今週の礼拝メッセージ
2000.11.19(SUN)
あなたの信仰は常識?非常識?
新城教会牧師 上條実牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙第一 2章9節

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 ハレルヤ!今日皆さんの前でお話ができることを感謝します。急に寒くなりましたが、皆さんお元気でしょうか?風邪を引きやすい気候ですので、皆さんの健康が守られるように祈って行きましょう。早速先程お読みいただいた第一コリント二章九節のみことばを学んでいきます。本日は「あなたの信仰は常識?非常識?」と言うタイトルです。今の子どもたちや中高生を見ると、何と非常識なんだろうと思う時があります。時々全日本リバイバルミッションの打ち合わせのため電車に乗る機会があります。混雑していて通路に立っていると四人掛けの座席に二人だけで荷物をおいて足を投げ出している高校生を見ることがあります。他の人が立っているにも関わらず、荷物を退かそうともせずに会話している姿を見るとき、なんと非常識なと思ってしまいます。

『普通の人がこれまで見聞きしたことも、想像したこともないほど素晴らしいことを神様はご自分の愛する人々のために用意してくださった。』

と書かれています。新改訳聖書では、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

と書かれています。リビングバイブルは、「普通の人が」と書かれています。「普通の人」と言うことは「一般の人」です。ですから一般の人は常識と言うことができると思います。今日のみことばは「常識な人が目で見たこともなく、耳で聞いたこともなく、心に思い浮かんだ事のない事を神様は備えて下さる」とあるので、非常識な事をして下さるのが神様。そしてその神様を信じている私たちも非常識と言うことができます。聖書を読んでいると人間的に非常識なことがたくさん書かれています。
 マタイの福音書一章二十三節に、

『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」』ハ

と書かれています。普通では何と非常識なと思うことですが、御言葉はイエス・キリストは処女から生まれたと書かれています。
 また私たちの信じている神は、霊的な存在であり、目には見えない神様です。ヨブ記九章十一節に、

『たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。』

と書かれています。神様が近くにいてくださる。「インマヌエル」。主は共にいてくださるとわかっています。私たちは神様がいると確信しています。しかし多くの人は今見える形で神様を作って拝んでいます。
 また、私たちは時間を戻すことはできません。人生をやり直すことができません。特別一度犯してしまった罪は絶対に取り消すことができません。しすし聖書は、イエス・キリストの十字架の血潮を信じる時、イエスキリストを信じるとき全ての罪が赦されるとあります。
 また、私たちはいつも病や心の傷の癒しのために祈っています。しかし普通瞬時にいやされるとか、超自然的にいやされると言うことはないと思います。いやされると聞くとそんなことはないと思いますが、御言葉を信じて祈る時、癒しを体験することができます。 また、聖書では「死人がよみがえる」という記事があります。ヨハネの十一章にラザロが生き返ったことが書かれています。ラザロが死んで四日目になると書かれています。イエス・キリストはその墓の石を取り除きなさいと言われています。しかし周りの人は四日目になるから臭くなっているので辞めてくださいと言っています。しかし、その石を取り除き、命じたときに死んだラザロが白い布をまかれたまま、生き返って墓から出てきました。常識では考えることができません。私は冠婚葬祭の担当でありますので、お葬式の準備のお手伝いをさせていただきますが、突然亡くなった方が生き返ったら、驚くどころか気絶してしまうかも知れません。それも四日も経った人が生き返ったということは普通では考えることができません。
 また私たちは永遠のいのちを持っています。まだ見たことのない天国について確信を持っています。私たちがイエス・キリストを信じたときに天国に行くことができるのです。そして信じなかったら地獄に行ってしまうということも聖書に書かれています。私たちは見たことはありませんが、大胆に天国と地獄があると知ることができます。聖書にラザロと金持ちの話が、ルカによる福音書十六章に書かれています。それを見ると天国は素晴らしいところ、地獄はとても恐ろしいところだとわかります。
 常識か非常識かと問われたら、私たちは普段の生活の中では常識人間でありたいと思います。しかし、聖書に書かれてあること事態が非常識です。だから私たちの信仰という部分では「非常識」でありたいと思います。もう一度、第一コリント二章九節に、

