今週の礼拝メッセージ
2000.12.31(SUN)
二十世紀を終えるに当たって
−御言葉と歴史に学ぶ−
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 詩篇九十篇十三節〜十七節

帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

 ハレルヤ!今日は歴史的な礼拝です。今日は二十世紀最後の日であり、日曜日です。この瞬間に生きることができることを感謝します。西暦は四、五年の狂いがあると言われていますが、これも神の摂理の中にあります。二十世紀を終え、二十一世紀に希望を持って進みたいと願います。このメッセージが、21世紀に対して預言的に聖霊様が語って下さるように祈ります。
 この詩篇の御言葉は、二十世紀を振り返るときの私たちの心から出る神への祈りのような気がします。

『帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。』

今、「千年」という一つの単位が終わり、次の千年期に入ろうとしています。詩篇九十篇四節に、

『まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。』

とありますので、神にとっては一瞬のようです。しかし、私たちにとっては一つの時代が過ぎ去り、次の時代に入る歴史的な瞬間です。さて、二十世紀という百年を見ると、色々なことが起こった激動の時代でした。
 皆さんにとって二十世紀はどのような時代でしたでしょうか。私たちが地上に生まれた意味深い世紀です。この二十世紀に、『あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。』という御言葉と照らし合わせる時、あまりにもこの二十世紀は戦いが続き悲しみが多い世紀でもありました。二十世紀は戦争と共に幕開けしたと言っても過言ではありません。日本においても、一九〇四年に日露戦争が勃発し、戦争から始まっています。百年に二回の世界大戦が起こり、世界が戦火に包まれました。一九一四年から一九一八年までは第一次世界大戦、三九年から四五年は、第二次世界大戦が始まり、再び世界が戦火に包まれました。日本も四一年から四五年は太平洋戦争による苦しい時期を過ごしました。皆さんの中には、多くの太平洋戦争を経験された方もおられます。私は戦争を知らない子ども達のひとりで、戦争が終わってから生まれました。新城市に隣接する豊川市は爆撃を受け、若い命が多く失われました。周りにも多くの戦死したり、戦争によって苦しい経験をされた方々が多くおられます。そのような悲惨な事件が多く起こった時代でした。一九四五年八月十四日に日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争は終わりましたが、その後も世界には平和は来ませんでした。朝鮮戦争をきっかけに、東西冷戦が続きました。
 私が小学六年頃、「キューバ危機」がありました。ソ連がアメリカに近接するキューバにミサイル基地を作り、核弾頭を運び込もうとしました。それをアメリカは阻止しようと艦隊を出し、一触一発で核戦争が起こる危機がありました。私は小学生ながら、いよいよ世が終わるのではという、危機感がありました。世界中が息を潜めて手に汗握る瞬間でした。ソ連の艦隊が引き返した時は嬉しかったです。その時、核戦争からは守られましたが、東西冷戦は激しさを増し、多くの新しい兵器が開発され、地球を何十回も焼き滅ぼしてしまうような兵器ができたのも二十世紀でした。また、その後も、ベトナム戦争や度重なる中東戦争など、血で地を洗うような戦いが世界各地で続きました。イランとイラクが長い間戦争をしたり、湾岸戦争など毎年、新しい戦争が起きました。その間、民族戦争によって民族同士が殺し合うような悲惨なニュースは絶え間なく続きました。二十世紀にテーマをつけるとしたら、「戦争」というテーマかもしれません。結果として、私たち人類の中に、悲しみ、苦しみ、そして、死というテーマとなりました。
 同時に二十世紀には、多くの自然災害がありました。日本においては大地震を二回体験しました。一九二三年には関東大震災があり、九五年は記憶にも新しい阪神大震災が起こり、五千人以上が亡くなりました。二十世紀は年を追う毎に地震の数が多くなりました。
 一九五九年には伊勢湾台風があり、多くの方々が亡くなりました。雨戸を押さえていなくては家が飛んでしまうような状況でした。私は何も知らずに寝ていましたが、朝起きたら周りが全部なくなっていました。火山もよく噴火し、二十世紀は自然災害という面で大きな変動がありました。
 聖書は終末について預言しています。終わりの日にどのようなことが起こるかについて教えています。イエス様の所に弟子達が来て、「イエス様。終わりの日にどのようなことが起こりますか。」と質問しました。どの時代にあっても、人々は終わりの時代について興味があるようです。世が終わってしまうのではないかという恐怖がいつもあります。だから本屋さんにいくと、終末についてのコーナーは本が平積みで置いてあり、そのことについての人々の関心の高さが伺えます。世紀が移るときには特に、不安がかき立てられる時だと思います。イエス様は、世の終わりにどのようなサインがあるのかについて話されました。それは、「戦争の噂を聞きます。地震があります」と預言されました。ある意味でそれは二十世紀に成就したかもしれません。
 聖書は預言の書物です。神が預言者を通して人類に語られた書物が聖書です。聖書の預言は近未来、遠い未来、永遠の世界にまで続くものです。聖書の預言は成就したら消えてしまうようなものではありません。『神のことばは永遠に立つ』とありますので、聖書の預言は一度成就したら何の効果もなくなってしまうものとは違います。近未来に成就し、遠い未来、また、永遠の世界にまで続く神の言葉です。
 イエス様がお生まれになる五百年くらい前に、ヨエルという預言者がいました。(ヨエルの年代については、幾つかの説がありますが)ヨエルが終わりの時代に起こることを預言しました。それは今から二千年前に成就しました。しかし、その成就はサンプルであり、本当は、世の終わりに際して実現する預言でした。ヨエル書二章二十八節から三十二節に、

