弟子と同じように、私たちもイエス様が共にいると言うことはわかってはいますが何か満たされず、心騒いでしまい、祝福を下さるイエス様から「目を覚まして」と言われるのではないかと思います。
今回新約聖書、特にマタイの福音書を読む中で、弟子たちがイエス様と共にいたのに、目を閉じてしまっている部分を多く読み取ることが出来ます。今日その中からいくつを学んでいきたいと思います。
マタイの福音書十五章二十二節から二十三節に、

『すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。』
 

カナンの女はイエス様に大声に叫んで訴えています。しかし弟子たちは、

『あの女を帰してやって下さい。叫びながらあとについて来るのです。』

と言っています。弟子たちはカナンの女が叫んだ時、イエス様が何も答えなかったことに対してこのような言葉を発しています。「あの女を帰してくれ。」わかりやすく言うと「うるさいから帰してくれ。」ということになるかも知れません。今の状況だったら人目があるから帰してくれ。うるさいとか色々なことが言えると思います。しかしイエス様はその女を帰さずにその女の娘のために癒しを与えています。一人の魂のことを考えているのです。一人の人を愛し、すべての人のために十字架にかかったイエス様の愛を知りながら、私たちは目を閉ざし眠り込んでしまっています。伝道が出来なくなってしまっています。魂のために祈らなくなってしまいます。逆に私たちが傷つけてくる人、敵に対して私たちは心を閉ざし、その人を愛せず逆にその人を攻撃してしまうのです。この人は教会に来なくても良い。あの人がいるから教会に行きたくない。友達を連れて行きたくない。あの人さえ教会にいなければ良いとすぐに私たちは神様の計画を見ずに人を見ています。弟子たちがこの人を帰してくれというようにその人に対して祝福を祈ることもない、この女の人の娘が悪霊につかれ、家庭はパニックして苦しんでいる状況にも関わらず、弟子たちは聞いていながら、自分の周辺さえ良ければ良いと考えてるのです。今日私たちの中にもそんな心はないでしょうか。あの人がいなかったらという思いがあったら神様に目を覚まさせていただき、一人の魂のことを覚えて下さい。教会に来られている方々は皆愛し合っているかも知れません。しかし、自分の家の近所つき合いでうわさ話や問題がある方もいるかも知れません。親族の中で問題がある方もおられるかも知れません。そんな時に私たちはどうでしょうか。神の計画を信じて祈っているでしょうか。聖書の中に「隣人を自分自身のように愛しなさい。」また、「すべての人を自分自身よりも優っていると思いなさい。」という御言葉を知ってはいるのに、愛せない人がいるのです。ということは自分のことのようにすべての人を愛しなさいと御言葉は言っていますが知らないうちに御言葉に従えないのです。日本のリバイバルのために、スーパーミッションのために祈っていますが、あの人だけのためには祈れないと考えている人がいるかも知れません。しかし今日覚えて下さい。弟子たちは今の周りの状況が良くなればいいと考えて、あの女を帰らせようと思っていました。イエス様の計画は違いました。その女の娘を癒すためでした。敵のために祈りなさい。愛しなさいと御言葉は言っています。私たちの身の回りが安泰だったら良い、祝福されればいいと思っています。今日目を覚ましてください。嫌だと思う人・敵といわれる人のために愛を持って祈ってください。祝福されるように祈ってください。イエスさまの十字架を覚えて下さい。目を開かせていただき、一人の人に目を向けましょう。私たちは地獄に落ちなければなかった者でした。十字架によって救われています。イエス様はいつも共にいて下さいます。同じように私たちが敵としてしまっている方の神様です。その方の祝福のために今日から祈り続けていきたいと思います。その人を自分自身のように考えてその人を愛して祈っていきましょう。そうしたらあなたの生活も祝福され、あなたの周りが変わっていくことを覚えて下さい。イエス様が近くにおられてもその部分で目隠しされていたら今日イエス様の前に目を開かせていただきたいと思います。
