今週の礼拝メッセージ
2000.12.17(SUN)
最大の恐れから最大の喜びへ
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書 2章10節〜11節

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ハレルヤ!スーパーミッション2000が東京で四十日間、大阪で四日間行われ神の守りの中で全て終えることができて感謝します。
 今日はクリスマスに、イエスキリストが、人類を最大の恐れから最大の喜びに変える為に来られたことについて学びたいと思います。

『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 聖書に書かれている事柄に偶然は一つもありません。それはすべて神の計画の中で現されています。特に、クリスマス直前に起こったことは、救いとイエス様が成されようとしたことの預言です。イエス様の誕生は不思議です。なぜならば、イエス様の誕生は聖書に全て預言されていたからです。旧約聖書にはイエス様のお生まれについての預言が、三〇〇箇所以上に上ると言われます。それがクリスマスに実現しました。神が人となられたのがイエス様です。
 神様は目に見ることができません。しかし、神の存在を色々なところで発見することができます。私が一番神がおられるのを感じる時は、冬、みかんを食べる時です。なぜならば、みかんをむくと「おたべ」と言わんばかりに一房ずつに切りわけられているからです。だれが包丁を入れたのかと思うくらい、一口サイズに切ってあり、また、中身は細い細胞のようなものに包まれ、こぼれでないようになっています。私はみかんを食べるときいつも、「主よ感謝します」と臨在を感じます。みかん一つにも神様の人間に対する配慮を感じます。私たちの口に合わせて上品なサイズになっています。神様は配慮をされる方です。そんな方が人間の世界に生まれて下さいました。それがイエス様です。羊飼いに天使が現れ、