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。』

 これはペンテコステの時に実現した御言葉です。しかし、それは永遠の計画の始まりとも言うべき出来事でした。かつてモーセが多くの民と共にエジプトの荒野を旅している時に、「ああ、皆が神の霊を受けたら良いのに。」と言いました。イスラエルの民族は荒野を移動していきました。男だけでも六十万人とありますので、女性や子どもを入れると、二百万人位の集団であったかも知れません。しかし、そんな中で神の霊に導かれていた人物はモーセ以外にありませんでした。二百万人近い人々は神の霊に導かれていませんでした。だから、どんなに神様の偉大な奇蹟を見ても、出るのは不平不満ばかりでした。朝にはマナが降ってくるし、うずらも飛んでくる。水は出る。エジプトを出るときには紅海が真二つに裂けるような大奇蹟を見、昼は雲の柱、夜は火の柱が立っていながら、彼らはいつも不平不満に満ちていました。「なぜ、神様はこんな所に私たちを連れてきたのだ。私たちを殺す気か。エジプトには墓がないから荒野に連れてきたのか・・・。」神の栄光を見ていながら、彼らは神を認めることも神の臨在を喜ぶこともありませんでした。なぜならば、神の霊が人の中に住まわれるという時代ではなかったからです。特定の人物、モーセのみに神の霊が下っていました。モーセは、「ああ、すべての民が私と同じように神の霊を受けていたら良いのに。」と言いました。その後、七十人の長老達のグループに聖霊が下ったことが記録されていますが、すべての人に聖霊が下るようなことはありませんでした。しかしヨエルは、

