今週の礼拝メッセージ
2000.11.12(SUN)
幸せの基準
新城教会牧師 岡本信弘牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書 12章16節〜21節

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
 

     ハレルヤ!主の御名を賛美します。今日このように皆さんと一緒に礼拝でき、御言葉を学ぶことができ感謝します。忙しい中にあっても皆さんの祈りによって健康が支えられていることを感謝します。スーパーミッションまであと一ヶ月を切り、準備のために大阪に行ったり来たりしています。先生方も決起大会に出られていますので、ぜひ、お祈り下さい。
 プレイズ出版の働きも、まだまだクリスマスにはほど遠いような十月頃から、クリスマスのポスター、チラシ、チケットなど作成しています。今がクリスマス真っ直中のようであり、皆さんがクリスマスと叫ぶ頃にはクリスマスが終わっているような状況です。そのように忙しい中でも健康が支えられ、幸せを感じる毎日があることを感謝します。
 今日皆さんと共に「幸せの基準」というテーマで学びます。
それぞれの社会、家庭、個人において、色々な幸せの基準があると思います。学校の成績でも良くできたと思っても、ほかの人に比べると真ん中くらいであったり、金持ちといってもはたから見ると金持ちではない場合もあります。基準はそれぞれ違うのです。では、何が幸せを決めるのでしょうか。
 今日お読みしたルカの福音書の御言葉には、ある金持ちの畑が豊作だと書かれています。日本のように田んぼ一、二枚ではなく、広い畑があり、その年に考えもつかないような穀物がとれて困ってしまったというのです。何を困ったかというと、蓄える場所がないという、贅沢な悩みです。今までの小さな倉を壊して、大きな倉を建て、全部の穀物を蓄えようと思いつき、自分の心に言いました。「たましいよ。これから何年も先の分まで貯められたから、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。何年も働かなくても暮らしていけるほど蓄えのある人はほとんどいないと思います。現代日本においては、お金さえあればたった五分で何でも手に入れることができると思います。しかし、イスラエルのこの時代は、何年も雨が降らず、お金を持っていても、飢饉で買う穀物がなくなる、という事態も起こり得たので、たくさんのお金と同時に何年分もの穀物を持っていなければなりませんでした。何も心配しないで自分のしたいことをして生活する、安心して、飲んで、食べて、楽しむ。そんな生活ができたらと時々思います。しかし、「食べて、飲んで、楽しめ」と金持ちが自分自身に言った時、神様が、『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』と言われました。寂しい言葉です。
 ここには今、幸せだと感じている人、不幸だと思っている方もおられるでしょう。誰もが幸せになりたい。幸せな生活をしたいと願います。幸せという言葉がもっとも似合うのは結婚式です。「これから先、ふたりでお幸せに」という祝福の言葉を受け、その言葉の通り幸せな結婚生活が続く。素晴らしいです。また、事業がうまくいっている時、幸せを感じます。ある人にとっては莫大な宝くじが当たったら幸せだという人もいるでしょう。アメリカには何十億というお金を手に入れることのできる宝くじがあるようですが、当たったら人生が変わってしまうんではないでしょうか。もっと身近なことで言えば、おいしいものを食べた時、「満足!死んでも良い」と表現したりします。かなり大げさではありますが・・・。
 幸せな時もありますが、不幸な時もあります。事故にあったり、病気になったり、財産を失ったり、様々な問題にぶつかった時、なぜ、私だけがこんなに不幸なのだろうかと思うことがあります。その時々において、幸せと不幸せの基準は色々あります。昔を振り返って、あの時は幸せだったと思えるときがあります。しかしその幸せは現在までずっと継続されているでしょうか。どうしたら幸せを継続することができるのでしょうか。ずっと幸せを感じていることができたら、どんなに幸せでしょうか。
