今週の礼拝メッセージ
2000.9.17(SUN)
イエス様はあなたの救い主
新城教会牧師 滝元 順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書 22章36節〜40節

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に 言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神であ る主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた 自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつで す。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
 

   ハレルヤ!イエス様の御名をほめたたえます。皆さんと共に礼拝が守れるこ とを感謝します。昨日は西村正道兄と幸子姉の結婚式がありました。また、今 日は梁承旭(ヤン・スンウ)兄と田中智華子姉の国際的な婚約式も行われま す。この教会に新しい結婚や婚約の波が押し寄せていることを感謝します。ク リスチャンホームができることは素晴らしいことです。イエス・キリスト中心 の家庭を作っていくならば、幸せになることができます。今日は初めて教会に 来られた方もおられますので、わかりやすく話したいと思います。  私のためにいつも祈っていただき感謝します。先週も大変忙しくありました が、主が守って下さいました。東京でアッセンブリー教団関東教区の婦人聖会 があり、家内と共に奉仕させていただきました。三百人近くの女性が台風の雨 の中で集まりましたが、聖霊様が働かれた素晴らしい集会でした。そこに皆さ んのとりなしの祈りがあることがよくわかりました。その後、北海道、標茶と いう田舎町に行って三日間の集会がありました。そこは、お年寄りを中心に集 まられましたが、とても恵まれた集会でした。  今週、特に皆さんにお祈りのお願いをしたいのですが、水曜日の午後に日本 を発ち、私たち夫婦はアメリカに行きます。それは、ワシントン州ヤキマとい う、ジョー先生の住んでいる街に行きます。今回はヤキマにある五つの教会が 合同し、「街を主の元に勝ち取ろう」というテーマで、霊的戦いのセミナーと 開催します。期間中、多くの集会があります。何をしたら良いのかよくわから ないので、ぜひ、祈っていただきたいと思います。午前中はセミナーで、夜は リバイバル集会が続けられます。ドリアさんが通訳に来てくれるので英語を使 う心配もないのですが、ぜひ、ヤキマにリバイバルが起こされるように祈って 下さい。特に今回は、街にある教会が合同して霊的戦いのために立ち上がるの で、すごいことが起こると思います。皆さんの祈りがそこに現わされますの で、ぜひ、私と家内のために祈って下さい。家内が共にいることによって、多 くの解放が起こります。夫婦は一心同体であり、私一人では不完全ですが、家 内によって補われる事を感謝します。私たちのために祈って下さい。  今日は「イエス様はあなたの救い主」というタイトルで学びます。「教会」 と聞くと、一般的に、堅苦しく緊張する、つまらないというイメージがあるか も知れません。しかし、この教会ではイメージが変えられます。昨日も結婚式 に初めて来られた方が「教会のイメージが変わりました。」と言われました。 よく変わったのか、悪く変わったのかはわかりませんが、とにかく喜んで帰っ て行かれました。  旧約聖書の神様は恐ろしく、厳しい方ではないかと感じます。ある意味で神 様の基本形は厳しさかも知れません。初心者がつまずきを感じるのは、出エジ プト記に出てくる「十戒」がその一つです。「この律法を絶対に守るべきだ」 というのです。今から、十戒をお読みします。これからクリスチャンになろう としている方は心して聞いて下さい。完璧に守らないとクリスチャンになれま せんので。  第一に「わたしの他に、神々があってはならない。」とあります。日本には 八百万の神々がありますが、イエス・キリスト以外に神があっては絶対にいけ ないのです。  第二は、「偶像を作ってはならない、拝んではならない、仕えてはならな い」ほとんどの日本人が、手で作った神々に仕えています。それから離れなく てはクリスチャンになることはできないのです。  第三は、「主の御名をみだりに唱えてはならない。」神様の名前をむやみに 使ってはいけないというのです。時々、私たちは、「神様、助けて下さい。」 と叫びたくなる時があります。しかし、主の名をむやみに使ってはいけないの です。「神様」と叫ぶときにはそれなりに覚悟して使うべきだというのです。 ユダヤ人は神様の名前があまりにも聖く、尊い名前なので、そのまま呼ぶこと ができず呼び方まで変えました。  第四は「安息日を守りなさい。」クリスチャンの安息日とは日曜日です。今 日は安息日です。