今週の礼拝メッセージ
2000.10.29(SUN)
うわべを見るな
新城教会牧師 上條実牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙 第二 10章7節

あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。
 

     ハレルヤ!今日皆さんと共に御言葉を学べることを感謝します。早速みことばを学んで行きましょう。今読んで頂いた始めの部分に

『あなたがたは、うわべのことだけを見ています。』

と書かれています。私たちはうわべだけを見て決断していることがよくあると思います。 二・三年前、東京リバイバルミッションの協力要請のために、ある牧師会に出かけていきました。その牧師会には二十数名の牧師先生が来られており、私がその会場に到着したときには既に、集会が始まっていました。集会の後話し合いがなされ、その時に説明して下さいとの事だったからです。私が集会場に入ったとき一人の先生に目が留まりました。その先生は、サングラスをかけ、黒いスーツを着、エンジ色のネクタイをし、チーフをつけた方がいました。一見、牧師先生の集まりなのに違う人が来ているのかと思うような威圧感がありました。本当に牧師先生なのだろうかと思っていましたが、実はその先生は私のよく知っている先生で、とても優しい先生でした。電話ではよくお話しさせていただいてはいましたが、お会いしたのは初めてであったからです。その先生はその日メッセージと言うことで正装しており、サングラスは目が悪いためにかけていたそうです。うわべだけで見るのと、実際とでは違うと思いました。そのような体験を皆さんもなさった事はないでしょうか?私たちはうわべだけを見て、決めつけてしまうことがあります。信仰生活でも同様だと思います。
私たちはイエスキリストの十字架によって救われました。そして救われたという喜びがあります。本当に救われて良かったと思います。しかし救われているにも関わらず、私たちには、多くの問題があります。時には耐えることができない問題があります。御言葉で『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。』と教えられながら、なぜこんなに苦しいことがあるのだろうかと考えます。そうこうしている内に、喜びがなくなり、神様の救い、力、勝利等が見えなくなってしまいます。『あなたがたは、うわべのことだけを見ています』とあるように、今日あなたの信仰はうわべばかりを見ていないでしょうか?もう一度あなたの神様を見つめ直していただきたいのです。私たちの神は、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえって下さった神様です。この十字架を信じた時、永遠の命が与えられて天の御国に行くことができるのです。この十字架は、ここに来て下さっているほとんどの方が信じていらっしゃいますが、今日もう一度信じて下さい。見つめ直して下さい。黙示録に『初めの愛に帰りなさい』と書かれています。私たちはイエス様を信じて救われた時、大きな喜びが与えられました。罪が赦され、天国に入れるという喜びは何にも変えることのできない喜びです。ある方はイエスキリストを信じた時、いつもと同じ風景を見ているはずであるのに、風景の見え方が全く変わってしまったと証しされた方もいました。だれもがバプテスマを受けた時、救いの喜びを体験しましたが、今もなお、その喜びが持続されているでしょうか。信仰生活続けていく中で、問題や病い、また霊的戦いの中で知らず知らずの内に喜びが消えてしまい、喜びどころか信仰を持ち続ける事が苦しみになったり、しんどくなったり、疲れてしまっている方が大勢いらっしゃるのではないかと思います。うわべだけを見させられるのではなく、救いの喜びを返していただきましょう。問題解決や病いの癒しなども素晴らしいことですが、今日もう一度救いの中心を見ていただきたいと思います。それは十字架です。この救いの喜びを今日体験しましょう。取り戻しましょう。ヨハネ十五章十六節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』

と書かれています。この日本では約一億三千万人が住んでおります。そんな中でクリスチャンは極わずかです。その中に神様が私もあなたも選ばれたと言う事は、なんという祝福、特権ではないでしょうか?特別に全能なる神があなたに目を留めてくださり、選んで下さった。救ってくださったことを覚えて下さい。またイザヤ四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

とあります。イエス・キリストはあなたの事を、あなたがどんな問題を持っていても、苦しみや病いをもっていても『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と言って下さっています。あなたにはイエス様が共にいてくださるということを覚えて下さい。しかし、私たちは色々な問題があり、問題が大きく見えてしまい、祈れば祈るほど問題に捕らわれてしまいます。目が留まってしまうのです。そして救われた喜びが取り去られてしまうのです。日頃の信仰生活も仏教のお努めのように祈らなくてはいけない。聖書を読まなければならない。礼拝に参加しなくてはいけない等知らない間にしきたり的な信仰になっているかも知れません。マルコ七章四節には、

『また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。・・』

と書かれています。パリサイ人たちが旧約時代、しきたりを持って神様に仕えていたことが書かれています。私たちも救われた当初喜んで神様に仕えていたにも関わらず、知らず知らずの内に救いの喜びが取り去られ、しきたりの信仰になってしまっています。私たちはイエス様の十字架によって滅びの穴、苦しみの場所から贖い出され、救われていることを思い出して下さい。黙示録の中に

『いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』

と書かれています。信じなかったら火の池に投げ込まれて、永遠に苦しまなければなりませんでした。しかし憐れみによってイエス様を救い主として信じたときに、いのちの書に名が記され、天国に入れるという特権を神様が与えてくださったのです。ですから、色々な問題、苦しみがあるかも知れませんが神様にお任せし、救いの喜びを返していただきましょう。私たちは天国に行けると考えると嬉しくてたまらないほど喜びが込み上げてきます。将来と希望が与えられているからです。秋は学校でも色々な行事があります。我が家の息子も、数日前運動会でした。しかし予定されていた日が雨で延期となり、次の日になりました。彼はどうしても晴れて欲しいと、真剣に祈っていました。夜まだ雨が降っていました。次の日の運動会を期待するあまり、十分間隔程で外を見ては、「まだ雨が降っている」と気にして書かれています。「天国と地獄」についてこの話がわかりやすいと思います。ラザロはこの地上では何の祝福もなく、貧乏でおできだらけで犬になめられたりと悲惨な生活をして天に帰っていきました。またこの世の中では富、名誉があり贅沢三昧した金持ちが死を迎えて苦しみの場所に入りました。金持ちは苦しみの場所に入ってからの一番最初の言葉は、「あわれんで下さい」という叫びでした。苦しく、熱くて、もがいている時、天を見上げるとラザロが見えたのです。金持ちは「ラザロを遣わして一滴で良いから水を持って来させて下さい」とアブラハムに言いました。人は一滴の水では潤されることは絶対にないのですが、たった一滴の水もないような苦しみの場所、それが滅びの場所です。しかしイエス・キリストの十字架によって私たちは、ラザロと同様最高の祝福を神様から与えられていることを覚えていきたいと思います。私たちは素晴らしい天の御国に行くことができます。マタイ十三章四十四節からには、

『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』

と書かれています。天の御国は畑に隠された宝物のようなものだというのです。人から借りていた畑かも知れませんがそこに宝物があったとき、自分の持っている持ち物全部を売り払ってその畑を買ったというのです。今日皆さんの持っている家、お金、また着るもの、車・・・全部を投げ捨ててでもその宝物を買いたいと思うのが天の御国です。私たちの持っているもの全部です。今持っている物全部というと次の日からどうやって過ごしていこうかと悩んでしまう。絶対無理だと思ってしまうことです。それほど価値のあるもの、いやそれ以上の価値が天の御国にあると教えています。またルカ十三章四十五節から四十六節には、良い真珠を捜している商人のことが書かれています。たくさん良い真珠を持っている商人がいました。しかし、その商人が一つの最高の良い真珠を見つけて、自分の持ち物を全部売り払い、それを買うと書かれています。商人が持っている物全部売ってでもその真珠良いものを買うというのです。今まで集めてきた物を全部手放してでも、一つの真珠を求める程、貴重であり、宝物なのです。ラザロは何の祝福もありませんでした。病気で苦しんでいました。しかしイエス・キリストを信じた事のゆえに永遠の御国に入ったのです。私たちもラザロと同じようにすべてのものがなくなっても、この救いがあったらどんなに感謝すべき事でしょうか。マタイの十八章八節に、

『もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。』

と書かれています。私たちは色々な病気で苦しんでいます。どうして病気が治らないのだろうかと考えます。その病気が私たちの目の前の問題になってしまい、知らない間に救いの喜びが失われてしまうことがあります。また手か足が罪を犯してしまうのであれば一方を切ってでも天国に行った方が良いと言っています。また、マタイ十八章九節には目について書かれています。目がつまずかせるなら、目をえぐり出してでも天国に入った方がましだと書かれています。それだけ天の御国は大切なもの、絶対守って行かなくてはならないものなのです。私たちはイエスキリストを信じています。その事の故に私たちは天の御国に行くことができます。ですからこのイエスキリストをしっかり愛して行きましょう。また、マタイ十八章二十三節からは天の御国は地上の王に例えることができるとあります。王様がしもべたちに清算をしたいというのです。一人の人は一万タラントの借金があり、王様は返済を要求しました。一万タラントとは、一タラントが六千デナリと書かれています。一デナリが一日の給金ということなので大体一万円とすると一万タラントは六千億円という巨額の金額です。注解書を見ると一生かかっても返すことができないお金という意味があるそうです。その返済を要求されたのです。その人は、返すことができず赦してくださいと願いました。すると、主人は「一万タラントを赦そう」と赦してくれました。しかし、その六千億円赦された人が今度は十八章二十八節からを見ると、赦されて出ていった彼が百デナリを貸した人、約百万円を貸した人を見ると、赦されたのもつかの間「百万円を早く返せ」訴えています。百万円を借りた人は今はお金がない、返すことができないというと、返せないのなら牢屋に投げ込むと言って投げ込んでしまいました。六千億円というと返すことができないお金を赦されたにも関わらず、その赦しを忘れてしまっています。私たちは地獄に行かなくてはいけなかったところを、イエスキリストの十字架の血によって罪が赦され、天の御国に入ることが出来るというのに、人は赦すことが出来ないのです。うわべだけを見させられてしまっています。罪の赦し、これほどの祝福と喜びはありません。救いの喜びをしっかりもって生活しましょう。