 今年、すでに終えられた四十日間のスーパーミッション2000東京大会、そして来月、十二月七日から十日の四日間開かれるスーパーミッション2000大阪。この二つの大会では、多くの方が真の神様を知り、素晴らしい人生を見つけることができるようにというのが目的であり、「将来と希望」というテーマが掲げられています。私はこのテーマを聞いた時、「ダサイ名前だ。そんなことは誰も求めていない」と思いました。しかし、よく考えてみると将来に対する何の保証もない、先行き不安の材料ばかりで、将来に夢も希望もないような時代において、文字どおり「将来と希望」を与えることができたら何と素晴らしいことだと思い直しました。
 大会に先がけ、一人でも多くの方に将来と希望を与えたい、福音を伝えたいということでトラクトを作り家々に配布しました。『トラクト』という言葉はキリスト教界特有の言葉のようです。それは、イエス・キリストを伝える簡単な文書です。
スーパーミッションのために、東京は星野富弘さん、大阪はレーナ・マリアさんの話が載った二種類のトラクトを作りました。東京の時には約百万枚が配られ、大阪は八十万枚のトラクトが制作され、現在までに六十万枚が配布されました。新城には約一万軒くらいの世帯数がありますが、全世帯に配るためには何日間かかかることでしょう。しかし、大阪では一人数時間で、千五百部ほど配ることができました。全体では百三十名の方が集まって下さり、十万世帯以上の家にこのトラクトが配られたのです。私の担当の地区には高層マンションがあり、一つのマンションに三百個のポストがありました。このマンションだけに千人が暮らしていると思い、感動を覚え、人々がこれを読んで神様に目を向けることができるように、また、スーパーミッションに来ることができるようにと祈りながらポストにトラクトを入れました。
 東京のトラクトには星野富弘さんの詩や絵が入っており、証しが書かれています。星野さんの本やポストカード、カレンダーなどは一般書店でも売られ、多くの人に慰めや希望、勇気を与えています。私も星野さんの本を読んでみました。彼は大学を卒業して中学の体育教師になりました。先生が来た時だけできる競技があったので、いつも生徒は先生を待ちわびていました。彼も喜んでいました。マットを敷き、踏み台でジャンプをし、二メートルくらい上がり回転をして着地するという競技を見せようとして準備しました。時々失敗することもあるので、安全を考えてマットを積んでいました。最初のジャンプで一回転して降りたところまでは覚えていたそうですが、降りた直後から何もわからなくなり、数秒後、気づいた時には、天井を見て寝ていたそうです。“自分はなぜこんなところに寝ているのだろうか。こんな所でさぼっていてどうするのだ。早く起きなくては・・・”と思っているけれど、体が動かないのです。何か変だとしかわかりませんでした。そして近くにいる生徒に「ちょっと起こしてくれ」と言ったそうです。生徒が自分の体に触っているように思うけど自分では何の感覚もない。どこも痛くなかったのです。急いで病院に運ばれ、結局、頚椎損傷で首から下が全く動かなくなり、九年間の闘病生活をしました。普通ならば若い、しかも体育の教師であり、体力も有り余って、何でも自由にできたと思いますが、自分では動くことも、どうすることもできないという生活が続いた時に、“生まれてこなければ良かった”と思ったそうです。何かしようと思っても何もできない苛立たしさを感じ、苦しみがあったそうです。その時、一人のクリスチャンが聖書を持ってきてくれましたが、自分には必要ないと思い、箱に入れてしまったおいたそうです。しかし、段々心がふさがれ、どうして良いのかわからないという絶望感の中で、聖書を取って読んだ時、『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませたあげます。』という御言葉が目に留まり、イエス・キリストを信じました。そうしたら、“自分はこの世に、いなくても良いのではないか、何も役に立たない者だ、自分は不幸だと思っていたが、そうではない。神様が私を愛し、私のために死んで下さった”とわかったのです。彼は神様を信じることによって、賜物を与えられ、今、素晴らしい詩画集を出し、有名になって、神様を伝道する者として素晴らしい人生を歩んでいます。それは私たちに慰めと勇気を与えてくれる一つの話です。
 また、大阪のトラクトにはレーナ・マリアさんの証しが載せられています。テレビなどにも出演したり、日本各地でコンサート活動をしているので、ご存じの方も多いかと思います。彼女は、生まれた時から両腕がなく、片足が短い状態でした。レーナ・マリアさんのことを初めて知った時に、本人はどうであれ、この子どもが生まれた時、親はどのように感じたのだろうかと興味がありました。