これを聖なる日として集まっています。クリスチャンになっ たら、何がなんでも日曜日は教会に来るべきだ、ということです。  ここまで聞いても多くの方々が、身を引きますが、聖書はそのように教えて います。第五は、「父と母を敬え。」第六は、「殺してはならない。」第七 は、「姦淫してはならない。」そして第八は、「盗んではならない。」一円で も、百万円でも盗むことには変わりがありません。第九は「偽ってはならな い。」嘘も方便だという日本人は困ってしまいます。嘘を一つでもつくなら ば、神様からさばきを受けるということです。  そして最後は、「隣人のものを欲しがってはならない」となっています。キ リスト教は、この十戒を必ず守らなければ滅びに行ってしまうという、恐ろし い宗教です。だから、クリスチャンになるのには、余程の覚悟が必要です。も うすでに、家に帰ろうと思った方がいるかも知れません。「これで今日のメッ セージを終わります」と言ったら、「ひどいメッセージだ」と言われると思い ます。  このように、旧約聖書は、厳しい掟があります。イスラエルはユダヤ教であ り、この十戒を基本に生きています。この戒めが、さらに枝分かれし、もっと 細かい規定があります。安息日を守ることにおいては、安息日に出歩いて良い 距離まで決まっています。イスラエルに行くと、電線に丸い目印がぶら下がっ ています。それは、一つのマークから、一つのマークまでが安息日に歩いても 良い距離を現しています。それを見ると、神様と付き合うのは大変だと思いま す。しかし、ユダヤ人はそれを厳格に守っています。人間は一つの規則を守る と、それなりの満足感があるものです。「少しは正しい人間になれた」という 満足感があります。ユダヤ人も自己満足していました。  しかし、そんな中で、彼らには疑問がありました。当時、イエス様が現れ、 イエス様は天から下ってきた神の聖者であると人々は感じていました。それで 彼はイエス様のところに来て、「十の戒めの中で、最も心に留めるべきものは 何ですか。」とイエス様に聞いたときの答えが、今日の御言葉です。 『「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼 に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神で ある主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあな た自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつで す。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』  旧約聖書の厳しい掟の真意について、イエス様は父なる神様を代弁して語ら れました。「天の神様の喜ばれることは、十の戒めを頑張って守ることではな い。第一に、神を愛する、第二に、隣人を愛することです。」と語られまし た。  人生で最も大切なこと、即ち、聖書のいわんとしている中心は、第一に「神 を愛する」ことです。「わたしの他に神々があってはならない。」「偶像をお がんではならない。」「主の御名をみだりに唱えてはならない」「安息日を守 る」・・・これらは、すべて「神を愛する」というグループにまとめることが できます。  そして、第五目からの「父と母を敬いなさい。」「殺してはならない」「姦 淫してはならない。」「盗んではならない。」「偽ってはならない」「隣人の 物を欲しがってはならない」という事柄は、「隣人を愛する」という一言にて まとまります。  人生の中で、最も大切なことは、十戒の一つ一つを厳格に守ることではな く、「神様を愛する事であり、隣人を愛すること」です。  しかし、神を愛するという概念は日本人の中にはありません。日本人の神観 念の中には、「神様は恐ろしい方です。神様に触れると罰が当たる」というよ うな思いがありますが、私たちが信じる神はそのような方ではなく、愛なる神 様です。旧約聖書に出てくる神は恐ろしい神ではなく、本当は愛なる神様で す。「神様が私たちを愛している」とは、日本人には初耳かも知れません。神 様が愛して下さるなどと聞くと、「そんなことがあるのだろうか」と思うかも 知れません。天地宇宙を造られた神は、人類を愛の対象として造られたので す。  さて、「隣人を愛する」とは生きる上では最も大切なことかも知れません。 人は互いに支え合って生きています。人間は一人では生きることはできませ ん。互いに支え合っています。  先週は北海道の標茶にある教会に行きました。その教会は十五ヘクタールの 敷地を持っていました。一ヘクタールは百メートル×百メートルです。日本で もそのようなところがあります。広々とした生活をしたかったら北海道にでも 行くと良いのではないかと思います。しかし、そんな隣が見えないようなとこ ろに住んでいても、人は互いに助け合っています。人口は九千人ですが、お互 いによく知っています。