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。』

と預言しました。やがてすべての人に聖霊が臨まれると預言しました。これは身分が高いとか低いとか、どのようなポジションにあるとか関係なく、すべての人々に聖霊が臨む時代が来ると預言したのです。そして、まさにモーセの祈りが実現したかのように、使徒の働き二章をみると神の霊が人に下ったのです。しかし、これは始まりでした。先に述べたように、聖書の預言は近い未来と遠い未来・永遠に向かってあります。
 イエス様が生まれる五百年前、ヨエルによって預言された、最初の成就がペンテコステでした。一二〇人が二階座敷で祈っていたときに、聖霊が注がれました。皆、聖霊に満たされ、福音宣教が始まりました。
 さて先に、二十世紀は、戦いの年、自然災害の多い年、苦しみと悲しみの年であったと話しました。しかし、「神の霊が注がれる」という視点から二十世紀を見ると、一方では神の霊の傾注から世紀が始まっています。今、プロテスタントの世界人口は、七億五千万人です。そして、その七十パーセント、五億四千万人が聖霊の働きを認めているペンテコステ・カリスマ、聖霊派と言われる教会に属しています。「現代でも主が働いて下さる」という信仰に立つ教会に属しています。あなたは、今も聖霊様が働かれ、癒し、奇蹟を起こされると信じますか。「アーメン!」これを信じなくてはクリスチャンをやっている意味がありません。私たちが神様を信じたといっても何も起きず、聖霊様の助けもなかったら、そんな苦しい信仰生活は価値がないように思います。今でも神様は昔と同じように働かれます。奇蹟をもって働いて下さる神様です。そのような信仰を持っているクリスチャンは、全クリスチャン人口の七十パーセントを占めるようになったのです。
 聖霊の働きが広がったのがこの二十世紀です。なぜならば、この二十世紀の初め、一九〇一年一月一日に、アメリカのカンザス州トペカのベテル神学校に聖霊が注がれました。神学生が祈っている祈祷会に聖霊が注がれ、生徒達が他国の言葉で話し始めました。一人の生徒はアメリカ人でしたが、中国語で話し出し、何日間も英語が話せなくなって中国語だけ話したそうです。勉強しなくても聖霊によって中国語を話していたと言うのです。
 使徒の働き二章で弟子達は、外人がわかる外国語を話し出しました。それは世界宣教の始まりの預言的現れでした。
 トペカの火は広がり、一九〇六年、ロサンゼルスのアズサストリートで近代ペンテコステ運動の原点とも言うべき、大リバイバルが起こりました。そこで人々は聖霊様に触れられ変えられていきました。それは二十世紀の始めの日、一九〇一年一月一日に下った聖霊の火が六年後には大きな川のようになって世界中に流れ出したのでした。
 その時、世界中からアズサ・ストリートのリバイバルを見に来たそうです。北欧から船を乗り継いであるグループが見に来たそうです。そして、聖霊様に触れられてスウェーデンに帰りました。それでリバイバルが起こされたそうです。小さな村にリバイバルが起き、村人は森で仕事をしている最中に罪が示され、祈りたくなり教会に集まってきました。何と、村中の人々が集まり悔い改めが始まり、やがて多くの人が救われ小さな村から多くの宣教師が世界中に遣わさました。
 戦後、日本に多くのスウェーデンからの宣教師が来ましたが、彼らはその流れでした。ということは、日本の宣教もある意味で、一九〇一年一月一日に下った聖霊の流れの中で始められたといえます。その流れはどんどん広がり、プロテスタント人口の七十パーセントが聖霊派の教会と変えられました。このように、二十世紀は聖霊の注ぎと共に始まったのです。
 私たちの教会にも、九二年二月十三日に愛知県民の森で祈っていたときに、「ゴー」という音と共に聖霊様が訪れられました。その時の祈祷会は、始めは三十人くらいで始めましたが、一人減り、二人減り・・と、最後の日はたったの八人でした。しかし、その後、聖霊様の働きは広がっていきました。その流れの中、日本のリバイバルの幕開けとも言える甲子園ミッションが開催されました。その後、九四年から九七年は地方ミッション、九八年には日本武道館で十日間の東京ミッション、そして、今年は「スーパーミッション東京」が四十日間、大阪が四日間行われました。その間、五〇〇〇回以上にも渡る決起大会が全日本で持たれました。これは聖霊様の働き意外ありません。日本においても、二十世紀は聖霊の働きの世紀でした。
 このように、二十世紀にあった色々な苦しみ悲しみ、同時に、「神の霊の働き」を合わせてヨエルの預言と照らし合わすと、新しい世紀に向けてのご神の計画が見えてくるように思います。
 現代は聖霊様に触れていただくことは難しいことではないと思います。昔は聖霊様に触れていただくためには真剣に断食して祈り、神の前で悔い改め、難行苦行しないと触れていただけないように思っていました。だから、始めから私はあきらめていました。私はよく、「順は悪知恵が働くけれど、聖霊に満たされていないからだめだ。」
 私は聖霊様とは無縁のものでした。「聖霊は頭の良い人には触れない。触れられるのは単純な人だ」と負け惜しみを言っていました。しかし、それは違います。すべての人に聖霊様は触れて下さると書かれています。今世紀末、こんな私にも聖霊様が触れて下さいました。今は教会に来られる全ての人に聖霊様が訪れて下さいます。子どもたちは大人より、ずっと聖霊の満たしがあり、霊的な目が開かれており、油注がれていると思います。これから更に聖霊様の働きが強くなります。
 ヨエル書を見ると、聖霊が注がれるということと同時に、

『わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。』

と書かれています。イスラエルには二回の雨期があります。それは初めの雨と後の雨です。イスラエルの雨期と合わせて聖霊様の注ぎは預言されました。初めの雨はペンテコステ、後の雨は今の時です。『わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。』これは「天変地異」であり、「血と火と煙の柱」とは「戦争」のことではないかと言われます。二十世紀は「天変地異と戦争」の百年でした。

