今週の礼拝メッセージ
2000.11.5(SUN)
賢い人として生きよ
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 エペソ人への手紙 5章15節〜20節

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
 

     ハレルヤ!今日久しぶりに御言葉を取り次ぐことができ感謝します。いつも皆さんのお祈りに支えられ、スーパーミッションの決起大会に出向けることを感謝します。今日は「賢い人として生きよ」というテーマで御言葉を学びます。「賢い人」とはどういう人か。また「賢く生きる」とはどういうことかについて学びます。

『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し』とあります。あなたは、賢いか、賢くないか自分で点検して下さいというのです。
 「賢い」という単語は同時に、「知恵ある」、「熟練者」、「達人」という意味もあります。そして、知恵あるものとして生きるためには、どうすべきか書かれています。「知恵」についての聖書の世界観は、この世の価値観とは違います。聖書のヘブライ的価値観においての「知恵」とは、ある注解書によると、「神の意志と目的への霊的洞察を基礎として,日常生活の一つ一つの事柄に対して正しく適確に判断を下して行動する応用力」と定義づけられていました。
 私たちは神のみこころのために生きます。しかし、そのためには霊的洞察力が必要です。今という時のみこころをつかむためには、霊的洞察力が必要です。教会に来ている時だけではなく、日常生活における一つ一つの事柄に対して、正しい判断を下さなくてはなりません。その為に必要なのが「知恵」です。