また聖書は救いの喜びについてゼカリヤ書九章九節でこう表現しています。

『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。』

と書かれています。『エルサレムの娘よ。喜び叫べ。』と言っています。子どもたちが多額のお小遣いをもらったりすると「やったー!」と大はしゃぎするのを私たちは見ます。『エルサレムの娘よ。喜び叫べ。』救われていることを喜ぶだけでなく、叫んで喜べと言っています。私たちが返すことのできない負債を神様が赦してくださり、天の御国に入れてくださるのですから、賛美の中でも、奉仕の中でも喜び叫びながら神様に感謝するべきです。毎日何処ででも、どんなときでもこの救いの喜びをもっていましょう。礼拝に来るとき、一週間の疲れを持ち続けながら、疲れ果てて来るのではなく、イエス様に会えるという喜びに満たされ、礼拝に参加できることを感謝して教会に来ようではありませんか。あなたが与えられている救いは中途半端ではありません。最高の喜びです。うわべを見ないでください。今日救いの喜びを返していただきましょう。泉のように湧き上がる喜びをいただきましょう。
 もう一つうわべだけを見るなということで自分が教えられていることは、「祈り」です。私たちは一生懸命神様に求めます。しかし祈りの時間の八割が自分のことを祈っています。自分の子どもがこうなって欲しい。自分の体がこうなって欲しい・・・と自分のことばかり願っています。そんな中で最近、使徒の働き二十章三十五節の御言葉を教えられました。一部分ですが、

『受けるよりも与えるほうが幸いである。』

という御言葉です。祈ったら必ず神様が答えてくださるということは幸いですが、イエス・キリストの犠牲の上に私たちは救われています。そして私たちはキリストに似たものとなっていく必要があります。イエスキリストは自分の命を私たちのためにささげて下さいました。今度は私たちが、犠牲を払って行かなくてはなりません。祈りも私たちが知らないうちにうわべだけになってしまい、自分の生活についてだけになってしまっています。自分のことを祈ることも必要ですが、それ以上に『受けるよりも与えるほうが幸い』だというのです。与える祈りをしてみてください。周りの兄弟姉妹のことを祈ったり、近所の方のため、決起大会のため、また日本の都道府県の祝福、日本の教会の祝福のためになどなど与える祈りをしてみてください。自分のことは神様にお任せして、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と書かれてあるように人々のために、与える祈りをし始めてください。今日イエス様はあなたのために命をかけてくださったほど愛されています。ですから、あなたに何が必要であり、何を考えているか全部ご存知です。ですから与える祈りをしましょう。週報に病いの方の名前が書かれています。今週この人のために祈ってください。兄姉の祝福のために祈って下さい。自分のことではなく人のために祈る人となって下さい。そうしたら必ず祝福を与えてくださいます。
 また一つ、うわべだけを見させられていると思うことは、霊的な戦いについてだと思います。私たちは戦わなくてはならないとわかります。しかし自分が戦っても駄目ではないかとすぐに弱気になります。自分など戦うことができない。賜物のある人たちに任せれば良いと考えてしまいます。また戦っても効果がないじゃないか。戦え戦えと言われてきて、年月が経つのに変わらないじぁないかと思ってしまいます。しかし、神様はあなたに救いを与え、イエス・キリストの御名の権威を与えて下さっています。うわべを見ないで下さい。戦いを止めたりしないで下さい。あなたが本気になって、暗闇の支配者たちに立ち向かって祈る時、必ず勝利を与えてくださり、祝福の恵みを与えてくださいます。今日確かに、この地域は暗闇に覆われています。なぜこんなに頭の良い日本人たちが紙切れや木などに頭を下げて、頼っているのでしょうか。小さな子どもたちが考えても、それが紙であり、木であって力のないものだとわかります。しかし神だと信じこんで祈っています。悪魔は自分を崇拝してほしいからです。この暗闇から解放されるには、祈るしかありません。ヨハネ十六章八節にあるように