どこの人がどこの人と結婚し、どこに住んでいて、子 どもが産まれて、牛が何頭いて・・・と互いにすべてを知っています。人生の 中で大切なことは、隣人とうまくやるということです。「神様とうまくやりな さい。」同時に、「隣人とうまくやりなさい」そうしたら幸せになることがで きると聖書は教えているのです。  「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めは、聖書全体を 支えている重要な戒めの二つのうちの一つです。聖書全体が二つの柱で支えら れているならば、一つの柱は、「神様を愛する」もう一つの柱は、「隣人を愛 する」という柱です。一つの柱が折れてしまうならば支えることは出来ず倒れ てしまいます。この二つをしっかり、心に留めなければならないのです。イエ ス様は人間がどうしても越えることができなかった「十戒」を簡単に越えるこ とができる道を整えて下さったのです。  愛は普段ではできないことを簡単に越えさせるのです。今日は婚約式があり ます。田中智華子さんと梁承旭(ヤン・スンウ)さんの婚約式です。日本人同 士の結婚も大変ですが、国際結婚はもっと大変だと思います。新城教会には国 際結婚されている方が何組かおられます。国際結婚は文化、言語を越えて一つ になるのです。これは神の愛がなくてはできないことです。しかし、そんな中 で結婚生活をされている新城教会の兄弟姉妹を見ると、「素晴らしい、神様は 生きておられる」と思います。なぜ、国、文化、言語を越えて結婚ができるか というと、その背後に大きな愛があるからです。  人生の中で愛は大切なものです。愛がなくては人間も動物も生きていくこと はできません。人間も愛を受けずに育てられると、おかしくなります。動物で も愛をかけられないと根性の悪い動物になります。私の家にも一匹の犬がお り、家族がいつも愛をかけています。犬もその愛に反応します。  本物の愛を私たちに紹介したのがイエス様です。そして、その証明が十字架 です。私たち、人類の身代わりに、神のひとり子が十字架にかかって下さいま した。「わたしは人類を愛している、神は人を愛している」ということを、身 をもって証明して下さったのが十字架です。今日ここに居られる方で神の愛を 受けていない人は一人もいません。皆、神様から愛されています。このことを 国民全体が知ったら日本は変わります。日本人にある一つの問題は、多くの 人々が自らいのちを絶っていることです。しかし、神が愛していることがわか れば、心に平安がくるのです。今日は神様の愛を受け、持ち帰っていただきた いです。教会の礼拝に出ると、知らないうちに神の愛に触れます。人間的な愛 ではなく、神の愛に触れます。  先週は大雨でした。名古屋付近は水没して大変なことになっていました。土 砂降りの雨の中では全員濡れます。同様に教会には神の愛が土砂降りの雨のよ うに降っています。そこに入るだけで、知らないうちに神の愛を受けて生きる ようになるのです。そして神の愛によって、隣人をも愛することができるので す。  そして、あなたの隣人を、「自分自身のように」愛せよと書かれていますの で、自分自身をも愛するようになります。ところで皆さんは、自分自身を愛し ておられますか。自分自身を愛するのは悪いことではありません。しかしそれ は、自己中心に生きる事とは違います。ありのままの自分を喜んで受け入れる ことです。皆さんの人生は神様が用意して下さったものです。ありのままの自 分を受け入れるときに神様の祝福が人生に溢れます。人間はいくつかの劣等感 の中で生きています。大別すると四つの劣等感があるようです。皆さんはいか がでしょうか。  第一は、「能力的劣等感」があるそうです。他の人と比べると能力の違いに 気づきます。しかし、神様はそれぞれに能力を与えています。決して人と比べ るのではありません。その人にしかできない仕事と能力があります。その人し か受け取っていない、神からの能力があります。次に、ある人は「性格的劣等 感」を持っています。自分の性格に自信が持てない、なぜ、こんな性格に生ま れたのだろうか・・・。  ある意味で、性格は環境で変化するものです。しかし、基本的な性格は神が 与えたものであり、良きものです。悪魔がその上に変なものをつけ加えます。 しかし、あなたの基本に備えられている性格は、神から与えられたものとして 喜んで受け取って下さい。ある人は明るい性格を持っています。ある人はそう でもありません。それで社会はうまく行きます。だから、お互いの性格を尊重 すべきです。  そして、「社会的劣等感」があるようです。社会のポジションに自信が持て ないのです。しかし、神様はすべての働きを同じように見ておられ、役割の違 いとして認識しておられるだけです。「あの人は能力があったから良い職業に 就くことができた。しかし私は、能力がなかったからこんな職業しか得ること ができない。社会において地位がない」と考えます。しかし、これは人間的な 考え方です。