『主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。』

と書かれています。これは、その後、起こってくることです。
 「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」とは、リバイバルです。今まで、条件として、「聖霊が注がれ」、「天変地異、戦争」・・・そして、『主の名を呼ぶ者はみな救われる』と続いています。
 「主よいつまでですか。いつまでこの状況が続くのですか」と苦しみの中で主を呼びも求めたのが二十世紀の歴史だったかも知れません。隣の国、韓国ではリバイバルが起こっていますが、その背景には朝鮮動乱があり、国民的な苦しみがあり、「神様助けて下さい、私たちの民族を憐れんで下さい」と求める中で、神の訪れがありました。二十世紀は地球に住む者が、「神様助けて下さい。憐れんで下さい」と叫んだ結果、聖霊が注がれた世紀でした。そして、『しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる』と続いているのは、二十一世紀は本格的なリバイバルが始まる世紀だと信じます。
 詩篇九十篇にあるように、

『あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。』

今まで多くの苦しみ悲しみがあったかも知れませんが、今度、二十一世紀では、「あなたがたが苦しみ、悲しみにあった年々に応じてあなたがたを楽しませてあげる」と言われるのです。「主の名を呼ぶ者は救われる」という預言が現実的になる年であると信じます。神の言葉によってすべてが支配されるとしたら、二十一世紀も神の言葉によって支配されるのではないでしょうか。

『帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。』

と書かれています。やがて私たちの主は帰って来られます。イエス様は雲に乗って帰って来られます。私たちの生きているうちにイエス様が再臨されるかも知れません。私たちはいつイエス様が帰ってこられても、主の前に立つことができるように準備するべきです。しかし、「今日、再臨があったら残されるのではないか」と恐れないで下さい。「主の名を呼ぶ者はみな救われる」のですから。イエス様を自分の救い主として信じているならば、あなたは救われており、残されることはありません。
 昔、私はよく脅かされました。「そんな信仰生活では、再臨の時、学校から帰ってきたときにお父さん、お母さんがいないかもしれない」と言われました。あまりその教育は良くないことです。恐怖になっていました。しかし、それで守られていたこともありますが。
 家に帰ってだれもいなかったときは驚きました。だから、私はそんな時のために、二つのチェックポイントを持っていました。それは見城さんと岡本さん宅でした。そこに誰かがいれば、再臨はないか、もしくは、自分と共に大艱難時代を助け合って過ごす仲間がいるということです。当時、岡本さんの家はおじいさんだけクリスチャンではありませんでした。ある時、焦ったことがありました。家に帰ると、誰もいませんでした。「再臨かな」と思い、見城さんに行って「誰かいますか。」と言いました。誰の声もしませんでした。その時、さすがに冷たいものが背中に走りました。それで、岡本さんに行って、「誰かいますか。」というと、その時に限っておじいさんが出て来て、「何か用か?」と言われました。とても驚きました。
 この二十一世紀、イエス様がお帰りになるかも知れません。毎日準備していて下さい。しかし、恐れなくても良いのです。「主の名を呼び求める者はみな救われる」のです。今日皆さんがイエス様を信じているならば、必ず天で会うことができるのです。特にこのような、礼拝の時に主が帰ってこられたら嬉しいことです。しかし、私はまだイエス様に帰ってきて欲しいとは思いません。日本の九十九パーセント以上が主を知らないからです。多くの人が苦しみ悲しんでいます。だから二十一世紀はヨエル書の『しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。』という御言葉のように、大リバイバルが起こって欲しいのです。本当に、「主よ。リバイバルを起こして下さい」「年々を償って下さい」という祈りが、昨日、今日の礼拝の準備をしているときに与えられました。
 今日、私の語ったメッセージが、二十一世紀中、現実的に起こされるように祈って下さい。皆さんが、今まで苦しみ悲しみ、苦労されてきたかも知れませんが、その年々に応じてあなたを楽しませて下さると信じて下さい。『主の名を呼ぶ者はみな救われる』と聖霊を注ぎ、あなたを癒し、解放し、回復し、主の臨在の中で導こうとされています。あなたに語られた言葉として受け取って下さい。
 この二十世紀を終えるに当たり、感謝と共に神の前に回復を祈る必要を覚えます。二十一世紀はそのようになりますように。神様の祝福がありますように祈ります。

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