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」

神の力によって、今まで拝んできたものが、いかにむなしいものか。この偶像礼拝がどんなに罪であり、さばかれてしまうと、人々は認めることが出来るのです。イエスキリスト以外に偶像礼拝が悪いことだと教えることが出来ません。そのために背後に働いている暗闇の力に対抗して、祈らなければなりません。今あなたの祈りが必要なのです。町のため、家庭のために祈り始めるときに大きな勝利が与えられ、日本が変えられていくことをぜひ覚えてください。毎日の大半の時間は会社や学校に行き、そこで過ごしています。しかし私たちは会社は会社、信仰は信仰と考えていないでしょうか?仕事は仕事、そして終わったらチャンネルを変えて礼拝や家庭集会など神様モードになるということがあるかも知れません。しかし、今回私に神様が教えてくださったことは、すべてのことに時があり、みこころの御手があります。私たちを行くべき所に行かせてくださる、すべては神様の計画の中にあるということです。今日あなたが行っている会社は、ただ自分がここが良いと思ってここで働こうと考えて勤め始めたかも知れません。しかし、その背後には神様の計画があることを覚えてください。うわべだけを見て自給が良いから、給料が良いから、仕事が楽しい、やり甲斐があるからと言うことで選んだかも知れません。なぜ神様があなたをその会社に、学校に遣わしたのでしょうか。その会社に霊的な面であなたが必要だからです。あなたがその会社のために、地域のために、働く人々のために祈ってほしいと神様が思っているからです。しかしうわべだけを見させられて、「人間関係の祝福・経済的祝福」の祈りしますが、地域のため、会社の祝福のためにということは余り祈っていないと思います。ぜひあなたの会社のために、場所のため、社員たち、経営者のために祈り始めて下さい。会社は偶像礼拝と直結しています。事務所の入ったところに神棚があったり、門に祠があったり、偶像礼拝と直結しているのがほとんどです。また会社の上役たちは社員の代表として偶像、悪魔の前に出かけ、契約をかわします。私たちの会社、社員を守って下さいと祈ります。私たちの会社をあなたにささげます。私たちを守って下さいと悪霊に契約をします。しかし私たちはそのようなことを何も考えずに会社に入り、その契約が有効となったまま、会社の言われるまま働きます。自分は契約を結ばなくても、契約を結んだ中に入っていって仕事をしています。ですから会社と悪魔との霊的契約を破らない限り、
そのところを通して圧制をかけてきます。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。』

とコロサイ2章にありますが、私たちは神の権威を持っていますのであなたが大胆に会社の中で祈って下さい。私たちを責め立てている債務証書が無効となる祈りを会社のためにも祈っていきましょう。お昼時や帰る時に車の中ででもどこでも良いので、ぜひ、祈ってみて下さい。会社の土台はイエス・キリストであることを宣言しますと祈って下さい。あなたが祈る時に会社が変わります。今まで人間関係で苦しみ、会社で問題があったかも知れませんが祈って下さい。この会社は、この地域はイエス・キリストが土台であると宣言する祈りをして下さい。悪魔は私たちがどのような人物であるかを知っています。永遠のいのちを持っているクリスチャンだと言う事を知っています。だから私たちに色々な挑戦をして来ます。圧制をかけてきます。しかし私たちはイエスキリストにあって勝利です。私たちが会社のために、会社の重役のために祈り、その方が救われるように、また、福音を聞くことができるように、健康で働くことができるように、家庭が祝福されるように、住んでいる地域が祝福されるように・・・と祈っていく時勝利が現されます。現実はなにも変わっていないようでも、私たちの神であるイエスキリストによって大きな変化が霊的の中であります。うわべを見せられますが、うわべだけを見ないでください。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。』

と書かれています。私たちは十字架によって債務証書が無効にされ、今永遠の御国・天国に入れる者になりました。だから、私たちがこの御言葉を信じて、会社の債務証書を破りましょう。あなたが会社に行き、「この会社の土台がイエス・キリストであることを宣言します」と祈ること事態が霊的な戦いです。「債務証書を破ります。神様のものとして会社を用いて下さい。この会社が祝福されますように」と祈ってください。創世記39章5節にあるように

「主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」

とあるように、異邦の地エジプトにいたがヨセフの上に祝福されたのです。
今日うわべだけを見せられていましたが、救いの喜びを返していただきましょう。今日聖餐式があります。イエス様の肉と血を頂きます。もう一度十字架を覚えて下さい。また受けるよりも与える祈り、人々のために祈る祈りをささげていきましょう。そしてあなたの働いている場所、会社の債務証書を破り、イエス・キリストを土台にする祈りを始めましょう。うわべは見ないようにしましょう。本物の神様を見つめましょう。私たちの神は全能なる神様です。生きています。一言お祈りします。
 
 

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