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

と書かれています。信仰は常識的なものではありません。見たことも、聞いたこともない事。思い浮かんだことのない驚くこと、人間わざではできないことを神様はしてくださいます。ヘブル人への手紙十一章一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と書かれています。「信仰」は見たことのないものを望んでいたらその通りになるということが書かれています。あなたは「信仰」をお持ちでしょうか?「信仰」は人間にとっては非常識なのです。しかし神にとってはそれが常識なのです。私たちはリバイバルのために、また自分の願い事のために祈っています。しかし祈り方が「常識的祈り」しかできていないのではないでしょうか?また一生懸命祈っても、祈りが答えられないと駄目とすぐにあきらめてしまいます。しかし、今日覚えていただきたいことは、目が見たことのないもの、聞いたことのない、心の中に思い浮かんだこともない、私たちが全く知らないこと下さるのが私たちの信じている神様です。聖歌の二二九番に「おどろくばかりの」という賛美があります。よく有賀先生がこれは普通の驚きではなく、びっくり仰天!驚きあきれるほどの事という意味があると言っています。今時の言葉ならば「超驚いた」というような「非常識」な事をして下さるのが神様です。ですから、私たちが祈る中に、人間的な思い「常識」の中で祈っていたら、神様がせっかく祈りを答えようと思っていても答えられずに、祈りの答えをあなたに渡せずに持ち帰ってしまった事柄がたくさんあると思います。しかし今日あなたの祈りが人間的な常識で求めるのではなく、非常識的な神様を期待して求めるとき、超驚く事が与えられます。神様を愛する者に備えてくださったものには、目で見たことないもの、耳が聞いたことのないもの、また思い浮かんだことのないものを神様がくださいます。
 滝元明牧師が甲子園球場で「全日本リバイバル甲子園ミッション」を開催したいと言ったときに私たちは驚きました。明牧師は甲子園球場を見たこともなく、またどれだけの必要がかかると言うことも考えていませんでした。よく言えば「信仰」と言うことですが、私はそれを聞いたとき、できるはずがないと考えました。その時日本リバイバルクルセードという名前でしたが、その時あった手持ちの資金は、たった百万円でした。何億とかかる大会費用をどのように捻出するのか、またどこから献金が来るのか全く当てもありませんでした。明牧師に、多くの牧師は「予算はどれだけですか。」と聞くと、「かかるだけかかります。」と言っていましたが、正直言って「無責任だな」と思いました。しかし何と不思議に甲子園ミッションが祝福の内にできました。その後東京で十日間武道館を借りて行いたいと言い出したときにも、無理だと思いました。しかし一つの団体に十日間も貸すことはできないと言われていたにも関わらず借りれるようになり、経済的にも人数的にも神様が祝福してくださいました。多くの人が口では「滝元先生は信仰ありますね。」と言ってはいますが、本当は「無茶なことをしますね」と言っていたように、私は聞こえていました。しかしなんと私たちが考えること以上に、驚くわざをして下さいました。また、スーパーミッション東京大会が四十日間行われたり、今度は大阪で四日間。十二月七日〜十日まで大阪国際会議場を会場にスーパーミッション二〇〇〇大阪を開催します。もっと私たちが信仰という部分で常識的ではなく、非常識な祈りをもっとささげて行ったら良いと思います。ヘブル十一章一節から二節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。』

