今週の礼拝メッセージ
2000.9.10(SUN)
成功者の基準
新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヤコブの手紙 1章4節

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
 

  ハレルヤ!主の御名を心から賛美します。皆さんのお祈りに支えられていつも守られていることを感謝します。久しぶりに礼拝の奉仕ができることも感謝します。スーパーミッションを終えて二週間程が経ちました。四十日間の戦いにおいての恵みは、今まで明牧師や順牧師から多くの報告がなされました。皆さんにも祈っていただき、実際にそこに行っていただき、献げていただいたことにより、勝利のうちに終えることができたことを感謝します。ある兄弟にお会いした時に「先生、たくさんの報告を聞いて恵まれたことは聞きましたが、実のところ経済的にはどうですか?」と尋ねられました。
 実際にスーパーミッション四十日間というものは未知の世界でした。始まる前、先生方に試算を出してほしいと言われ、四十日間に何回の献金があり、どれくらいの人数が集まり、献金がいくら位集まるか、という試算表を作りました。先生方に、こんな不信仰な数字を出しても良いのだろうか、と思いながらそれを提出しましたが、蓋を開けてみると、初めの内は人が集まらず、私の予想をも下回る人数に、どうしたら良いだろうかと考えました。先日の委員会の中で平岡先生が話をされていたのですが、先生もこの事態に危機感を覚え、生まれて初めて宝くじを買いに行ったそうです。私も、どのように借り入れを組めばいいのかとすぐに考えたほど切迫した状況でした。そのような中で、八月のはじめに、ミッションニュースの発送作業が行われました。緊急に皆さんにも祈っていただきたい、献げていただきたいという手紙を入れて発送したところ、多くの方々から、「祈ってます」という励ましの言葉とともに、たくさんの献金が送られてきました。大会にも徐々に人々が増やされ、祈っていただき、尊い献げものをしていただき、ここまで導かれたことを皆さんに感謝しています。危機感の中で、献げものと同時に祈りが積まれ、支えられてこの戦いを進めることができ、勝利のうちに四十日間を終えることができました。それは奇蹟のような状況でした。
 結果的には今、経済のすべてが満たされているわけではありません。今後、大阪の大会に向けても多くの必要がある中で、何度か予約献金がなされました。多くの方が重荷を負ってくださり、「献金をします」と予約してくださいました。その半分以上が入れば満たされる状況にまで経済状態が祝福されたことを報告します。この戦いはこれからも進んでいきます。ぜひ祈っていただきたいと思います。
 今日は、「成功者の基準」というテーマを掲げました。私はスーパーミッションの話をいろいろな人にしてきましたが、ミッションが終わってからその方たちに会うと、「どうでしたか。四十日間のイベントは成功だったのですか、失敗だったのですか」と聞かれました。もちろん私は、神様が働かれ、勝利があったことを報告しましたが、実際にはこれでよかったのかと思えるところもたくさんありました。八百人が入る会場でも、客席前方の二〜三百席がうまっているだけの状態で、ある意味、四十日間が適切であったのか、また、集会の進行方法やプログラムがどうであったのか、入場整理券の問題、献金の問題など、数々の反省点があります。運営に携わる者として、反省するとともに次にどのようしたら良いかを考える必要があります。大阪に向けての軌道修正の必要もあります。しかし、成功か失敗かと聞かれるなら、それは成功であったということができますし、皆さんも感じられると思います。
 イエス様はこの四十日間、確かに動いてくださり日本に新しい扉を開いてくださり、多くの魂を救いに導いてくださいました。協力教会がそんなに多くあったわけではありませんでした。しかしミッションに反対しているような教会の信徒がボランティアとして働いてくださったり、今までミッションのことをあまり良く思っていなかった先生が、集会に来られて、本当に恵まれて変えられたり、一人の魂が救われるなら、天において大きな喜びがあると聖書に記されているように、全く教会に接したことのない方がチラシや招待券によって導かれ、イエス様に出会ったことを聞く時に、それはまさに成功だったといえると思います。さらに、大阪に向けても、誰の目にも明らかな主のわざを起こしていただけるよう、戦い続け、祈り続けていきたいと思います。
 私たちの人生において、成功であるか不成功であるかという質問に、誰も「私は成功しました」と言い切ることができる方はいないと思います。それは、まだ走っている途中だからです。七十年、八十年経っても、走っている途中で成功しましたといえる人はほとんどいません。私たちが成功したか否かは神様の前に行って初めてわかります。
 最近では学校の先生はあまり威厳がありませんが、昔はよく叱られたり、殴られたりして、とても恐い存在であり、偉い人というイメージがありました。今学校の先生が生徒を殴ったら大問題になりますが・・・。その他、政治家、警察官など国の重要なところを司る人は偉い人、成功者と思っていました。しかし現在では悪いイメージが定着し、信用が失われています。誰が本当の成功者なのでしょうか。