『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。』

と書かれています。宗教改革者であり、神学者でもあったカルビンは、『機会を十分に生かして用いなさい。』という言葉について、「機会をサタンの手から贖うこと」と解釈しました。「機会」とは「神の時」です。神の時がサタンに奪われているのです。それをもう一度奪い返すことが、「機会を十分に生かして用いなさい」という意味だと注解しました。私たち一人一人に神は、神の時と計画を持っておられます。悪魔は神の計画を横取りして、神のみこころが現されないように働きかけます。しかし、イエス様は、失ってしまった神の時を回復するために、私たちの所に来てくださいました。
 『機会を十分に生かして用いなさい。』・・・私たちが賢く生きる秘訣は、今まで失われた神の時をもう一度、回復するために生きることです。
 先週の日曜日、私は沖縄にいました。沖縄はとても暑かったです。真夏のようでした。ベテル教会に行きました。プエルトプエルトリコ人の先生が牧会されている大きな教会です。奥様が牧師をされています。とても素晴らしい集会でした。その時、一人の婦人が私のところに来られて、「先生にいつか言わなくてはならないと思っていましたが、五年も経ってしまいました。」と言われました。
 私は五年前に初めてその教会に行きましたが、その時に病の方々のために祈ったそうです。「神様が皆さんに触れてくださいますから、今あなたの病の箇所に自分の手を置いて下さい」と勧めたそうです。その時、彼女は、自分の病気のところに手を置いたそうです。彼女は「ネフローゼ」という難病だったそうです。しかし、それから、それが治ってしまったそうです。医者に行くと、「あなたの病気は普通では治りません。神様しか治せない。」と言われ、「はい、神様に治してもらいました。」と答えたそうです。「もう、五年経ちますが少しも悪くならない」と喜んでいました。五年経っても何ともないとは素晴らしいです。これは時が買い戻されたのです。そんな病気だったら、五年も経ったら死んでいるかも知れません。しかし、時が買い戻されたのです。癒しの働きは、時を買い戻す働きです。時が回復され、機会を十分に生かして用いるための働きです。
 またもう一つ素晴らしい証を聞きました。神学校で学ぶために三年間、新城に来られていた、今栄先生が、沖永良部島で伝道されています。今年七月に、私と四元雅也兄と、私の娘と共に沖永良部に行きました。しかし、それ以来、連絡していなかったので、「先生。元気ですか?」と沖縄から電話をしました。すると、「はい。元気でやっていますよ。」と言われました。そして、素晴らしい証を聞きました。
 私たちが行った時に、今栄先生が、「順先生。一緒に来てくれませんか。私の親戚で五年間、家に閉じこもっている人がいるから訪問して祈ってください。」と言われました。「はい」と答えて行きましたが、「会えるかわからない」と言われました。また、「会うときには覚悟して会って欲しい」と言われました。なぜならば、彼は五年間に、数回しか風呂に入っていないと言うのです。そして、この半年の間は風呂に入ったという情報がないそうです。だから覚悟してください、と言われました。私は覚悟はするけど、あまり会いたくないと思いました。そして、そんな風では会えないだろうと考えていました。しかし行ってみると、丁度彼はトイレに行く所でした。神の時だと思いました。声をかけ、今栄先生が彼を引っぱってきました。目を閉じていても彼が来たことがわかるほどでした。彼を見ると、髭は伸び、髪の毛はぐしゃぐしゃでした。そして、「まず、この人は簡単には回復できないだろう」と思いました。彼の服はグラデーションが掛かっているような微妙な色で、強烈な体臭が漂っていました。五年間も家から出られないのは神様のみこころではありません。他の目的があるはずです。それで、「イエス様を信じます。」という祈りと、「私を閉じ込めている悪魔の力から解放してください。」と祈りました。祈った後、手には彼の臭いがついて、洗っても取れないほどでしたが、その度に彼のことを思い出して祈りました。
 今回電話すると、彼が癒されたと言うのです。その後、彼は家から出るようになり、家の外を掃除したり、塀を作ったりと仕事をするようになったそうです。近頃では、島のスーパーにまで出没するようになったそうです。だから、親族も島の人も彼に何があったのかと不思議がっているそうです。それで、「安心して下さい。彼は毎日風呂に入っていますから。」と言われました。イエス様が彼を癒してくださいました。イエス様は時を買い戻して下さる方です。
 私たちが賢く生きるための秘訣は、時を買い戻すために祈ることです。「サタンに奪われた時を、買い戻させてください。」
 「贖う」とは、「代価を払って買い戻す」ということです。これはイエス様が十字架ですでに実現してくださったことです。だから、私たちも時を買い戻すことができます。これが賢い人の歩みです。人生の中で、神様のみこころが現されるために、瞬間、瞬間、賢い歩みをしたいと願います。
 『悪い時代だからです。』と書かれています。「悪い時代」とは、本来、邪悪な意図を持った存在の時代ということです。現在、悪魔が日本で真剣に働いていますが、そこから国を贖い出す為に、機会を十分に生かす者になっていきたいです。
 続いて、賢い人のように歩むためには、十七節に、

『ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』

と書かれています。
 日本は酒社会と言われます。酒を飲んで人間関係ができます。だから酒を飲まなくては生きていけないと言われます。あるクリスチャンは、「酒ぐらい・・」と言って飲む人がいるかも知れません。酒と永遠のいのちとは関係がありません。だから、酒を飲んでも地獄に行くことはありません。
 しかし、「主のみこころを悟ってください」という勧めの中に、「酒に酔ってはいけない」と書かれているのには意味があります。この背景に、小アジア地方がぶどうの産地で、ぶどう酒の産地であったことが関わっています。
 ぶどう酒を作る時に、まず、ぶどう酒の神バッカスが祭られました。パウロが、『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。』と語りました。「放蕩」とはギリシャ語で「アソーティア」という言葉ですが、これは「救われ難い放蕩」という意味です。そこには、ただ、酒を飲むということ以上の意味があります。意味は、酒神バッカスにささげられた酒を飲むと、救われ難い放蕩が起こるから飲んではいけない、というのです。
 私たちは時々、「あの人は酒を飲んでいるから・・・」などと、律法的な解釈をします。しかしそうではなく、ここでは、酒神バッカスを中心にしてぶどう酒が作られている為に、結果として酒が、「悪霊にささげられたもの」であり、これを飲むとあなたの人生の中に、「救われがたい放蕩が起こるからやめなさい」ということです。意味合いを知ることは大切です。
 第一コリント十章には、聖餐式について書かれています。聖霊による食べ物であるパンとジュースは、十字架の血潮であり、イエス様のからだそのものだと書かれています。そして、その文脈において、十章十九節、