聖書に書かれている人は不思議なことを神様によって経験しています。十一章五節に、

『信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。』

と書かれています。エノクは生きたまま火の車に乗って天に帰っていきました。私たちの周りには、そんなことは絶対にあり得ないことですが、聖書はそのようにエノクが信仰によって死を見ることがなく移されたと書かれています。
 また、十一章七節にはノアのことが書かれています。ノアは当時天から雨も降らない状況の中で山の頂上で巨大な箱船を作っています。それはただ神様が箱船を作りなさいと言われて箱船を作りました。皆からバカにされ、物笑いされました。しかしノアは信仰を持って大きな箱船を作り終え、動物とノアの家族が箱船の中に入り、大洪水が起こりましたが、彼らは助かりました。普通では考えられないようなことを神様がされています。
 十一章十一節には、アブラハムの妻サラのことが書かれています。サラは年をとって全く子どもを産める体が死に、絶対に産むことができない体になっていましたが、神様の祝福で子どもが産まれ、イサクが生まれたと書かれています。それも考えることができないことです。
 また、十一章二十九節に、出エジプトしたイスラエルの民が紅海を渡ったところが書かれています。海が真ん中で分かれ、乾いた陸地が現れると言うことは絶対にあり得ないことです。しかし、モーセが杖を紅海に差し伸ばしたとき、乾いた陸地が現れ、イスラエルの民は通ることができました。そしてエジプト人もおってきましたが、エジプトの兵隊たちは全員海の中でのみこまれてしまいました。出来過ぎているほどのすごい状況を神様が働いて下さいました。人間には考えることのできないことです。
 また十一章三十節にはエリコの城をただイスラエルの民が一日一周周り、七日目には七回、ただだまって回りました。絶対に落ちることのなかった城壁が、突然崩れ、エリコを征服することができました。
考えることのできないことをしてくださる神様です。私たちは主の名によって祈っています。今日覚えていただきたいことは人間的常識で祈らないでください。非常識な働きをされる主です。ですから人間的には非常識な祈りをして下さい。私は最近神様から教えられている事は、今度大阪で十二月七日から十日までスーパーミッション二〇〇〇大阪が行われますが、大勢の方が来られ、多くの方が救われる。経済的にも満たされてる素晴らしい集会になるようにと祈っていますが、大会が祝福されてそれで終わったら感謝には感謝なのですが、不十分だと思います。私は常識的なことを祈っているのではないかと思うようになりました。神様は目で見たことのないもの、聞いたことのないもの、思いに浮かんだことのないものを備えていてくださるという約束です。多くの教会に協力を得れば人数を集めることもできる、また一生懸命訴えれば資金も集まるかも知れません。しかし私たちが求めているものは聖霊の働き、神の力、リバイバルです。集まれば良いとか経済的な祝福があれば良いという問題ではありません。聖霊の働きが爆発的に現れるように祈らなくてはと思います。この教会では九二年に聖霊の圧倒的な働きを見させていただきました。普通では起き得ないことを神様が起こしてくださいました。あの愛知県民の森の祈祷会で聖霊の圧倒的な働きがあり、教会が変えられ、霊的戦いが起こされました。今まで束縛され続けてきたこの暗闇の力と戦わなければ、リバイバルは起きない。神の力によってできるという信仰が与えられ、戦わせていただきました。甲子園に延べ十二万四千人が集まり、球場から賛美が高らかに聞こえたとき、私は身震いするような感動を覚えました。確かにあの甲子園で霊的壁が一つ崩れたと思います。しかしその後色々な大会を行っていくうちに、常識的なことに目を止めるようになってしまい、神の性格、偉大さを忘れてしまったような感じがしました。私たちの日常生活でも同じではないでしょうか。救われたときには永遠のいのちが与えられ、喜び、神様に愛されていると思い、当時は祈っていたかも知れませんが、だんだん信仰が落ちついてしまうと、常識的なレベルにまでなり下がってしまい、神様が働けなくなってしまっています。今日覚えてください。あなたの人生に、目が見たことのない、聞いたことのない、思い浮かんだことのないことを神様が備えていてくださいます。聖書は、求めなさい。そうすれば与えられると書いています。
 私は子ども会を担当していますが、九二年に県民の森で子ども会の七回祈祷を行ったとき、一分間も祈れなかった子どもたちに聖霊に触れて下さり、涙を流して四十五分間も人々の救いのため、日本のリバイバルのために祈り続けた事がありました。今も一生懸命子どもクリスマスのために祈祷会をしています。とても恵まれた祈祷会となっています。その中で神様はちっぽけな神様ではない、大きな神様でできないことがないと再三訴えています。南米のアルゼンチンにリバイバルが起こっていますが、アルゼンチンの子どものリバイバルについて聞いたことがあります。子どもたちが学校から帰り、その後教会に集まり、子どもだけで集会をするそうです。その町のために祈ってから子どもたちだけで路傍伝道に出ていきます。子どもたちが町の中で大胆に御言葉を語るとき、聖霊が働かれ、通りかがった人がなんと罪が示され、泣きながら悔い改めるそうです。また子どもたちが手を置いて祈るとき、悪霊が追い出され、病が癒されると言われていました。そんなことを子どもたちに紹介したとき、新城の子ども会にも同じような、いやそれ以上の不思議なリバイバルの業を見せてもらいたいと熱く祈っています。新城の子どもたちがユニーの前で「イエス様を信じましょう。」と語ったとき、買い物袋を下げた人が突然聖霊様に触れられ、罪を悔い改めて「赦して下さい。」と祈り、悪霊からも解放される。耳の聞こえない人がいやされたり、病の人が大勢連れられてきて、どんどん癒されていったらどんなに興奮するでしょう。人間的な常識で考えないで下さい。子どもであろうがだれであろうが「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、思いに浮かんだことのないもの」をしてくださるのは主です。新城でも驚きあきれるほどのリバイバルが起こると信じます。今日も生きておられ、聖書に『二、三人わたしの名によって集まるところに私もその所にいる。』と書かれています。今日もその偉大なる神様がこの真ん中に、あなたの心の中にいます。求めましょう。求めたらあなたに与えて上げると神様は言われます。今日から祈り方を変えて見ませんか。ちっぽけな人間的な常識な祈りをやめ、非常識な祈りをささげていきましょう。