 先日、中学生時代のクラス会があり、二十八年ぶりにあった同級生は、私と同じようにおじさん、おばさんになっていました。皆、私がクリスチャンであることは知っていましたが、酒をすすめる人がおり、今は牧師だという証しをしました。一人の仲のよかった友達が来ていて、「今どうしてる?」と聞くと、彼は「今、失業中だ」と言いました。彼は中学時代とても頭が良く、いつもトップクラスで、私は成績では彼に絶対勝つことができませんでした。私は普段あまり勉強をしなかったので、テスト中には彼に家に行き、ノートを写させてもらって勉強した覚えがあります。彼は頭も良く、人も良く、運動もでき、なぜ彼だけできるのかとうらやましい限りでした。中学卒業後、彼は一流高校、一流大学に行き、エリートコースまっしぐらといった生活をしていました。そんな彼に、十年ほど前一度会ったことがありました。私がプレイズを始めた頃で、彼はその時、製版会社に勤めていました。私も知っている名の知れた会社で、一度会社訪問をさせてもらいました。何十人も社員がおり、彼は一つの部署を任され、とても充実しているようでした。私は印刷を始めたばかりで、いろいろなものが物珍しく、その会社の捨てるところに置いてあったものを、恥も外聞もなくもらってきた覚えがあります。
 その後、彼に会う機会もなかったのですが、最近の印刷業界の変革で、あの会社は大変だろうと、彼のことを気にかけていました。どうしているかなぁ、会社は大丈夫だろうか、と思っていました。でも、簡単につぶれるような会社ではないからな、と思っていたのに、今回彼に会った時に、会社を辞めた、と言われビックリしました。リストラされたのかと聞くと、そうではないというのです。「岡本も知っているように、会社は景気も最悪の中で、自分がリストラをしなくてはいけないという立場になり、辞めさせる人のリストを作る立場になってしまった。それが心苦しくてその会社を辞めたんだ」と言いました。彼はとても真面目な男だと思いました。彼がその後ぽつりと「俺の人生どこで狂っちゃったのかなあ」と寂しそうにぼやいたのを、今も覚えています。そこで私は自分が神様とともにあることを証しできました。頭が良く、人も良い、仕事も順調にいっていたのに、挫折感に打ちひしがれている彼を見て寂しい気がしました。人生はわからないものです。誰が成功するかは誰にもわかりません。彼にもまた伝道する機会が与えられるようにと願っています。
 自分自身のことを振り返って、自分の歩みはどうであったのか、と考えます。その中で、自分は弱い者で、何もできないことを色々なところで教えられています。スーパーミッションの前にも大きな不安がありました。運営を任されながらも、教会の働き、プレイズの働きが同時進行していくということに、本当に大丈夫だろうかという不安がありました。もちろん、自分のために時間を使ったわけではない。しかし、プレイズの仕事が進む中で、ミッションの働きに集中することができず、「お前はこれでいいのか」と、心に責めを感じていました。しかし、ミッションやプレイズの仕事を誰かに預けることもできず、葛藤の中で自分の中で弱さを思いながら大会を進めてきました。結局、スーパーミッションのために何もできなかったと思いました。ある人からは、ミッション、プレイズ、教会のために、何もできなかったじゃないか。岡本先生は、プレイズがクリスチャン新聞などでも取り上げられて、高ぶったのではないかと思われるかも知れません。私の中では、プレイズがここまでやってこれたのは、私が頑張ったからとか思ったことはありませんし、多くのスタッフが働いてくださったからこそ今があると思ってきました。しかし、一方で、私は人に対して思いやりがなかったことを思い知らされました。
 私は皆さんがよく御存知のように、食べること、話すこと、やることなすことすべてが早いです。「先生、そんなに早く食べると胃を悪くしますよ」と言われますが、早く食べないと食べた気がしないのです。ミッションでも司会のたびに、「先生もう少しゆっくり、落ちついて話してください」と言われました。メッセージでもそうです。一度ゆっくり話そうと意識したことがありましたが、そうすると次に言おうとしていたことを忘れてしまって、言葉が出てこなくなってしまうのです。これも皆さんに祈っていただき、もう少し聞きやすく話すことができたらと思っていますが・・・。
 このように何でも早いという中で、遅い人をどこかで「もう少し効率よくやったらどうか。もっとやり方があるではないか。何をもたもたしているのか」と思ってしまうところがあります。また、病気の人を見て、大変だと思い、心配し祈ります。しかし、私は恵まれた環境の中で育ち、一度も大きな病気や事故をしたこともなく、今まで守られてきました。今回私の母が事故で長い間床についていました。その状況を見て、今までの自分の病人に対する愛や思いやりの足りなさを覚えました。その中で聖書を読みました。 ヤコブ四章十節には、 

