今週の礼拝メッセージ
2000.11.26(SUN)
とりなしの祈りを受け取ろう
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 コリント人への手紙第一 12章18節〜27節

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

新約聖書 ヨハネの福音書 4章19節〜23節

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 ハレルヤ!久しぶりにここで礼拝することを感謝します。皆さんのお祈りに支えられ、スーパーミッションの準備も順調に進んでいることを感謝します。スーパーミッションの関係で日曜日は色々な教会で奉仕することが多くあります。そのような中で皆さんのお祈りによって支えられていることを感謝します。教会はこの世の中の価値観とは違います。特に個人の位置づけが全く違います。今日お読みした御言葉の中に、『私たちはキリストの各器官の一部なのです。』と書かれています。この世の中では力ある人美しい人、何しろ価値のある人が尊ばれます。人よりも一歩でも先んじよう、また、少しでも強くなろうと真剣になって競争の世界を私たちは毎日戦っています。会社ではたらく方も毎日一歩でも少しでも業績を業績を伸ばそうと働かれていると思います。しかし、教会はそのような場所ではありません。今日私たちはイエス様を頭として体にたくさんの期間があるのと同じように各器官の一部だと教えています。このような概念で教育の世界などで語られたら変わると思います。今日本に多くの問題がありますがその根底には価値観の問題だと思います。特に教育の中で進化論がまことしやかに語らえています。これが問題点だと思います。進化論は自然淘汰で進化し、強いものが生き残ったという理論があります。キリンは首が長かったので遠くまで見渡せたので外的から守られて生き残ってきたというのです。そうかなあと思います。あんなに背が高かったらよく目立って食われてしまうのではないかと思います。しかし、何れにしても強い所属が生き残ってきたということが進化論の根底を成す概念です。ということは、私たちはそのような教育を受けているので知らないうちに強くなかったら生きられない、残れないという気持ちが私たちの中に形作られてしまったと思います。だから強いものに価値があり、弱いものには価値がないということが身に付いてしまいます。ということは、勝つ人がいれば負ける人がいます。強い者がいれば弱い者もいます。富んでいる人がいれば貧しい人もあります。この世の中ですべての人が幸せになることは難しいことだと思います。しかし、聖書の価値観はイエス様がかしらで私たちは互いに各機関だというのです。この教えが一般の教科書に載りこれを勉強するようになれば人々は変わると思います。また聖書は、『からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』と教えています。私たちの体の中で尊ばれるのは目立つ所です。体の中で誉められるところは女性は顔が美しいなどと見えるところが尊ばれます。見えるところはどちらでも良いところです。しかし、一番大切なところは見えない部分です。ご高齢の方がおられますが、なぜここまで生き抜いてきたか。それは見えない部分が強かったからです。私はいつも新城教会の兄弟姉妹が皆百才を越えて生きるようにと祈ります。そんなふうに祈られたら困ると言われましたが、聖書には百二十まで生きることができるようなので皆百二十まで生きられたら良いです。皆長生きだったら素晴らしい祝福です。皆内臓が強く、胃腸が強いから生き抜きます。見えないところです。人間の中で一番大切なところはすべてが大切ですが、頭をやられたら生きられません。脳は豆腐のような柔らかな弱い器官です。でもそれが体全体に指令を送っているような重要な場所です。同様に私たち一人一人も各器官ですのでこれは見える所ではなく、見えない特に弱く見えるような所がかえってなくてはならないところだというのです。教会は一人一人が各器官です。どんな所かわかりませんが、何しろ各器官です。そして、その各器官がまとまってイエス様の体を形成するのです。今日ここにおられる一人一人は目に見えない神様が私たちを引き寄せ、このように教会のからだの各器官を構成するために集められました。そして皆一人一人を重要なものにして下さいました。だから、教会の中でこの人は重要でこの人は重要ではないというところはありません。特に目に見えない部分が重要だと書かれています。、そしてそのような体の位置づけの中で神様は特に全体に情報を与えて下さいます。人間は頭で判断しますが臭いを嗅いだり、触ったり、見たり、味わったりと色々なところから情報を得て一つのものに判断を下していきます。例えば、冷蔵庫を開けて中から食物を取り出して食べるときは何気なく食べているかも知れませんが、色々な情報を収集して食べています。お腹が空いたと言って冷蔵庫を開け、取り出したときに瞬間的に形状を見ています。崩れていたら腐っています。そして口に入れる前に手で持つときに感触で判断しています。ベタベタしていないか、ぬるぬるしていないか、感触を感じながら口に持っていきます。しかし、その前に鼻があって臭いを嗅いでいます。それで大丈夫だと思い食べます。私たちは色々な情報を取り入れながら一つのことを判断しています。同様に教会はこれです。一人一人が各機関でそれぞれ各機関の中で情報を取り入れて生活しています。そして神様が一人一人にあなたにしか受け取ることができない情報を下さいます。今日はとりなしの祈りを受け取ろうというタイトルで学びますが、とりなしの祈りは、キリストの体に語って下さることです。何か特別に牧師に掲示が与えられて「主はこう言われます。」と私が言い出したらおかしな事です。皆に隅々にまで神様は色々な情報を教え、その中で情報が整理されて一つのことができあがっていきます。だから決してだれか一人のことですべてが動くようなことではありません。だから各機関皆が健康であるべきであり、各器官が大切です。十二章二十六節に、

『もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』

と書かれています。教会はキリストのからだですからあまり問題を持っておられない方と少し問題を持っておられる方など、色々な背景の方がおられます。しかし、私たちクリスチャンはキリストのからだという位置づけの中で問題や痛みを皆共有しています。お隣さんの問題は自分の問題です。教会の中に何らかの痛みや問題があったら自分の痛みとして、自分の苦しみとして祈って行かなくてはなりません。私たちの体も胃が痛かったら全体が辛いと思います。今日は胃が痛いのかといって他のところがピンとしていることはありません。前進状態が重くなります。私たちの各器官の問題は全体の問題であると同じように私たちの教会の中にある問題も全体の痛み苦しみとして祈っていかなくてはならないし、そこに癒しが来るように祈っていかなくてはならないということです。そして人間はうまくできています。右側が不自由になると左側が利くようになります。大体の方が右利きですが右手が不自由になると左手が利くようになります。足が利かなくなると手が強くなります。他の器官が良いと他のところがサポートします。私たちは互いが互いに必要としあい、助け合っています。素晴らしい共同体の中に入れていただいているという事です。

『もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』

と書かれています。現実的な問題もありますが同時に祈りについても重要なことを私たちに教えています。私たちの祈りは共同体の祈りを意識するということです。私たち一人一人が毎日家で祈っていくとき、この祈りは個人の祈りにとどまらず、キリストの体の位置づけの中で私たちに神様が祈りを与えて下さっています。そして、一人のとりなしの祈りの苦しみは全体の祈りであり、また、一人の喜びも全体の喜びということです。この教会の中に神様が色々なわざを現して下さいました。癒しや解放、素晴らしいことが色々起こされましたがあの人は癒されて、私はまだ癒されていない。どうして私はまだ癒されないのと思うかも知れません。これは自分が癒されていなくてもお隣さんが癒されていたらからだの癒しです。教会というからだの癒しですから喜ばなくてはなりません。やがて順番が回ってきます。人間もいくつか病気があったら一つ一つ治さなくてはいけないところがあると同じように神様はキリストのからだの中で共に喜ぶ、また、共に苦しむというような器官を与えて下さっています。今回スーパーミッションのために、日本のリバイバルのために働いていますが、私はいつも皆さんの祈りによって支えられていることを感じています。そこで神様の御わざを見ることができますし、御わざを見たら皆さんに報告することも喜ばしいことであり、祈りの結果です。皆さんの祈りがあるところに素晴らしい働きが起こされ、また、その喜びが伝えられます。キリストの共同体は素晴らしい御わざが現されることです。スーパーミッション東京四十日の働きも、今度の大阪の働きも一部の人の働きではなく、全体の働きです。日本教会全体の戦いであり、うめきであり、喜びであると言えると思います。今日も私たち一人一人が神様から与えられた器官としての役割を果たすことができるように祈っていきたいと思いますし、各器官で痛んでいる器官があったら癒されて健康になっていく、互いに祈り合うことが大切です。イエス様がサマリヤ地方にあるスカルという町に行きました。そこでイエス様は旅の疲れで井戸に腰を下ろして休んでおられました。ヨハネ四章を見ると、慰められる感じがします。時々私も疲れます。忙しくて目が回るように疲れます。イエス様の宣教は疲れなかったかなあと思います。もとは神様だから人となったといっても相当の力があったと思っていましたが、イエス様も旅の疲れで腰をかけられたことは嬉しいと思います。イエス様も疲れを知っておられます。また休みも知っておられる方です。私たちもいつも疲れっぱなしではいけません。皆さんもお休みの時はゆっくりと休んで下さい。