『私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

と書かれています。聖餐式と関連して、偶像にささげたものについて語られています。偶像にささげたものを食べるのは、「悪霊と交わる」ことになると教えています。「交わる」という意味を追求すると、「分かち合う」、「分担する」、「共に預かる」、「仲間」という意味があります。偶像にささげたものを食べると、「悪魔と仲間になる、分担者になる」から偶像にささげたものは食べてはいけないのです。特に聖餐式と関連して語られていることは重要です。そしてそのパウロが、『酒によってはいけない。そこには放蕩がある』と語っています。酒は、「酒神バッカスにささげられているもの」だから、「悪霊と交わること」になるから気をつけなければなりませんよ。・・そのことによって、「あなたの人生の中に取り返しのつかない、放蕩が起こることがある」だから、「気をつけて下さい」という意味です。
 二週間程前、大阪でスーパーミッションの決起大会がありました。最近は、集会の前に街のためによく祈ります。霊的戦いの祈りをしてから集会をすると霊的雰囲気が全く違います。集会の前に祈っておくと勝利があります。鳳というところに行きました。そこには鳳大社という大きな神社があります。集会が祝福されるために、鳳大社の背後の悪霊が打ち破られるように祈りに行こうとすると、鳳大社の本元があることを知りました。
 奈良県櫻井市には「三輪山」があります。鳳大社はそこが本元で、関西一帯に大きな影響を与えていると言われました。それは、二千二百年くらいの歴史がある、日本最古の神社でした。そしてそれは、「醸造神」でした。日本酒の醸造元のほとんどが酒を奉納し、偶像崇拝をしています。そこに行くと、日本で売られている酒の銘柄の樽がほとんど並んでいます。定期的に、醸造元が集まり祭りをするそうです。酒は生き物なので、同じ品質のを作るのは難しいそうです。だから昔、神頼みをして醸造するようになり現代に至っています。
 同時に日本において酒に酔う事は、「神憑り」をあらわし「憑依現象」として酒が用いられました。日本において酒を飲む危険性は、醸造元が酒樽を奉納し偶像礼拝をしながら酒を作っているということです。ということは、『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです』というパウロの語った御言葉と、日本の現状が全く一致するのです。地中海沿岸で、バッカス神を元として酒が作られていたように、日本においては三輪山において二千年も前から、酒作りのために偶像礼拝がなされて酒が作られている現状があるのです。ですから、『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。』という言葉の背景に、「偶像にささげたもの」としての理由があるのです。道徳的、社会的、律法的なことよりも、この箇所を霊的なものとして解釈する必要があります。賢く生きるためには、酒を飲んではいけません。なぜならば、背景に偶像にささげたものの原理が働いているからです。だから、結果として、飲んだら放蕩が起こります。それを踏まえて日本社会で生きることは「賢く生きる」ことです。
 「偶像にささげたものの恐ろしさ」は、黙示録二章十八節から二十三節に、テアテラ教会に宛てた手紙の中に記されています。聖書は私たちが幸せに生きるためのマニュアルです。これは、テアテラ教会に語られたと言うよりも、「教会の中に、このようなことがあったら気をつけなさい」という警告です。ここでは特に、「不品行と、偶像礼拝及びその産物、偶像にささげられたもの」について書かれています。

