今週の礼拝メッセージ
2001.1.14(SUN)
聖霊に満たされよう!
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 使徒の働き1章1節〜8節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。

 ハレルヤ!皆さんの祈りに支えられ、守られていることを感謝します。新しい年が始まって二週間になりますが、先週私は、南足柄で奉仕させていただきました。
 今日は聖霊について話します。聖霊に満たされることはとても重要です。神は人を土で造り、中に息を吹き込まれました。その時人は生き物となりました。しかし、罪を犯した結果として、人から神の息が去ってしまいました。それから人類に不幸が起こってきました。しかし、ペンテコステの時に神の息がもう一度、人にとどまるように回復されました。それにより、私たちの本質的なものが生かされました。聖霊に満たされると、人生に新たなる展開が起こります。弟子たちはイエス様と共に三年半生活しましたが、最も重要な十字架の時にイエス様を裏切ってしまいました。しかし、聖霊に満たされたとき彼らは、力強い主の証人となりました。
 皆さんはもうすでにイエス様と出会っています。これは最も大切なことです。しかし、イエス様だけではいけません。なぜなら今、イエス様はこの地上にはおられず、天にお帰りになったからです。私たちの神様は三位一体なる方です。父なる神、子なる神、聖霊なる神が三位一体で働いておられます。旧約聖書は父なる神がご自身を現わされた時代でした。福音書は神の子が肉体をとって歩んで下さった記録です。そして、使徒の働きは、神の霊、聖霊様の時代です。ということは、今の時代にどうしても必要なことは、聖霊に満たされることです。聖霊に満たされなかったら、クリスチャンの「ク」は「苦」になってしまいます。しかし、聖霊に満たされたら、人生は変わります。聖霊に満たされて下さい。聖霊によって生きて下さい。弟子たちも聖霊によって変えられました。
 「使徒の働き」を読むと感動します。三章には、美しの門の門前で生まれつき足の利かない男がイエス・キリストの御名によって立ち上がったという奇跡が記されています。その奇跡が起きたことによって大騒動が起こり、弟子たちは捕らえられ時の指導者たちから裁判を受けるはめとなりました。そのことが四章五節から書かれています。

『翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら・・』

と続いています。ペテロは尋問されたとき、大胆に指導者たちに弁明しています。そして、

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」』

と語り、結論として、

『ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」』

と語りました。彼らが聖霊に満たされてからは、何者も恐れず大胆に福音を宣べ伝え始めました。彼らがイエス様と共にいたときは羽振りよく見えましたが、大胆に民の前で証できませんでした。しかし、聖霊に満たされたときには、民の指導者たちの前で大胆に語りました。私も聖霊に満たされ、大胆に福音を伝えたいと思います。
 しかし、聖書は特殊な世界であり、登場人物は特別神から選ばれた人たちだから、そんなものだろう、と思うかも知れません。しかし、聖書に出てくる人物は決して特殊ではありません。私たちと同じ血肉を持った人たちです。ペテロはどのような人物でしたか。民の指導者の前で大胆に語った、数週間前のペテロを見ましょう。ヨハネ十八章二十四節から二十五節に、

『アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。』

これはイエス様が十字架につく少し前のペテロの態度です。アンナスという大祭司がイエス様を縛って、大祭司カヤパの官邸に連れて行った時です。ペテロはカヤパの官邸の焚き火にあたって暖まっていました。すると、「お前はイエスと共に行動をしていた人ではないか。」と聞かれました。すると、彼は、「私はイエスを知らない」と三度も否定しました。しかし、使徒四章六節には、