 お父さんは彼女が生まれた時、すぐに子どもに会わせて欲しいと申し出ましたが、先生は検査をしているからと言って会わせてくれませんでした。そしてしばらくして、先生は両親に、「あなたがたのお子さんは、障害児として生まれました。だからお会いになる前に、施設にあずけることをお勧めします。そうでないと、この子は成長していかないでしょう。生きていけないでしょう」という宣告をしたのです。しかし、両親はまず、その子と会うことを申し出、それから施設に入れるかどうかを決めると言いました。そこで初めて子どもに会いました。確かに両腕がなく、片足が短い姿を見た時、本当にこれが人間だろうかと思った一方で、深い愛情がわき、この子を自分たちの手で育てようと決意したのです。それから、彼女が成長するにはいろいろな戦いがありました。その姿ゆえに、段々周りから疎外されるようになった娘を気遣って、両親は彼女を教会に連れていきました。教会では彼女を温かく迎え入れてくれ、彼女はイエス・キリストを信じました。そして、自分には神様の目的があると知り、神様と共に歩み素晴らしい成長を遂げていきました。
ソウルではパラリンピック競泳で入賞しました。また、長野の冬季オリンピック後のパラリンピックでは、開会式で賛美歌を歌いました。そのようにして日本でも多くの所で活躍しています。彼女は、「笑顔で神様のために働くことができることは本当に喜びです」と言っています。彼女が挫折しそうになった時、お母さんがいつもこう言ってくれたそうです。「神様は空の鳥一羽も忘れておられないよ。だから神様はあなたを忘れることはない。見捨てることはないよ。」と。
 神を信じ、素晴らしい神様の恵みを多くの人に伝え、感動を与えているこのふたりの実話がトラクトで用いられたのも偶然ではなく、まさに、将来と希望を与えるために備えられたものだと思います。何がこのふたりに勇気を与え、この人たちを輝かせ続けているのでしょうか。不思議です。もし、自分がそのような状態だったら、自分自身を彼らのように受け入れられるだろうかと思うと、私には到底無理だろうと思います。神様は無理なことを要求される方ではないので、皆さんが、もし自分だったら・・・とその境遇を重ねる必要はありませんが・・・。
 皆さんはどんなことに問題意識を持つでしょうか。このふたりの証しを見ると、体に障害があるから不幸と言うことはできません。皆さんの中にも体に不自由なところがあったり、病気で悩んでおられる方もいるかも知れません。しかし、どんな状況の中にも神様はあなたと共におられることを覚えて下さい。体の悩みだけではなく、心にいろいろな悩みを抱えておられる方も多いでしょう。家庭の中に、子ども、夫または奥さんとの問題、会社や、近所での人間関係など、不安なことがたくさんあります。しかし、本当の問題はもっと深いところにあるような気がします。現代多くの人が行き詰まりを感じています。このままで良いだろうか。大丈夫だろうか。誰も信頼できる人がいない。誰も愛せる人がいない。愛してもらえる人がいない。そんなことが原因なのでしょうか、一年間に何万という人が自殺していきます。多くの人が人生の目的を失っています。なぜ、自分が今ここに存在し、なぜ生きているのか、そして何のために生きていくのだろうと自分の価値を見い出さないまま人生を終わっています。ある人は罪を犯し、良心の呵責に悩まされている人がいるかも知れません。また、無差別に人が殺されたり、恨みつらみで人殺しをしたり・・・。そんなことを思うと、“日本は大丈夫だろうか。この世界は大丈夫だろうか”と不安を持たざるを得ないのです。
 あなたが考えている今の幸せの基準と、若い時に考えていた幸せの基準とは、変わっているのではないでしょうか。しかし、聖書の中には変わらない幸せの秘訣が隠されています。旧約聖書は二千年以上前に書かれました。色々な翻訳がありますが、原本は何も変わっていないのです。そして驚くことに、世界で昨年一年間に印刷された聖書の数は五億冊と言われています。それほどに聖書は多くの人に読まれ、常にベストセラーとして感動を与え、幸せを与えているのです。
 今日初めに読んだ御言葉の中で、神様はなぜ金持ちに「愚か者」と言ったのでしょうか。
『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
 この金持ちにはたくさんの金があり、穀物があり、自分の魂に、「心配しなくても良い。お前は幸せだ。これから何年分も食べるものや財産がある、自由にやれる。」と言ったのです。しかし、彼が求め、彼が感じていた幸せの基準が間違った基準の中にあることを見ることができます。ある人は、「幸せは自分の力で勝ち取るものだ。自分で道を開いていくものだ」と言います。しかし、聖書は、

『すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできない。』

と言っています。言い換えれば、人は神様に背を向けているなら、自分の力では絶対に幸せになることはできないというのです。
 聖書のペテロ第一の手紙一章八節から九節に、 

 『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

と書かれています。ここを読むと、クリスチャンとそうでない人との違いは、信仰の結果である魂の救いを得ているか得ていないかであることがわかります。財産、恵み、ゆとり、平安ではありません。魂の救いを得ているかどうかということです。これが一番の問題です。私たちは目に見えるところで、あの人は幸せそう、あの人は不幸そうと決めつけてしまいますが、幸せの基準・価値観は、私たちが魂の救いを得ているかどうかにかかっているのです。そして、その救いを得るためには、ただ一つなのです。
 イエス・キリストは、二千年前私たちの罪のためにこの世に来て下り、三十三年のこの世の生涯を終え、神ご自身が私たちのすべての罪を背負い、十字架にかかり、血を流され、苦しみを受けられて死なれましたが、人類の誰もが打ち破ることができなかった死の力を打ち破ってよみがえって下さいました。本来人は誰もが人間の力、自分の力では幸せを勝ち取ることはできません。しかし、神人間を造られた方であり、人間を愛しておられます。何とか人を救いたい、天国に入れる者にしたいと願ったからこそ、神のひとり子であるイエス様を遣わし、十字架にかけたのです。そしてその身代わりの死によって、罪によって滅びなければならなかった私たちは、イエス様を信じるだけで永遠のいのちを持つことができます。すべての罪の債務証書を取り消しにして下さり、罪のない者としてくださるのです。それは多くの悩みや、重荷を持っている私たちに、『すべて疲れている人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい』と招いてくださり、本当の幸せを与えるため、継続する幸せを与えるためだったのです。そして今私たちは天国に行く切符を手にしています。ここにおられる多くの人がイエス・キリストを信じ、自分の救い主として受け入れ、素晴らしい喜びの人生を歩み、幸せを感じるていると思います。
 星野さんやレーナ・マリアさんがイエス様に出会った時に自分の目的を知り、主の証人として整えられていったように、皆さんは彼らよりもっと健康で祝福され、ある意味で恵まれた環境にあると思います。もちろん、心の中には大きな問題があり、どうすることもできない状態かも知れません。しかし、神様はそのままのあなたを愛しています。そして、あなたにしかできない目的を持っておられることを覚えて下さい。私たちはイエス・キリストを信じたと同時に、信仰の結果である魂の救いを得ています。それによって、言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びに踊っていますと言うことができるのです。
 私の中にも今喜びがあります。祝福があります。『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』との御言葉どおり、神様は休みを与えて下さり、それだけではなく、喜び、祝福、平安、幸せを与えてあげますと手を差し伸べておられます。
 今日始めて来られた方、最近教会に来られている方、またクリスチャンの方も、イエス様にすべてを明け渡す時に、私たちにとって素晴らしい祝福の人生、変わることなく、なくなることのない、永遠に続く平安、幸せを持つことができることを覚えて下さい。すべての重荷を主に委ね、これからの人生をイエス様と共に歩んで、素晴らしい喜びの生涯へと導かれように願います。お祈りします。
 
 

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