今週の礼拝メッセージ
2000.12.24(SUN)
信仰
新城教会牧師 滝元明牧師

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 マタイの福音書 17章19節〜21節

そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」

 ハレルヤ!久しぶりに礼拝でメッセージできることを感謝します。今日はクリスマスの日ですが、私は九週間ぶりに説教しますので、来年ということも考えながらお話しします。今日はマタイの福音書から「信仰」というテーマで御言葉を学びます。今日、ここに立てたことは感謝です。スーパーミッションも東京で四十日、大阪で四日間が行われ、皆さんが祈って下さった事を心から感謝しています。特に、スーパーミッション東京の前に、イザヤ書五十四章四節の御言葉が与えられました。

『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたは辱めを受けない。』

「恥じを見ない」という御言葉のように、大会が終わって恥じることなく、今日ここに立っていることを感謝します。東京は最初大変でした。四十日の幻は私がいただきましたので、失敗したら多額な借金が残り、日本的に言うならば切腹になりかねませんが、そのようではなく、経済的にも祝福されて感謝します。大阪でも祝福されたことを感謝します。これは神様のみこころで導かれたことを感謝します。イエス様が、「全世界に出て行き、すべての者に福音を伝えなさい」と言われたように、今年、多くの方に福音を宣べ伝える事ができたことを感謝します。
 先週、埼玉県草加市に行きました。その街にある教会の先生が素晴らしいことを言われていました。その先生の属する教団は、今まであまりリバイバルミッションの働きに関心を持たれていませんでした。しかし、今その教会に聖霊が臨まれており、今年今まで経験したことのないような聖霊様の訪れがあったと言われました。神様が個人的に語られることは少ないですが、聖霊様が臨まれた時、「あなたがたは、ミッションの働きに距離がありましたが、これから近づいて彼らに協力しなさい。リバイバルミッションは日本のリバイバルのために、わたしが起こした器である」と言われたそうです。するとその次の日に、スーパーミッションで奉仕して下さいという招きがあったそうです。とても驚き、恐れおののいて神様の言われたことを受け止めたそうです。そして先生がメッセージを取り次いで下さいました。ですから私たちの働きは、新城教会ということではなく、日本の救いのためです。神様がバックアップして下さることは素晴らしいです。
 また、九十八年に行われた東京ミッションの時、東北の先生のところに協力要請に行きました。するとその先生が、「実は先生が来られる前に神様が私に語られました。それは創世記の十二章の御言葉で、『あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。地上のすべての民族はあなたによって祝福される』と与えられたそうです。「あなたを祝福するものを祝福するということは、日本のためにリバイバルミッションを祝福したら、必ず祝福される、呪ったら呪われるという御言葉が与えられたから、私は喜んで先生の働きに協力します。」と言われました。励まされました。私たちの働きは日本のためですが、今まで私たちを助けて下さり、導いて下さったことを心から感謝しています。特に多くの方が協力して下さったことを感謝したいと思い、今年はクリスマスカードを作りました。三千名以上の方に出しました。私と私の家内のサインを入れて出しました。その中に、マタイの十七の二十と書きました。この御言葉は私が今年与えられた御言葉ですが、来年に向かって与えられた御言葉でもあります。

『イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』

 来年を迎えるに当たり、私たちには信仰が必要です。本気になって神様を信じたら、すべての事に打ち勝つことができます。『どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』と書かれています。皆さんが色々な問題に直面していると思います。また、来年はどうするかわからない方がいるかも知れません。今、私たちが求めていることは、日本のリバイバル、日本の救いです。これも『どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』と書かれていますので、信仰さえ持っているれば必ず勝利を見ることができます。信仰は生きている真の神、死人の中からよみがえられ、天にも地にも一切の権威を持っておられるイエス様を信じることです。『もし、からし種ほどの信仰があったら・・・』と書かれています。からし種の信仰は小さいけれど生きている信仰です。神が生きているという信仰、イエス様はすべてのことができる。神にはできないことがない、と言う信仰持つべきです。この御言葉は、イエス様が変貌山にペテロとヤコブとヨハネと共に祈りに行ったときに、イエス様の栄光の御姿に変わったことが書かれており、その山から降りてきた時に、群衆の中の一人がイエス様に、「先生。助けて下さい。子どもがてんかんになり、悪霊につかれて火の中に入れられ、悪霊がこの子どもを滅ぼそうとしているのです。どうすることもできずに困っている。」と言ってイエス様の所に連れてきたのです。しかし弟子たちしかいませんでした。そこで弟子たちに、「この子どもから悪霊を追い出して下さい。」と言ったときに、弟子たちがイエス様から訓練を受けているので、「悪霊よ。出て行け。」と祈りましたが、出て行きませんでした。イエス様が来た時、「お弟子さんたちにお願いしたけれど、悪霊が出て行きませんでした。」と言うと、イエス様が弟子たちに、『あなたがたの信仰が薄いからです。』と言われました。そしてその時「イエス様。できればお願いします。直して下さい。」と言うと、イエス様は彼を叱りました。「できればと言うのか。信ずる者にはできる。」と言われました。私たちの信仰は時々、「できれば」と思いますが、そうではなく、できると信じたらできるのです。だからイエス様が弟子たちに向かって、信仰が薄いからだと言った時、弟子たちはこっそりとイエス様のところに来て、「先生。どうして私たちには悪霊を追い出すことができなかったのですか。」と質問しました。時々私たちも「どうして祈りが聞かれないのですか。なぜ、私には悪霊を追い出すことができなかったのですか。」という考えがあると思います。イエス様が言われたことは、「信仰が薄いからだ」と言われました。どのような問題があっても信仰を持つことです。神を信じる。信頼する。からし種の信仰を持つ。生きた信仰を持って本気で信じ込んだら、あなたがたにできないことはないと言われました。これは、神の権威を信じることです。神にとってできないことはないという権威です。
 聖書の中にカペナウムでローマの兵隊がイエス様に懇願したことが書かれています。「イエス様。お願いします。家のしもべがひどく苦しんでいますから助けて下さい。」と言いました。すると、イエス様が行って直そうと言われました。すると、「彼は、いいえ。来なくても結構です。私が屋根の下に入れる資格のない者です。家まで来なくても結構です。実は私も権威の下にある者です。私にも僕があります。行けと行ったら行くし、来いと言えば来るし、これをせよと言うとやります。ですからイエス様、あなたはもっと素晴らしい権威がありますから、家まで来なくても御言葉を与えて下さい。それで結構です。」と言われました。するとイエス様は驚いて「これほどの信仰はイスラエルの中でも見たことがない。あなたが信じるとおりになるように。」と言われました。『ちょうど同じ時間にいやされた』と書かれています。私たちが色々な問題がある時動揺します。私の祈りは聞かれないかも知れないとか、動いてしまいます。しかし、動いてはいけません。できると信じることです。信じたらその通りになる。神の権威を信じるべきです。
 何年か前に、米沢の教会に行くと、アメリカ人宣教師が駅まで送って下さいました。「先生。先生のために神様が御言葉をくれました。ルカの福音書十章十九節です。」と言われたので電車に乗りながら読みました。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

という御言葉でした。イエス様が十字架上でサタンのかしらを砕いて下さいました。だからクリスチャンにはサタンに打ち勝つ力が与えられています。信じましょう。順牧師には追い出せるけれど、私には無理だと考えてはいけません。宣教師の方が私に与えられたというので私も信じます。これを信じることです。聖書の御言葉は確かに信じるべきです。聖書の御言葉は一つでも間違えると大変なことになります。
 昨日は、天皇誕生日でした。陛下の誕生日に私は毎年祝電を打ちます。その時に、私は御言葉を送りました。「イザヤ書四十六章四節」と書きました。その時に私はうっかり電文を「イザヤ書四十六章六」と間違えてしまいました。そして書いた電文を家内に読み聞かせました。「イザヤ書四十六章六節・・・あれっ?間違えてしまった」・・気がつきました。六節は、

『袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。』

と書かれています。そしてすぐに電報局に訂正しました。四節には、

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

という御言葉でした。あの方も随分白髪が多いから白髪になっても神様が背負って下さるということを書きました。ですから聖書の御言葉は間違いなく信じることです。そして皆さんが聖書を読むときに、この御言葉を私に与えて下さっている御言葉だと信じたらこれは「あなたにとってできないことは一つもない」と書かれています。不信仰は神様に対して敵です。

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』

と書かれています。神様は頭が良いから喜ばれるのではなく、神を信じる信仰があるという事を喜んで下さいます。
 毎朝五時半からの早天祈祷会で聖書を三章ずつ読みます。出エジプト記十四章十節から十四節に、

『パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。』

イスラエル民族が四三〇年エジプトで奴隷生活をし、神がモーセを遣わされ奴隷から解放されました。その時にあったことについて書かれています。不信仰を持つと恐れが来ます。不信仰が来るとつぶやきがあります。

『そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。』

神様の約束によって素晴らしい奇跡がエジプトに起こされました。そして彼らが連れ出されました。その時、エジプトの王パロの軍隊が追いかけてきました。しかし、神様はそこに、昼は雲の柱を立て、夜は火の柱を立てました。雲の柱は神様の臨在です。天から雲の柱があり、主がおられるのです。夜は火の柱があり、神様がいる。それを知っていながら信じずにパロが追ってきたら、「なぜこんなところに私たちを連れてきたのだ。私たちを殺す気か」と物事を悪く考えるのです。不信仰の人は物事を悪く考えます。来年どうなりますか。大変な時ですよ。駄目ですよ、というのではありません。信じたら良いのです。そうしたらパロが追ってきたとき、神様は雲の柱を前から後ろに移し、彼らにパロの軍隊が近づかないようにされました。そして紅海を真二つに分けました。奇蹟です。イスラエル人がそこを渡りました。しかし、エジプト人たちが渡ろうとすると水に入って彼らは死んでしまいました。その時にイスラエル人たちは賛美しました。神が私たちを救って下さったと喜びました。しかし、彼らはその後食べ物がなくなった時にまたつぶやきました。出エジプト記十六章一節から三節に、

『ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」』

 紅海を真二つに裂かれたという奇蹟です。そのような奇蹟を見ても彼らは少し食べ物がなくなると信仰が持てません。時々、イエス様を信じてバプテスマを受け、信じたらすべてが上手くいくと信じても問題もあります。そして悪くなると、信じたのにどうして駄目なのかとつぶやきます。
 私がクリスマスカードを送りました。するとお礼にクリスマスカードが送られてきました。その中に、「マタイ十七の二十。本当に力づけられました。」と書かれていました。また、「私は悩んでいたけれど信じました。年頃でまだ結婚相手がないけれど信じました。」と書かれてきました。信じるか信じないか。こんな年になってイエス様を信じたのになぜ配偶者がないのですかとつぶやきます。信じたのになぜ、経済的にこんなに悪いのですか、とつぶやくよりも主は生きておられると信じたら良いです。「なぜ、こんなに私は病気が治らないのですか」と不信仰を持つよりも、主は生きておられる。イエス様が「あなたがたにできないことはない」と言われたので病気も治る。皆さんの問題の中に信仰を持つかどうかということは神様に対する心からの信頼が大切です。
 エジプトの地では腹一杯の肉、パンを食べた。あの時に死ぬ方が良かった。こんな荒野で死ぬよりも・・・。神様が約束の地カナンに連れて行くと言われたのです。その行程の中で色々な問題が起こったら、こんな荒野で死ぬくらいだったらエジプトで死んだ方が良いと悪い考えです。今日、ブラジルから来られた森田さんがブラジルに行ったときには日本の考えを捨てたと言われましたが、ユダヤ人はエジプトの考えをそのまま持ち込みました。私たちは聖書の神様を心から信じ込むことです。神にとっては不可能はないと信じることです。すると神様がモーセに、

『「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。』

と言われました。四十年間神様が荒野でイスラエル人を養われました。私たちが信仰を持つかを神様が試されるときがあります。私もクリスチャンになるときに親が、「明、お前はイエス様を信じて食っていけるのか。アメリカからいくら金を送ってくる。」というのです。「送ってこない。自分で働く。」「お前、世の中そんなに甘くはないぞ。子どもでもできたらどうするのだ。」「大丈夫です。」「保証でもあるのか」「あります。」「どこにある。」「はい。聖書の中に空の鳥を見なさい。空の鳥は、種を蒔くことも、刈ることも、倉荷も納めない。しかし、天の父は養って下さると書いています。」「バカ野郎。上手いことばかり言って。」と言われました。あれから五十年が経ちます。もし私が親から警告されたときに、神様が新城教会の会堂が目の前に幻となって現れたらどうでしょうか。五十年後、こんな会堂ができ、こんな人が来て、家があり、プレイズ出版ができ、こんな集会ができるようになるとわかっていたら、私は信じると言うでしょうか。見えないから不信仰です。信仰は望んでいることを確信するものですから、幻を持つことです。そうしたら神様は必要を与えて下さいます。ヘブル人への手紙三章十七節から十九節に、

『神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』

と書かれています。イスラエル人たちが約束の地に入れなかったのは従わなかったからです。神様に従順でなかったのです。「しなさい。」「嫌だ」「信じなさい。」「いいえ。」なのです。来年は信じましょう。日本に二十一世紀にリバイバルが来ます。再臨なさいます。その前に必ずイエス様がこの国を顧みて下さり素晴らしいことをして下さると信じましょう。でも先生、日本はやはり難しいです。日本はそうはいきませんと言わないで下さい。難しいという考えを取り除いて下さい。先生は良いかも知れませんが私は難しいと。「私」を取り除いて下さい。神にとって不可能なことはありません。信じましょう。イエス様は今日私たちの罪を赦して下さいます。十字架にかかって身代わりになって死んで下さいました。信じたら罪が赦されます。信じた人が救われました。そうですか。そんなことがあるのでしょうかと言われる人は救われません。イエス様を信じなさい。神が共にいてあなたと生きて下さいます。信じることです。いつでも力ある神を信じます。疑いません。しっかりと信仰を持ってこれからの人生を歩いていきましょう。イエス様もいつも私たちを導いて下さいます。これから祈るときも信仰を持って下さい。一言お祈りします。

バックナンバー

戻る
戻る