今日の午後はファミリーコーヒータイムです。その中でスーパーミッションのためにも、大阪のためにも祈ります。また新城教会で行われるクリスマス会のために祈る時を持ちます。ぜひ一緒に非常識な祈りをささげましょう。神にはできます。あなたは常識ですか?非常識ですか?と言われたら、人間的には常識ですが、信仰では非常識ですと宣言して下さい。大胆に神様に求めて行きましょう。難しい問題・大きな問題に押しつぶされそうになり、祈り疲れを覚えている人もいるかも知れません。しかしもう一度祈り始めてください。リバイバルを起こして下さると信じましょう。しかし、第二コリント二章九節を見ると、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』と書かれています。私たちが神を愛さなかったら備えていただけないのです。今日も聖餐式があります。十字架を恐れたいと思います。罪があったらそれが障害となり、祈りは答えられません。また罪があったら、そこから悪魔は働きます。だから今日イエス様を愛し、私のために十字架にかかって下さり、私のために身代わりになって滅んで下さり、三日目によみがえって下さったことを心から感謝し、愛していきましょう。今まで以上に神様を愛していきましょう。更に神様と交わりましょう。今まで見たことのない、聞いたこともない、思いに浮かんだこともないことを神様が起こして下さるというみことばです。待ち望みましょう。今まで韓国でも三十パーセントクリスチャンです。すごいと思います。三人に一人がクリスチャンなのです。そんなことがあったらと思います。アルゼンチンでも中国でも色々な証はたくさん聞いていますが、今度はこの日本にリバイバルを与えていただきましょう。私たちの生活の中に驚き呆れる、神の業を現していただきましょう。私は今からどんなことが起きるか楽しみです。この地域の言葉ではドすごい事が起きます。今風に言うなら超すごいリバイバルが日本に起きます。非常識になって祈りましょう。祈り続けましょう。神様を愛するものとして下さい。神の備えて下さるものを与えて下さい、聖霊の激しい働きがあるようにと祈りましょう。

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