『「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』

と語りました。その時、羊飼いは「ひどく恐れた」と記されています。それは、当然だと思います。彼らの普段の生活に、神様が直接介入したからです。神様は、私たちの生活の中に直接介入して下さる方です。羊かいたちは野宿生活の中に神が訪れるなどとは、全く考えていなかったと思います。私たちの神は特殊の世界に住まわれる方ではありません。私たちの生活のただ中に来て下さる方がイエス・キリストです。当時、羊飼いは一番下層階級の人々でした。そして、イスラエルにイエス様がお生まれになった理由がありました。ユダヤ人は世界の歴史の中でも類を見ないほど、苦しめられた民でした。エジプト捕囚からバビロン捕囚、その他幾度も大国に踏みにじられた国民でした。地理的位置を見ると理解できるように、一方はアフリカ大陸、一方はアジアとヨーロッパのユーラシア大陸が迫っています。かつてエジプトの大王がヨーロッパ・アジアに遠征した時、必ず、イスラエルを踏みにじって通過して行きました。また、バビロンやアッシリアの王が攻めてくるときにもまず、イスラエルを攻めました。また、ギリシアやローマという大国によっても同じことが起こりました。いつも彼らは踏みにじられ、国や文化は剥奪され、言語も失いかけました。彼らは世界で一番傷ついていた国民でした。また、羊飼いは更にその中でも不安定な人々でした。
 今でもイスラエルには羊飼い達がいます。その人たちはベドウィンと言います。彼らは遊牧人であり、国籍を持っていません。エジプト近辺から青草を求めながら、季節に合わせ風に任せながら旅をしている人々です。財産もなく、彼らは大国の狭間に揺り動かされながら生きてきた人たちでした。特に、イエス様が生まれた時代、イスラエルはローマの属国でした。いつ、ローマに完全支配されるのではないかという不安がいつも彼らにはありました。そんな世界の中で最も不安と恐れを持っていた羊飼い達に、最初、神は訪れられました。これは預言的な意味を含んでいます。それは、神は、最も恐れている人たちの中に、最も大きな喜びを与えて下さるということです。
 ルカの福音書二章十節から十一節の言葉を調べると、主の栄光が羊飼いを照らしたときに彼らは「ひどく恐れた」と書かれています。「ひどく」という言葉は「甚だしい」とも訳すことができますが、ギリシア語では「メガス」という言葉が使われています。それはメガ・マートという店の名前とか、コンピューターでメガという単位などで使われています。それは、「大きい、巨大な」という意味です。「恐れた」というのも、普通に恐れたのではなく、「超」恐れたのです。この上なく恐れたのです。
 今までの人生の中で恐れを抱いたことがあると思いますが、今までの人生の中で一番恐れを抱いたのはどのような時でしょうか。色々とあるかも知れませんが、羊飼いにとっては、神の栄光が現された時でした。その時御使いは羊飼いに、『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』と言いました。「素晴らしい」と訳されていますが、この言葉にも同じ「メガス」という言葉が使われています。それは、「巨大な、甚だしい」喜びを知らせに来ましたという意味です。聖書はおもしろいものです。両極端です。「甚だしい恐れ」から、「甚だしい喜び」に移して下さるのです。これがイエス様の誕生の意味です。今日、皆さんの中でもしも、「私は今、甚だしい恐れに襲われています」と言われる方がおられたら、イエス様がこの地上に来て下さった目的は、甚だしい恐れから甚だしい喜びに変えるために来られたことを知って下さい。
 「恐れ」を広辞苑で調べたら、「恐れとは、良くないことが起こるのではないかという心配」と書かれていました。今年はみなさんにとって、どのような一年でしたか。ある方は、「今年は良い一年でした」と言われるかも知れません。しかし不安があります。「来年は、今年のようにうまくいかないのではないか」と。幸せであればあるほど、次に悪いことが起こるのではないか、と不安になります。これが「恐れ」だというのです。
 ベドウィンの羊飼いたちも、風の便りで近頃の情勢を聞きながら恐れていたことでしょう。
 二十世紀末、日本も恐れで固まった一年であったかも知れません。今朝、テレビを見ると、「今年は政治も経済も不安だらけ」と言っていました。色々な変化がありましたが、特に、自然界では火山が噴火しました。まず、北海道の有珠山が噴火し、そうこうしている内に三宅島が噴火しました。そして、地震も多くありました。テレビでは地震速報ばかり流れていました。それで一番自信を失ったのは地震予知連合会だと思います。いつどこで地震が起こるのか、全く予想できないのです。この二十世紀末、自然界が揺り動かされました。同時に、今年は十七歳の少年犯罪も多発しました。今年は「十七歳」と聞いただけで悪いイメージがあります。今日、十七歳の人がいたら年齢を言わない方が良いかも知れません。また、企業や政界は破綻し、政局は不安定で、二十一世紀はどうなってしまうのだろうかと私たちは不安の中に閉じこめられている状況かも知れません。それを現すかのように、今社会では数百万人が家に閉じこもって出ることができないというのです。また、一日百人くらいが自殺しているというのです。ということは、一年間に三万六千人が、自らいのちを断っているのです。ということは、新城市が一年で消えてしまうようなものです。「あの町の人達はどうしたのだろうか」「皆自殺した」というようなものです。世の中の不安が人々に結果として現れています。多くの人が恐れに閉じこめられています。
 さて、恐れの根元とは何でしょうか。聖書には最も大きな恐怖を持っていた女性が救われたことが書かれています。マルコの福音書五章に、十二年間長血をわずらっていた女のことが書かれています。彼女は医者にかかっていましたが、医者からひどい目に遭わされ、病気が良くなるどころか、自分の持ち物を皆使い果たしてしまった、というのです。そして病気は悪くなる一方だったということです。彼女は、精神的、肉体的、経済的破滅を迎えていました。まさに危機的状況です。極度の恐怖です。なぜでしょうか。それは、次に来るのは死しかないからです。死が目の前に迫っていたので、その女はどん底に叩き落とされたのです。人間の恐怖の源は「死」です。私たち人間は死を目前にすると無力です。恐怖以外の何ものもないのです。
 ところで、死にそうになった経験はありますか。私は四十九歳になりますが、今まで何度か死にそうになったことがあります。初めは、小学校二年生の時です。桜淵に泳ぎに行ったときに、ボート屋の前でおぼれて死にそうになりました。水面がギラギラと光っていたのが思い出されます。その時、恐怖感はありませんでしたが、強烈な体験でした。「もう駄目だ」と思いましたが、奇跡が起こりました。私の背中に熱いものを感じ、体が浮かび上がり水面に出ました。「助かった。奇蹟だ。」と思ったら、私と一緒に遊んでいた隣のみよちゃんという女の子が、「あんた何やっとるだん!」と言って助けてくれたわけです。みよちゃんが私を引き上げてくれなかったら、私は死んでいました。みよちゃんは今どうしているのだろうか、と思います。そして、その日、みよちゃんが私の母に、「今日、順があっぷあっぷこいとって(三河弁:おぼれていて)わしが助けてやった。」と言って私を引き渡しました。私の母は、「ありがとうございました。」と財布の中から五〇円玉を出してみよちゃんに、上げているのを覚えています。「私のいのちはたったの五十円か」と、それもショックでした。何れにしても、死と直面した時、私たちは恐怖を覚えます。やがて私たちは皆死ななければなりません。今日は健康ですが、あと百年経ったらこの建物は残るかも知れませんが、ここに座っている人はほとんどいないと思います。私たちは皆、死を迎えなければなりません。そして、人類は死の恐怖に捕らえられています。しかし、イエス様がこの地上に来られたのは、死の恐怖から人類を解放するためです。ある人が、「人生とは、上の部分が覆われた砂時計のようなものだ」と言いました。今も瞬間瞬間、ドッキン・ドッキンと、真っ赤な血の砂が落ちています。しかし、上の量が隠されているのです。いつ何時止まってしまうかわからないのです。恐怖ではありませんか。あなたの心臓の鼓動は赤い砂が下に落ちているようなものです。
 しかし、安心して下さい。イエス様がこの地上に来て下さったのは、死の力から解放するためです。ヘブル人への手紙二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