続いてマタイ二十六章七節からには高価なナルド油をイエス様の足に注いだ女のことが書かれています。マルコの福音書では三百デナリと書かれています。今の日本金で一デナリは一日の給金なので一日一万円としたら三百万円相当のものでした。その時に弟子たちは、「何のためにこんな無駄なことをするのか」と良いました。その女性はイエス様のために注いでいるにも関わらず「何でですか。」と言っています。私たちはこんな所があると思います。奉仕しなければならない。イエス様のために犠牲を払わなければならないと思いながらも、そのとうり行っているでしょうか。祈ってますと言っていても口先であり、自分で時間を作ってひざまづき日本のリバイバル魂の救いのために、この四十日間のために祈っているでしょうか。どれだけ犠牲を神様に払っているでしょうか。毎日忙しくてそんな時間が持てない、と思うかも知れません。わざわざ一番大事な宝物の香油をイエス様にささげました。イエス様のために女はすべての油をささげました。しかし、弟子たちはイエス様と共にいたにも関わらず目隠しされており、なぜこんな無駄なことをするのかと言いました。自分の時間が削られる、睡眠時間がなくなる、色々なことがあって忙しいからなどささげていないのです。もったいないことと思い、神様の前に出られなくなってしまっているのではないでしょうか。神様が言われている御言葉は、神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。」と書かれています。この女が三百万円のナルド油を全部イエス様にささげました。普通ならばなぜと思いますが、この女がしたことのゆえに神様に祝福をいただいています。今日覚えなければいけないことは、私たちは神様に生かされています。自分で生きているのではない、自分で儲かったのではありません。イエス様に生かされています。イエス様によって祝福を頂いているのです。自分のものはすべて神様のものです。明牧師や順牧師、スタッフたちだけがリバイバルのために働けばよい。と思わないで下さい。マタイの福音書十四章には五つのパンと二匹の魚の記事があります。男だけで五千人、すべてを入れると二万人程を満腹させてなおかつ十二のかごにパンが余ったと書かれています。それはわざわざイエス様が弟子たちに配らせています。ここにあるから皆取りに来てくれと言うことも出来ます。しかしわざわざ弟子たちに配らせています。それは皆に奇蹟を持って祝福してくださる神であり、神のために、この時はパンを配布するという奉仕ですが、神様のための奉仕がどんなに素晴らしいことかを皆に知らせ、見せるためでした。今まで私たちは神様の素晴らしい奇蹟を見せていただきました。各集会の中の奉仕中で奇蹟を見せていただきました。にも関わらず知らないうちに目隠しされて、私たちは自分の生活が第一になってしまっています。神様のことが一番大切だと言う事はわかっています。しかし一番大切な宝物までささげるという事はなかなか出来ません。神の国と神の義を第一に求めることができず、神の計画を知らず、女性に向かって「何ともったいないことをしているのか」と叫んでしまっています。今日もう一度覚えて下さい。私たちの信仰の根底は十字架です。十字架によって私たちは救われ、天国に入ることができます。私たちはバプテスマの時に水に浸かります。水に浸かることの一つの意味は葬式です。古いものは全部洗い流され、新しい体、新しい生活になるということです。今までの自分の思い、生活が全部葬り去られ、新しい神様のために生きる自分が生まれるのです。今日精一杯あなたもイエス様のためにささげてみて下さい。マタイの十章一節には「汚れた霊を征する権威を授けた」と書かれています。私たちはあらゆる面で戦っています。戦って負けてしまう、ダメだ、恐いと思って何もできなくなり、負けてしまい束縛されてしまいます。しかし私たちにはイエス様が与えて下さっている権威があります。悪霊を征することができる権威です。またマルコの福音書に書かれていますが、すべての悪しき力を打ち破ることができる。エペソの六章にも書かれているように悪魔に立ち向かうことができるのです。
マタイ十七章十九節から二十節に、

『そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

と書かれています。これが弟子に向かってイエス様が語られていることです。からし種の信仰を持っていれば、何でもできる。自分は何もできない、小さな者だと言われるかも知れません。しかしこの御言葉をあなたに神様が語っています。どんなことでも、あなたがたにできなことはありません。あなたが信仰を持ったら何でもできるのです。からし種の信仰です。できない、自分は駄目だ。と思います。しかし、今日覚えて下さい。

『「ここからあそこに移れ。」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』

生きているイエス様があなたと共におられることを覚え、ここを離れないでわたしと一緒に目を覚ましていなさい。」今日目を覚まして下さい。目隠しにしている悪霊を打ち砕き、あなたが目を覚まして働き始めるとき、神様の祝福を下さいます。神様が共にいて、目を覚まして戦うならば必ずリバイバルを頂くことができると信じます。目を覚ましてイエス様と歩んでいきましょう。お祈りします。
 
 

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