『また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。』

 この教会は誉められています。しかし、二十節から、

『しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。』

 これは一つの警告です。教会の中で、「不品行と偶像にささげられるもの」についての危険性がはっきり述べられていないと、このようなことが起こるので気をつけるべきだという警告です。不品行と偶像にささげられたものを食べることに無防備ならば、『この女を病の床に投げ込もう』・・・これは、病が起こってくる危険性への警告です。そして、偶像礼拝と病とは関連があるということです。
 同時に、「大きな艱難の中に投げ込む」と書かれています。艱難とは、人生のトラブルや問題です。不品行や偶像にささげたものを食すると、人生に事件が起こる危険性があるから気をつけて下さい、というのです。いくら教会でも、クリスチャンと言っても、そのような背景があれば、防ぎようのない問題が起こってくる可能性があるのです。
 また、『女の子どもたちも死病によって殺す』と書かれています。・・・これは、「家系的な束縛」です。偶像礼拝は家系的な束縛です。「父が酸いぶどうを食べたことにより、子どもの歯が浮く」というようなことが、不品行や偶像にささげられた食べ物に無防備ならば、起こる可能性があるから気をつけるように、という警告です。
 この警告を合わせて学ぶとき、酒から離れることは、「病気や不幸から本人を始めとして、子どもたちの守り」として重要なことです。
 最近色々な問題を聞きますが、これらの原因からほとんどの問題が発生しているのがよくわかります。
 先日、私のところに、一人の青年が連れて来られました。その方は、自殺未遂を繰り返していたそうです。最近も、重大な自殺未遂をしましたが、助かったそうです。しかし、教会にも通っているので祈って下さい、と連れて来られました。理由を聞かせてもらうと、「なぜ、こんなことで死のうとするのだろうか」と思うようなことでした。はっきり言うと、それは女の子にふられたという理由でした。地球の人口、六十億人の半分は女性なのに、一人にふられても何も死ぬことはないと思いませんか。でも、彼は本気で死のうとしたのです。しかし私は、「家系の中に、偶像礼拝の束縛がないですか」と聞きました。すると、家系には偶像礼拝の束縛がたくさんあり、問題があることがわかりました。それを悔い改めて、断ち切る祈りを共にしました。また、自殺未遂の引き金となったのが、恋愛問題です。ある女性と結婚以外の肉体的関係が結ばれました。その後彼は、失恋して、死の一歩手前まで追いやられました。ということは、女性の背後にも家系的な深い闇があることを感じました。だから悔い改めて、一体となった契約が断ち切られるようにと祈りをしました。そして、死の霊が打ち破られるように祈りました。すると聖霊様が強く働き、勝利を取って下さいました。
 私は、「もう二度と死ぬようなことはしないで下さい。もし、死にたいと思ったら、まず、私に電話を下さい。」と言って、携帯電話の番号を教えました。数日間電話はありませんでした。しかし、その後、彼から電話がかかってきました。びっくりして電話に出ると、彼が、「ハレルヤ!あれから全く死にたいという思いがなくなりました。」と言うのです。また、朝起きると、その女性のことがいつも頭にあり、どんより落ち込んでいたけれど、「そういう思いがなくなりました。祈った次の日からない」というのです。それでその報告の電話でした。その人というよりも、家系の中の偶像礼拝がその人を死に追いつめていることがわかりました。それで彼の祝福を祈りました。しかしその相手のためには祈ることができないし不可能だと思いました。相手も教会との関係があるような人でした。
 私は、その後、何百キロも離れた場所の集会に行きました。集会の中で、家系的束縛が死に追いやる原因になるから気をつけ、家系的束縛が完全に打ち破られるように祈りました。すると聖霊様が働かれました。その時、一人の女性が聖霊によって激しく倒され、外に運び出されました。しかし私はそのことを知りませんでした。集会が終わると、私のところにメモが回ってきました。「解放の祈りをお願いします・・」そして、名前が書いてありました。それを見て驚きました。聞いたことのある名字でした。何と、前回、解放の祈りをした男性の相手が、何百キロも離れた私の集会に偶然にも来ていて、聖霊様に触れられ解放されました。主は素晴らしいと思いました。一人が解放されて奪い返されると、その関連も奪回されると思いました。そのことで主を畏れました。神の時をつかんで生活することについていつも語っていますが、このように目の前にはっきりと神の時が現されると、「主よ。あなたを畏れます。」と栄光を返して祈るばかりでした。
 何れにしても不品行、偶像礼拝は恐ろしい罪であり、その中で偶像にささげた食べ物が無視されやすいけれども、大きな問題をはらんでいるのです。クリスチャンは案外、偶像礼拝そのものはしませんが、悪魔は束縛のために色々な手口を持っています。
 テアテラ教会は、不品行や偶像にささげた食べ物のことをしっかりと皆に語っていなかったのです。ゆえに、「病になっている、艱難が起こっている、家系の中にも色々な問題が起こっている」と警告されたのです。
 賢く生きるためには、この事について、目が開かれ、耳が開かれ、行動が伴うべきです。病や艱難、そして、家系が守られるためにも、偶像にささげたもの、特に、とりわけ、日本においては「酒」から積極的に離れるのが、「賢い生き方」です。今日、賢い生き方を身につけなくてはなりません。
 最後に、『御霊に満たされなさい。』と書かれています。