と書かれています。イエス様がこの地上に来られたのは、悪魔のもつ死の力を滅ぼすためだというのです。死の力と、悪魔の力とが関連していることを教えています。ということは、恐怖や恐れという背後に死の力、悪魔の力が働いているのです。今日、皆さんの心に、言い知れぬ恐れがあったら、それは、決して神様からのものではありません。神様は私たちに恐怖を与える方ではありません。喜びを与えて下さる方です。私たちに喜びを与えてくれるのが神様です。にも関わらず、私たちの心に恐怖があるとしたら、それは神様からのものではありません。神に対する畏敬の念としての恐れであれば良いのですが、恐怖に閉じこめられていたら、神様からのものではありません。イエス様は、私たちをいかなる恐れからも解放して下さる方です。究極的には死の恐れですが、その他の恐れからも解放して下さるのがクリスマス・メッセージです。教会は恐れを受け取るところでは決してありません。恐れではなく解放の喜びを受けるところです。ですからイエス様を信じたら恐れから解放されます。恐れではなく、喜びに変えるのがイエス様の働きです。もし、皆さんが恐れに縛られていたら、今日はそこから解放されますように。私たちは神によって喜んで人生を安心して歩むことができます。神は過去・現在・未来を現在形でもっていなければ神ではありません。私たちは過去を取り戻すことはできません。にも関わらず、多くの人が過去に生きています。多くの人は一時間中、五十八分を過去に生きているというのです。「あの時、ああすれば、あんな事しなければ良かった・・・」と過去に生きているのです。皆さんはどうですか。神様は過去を取り戻される方であり、未来も現在形として私たちを導いて下さる方であることを知って下さい。私たちの神はすべてを支配し、時間、未来、過去も現在形で扱っておられます。そして、このクリスマスに、私たちに喜びを与えるために神の一人子であるイエス様をこの地上に送って下さいました。
 旧約聖書のゼパニヤ書三章十四節から十七節に、

『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

と書かれています。皆さんのために今日、この言葉を、神が語られていると信じます。この御言葉を、いつか新城教会で語らせていただきたいと願っていました。私たちの中に主が来られるときに、この事が起こります。十六節十七節に、

