今週の礼拝メッセージ
2000.10.22(SUN)
あなたの将来には望みがある
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 エレミヤ書31章16節〜17節

主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。
 

     ハレルヤ!三週間ぶりに新城に戻ることができ感謝します。スーパーミッション2000大阪が間近に迫り、色々な決起集会で奉仕させていただいていますが、皆さんのお祈りによって支えられていることを感謝します。スーパーミッションのテーマは素晴らしい御言葉です。二十九章十一節の御言葉です。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

この言葉を私たちのものとして受け取りたいです。聖書は人間が生きるために神が与えてくださったマニュアルのようなものです。携帯電話やコンピューターにはぶ厚いマニュアルが付いています。すべてを読まなくては使えないかと思いますが、必要なところを押さえれば使えます。聖書も大変厚い書物ですが、一番中心的なことを押さえておけば良いのです。聖書を見るだけでゾッとする方もおられるかと思いますが、心配しないでください。教会に来られると、その時々に解きほぐして皆さんにお伝えします。今日は、将来と希望とはどのような意味があるのか、また、それを受け取るためにはどのようにすべきかについて聖書から見ていきます。最近は将来と希望を見出すことができないような時代ですが、聖書には将来と希望があるのです。
 先週九州に行きました。多くの方と出会いましたが、「私の将来には、全く望みがない」と言われる方、「私は生きていてはいけない人間なのです」と言われる方もおられました。しかし、神様はこう言われます。「あなたの将来には望みがあります。」
 エレミヤ書は神がエレミヤという預言者を使って人々に語られたという言葉です。エレミヤという人物が生まれたことによって、イスラエルに新しい時代が訪れました。一人の人物が神によって与えられることは、国にとって大きな祝福です。今日ここにおられる一人一人は、神様が目的を持って創造された方ばかりです。一人一人は重要な存在です。神様は人間を目的なしには造られませんでした。一人一人に素晴らしい計画と目的を与えて生まれさせてくださいました。エレミヤが現れたことによって、イスラエルに新しい時代が到来しました。しかし、エレミヤが生まれ出た背景にも、一人の人物の活躍がありました。エレミヤが預言活動を始めた時期についてエレミヤ書一章に書かれています。一章一節、二節に、

『ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。』

 聖書はイスラエルの歴史を背景にしていますので、なかなか分かり難いところがあります。イスラエルの歴史に、ヨシヤという王様の時代がありました。その治世の第十三年にエレミヤという少年に神が語りかけを始められました。ヨシヤの治世にエレミヤが選ばれたのには理由がありました。
 聖書は立体的に読んでいくとわかる部分が多くあります。歴代誌第二、三十四章にヨシヤ王のことが書かれています。この王が出たことによって、エレミヤが神によって呼び出されたのです。三十四章二節に、

『ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。』

と書かれています。イスラエルには悲惨な歴史があります。しかしその中でも、所々、明るい歴史があります。ヨシヤという王様の時代には国が栄え、復興しました。イスラエルの復興は同時に、人生の回復にも当てはまります。それを歴史的スパンの中で教えています。特に聖書の視点は、真の神に従い通した治世には神の助けがあったという事実です。二節にヨシヤの人生について書かれています。

『彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。』

 これはヨシヤ王が天地宇宙を造られた神に忠実に従った事を現す記述です。一生の歴史を短くまとめた言葉です。人生を幸せに生きる秘訣がここにあります。天地宇宙を造られた真の神から、右にも左にもそれず歩んでいく時、人生に回復が訪れるのです。そして三節、

『彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め・・・・』

と書かれています。彼が十六才の時、個人的に神を求め始めました。その時、神が彼の人生に関わり始めました。
 今、十七歳の少年犯罪が取り上げられています。これから社会はどうなるのだろうかと心配になります。「十七才がなぜ、多くの犯罪を犯すのか」と議論されています。しかしヨシヤのように、十六才から神を求め始めたら、決してそのような問題は起こらないはずです。ある意味で、私たちの人生を決定付ける境界線は、十六才くらいのような気がします。子どもの時代は誰でも良い子です。だんだん変化してどこかで狂います。聖書は、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」と勧めています。若い時に真の神に出会うのは素晴らしいことです。そうすれば人生は揺るぎません。ヨシヤが祝福されたのは、彼が十六才の若さで神と出会った歴史があるからです。
 私も感謝なことに、若い頃にイエス様と出会うことができました。私は気がつくとこの教会の息子に生まれていました。昔、私の両親は現在の新城中学校前の四軒長屋の片隅に住んでいました。昔は結構広いと思っていましたが、最近見に行くと、よくぞこんな所に住んでいたと思いました。良い家でしたが、私は私を含めて八人兄弟の十人家族で二十坪弱の狭い家に住んでいました。両親は牧師をしていました。初め私はなぜ、こんな所に生まれたのだろうかと思いました。クリスチャンに胎内感染して生まれたのでもないので、初めは変なところに生まれてしまったと思っていました。周りにクリスチャンはいませんし、牧師という職業は大変だと思っていました。牧師という職業は見ず知らずの方に愛を現す職業です。今、私はそれを喜んでいますが、昔はそれがよくわかりませんでした。なぜ私の両親は知らない人に愛を現しているのだろうか。知らない人の悩みまで持ち込んで、こんな割の合わない仕事はない。外なんか見ないで、もっと内側を見て欲しい、内側に難民のような子供達が溢れているにも関わらず、なぜ、外にばかりなのだ、と思っていました。しかし、私はそんな中でイエス様と出会いました。牧師の息子がクリスチャンで、なおかつ、牧師になっていたらキリスト教は本物だと信じて下さい。なぜなら、私は教会のあらゆる側面を見ているからです。そのような中でイエス様が救い主であることがわかったからです。日本には八百万の神々があり、本物の神を見つけ難いような国ですが、私ははっきりとここで宣言しますが、イエス様は神様です。あなたを救うことができる唯一の神様です。皆さんは本当の神様と出会ったのです!!
 そもそも人間が神様を求めるのは、赤ちゃんが乳を求めるようなもので、本能的なものです。どこかに神様がおられるはずだ、どこにおられるのだろうかと探索するのです。創造者がおられなかったら人生もあり得ませんし、生き物も存在できません。イエス様が天地宇宙を造られた本物の神様です。この神様を若いうちに求めることは素晴らしいことです。
 今日も子どもたちがいますが、子どもたちは宝です。小さい時に神様を求め始めると素晴らしいことが人生に起こります。そして生ける神様を小さい時に体験することは素晴らしいことです。私が高校生の頃、上條先生や岡本信弘先生、滝元開が鼻を垂らしているような時代、彼らの上に聖霊が注がれました。彼らは聖霊様に触れられ、そこに三十人近い子どもたちがいましたが、今考えると右にも左にもそれずに、主のために働いています。やはり小さな頃に聖霊様に触れていただく、神様に出会うことは素晴らしいことです。
 また一九九二年、私の子ども達の世代に、聖霊様が訪れてくださいました。子どもたちが祈っていたときに、聖霊様が訪れられました。あの時、部会別に分かれて七回県民の森で祈りました。その最後日、子どもたちに聖霊が注がれて、普通では祈りが一分と持たない子どもたちが、鼻水と涙で濡れるほど真剣に祈りました。帰ってきてから彼らの顔が変わっていました。皆、口々に「イエス様の十字架がわかった」言いました。それまで子どもたちに、「イエス様を十字架にかけたのは誰かわかる?」と聞くと、「はい。ローマの兵隊。」と答えていました。「それも正しいけれど、あなたの罪がイエス様を十字架につけたのだよ」と言うと、「僕たちはその時に生きていなかったから知らないよ。」と言っていました。しかし、聖霊様に触れられたとき、彼らは、「私の罪のためにイエス様が死んでくださった」と目が開かれたのです。今回のスーパーミッションでは、その子どもたちが一生懸命働いている姿を見て嬉しく思いました。やはり若い頃に神様を体験することは大切なことです。頭で知るだけではなく、体験するのです。教会に来ると生ける神様を体験できます。その体験を司っておられる、三位一体の一位の神を聖霊様と言います。聖霊様が私たちのところに来て、生ける神を体験させてくださるのです。ヨシヤ王も十六才の時に神様を求め始め、生ける神を体験しました。今日初めて教会に来られた方、まだよくわからないと言われる方も、その道を真っ直ぐに歩んでください。必ずその過程の中で、生ける神様があなたに触れてくださる経験があります。聖霊様があなたを捕らえてくださる経験があります。その時にはっきりとわかります。「私の神はイエス様だ、イエス様は私の身代わりに十字架にかかってくださった」とはっきり体験できるのです。
 ヨシヤも神様を求めたときに神が近づいて来られました。そして一つのことを語られました。このことを実行したら、あなたの人生、あなたの国が回復します。三十四章三節に、

『彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。』

 当時ユダという国には、手で造った神々がたくさんありました。この日本にも手で造った神々がたくさんあります。それが神だと思って拝んでいますが、私たちは神様を作ることができる存在ではないのです。真の神は、自己存在されている方であり、決して手で作ったものの中に住まわれる方ではありません。「手で作った神々、偶像を全部取り除きなさい。そうしたら国が回復する」と語られました。
 聖書を読むと、人間は元々祝福された存在です。創世記一章26節に、

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

と書かれています。神様が「我々に」似るように人を創造しようと言われました。私たちの神様は父・子・聖霊なる神です。だから「わたしたち」と複数で語っています。しかし、主語は複数でも動詞は単数です。三位一体の神のイメージで人間を造られました。最初、人類は神の祝福を受けてスタートしました。私たちは時々、結婚式などで人を祝福し、心からの声をかけますが、それはあまり大したことはありません。しかし、天地宇宙、時間空間を越えている神が、人類を祝福されたことは素晴らしいことです。
 ヘブル語で「祝福」は幾つかの意味があります。「繁栄」と「平和条約」という意味があります。日本も戦後日米安全保障条約があり、異論もありましたが、アメリカとは戦争をしない、かつて戦争した連合軍とは戦争しないという平和条約が結ばれ、日本の立場が守られた歴史があります。小国が大国と平和条約を結ぶだけで、国が平和になるとしたら、天地宇宙を造られた神様と平和条約を結んだら、誰が敵となるのでしょうか。私たちに敵対する者は誰一人いないということです。しかしながら今人類を見るときに、本当にこれで祝福されているだろうか、というような思いにかられます。果たして人間に生まれてきたことは本当に幸せだったのだろうかと思います。今悩んでいる方が多いです。苦しんでいる方が多いです。
 先々週、私は四国で集会を持ちました。ある教会で五十名ほどの方が集まられました。最後に、「今日皆さんの中で精神的に問題がある方、また家族に精神的な病や苦しみがある方は前の方に来て下さい。その方々のために特別祈りたいと思います。」と導きました。二、三人は出てくるだろうと思うと、ほとんどが前に出てきました。驚き、引いてしまいました。「本当ですか。違う方は後ろに下がってください。」と言うと、誰も下がろうとしません。皆、何らかの問題があるというのです。とても驚きました。昨日も東京で集会がありましたが、同じ招きをすると、百二十名中、四十名ほどが前に出られました。どうしてだろうかと思います。神様が祝福してくださったのに、人類の姿は何なのだろうかと思います。時々私は、家から外に出て、本当に人間は幸せなのだろうかと考えてしまいます。近くには野良猫がたくさんいます。彼らは家もなく、次の飯が与えられるという保証もないのにも関わらず、暗い顔をして出てくる野良猫は一匹もいません。皆、平然として、明日の悩みなど何もないかのように威張って堂々としています。犬は鎖につながれていても不平は言いません。人間がつながれていたら頭がおかしくなってしまうと思います。動物の方が幸せではないかと思うことがあります。万物の霊長だと言われる人間に生まれたのが良かったのだろうか、悪かったのだろうか。なぜ、人類には苦しいことばかりあるのだろうかと考えます。神様は元来祝福してくださっているにも関わらず、呪いのような人生を歩んでいるとしたら、どこかで道を誤ったということです。どこから誤ったのでしょうか。聖書ははっきりと教えています。申命記十一章二十六節から二十八節に、