休むことも大切です。休みなく働き続けていくと、倒れてしまいます。あなたが一番あぶないと私に指摘されるかも知れませんが。何れにしても、イエス様も旅の疲れを覚えて休まれました。それは、真昼でした。一番太陽が高い時で日が燦々と輝いている昼時に一人の女が水をくみに来たと書かれています。来年二月にイスラエル旅行を計画しています。今の状況だと行けるかわかりませんが、行ける状況になったらぜひ行って下さい。イスラエルの気候や風土を体験すると聖書の世界もよくわかってきます。何しろパレスチナの風土は昼時は熱いです。サマリヤ地方は乾いた砂漠のような所で、昼は皆外には出ません。そんな時に一人の女性が隠れるようにして水を汲みに来ました。イエス様がその女性に水を飲ませて下さいと言って最終的には生ける水という深い話にまで発展したということがヨハネの福音書四章に書かれています。その女性は今まで過去に五回も離婚し、今は六番目の男性と住んでいるような女性でした。しかし、イエス様はそんな女性に声をかけられ、その方を救いに導くと同時に深い真理をその女性に語られました。これはイエス様の視点と私たちの視点が案外違います。私もイエス様と同じになりたいと思いますがこのような女性を見たら、この人は大変問題があり、なかなか救われないのではないか、この人に深い真理などと思うかも知れませんがイエス様はそうではありませんでした。イエス様はその方の魂の父を計られていました。私たちもイエス様と同じ視点を持つべきです。どんなに大きな問題があってもどんなに悪く見えるような方であってもイエス様は愛されるし、一人一人の魂の値打ちを計られる方です。そしてイエス様はその方に重要な真理をこの時に解き明かされました。その女性は一つの質問をイエス様に投げかけられました。サマリヤの中にゲリジム山という山がありました。その山を本山として礼拝を持っていました。当時サマリヤ人とユダヤ人は対立していました。今でもパリスチナ問題の根底がそこにあります。ユダヤ人はエルサレムを本山として礼拝していました。彼女はいつも疑問を持っていました。ユダヤ人たちはエルサレムが本山で本物の祈りでありこれが礼拝だと主張していると、また私たちは過去からの歴史の中でゲルジム山が本山でそこで献げる礼拝が最高のものだと教えられている。でも二つあるのはおかしいと思っていました。本物の礼拝は何か、本当の神様は何かを問いかけました。日本においても八百万の神々があり、人々は疑問を持っています。本当の神様って誰だろうか。皆心の中から神様を求める思いがあることはどこかに本当の神様がおられるということを察知するから神を求めます。日本人は誰でも本物の神様と出会いたいと思っています。そして本当の神様がいたら出会ってみたいと願います。この女性もそんな罪深い中でも本当の神様に礼拝をささげることはどういうことなのでだろうかとイエス様に投げかけました。イエス様の答えは、あなたはこちらのゲルジム山で祈ることが本当の礼拝だと言っているし、ユダヤ人はエルサレムで祈ることが本物の礼拝だと言っているけれど、そんなものではなく、本物の神様を礼拝することは何かと言うことについて真の礼拝者が霊と真によって礼拝するときが来ます。今がその時ですと言われています。真の礼拝は霊と真によって礼拝することだと言うのです。これは、あの場所とかこの場所ではなく、いつも神様が共におられていつも神様と交わりができるようなそのような時代が来るというのです。今がその時だというのです。礼拝とは、私たちは礼拝に集まってきましたがこの教会に集まらなければ本当の礼拝ではないということもありません。これは霊と真を持って瞬間瞬間礼拝をささげなくてはならないということです。その場所場所において霊と真を持って神様と交わることが真の礼拝だということです。今週私たちがどの場所にいても神様と交わっていくことが礼拝であり、置かれた場所で神様と交わり礼拝をささげることが真の礼拝者の姿だということです。ですから日曜日に教会に集まったときだけが礼拝をしているのではないというのです。そしてここで、