『その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

「シオン」というところに自分の名前を入れてみて下さい。「滝元順よ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
 ・・・イエス様が、私たちのために高らかに喜んで歌って下さるというのです。そんな素晴らしいことはありません。神が、天の大軍勢と共に、私たちのために歌って下さいます。今晩、ロン・ブラウンさんたちがコンサートをして下さいますが、神が天の大軍勢が私たちのためにコンサートをしてくれるとしたら、どんなに嬉しいことでしょうか。神様は、あなたのためにそのようにして下さるのです。
 十六節に、「恐れるな」という言葉があります。このクリスマスの最初に、「恐れるな」という言葉が語られましたが、この言葉は旧約聖書中では特別な意味があります。どのような時にこの言葉が使われたかというと、イスラエルが敵と戦っているときに、「恐れるな!」という声がかかったときは、「民の中に、神が参戦して下さった」という知らせがもたらされたときに使われました。契約の箱がイスラエルのただ中に敵陣の中に入ってきた時に、「恐れるな」という声がかかりました。同じように、神が私たちの人生中に参戦してくださる時、「恐れるな」と言われます。
 そして、「気力を失うな」と語られています。「気力を失うな」を直訳すると、「手をだらりと下げるな」と言う意味です。気力を失って、何もやる気がなくなり手が下がってしまいます。ある人は今、気力を失って手が下がっている人がいるかも知れません。しかし、神様が、「恐れるな。気力を失うな。下がった手をもう一度動かしなさい。」と言われます。
 そして、「あなたの主はあなたのただ中におられる」と言われます。マタイ福音書一章二十三節に、「処女が身ごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと神は私たちとともにおられるという意味である。)」とあります。あなたの神、主はあなたのただ中におられる」これがクリスマスの意味です。そして、「死の力を持つものは、悪魔の力」だと聖書が教えています。
 イエス様が七十人の弟子たちを選び、神の国拡大のために遣わされました。七十人が出て行って福音を宣べ伝えたときに悪霊たちは服従し、病は癒されたのです。ルカ十章十七節から二十節に、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

と書かれています。私たちは悪魔の力を全て踏みつけるものです。悪魔が征せられることは嬉しいことですが、それ以上の喜びがあるのです。それはその結果として、私たちは永遠のいのちを受け、「天の御国に名が記される」というのです。今日ここにおられる方は安心して下さい。イエスを救い主として告白しているならば、あなたの名前は天にあります。神の国にあります。これは神の本の片隅に「滝元順」と小さく記されており、イエス様がやがて世の終わりの時にそれを開いて、私を天国に入れてくれるのかと思いますが、そういう意味ではありません。これは、「今、神があなたのことを知っておられる」という意味です。神の領域で、あなたは知られているから安心して下さい。本に記されていて、開かないとわからないと言うものではないのです。今の段階で、神があなたのことを知っているから気力を失わないで下さい。主が共におられるのです。十章二十一節に、

『ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』

と書かれています。幼子たちにこの事を示したと書かれています。これは「子どもたち」という意味があります。同時に、羊飼いたちはある意味で、社会の中で全く力もなく、地位もない人たちでした。ある意味で幼子のような存在でした。そのように、苦しんでいる人、悲しんでいる人、力を失っている人たちの中に素晴らしい救いを現して下さるのです。今日皆さんの中で、一番不幸だと考える人がいたとしても、神様はそこにお生まれになって下さるのです。イエス様が聖霊によって喜びに溢れたと書かれていますが、クリスマスの時にひどく恐れた羊飼い達に、甚だしい喜びを伝えられましたが、イエス様の上にも現わされました。私たちもイエス様を信じるときに、聖霊様によって喜び勝ち誇ることができます。聖霊様は私たちに喜びを与えて下さる方です。今日私たちの中に喜びがあることは聖霊の働きです。先日もある方と話したら、「喜びが心の中に溢れている」と言われました。これは聖霊様の働きです。これはイエス様がこの地上に来て下さった目的の一つです。今日もし喜びがなかったら、イエス様が甚だしい喜びを与えるために地上に来られたことをもう一度確認し、恐れに閉じこめられていたら解放されますように。
 イエス様は甚だしい恐怖ではなく、甚だしい喜びを与えるためにこの地上にお生まれになられました。今日、私たちの中にもそのことが実現されます。これがイエス様が来られた目的であるからです。恐れに支配されている人がいたら、今日は「主よ。私の恐れを取り除いて下さい」と祈りましょう。すべての恐れの領域を神に渡しましょう。そして今日は、「甚だしい喜びで満たしてください」と祈りましょう。一言お祈りします。

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