『主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。』 

また一章四節にも、 

『その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』 

と、成功者になるための秘訣が書かれています。
 私たちは弱いものです。時々高ぶってしまいます。人を裁いてしまいます。この世のビジネス書を読むと、成功する秘訣のほとんどが、潜在能力をかき立てることだとあります。つまり、「あなたはできる。あなたには素晴らしい能力がある」といって潜在能力をかき立て、前進するだけ考えていくのです。確かにそれによって得るものはたくさんあります。この世の成功はそこにあります。しかし、それだけでは人は幸せにはなることができないことを教えられています。
 色々な艱難や問題がふりかかると、なぜ、どうしてという思いが先立ちます。問題を抱えたり病気になった時、それも仕方がないと、あきらめる一方で、「なぜだろう。私はこれだけ頑張ったのに、これだけ祈っているのにどうして病気になるのだろうか、こんな問題が起きるのだろうか」と人は思うものです。
 しかし、第二コリント一章六節には、 

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。』 

と書かれています。主が私たちのことを覚えていてくださいます。どんな苦しみ悲しみの時にも、私たちがイエス様を疑うことがあったとしても、主は私たちに慰めを与え、愛してくださり、最善の道を用意してくださるのです。
 旧約時代にもたくさんの成功者について書かれた記事があります。アブラハムは、神様から、愛する我が子イサクをささげるようにと言われ時、「どうしてか」と思ったに違いありません。理由は聖書に何も書かれていません。人間には到底理解できないことですが、彼は信仰をもってイサクを主の前にささげました。それゆえ素晴らしい祝福を得たことを聖書で見ることができます。
 また、創世記のほかの箇所では、ヨセフについて書かれています。ヨセフは何も悪いことをしたわけではないのに、お兄さんたちの策略によってエジプトに奴隷として売られました。しかし、彼は認められ、財産を任されるまでに信頼を得ましたが、またも策略によって投獄されました。しかし、最終的にはエジプトの総理大臣になりました。これは彼が望んだことでもなく、努力した結果でもありませんでした。神様の計画の中で、神様がその道を通らせることを必要とし、またそこを彼が通ったことによって忍耐によって素晴らしい祝福を得ました。そのことはヤコブの全部族の救いという、道筋を作りました。苦しみ、悲しみ、試練の中にある時はわかりません。ヨセフもなぜこんなことがと、何度も思ったことでしょう。しかしあとになってわかります。すべては神様の計画の中にあることを覚えてください。
 ヨブも正しい人で、神様に忠実に従ったしもべでした。それにもかかわらず、彼も多くの試練や苦しみを受けました。その中で、人間の力、人間のわざではなく、すべてが主の御手の中にあることを知り、最終的に彼が主を見上げた時に、初めに得たものよりももっと多くのものを得たとヨブ記に書かれています。このように成功者といわれる多くの人たちが、忍耐や問題の中で主に鍛えられ、素晴らしい祝福を得たことを見ることができます。
 イエス様はこの世に来てくださり、このことを実践されました。神ご自身が人となってこの世に生まれ、大工の息子として生活をし、人間と同じように苦しみを受け、迫害の苦しみさえも受けられ、人々に仕える者となってくださいました。どんな苦難の時も、迫害の時も誰をものろうことをせず、すべてを忍耐し、祝福し、この地上の生活を終えられました。そして三日目によみがえられ、私たちに助け主である聖霊様を与えてくださいました。私には何の力もありません。しかし、神様は私たち一人ひとりを 

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』 

と言ってくださるのです。おじいちゃん、おばあちゃんになった人も、「私は礼拝に来て席を温めるだけです。私のできることはない」と思わないでください。皆さんにこれから先、どれだけの年月が残されているかはわかりません。しかし、私たちには天国へ行くまで、すべての時に神様の計画があることを覚えてください。ゴールにたどり着いた時に、「よくやった、忠実なしもべ」と言っていただける者になりたいと願います。
 私たちは今見える部分ではなく、見えない部分にこそ目を留めていくことが必要であり、神に喜ばれることが何かを選んでいきたいと思います。人ではなく、神に喜ばれることです。私のためにも是非祈っていただきたいのです。本当に弱い者です。足りない者です。しかし、多くのものを任されています。祈りの助けが必要です。今日学んだように、へりくだる者が高くされ、忍耐をもった者が完全なる成功者になることができるという御言葉通り、これから忍耐をもって、へりくだっていきたいと思います。
 何かあった時、私たちはよく「悔い改めます」と言います。悪かった、こうしたい、こうしようと、失敗した時、罪を犯した時に悔いることはクリスチャンでなくても誰でもします。しかし、「悔い改める」ことはなかなか難しいことです。色々な問題にぶつかり、嫌だと思うことがあるかも知れません。時々に忍耐が必要です。しかし、人間の力、忍耐、努力だけではどうしようもない時があります。そのために必要なのは、聖霊による助け、神の力です。日々私たちは主とともに歩み、軌道修正をして行くべきです。私たちがどんなに失敗し、挫折したとしても、神様はともにいてくださいます。私たちが主から離れなければ、主が私たちを見捨てることはないことを覚えてください。主に信頼するなら、必ず成功者になることができます。そして主の前に出る時「よくやった忠実なしもべ」と言っていただける者になることができることを信じています。お祈りします
 
 

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