しかし、真の礼拝者たちが・・・今がその時です。

『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』

と言われました。この時刻は丁度昼時でした。昼で一番日が高い時で人々にとっては昼寝の時間でした。イスラエルにおいてはユダヤ人たちは日に二回礼拝をささげていました。朝と夕でした。そして日中の一番熱いときは昼寝でした。南米にはそのような習慣があります。去年アルゼンチンに行くと、昼からはシエスタといって昼寝をします。店のシャッターも下ろし寝てしまいます。昼御飯を二時間程かけてゆっくりと食べ、夕方皆起き上がります。だから夜が長いです。朝早く起きて昼寝をしています。熱いところはそのような習慣があるようです。パレスチナにおいても一番日が当たる熱い時間は日陰に入り、皆ぐっすりと寝ています。そんな一番熱い時間にイエス様は外に出て井戸の横に腰掛けていました。そしてその女性がそこに来たときに、真の礼拝者について語られ、今がその時だと言われました。それは、私たちのとりなしの祈りが決まった祈りではなく普段祈っていないような時間に神様が時を与えられるというのです。夜は寝るときだと思ってはいけません。時々神様は夜、「おい、起きろ。お前に今祈らせたいことがある」と言われます。起こされて祈らされるときがあります。また仕事を真剣にするべき時にふと、神様が祈りを与えて下さるときがあります。今がその時だと言われます。神様のもっておられる計画は私たちの計画をはるかに越えたときです。サマリヤの女とイエスサマガであったのも人々が寝し待っているような時であり、今が真の礼拝をささげるときだと言われました。案外私たちの中に神様が訪れられるのは普通ではあまりイエス様を意識していないときに神様の力が注がれて、とりなしの祈り、キリストのからだに情報を与えられると思います。今週はクリスマスや大阪ミッションを前に祈り深くありたいと思います。そして各器官が役割の中で祈りを受け取る祈りの領域があると思います。今祈りなさい。あなたは受け取って祈りなさい。皆さんの祈りによってキリストのからだが立て上げられます。そしてかしらなるイエス様が判断を下され、さあ、行きなさいと私たちに方向性を示して下さるのです。私たちが祈りを受け取ることができることは幸いです。とりなしの祈りは御霊による祈りという領域に属することです。今日ここにおられる一人一人に聖霊様がおられます。イエス・キリストを信じておられる方の中には心に聖霊様が住んでおられます。天地宇宙を作られた方です。その方が一人一人に住んで下さり、私たちに祈るべき情報も示して下さいます。私たちは聖霊によるとりなしの祈りをいただかなくてはなりません。今週主の前に出て、主よどうか聖霊によるとりなしの祈りを与えて下さいと祈りたいと思います。私たち一人一人は各器官でバラバラにしたら何の力もないかも知れません。しかし、私たちの部品が組み合わさって体になるときに大きな働きをするものです。私はよく飛行機に乗りますが、飛行機に乗るときに不安になります。落ちなければ良いけどと思います。飛行機の作成材料はほとんどが落ちるものばかりです。だから落ちないことの方がおかしいです。ほとんどが金属です。翼、エンジン、機体・・・ほとんど金属であり、放っておいたら落ちるものです。椅子を見ても全部落ちるようなプラスチック、金属、天然素材を使われていますがすべてが手を離せば落ちていくものばかりです。なぜ、飛ぶのでしょうか。落ちるものが飛ぶことはすごいことです。翼があるから、エンジンがあるから、また、パイロットがいるからと言われるかも知れません。しかし翼が翼だけでは飛べない、エンジンがエンジンだけでは飛べれない、また、パイロットが自分で空を飛ぶこともできません。なぜ、飛行機が飛ぶかというとすべての部品が何十満点あるか知りませんが、全部が組み合わされ、究極的には人間の知恵が注がれているがゆえに空を飛ぶことができます。私たち一人一人クリスチャンもキリストのからだの各器官で放っておいたら落ちてしまうようなものです。支えることすらできない、一人では機能しないような何の役にも立たないものかも知れません。しかしそれが一つに結集されて神の知恵である聖霊様が来られるときに私たちは飛び立つことができるのです。聖霊様が私たちの望むときに私たちは力強く離陸することができます。今日私たち一人一人がキリストのからだの各機関として自分のいるべき所にとどまり、神の霊によって導かれるときに私たちは飛び立つことができます。今日私たち一人一人がイエス様のみこころにはまることができるように、またその器官として受け取るべき情報を受け取ることができるように。またそれが組み合わされて、神の知恵聖霊によって神の御心を実現することができるように祈りたいと思います。そして各器官の中で痛んだところがあったら互いの問題として各器官が癒されるように。胃が痛かったら何とか胃が早く治るように他の器官が一生懸命に協力します。食事をするときにもしっかりかみ胃に負担をかけないようにするだろうし、色々なところに協力関係が生まれます。同様に互いが各器官をサポートしながらキリストのからだが健康になり、リバイバルのために飛び上がることができるように立ち上がっていけるように祈りたいと思います。今日私たち一人一人が神様からの各機関としての役割を果たすことができますように。そして神様私にあなたがその置かれたい場所を示して下さり、その場所にはっきりとはまることができますように。各機関としての一部に色々な痛みがあったら癒されるように。またそれがない方はそのキリストのからだの中のすべての痛みが癒されますように祈りたいと思います。一言お祈りします。

バックナンバー

戻る
戻る