『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

と書かれています。出エジプトをしたイスラエルの民に向かってモーセは神からの言葉を取り次ぎました。「二つの道があります。一方は祝福の道、一方は呪いの道です。どちらかを選択しなければならない」というのです。
 今日神が現れ、「あなたの前に祝福と呪いの道があります。選びなさい。」と言われたらどちらを選びますか。呪いの道を選ぶ人はないと思います。神に従うならば祝福とあります。ヨシヤが真理なる神様の道を選び取っていくときに祝福があったように、神に従うならばあなたに祝福があるのです。また、呪いの道について教えています。それは、神に従わないのが呪いの道だというのです。
 「今日は神様に従えない一日だった。私は呪いの道を歩んでしまった」と反省することもあります。夜寝る前に悔い改めの祈りをしてから眠りにつく方もおられると思います。「今日はあまり聖書を読むこともできなかったし、祈ることもできなかったし・・・怒ってしまったし、イエス様のことを考えなかったし、本当に悪かったな。呪いの道から解放してください」と祈る時があると思います。しかし、呪いの道とはそういうものではありません。クリスチャンの方は安心してください。あなたがいくら聖書を読まなくても、伝道しなくても、イエス様のことを考えなくても、イエス様の道さえ歩んでいれば良いのです。
 「呪いの道そのもの」とは何かについて教えています。・・・これは「あなたがたの知らなかった他の神々に従って行くなら、呪いを与える。」呪いの道の根元は、これが他の神々に従う、「偶像礼拝」です。「偶像礼拝=呪いの道」です。日本人は手で作った神様の背後にも何か霊的な雰囲気を感じます。「神様がおられるのではないか」と思います。だから、相手を確かめずに関わっていきます。先々週も四国に行くと、四国八十八ヶ所というのがあり、遍路という人がいて、白い装束を着て杖をつき、鈴を鳴らして一生懸命拝んでいる姿を見ました。団体でバスで、また、四国中歩いて回るような人もいます。なぜ拝みに行くのでしょうか。ただの手で作った石や木を拝みに来るのではありません。何らかの霊験あらたかな雰囲気を感じるから来るのです。日本人は霊的な感覚が鋭いです。何らかの目に見えない姿を捕らえています。背後に霊的な人間よりも更に強い存在がいるのではないかと感じるのです。しかし、それらがすべて神々だと思ったら間違いです。見えない世界がありますが、本当の神様の世界と人間を苦しめる悪魔の世界と二つあります。昼間と夜があるように、光りなる神様がおられるのと同じように、人間を不幸にする悪魔の存在があるのです。どうやって見極めますか。皆さんの人生の中に、困ったことと助けとが、ある神様に関わることによって交互に来るならば、一度考えなければなりません。困ったことがあった時に「助けてください」というと助けてくれても、しばらくするとまた何か問題が起こる。その問題解決のためには、新しい条件が出てきます。「拝み方が足りないから、供養料を倍にしなさい」。同じ問題が大きくなるようでは気を付けなくてはなりません。真の神様は、絶対にそのようにはされません。あなたを愛して祝福して、絶対に新しい条件を出すような方ではありません。私たちは自分が仕えている神が本物か偽物か、しっかりと見極めるべきです。そして、偶像の神々から離れるときに、祝福を与えてくださいます。
 ヨシヤが治世の第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ初めて高きところアシュラ像、刻んだ像、及び鋳物のの像を除いた、と書かれています。そして「治世の十三年」に、エレミヤに神が語り始めました。国の中から偶像を全部取り除いたときに、黒雲が去っていったかのように、神の声が国に聞こえ始めました。エレミヤが神の声を聞きました。国に対する重要な指針を真の神様からいただきました。偶像の神々から離れることは、大きな祝福です。
 その時、神の御心をヨシヤは受け取りました。第二歴代誌三十四章二十四節、二十五節。

『主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。彼らがユダの王の前で読み上げた書物にしるされているすべてののろいをもたらす。彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に注がれ、消えることがない。』

 神が語られたことは、「今あなたの上に神の怒りの手が臨んでいます」ということでした。今まさに自分がさばかれる寸前であることを彼は知りました。
 これは矛盾を感じます。自分が真理の道を進み、偶像礼拝から離れて、神の前に出たときに「あなたをさばく」と言われたことは理解できません。神に近づき、神に従ったのになぜ、さばかれなければならないかということです。
 何故でしょうか?しかし、これが「偶像礼拝の真の恐ろしさ」です。偶像礼拝は自分が犯した罪ではなく、先祖が家系の中で犯してきた罪によってさばかれるのです。偶像礼拝は「三代、四代の呪いがもたらされる」のです。ヨシヤは神に従いました。しかし、ヨシヤの祖父のマナセは国に偶像を持ち込んだ張本人でした。ヨシヤが神の前に出たとき、それはまさに祖父マナセの罪の結果が、ヨシヤの世代を襲おうとしている瞬間でした。
 時々、人生の中に思いがけない出来事が起こってきます。なぜ、こんなことが起こってくるのだろうか。原因が全く分からない事件が多くあります。そして、その多くが偶像礼拝によってもたらされた、家系に原因があることが多いのです。最近、私は働きの中で、そのことを痛感しています。日本は偶像礼拝によって、家系の中に悪霊との契約が、それも三代、四代も継続する契約が侵入しているのです。三代、四代前に偶像礼拝を一生懸命していた人物がいると、後の家族に事件が色々と起こり得ます。
 先日、教会に一人の奥さんが来て、「祈ってください」と言われました。聞くと、「私はこの二年間で、家族親族を四人ほどガンでなくしました」と言われました。二年間で四人もガンで亡くなったというのです。それで怖くなったそうです。発見されて二ヶ月、三ヶ月で皆、死んでいったそうです。すると、不思議な声が聞こえたそうです。「どんな声が聞こえたのですか」と聞くと、「次はお前の番だ。準備しておけ」と声が聞こえたというのです。もう怖くなって教会に来て、「祈ってください!」と言いました。それで、聞いてみました。「あなたの家族の中で、偶像礼拝を真剣にやっていた人はいませんでしたか。」すると、その人のおじいさんが、ある新興宗教の降霊術師で、先祖のふりをしている悪霊を呼び出し、そこから声を聞いてみ告げをするような人でした。そのようなことをしていると家族・家系の中に束縛が入ります。次から次へと問題が起こってきます。それで、悪魔との契約が全部打ち破られるように、家系の中の束縛が打ち破られるように祈りました。それから、「私はガンになりました」という報告は聞いていませんし、ガンで死ぬはずはないと信じています。偶像礼拝は一番恐ろしい、家系的な束縛が入ってしまうということです。ヨシヤが神様に従った時に、災いが起こる寸前であることを教えられました。ヨシヤはそのことを知り、悔い改めました。「私の偶像礼拝を、また家族を、家族の中で行われた偶像礼拝を赦してください」と祈りました。その時に、神はその国をさばかずに、繁栄を与えました。
 エレミヤ書三十一章十六節には、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