すべての社会的ポジションは神が認められているもので、皆さん の仕事や立場もすべて神が与えたものとして喜んで受け入れて下さい。  私は牧師をしていますが、牧師という職業は韓国では社会的ポジションが高 い職業です。しかし、日本においては、「牧師?何それ?」というくらいのポ ジションです。しかし、そんなことはどちらでも良いのです。神様からこのよ うな職業を与えられ、私は喜んでいます。皆さんも今、置かれている立場がど うであれ、喜んでそれを受け入れるべきです。  また、「身体的劣等感」があります。自分の体を鏡に映して「ああ美しい」 と言っている人はうぬぼれているだけです。誰でも自分の体を見ると、なぜこ んなに変わってしまったのだろうかと悲しくなりますか。  時々、若いときの写真を見ると嫌なものです。私も色々なところに奉仕に行 くと、「先生。五年前の写真を見ますか。」と言われて見せられることがあり ます。それを見て、ショックを受けることがあります。しかし、人間の本質は 肉体ではありません。与えられた身体を感謝して受け取らなくては切りがあり ません。それぞれに神様が特徴を与えておられます。美しさなどは相対的なも のです。平安時代の美人は太った人です。今でも、暑い国々では美人の基準は 太った人です。テレビに出てくる細い人は美人ではありません。美人の価値観 も変化するもので、少しくらい体重があってもなくても、神様が与えて下さっ た体として喜んで受け入れるべきです。ありのままの自分を受け入れることは 大切なことです。今日、もし、自分を喜んで受け入れることができない方がお られたら、受け入れていただきたいと思います。そして、もしも皆さんが、弱 さを感じていたら、その弱さも感謝していただきたいです。なぜならば、聖書 は不思議な価値観を私たちに提供しているからです。それは、「弱いところが 強く、強いところが弱い」という価値観です。弱さとはどのような場所でしょ うか。それは、神が働かれる現場です。神様はどこで働かれますか。強いとこ ろではなく、弱いところです。神様が働く現場は、私たちの弱さの中です。  今までに、神様の奇蹟を体験された方がおられると思います。どのようなと ころに奇蹟が現わされましたか。それは決して強いところには起きなかったの です。病の癒しも、神様はどこに働かれたのでしょうか。それは健康体に働い たのではありません。弱くなった体と病のあるところに働かれたのです。聖霊 様が癒しや奇蹟を起こして下さっています。私は先週も多く見せていただきま した。どこで神様が働かれているのかを見ると、必ず弱いところで働いて下さ います。苦労しているところに神様が働かれます。病気で苦しむところに神様 が働かれます。決して強いところには働かれません。神様が働かれるところは 弱さの中です。ということは、私たちの人生の中で弱いところは大切なところ です。だから弱さを含めて、まず自分自身を喜んで受け入れることがあなたに とって大切です。そして、隣人とを愛することも、まず、自分自身を受け入れ るところに自然に湧いてくるのです。  ユダヤ教のラビがある時、弟子たちに、「夜の終わりと一日の始まりの境目 はどこで認識するのか。」と質問しました。すると、ある弟子が、「先生。そ れは遠くにいる動物が何という動物か認識出来た瞬間です。」と答えました。 また、もう一人の弟子は、「遠くに立っている木が、何という木か認識できた 時です。」と答えました。するとラビが「まだ、君たちはあまい。夜から朝に 変わる瞬間は、男を見てこれが兄弟と認識した時であり、また、女性を見て、 これは私の姉妹だと認識できたときだ。兄弟姉妹という認識が生まれない限 り、いくら太陽が上がっても、この世はまだ闇の中だ。」と語ったそうです。  私たちも隣人を見て、「これが私の兄弟だ。姉妹だ。」と認識した時に「隣 人を愛する」ことが実現するのです。  先ほど十戒の中で人と人との関係を学びました。「父と母を敬え」「殺して はならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽ってはならな い」「隣人の者を欲しがってはならない」これらは、自分の兄弟や姉妹に対し てはほとんど行わない事柄です。隣の人が自分の兄弟姉妹であると認識する 時、神様が与えた厳しそうな律法も全部越えているのです。  続いて、人類の間で、厄介な問題の一つは「憎しみ」です。憎しみほど始末 の悪いものはありません。人間関係の中でトラブルが生じ、人を憎んでしまう ことは日常茶飯事かも知れません。しかしそれは、最も大きな問題の一つで す。色々な戦争や紛争は、すべて憎しみが原因になっています。ということ は、個人の間から憎しみを除かなくては世界平和もありません。私たちが心に 憎しみを留めないようにするべきです。  イエス様の時代に色々な死刑方法があったそうです。一つは十字架刑でし た。生身の人間を十字架につけて殺すことでした。もう一つ、「死体との抱き 合わ刑」がありました。