『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

と書かれています。この文章を構文的に言うと、「御霊に満たされなさい」という言葉の後に、四つの事柄、「互いに語る」、「歌う」、「賛美する」、「いつも感謝する」が分詞として「御霊に満たされる」にかかっています。これは、「御霊に満たされるための秘訣」を教えています。「互いに語り合うことによって御霊に満たされる」、また、「歌って、賛美することによって御霊に満たされる」、「いつも感謝することによって御霊に満たされる」ということです。また逆も言えます。御霊に満たされる時に、互いに語り合い、歌って賛美し、感謝することができるのです。これは良いサイクルです。
 特に「互いに語って」という所に秘訣があります。使徒の働き二章に、

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

と書かれています。これは、「預言する」ということに関わりがあります。何年か前に、シンディ・ジェイコブス先生が来られて、新城教会に素晴らしい預言が与えられ、今その中のいくつかが成就しました。そのような直接的な預言もあります。
 同時にこの「預言」とは、「息子や娘は預言する、青年は幻を見る。老人は夢を見る」と、色々なタイプがあることがわかります。「語り合う」ことの中に、「預言的賜物」が聖霊によって含まれることを教えています。
 ヨハネの福音書十一章に、イエス様が十字架につく前に、カヤパという大祭司が何気ない会話の中でイエス様の死を預言しました。イエス様を十字架につける事を相談している中で、「一人が死んで国民が助かる方が得策だ」と言いました。彼の考え方の中には、キリスト教というイエスの教えが広がっていくと、やがてイスラエルはローマに征服されるのではないか、という恐れがありました。だから彼は、その中心的人物、イエスを十字架につけることは、国民全体が助かることだから、十字架につけて殺したほうが良いのではないかと言いました。しかし、聖書は、ヨハネの福音書十一章五十一節に、

『ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。』

と書かれています。彼は何気なく話をしましたが、彼は時の大祭司として、イエス様の死の意味を知らずして預言していたのです。
 私たちも普通の交わりの中で、聖霊に満たされると預言が始まるのです。今日、皆さんが、お昼に隣の人と話しているときに、御霊によって語り合うときに、互いに預言的なことが語られるのです。そして、知らないうちに、賢い道に導かれるのです。これは素晴らしいことです。家族の中でも、親子の中でも、何気ない会話の中に聖霊様に満たされると、預言的会話があるのです。何気なく話しているのに、神からの預言的な言葉があるのです。夫婦の会話の中で語られる言葉が、預言的な言葉となるのです。そして、賢い道を歩むことができるのです。預言的に語り合うことは、賢い生き方です。一人一人が聖霊に満たされて、毎日、預言的に歩むことができるように祈りたいと思います。
 今日、賢い人として生きるための秘訣を話しましたが、これをしっかりと心に留め、律法的ではなく、霊的な原則・原理として捕まえるなら、「賢く生きる人生」が待っています。賢く生きていきたいと願います。一言お祈りします。
 
 

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