と書かれています。「将来と希望」について語られています。それは敵の国から帰ることであり、サタンの束縛から解放されることです。そして、将来と希望という「根元的な意味」は、エレミヤ書三十一章二十七節から三十節に書かれています。

見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。・・主の御告げ。・・その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

 今回のスーパーミッションで、「将来と希望」というテーマをいただいていますが、これは大きな隠された意味があると信じています。「将来と希望とは何か」・・・今までは父が酔ぶどうを食べた結果として、子どもの歯が浮くようなことが起こっていたというのです。
 「父が酔ぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」というのは普通では考えられないことです。こんなことが頻繁にイスラエルで起こっていたそうです。しかし、今日からそれがなくなります。・・・それがあなたにとって「将来と希望」だというのです。あなたが酸いぶどうを食べて、あなたの歯が浮くことはあるかも知れませんが、お父さんが酸いぶどうを食べて、子どもの歯が浮くようなことはなくなる・・・これは家系的な束縛からの解放です。今まで家系の偶像礼拝によって、結果が子どもに現れていたのです。子どもの歯が浮いて苦しんでいたのです。しかし、「将来と希望をあなたに与える」ということは世代を越えるような罪の束縛を受け取ることはなくなるということです。それで、あなたには、将来と希望がありますということです。
 今日、覚えていただきたいのはこの事です。「将来と希望をあなたに与えます」ということは、家系的束縛からの解放です。私たちも今までは何度も、意味不明の父が酸いぶどうを食べたことで子どもの歯が浮くような事件に悩まされていたかも知れません。しかし、今日から、「あなたに将来と希望を与えます」・・・家系の中で働いてきた、悪魔の力が完全に打ち破られ、そのようなことはもう二度となくなる、だから、『あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめなさい。』と言っています。
 皆さんの中で、原因不明の問題で苦しめられている人がいるかも知れません。ある意味でそれは、父が酸いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くようなことを含んでいるかも知れません。でも、イエス様を信じる時に解放されるのです。これがあなたにとっての将来と希望です。
 昨日は東京で集会がありました。素晴らしい集会でした。一人の方が来てくださり、私の目の前におられましたので証しをしていただきました。その方はスーパー・ミッションの時に病で苦しんでいた方でした。それも精神的な病でした。私が家内と食事をしていたときに、お母さんが連れて来られ、「先生、娘のために祈ってください。今苦しんでいるのです。」と言われました。顔を見ると、本当に暗い顔をしていました。それで家系の中の全部の偶像礼拝の罪を悔い改めて、将来と希望が与えられるように祈りました。どうなっただろうかと思っていましたが、昨日その方が来られていました。ご主人も一緒で、「本当に良くなりました。あれから眠れるようになりました。元気になりました。」と喜んでおられました。家系の中で苦しまれている方が多いと思います。今日イエス様が私たちに将来と希望を与えてくださいます。主を信じるならば、ここにおられる方全員が父が食べた酸いぶどうによって子どもの歯が浮くようなことは、今日から決してないことを宣言します。しかし、自分が食べたら歯が浮くとはありますので、常に悔い改めて清くあるべきです。家系の中にあったすべてののろいが打ち破られますように、そして、将来と希望が与えられるように祈りたいと思います。一言お祈りします。
 
 

バックナンバー
戻る
戻る