パレスチナは暑くて、人が死ぬと一日、二日ですぐに 腐り出します。それを受刑者に背負わせるのです。死体は熱い太陽によってさ らに腐り、生身を蝕むのです。やがて体に穴が開き、最後には健康体の人も死 んでしまうという恐ろしい死刑の方法があったようです。  憎しみとは、「死体との抱き合わせ刑」のようなものです。憎しみを私たち が背負ってしまうと、人生を徐々に蝕むのです。初めは何ともないかも知れま せんが、最後にはあなたの人生が完全に破壊されるのです。聖書は「怒っても 罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤っていてはいけません。悪魔に機 会を与えてはならない。」と語っているのです。憎しみの時に背負わされる死 体とは「悪魔」です。私たちが誰かを赦すことができないと、背中に人類を不 幸にするために何千年も専門に働いている「悪魔とその一味」が抱き付くので す。そして、その人の人生を破壊し始めるのです。恐ろしいことです。今日も 皆さんの中で、「私はどうしても、あの人を愛することができない、受け入れ ることができない、憎くてたまらない」という存在があったら、赦して手放し て下さい。それは死体が抱きついているのが取れるようなものです。そうする ならば、新しいいのちが湧いてくるし、周りの人々にも祝福をもたらすもので す。  太平洋戦争の終わり頃、多くの日本兵が連合軍に捕らえられ、捕虜収容所に 入っていました。周りの人々も「あの恐ろしい日本兵が捕らえられている」と 日本兵に対して厳しく扱っていました。日本兵は残虐なことをしましたから、 恐れられていました。収容所に目を向ける者はいませでした。しかし、ある 時、一人のイギリス人女性が来て、失意の中にいる日本兵の世話を始めまし た。日本兵はなかなか心を開きませんでした。これも何かの策略ではないかと 思っていました。しかし毎日のようにその女性は来て、日本兵の世話をしたの です。そんな中である人が、勇気を出して聞きました。「あなたはなぜ、敵の 私たちに愛を現して下さるのですか。」彼女は理由を初め語りたがらなかった ですが、やがてポツリポツリと話し出しました。彼女は、「私の両親がジャワ で日本兵に切られましたから」と言ったそうです。「ジャワで切られたとはど ういうことですか」と聞きました。  戦争が始まったとき日本はインドネシアを侵略しました。その時彼女の両親 は宣教師としてジャワで働いていました。日本兵は、そんなジャワの奥地にい る白人を敵国のスパイに違いないと捕え、よく調べもしないままに死刑が言い 渡されました。宣教師夫妻は死刑場に引き出されました。その時に、「三十分 だけ私たちに時間をください」と、夫婦は神様の前にひざまづいて祈っていま した。やがて、日本兵によって宣教師夫妻は首を切ら殺されたそうです。娘は そのことを聞き、日本人を赦すことができませんでした。「日本人ほど野蛮な 国民はない。将来、私は日本人に復讐する」と怒りに燃えていたそうです。し かし、ある時に、両親が祈っていた内容について聞いたそうです。「あなたの お父さんとお母さんは、自分を殺そうとしている日本人に対して愛を注ぎ、最 後まで、父よ彼らを赦してくださいと、十字架上のイエス様同じように祈って いました」と聞きました。それを聞いて彼女は胸を打たれ、「お父さんお母さ んが日本人を愛したように、私も愛さなくてはならない。」同時に、「愛する とは行動が伴うこと」だと教えられ、近くの日本の捕虜収容所で働くように なったのです。日本兵はこの話を聞きました。  私たちも時々色々な出来事を通して心傷つき、憎しみが人生の中に入ってく るかも知れません。しかしそれに捕まれると一生苦しみます。しかし、私たち が憎しみから解かれる時に、回りの人々に祝福を与えることができます。この 憎しみを解く唯一の力は神から来ます。神の愛から来るのです。イエス様は、 私たちの身代わりになって十字架にかかって死んでくださいました。その愛は 特別なものです。人間が持っている愛とは違い、利益抜きの愛です。私たちが その愛を受け取ると、敵を愛する領域まで引き上げてくださいます。人間はつ きそのような愛を生まれつき持っていません。その愛を私たちは上からいただ くべきです。イエス・キリストを信じる時に、神の愛を受けて自分も愛するこ とができ、隣人も愛することができ、また、隣人との間の憎しみも解かれ、新 しい人生を歩むことができるというのが聖書の教えです。今日、一人一人に神 が必要であり、イエス・キリストが必要であることがわかります。イエス様と 共に幸せな人生を歩んでいただきたいと思います。これが教会の存在目的でも あります。また、クリスチャンはそんな中で神の愛を受けながら生活している 発展途上人です。神様の愛を受け、やがて栄光から栄光へと、イエス様と同じ 姿にまで成長させてくださると信じて歩みましょう。
 
 
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