『大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。』

同じ人物の前でペテロは、「あなたたちは誰の名でこんな事をしているのか」と訪ねられると、「私たちが見たこと聞いたことを話さないわけにはいかない」と大胆に語りました。
人間は数週間でそう簡単には変わらないものです。しかし、その真ん中に聖霊の降臨がありました。そこで弟子たちは瞬時に変えられたのです。
 人は瞬時に変えられるでしょうか・・・無理だろうと考えます。しかし、聖霊様の働きは人を瞬時に変えるのです。聖霊様が圧倒的に来られるときに、人は瞬時に変えられます!先週、南足柄の教会に行きましたが、その教会はかつて、聖霊の働きについては関心がありませんでした。何年か前に、私たちはその教会の近くの施設で、霊的戦いセミナーを開催しました。その時、その教会のご婦人が様子を見に来たのです。元気の良い賛美に圧倒されたそうですが、感動を受けて帰られたそうです。彼女の住んでいる町は、山を越えた反対側です。彼女の車が山の上に差しかかったとき、神が彼女の霊の目を突然開かれました。すると、町を黒い雲が覆っており、鎧甲をつけた侍たちが町を包囲している様子を見たそうです。すると神様が、「町は悪霊に支配されているから、戦って祈らなくてはならない」と語られました。彼女は驚きましたが、それから祈り始めたそうです。教会の中でも祈り始めました。「神様、教会を変えて下さい・・・」伝統的な教会で、聖霊の働きや霊的戦いについて全く関心のない教会でしたが、ひとりの女性が祈り始めたのです。その時、聖霊様が働き始めました。あるとき、教会の友人達を新城に連れて来られました。目的は、「付近でキャンプをするので教会に泊めて下さい」と言われました。折しも、その週は私たちにとって年間三日しかない、貴重な夏休みでした。「こんな時に」と思いながらも、部屋をお貸ししたのですが、今度は、「先生、水曜日には県民の森祈祷会があると聞いていますが、ありますか。」と言われました。私は、「ありません」と言いたいところでしたが、真剣な眼差しで言われるので、「あります・・」と弱々しく答えました。すると、「ぜひ、行きたい」と言われるのです。スタッフも休みだったので、何とか、いろいろな人に声をかけ小さな祈り会をしました。あまり聖霊様について理解がない人たちだから、つまずきを与えてはいけないと思い、どうやって祈祷会を導いて良いのかわかりませんでした。しかし、最後に「聖霊様。この場所に来て下さい」と祈りました。するとその時に不思議なことが起こりました。天が開かれたのです。聖霊様が臨まれ、突然、彼らが地に激しく叩きつけられるように倒されました。私も驚きました。しかしその時から、教会が変えられました。今、その教会は無牧(牧師がいない)の教会ですが、去年は十数名の方々が救われて洗礼を受けられました。祈祷会に行って良かったと思いました。
 「今日は祈祷会を止めようか」とか、「教会に行くのを止めようか」という時は、案外新しいことが起こるときであり、見えない世界で悪魔が引き止めているときでもあります。何れにしても、神様は人を瞬間的に変えることができます。
 使徒の働き一章、二章前後を見ると、聖霊様に触れられるプロセスを学ぶことが出来ます。そこには、欠かせない条件が書かれています。それは、弟子たちを中心に百二十人がイエス様から聞いた約束を信じて待ち望み、祈り続けていました。イエス様が天に帰る前に、「わたしは天に帰るけれど、あなたがたに助け主聖霊を送ります。だから、にとどまって祈っていなさい」と言われた約束を信じました。ここに、「待ち望んで」祈る姿を見ることができます。
 現代社会は「待つ」ことに不得意な時代です。現代人の待つ限界は三分です。ですからインスタント・ラーメンも三分に設定されています。五分待てないために、三分が限界のようです。先週リバイバル聖書神学校があり、新年ということで夕食に鍋物が出ました。水から炊き始まりなかなか沸騰しませんでした。一つの鍋の周りに十人くらいが待っていましたが、辛かったです。待つことは不得意だと思いました。私たちはなかなか待つことができないものです。しかし、彼らは待っていました。それも「十日間」という保証もありませんでした。ただ、信じて待っていたのです。待ち望むときに聖霊様が来て下さいます。私たちは聖霊様を待ち望まなければなりません。主ご自身を待ち望まなくてはなりません。その時、主は、突如として天を開いて下さいます。色々な困難や問題の中にある方もあるかも知れません。しかし、待ち望んで下さい。『主を待ち望むものは新しく力を得る。』と約束されています。主は私たちに忍耐を強いられるときがあります。それはただ、我慢して待っているということではありません。祈ることです。
 私は朝、東京から帰ってきました。昨日は純福音東京教会で奉仕させていただきました。韓国に世界最大の七十万人が集まっているチョー・ヨンギ師の教会がありますが、その支部教会です。今回はダニエル大聖会と題して二十一日連続の聖会が行われました。ダニエルが二十一日間、自分の国の未来について祈りました。「神様、私たちの国はどうなるのですか」と祈っていました。すると二十一日後に主が語って下さったとダニエル書十章に書かれています。それを実際に実行しようということで、元旦から二十一日間毎日、昼と夜、二回の祈祷会を持っています。昨日は十三日目でした。あと一週間ですが、燃えていました。本気で主を求めている姿を見て感動しました。今年で四年目だそうです。韓国から日本に来て、日本の宣教は難しいですが、そこに千数百人もが集まっています。私は韓国語の通訳がつくと思っていましたが、皆、日本語で話してもよくわかり、また、日本人の方も多く来られていました。アーメン。ハレルヤ!と恵まれていました。私たちも待ち望まなくてはなりません。いつか私たちの教会でも、二十一日間連続祈祷会をしたら良いでしょう。破れが来てリバイバルが起こるかも知れません。その時は一緒に祈りましょう。
 待ち望んで祈るときに主が天を開かれるという法則があるようです。彼らは一つところに集まっていました。
 聖霊が下る一つの条件の中に、「場所」というのがあると思います。彼らが二階座敷に集まり祈っていたときに、聖霊が注がれました。彼らはあちらこちらに行ったのではなく、「一つの場所」で祈ったというのは、そのような法則があるのかも知れません。
 私たちも聖霊を受けたときに、「愛知県民の森」というところで何年も祈っていました。その時に天が開かれ、それ以来、聖霊の油注ぎが変わらず私たちの中にあります。
やはり場所は大切です。悪魔も真剣に場所を奪い取ろうとします。しかし、神様も場所を選ばれます。皆さんも祈りの場所を設定して下さい。場所を設定するときに天が開かれます。また、天が開かれた場所に来ることは素晴らしい恵みです。彼らが一つの場所にとどまって十日間祈り続けたときに、二節に、

『すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

と書かれています。ここで起こったことを分析してみると、まず、「祈り」でした。また「場所」でした。そして、「激しい風」が吹いてきたというのです。「風」とは聖霊の働きです。風が吹いたときに「響き」が起こりました。響きが起こると、次に、「炎のような舌」が現われたと書かれています。そして、「他国の言葉」で話しだしたと書かれています。この条件を並べてみると、私たちが声を出すプロセスによく似ています。私は今、声を出していますが、これは声帯に肺から息がふきかけ、その風が声帯を通るときに響きが起こってます。しかし、響きだけでは声になりません。言葉に変えられるのは「舌」の働きです。舌が切れてしまうと言葉になりません。舌がうまく響きをコントロールすると言葉になります。舌はおもしろいものです。私は舌一枚で生きています。これがなくては商売になりません。日本人は日本語を舌でかもし出していきますし、ブラジル人はこの同じ舌で、ポルトガル語を話し、ペルーの方はスペイン語を話し、アメリカ人は英語を話し、韓国人は韓国語、三河人は三河弁を話し・・、「舌」により響きはコントロールされます。聖霊様の働きはある意味で、言葉との関連性があると言えます。そして、このプロセスは聖霊様の働かれるプロセスを教えています。
 ・・・ある場所に聖霊様が訪れられると、まずは響き、物音状態が起こります。ある意味でそれは、混沌とした状態かも知れません。なぜならば、この響きが起こったときに、エルサレム中の人が集まってきて、「驚きあきれてしまった」また、「彼らは驚き怪しんで言った」と書かれているからです。
 聖霊様が私たちに訪れると、まだ言葉になっていない「響きの状況」がそのプロセス上にあるのかも知れません。「これは怪しい。大丈夫なのだろうか」というような、混沌とした状況が起こってくるかも知れません。
 私たちが聖霊様に触れられたときもそうでした。始めは混沌とした状況がありました。続けて、霊的戦いが起こってきて、何が何だかわかりませんでした。「これで良いのだろうか」と周りの人たちは驚き怪しんだ状況がありました。しかし、聖霊様の働きは、そのような混沌とした驚き怪しむ状況だけで絶対に終わらない、ということです。そのあと「舌」が現れたという意味は、「コントロール機能」が加わり、はっきりとした言葉に変わってくるのです。
 聖霊様が新城教会に訪れて下さり、霊的戦いが起こりました。これから何が起こるのだろうか。皆が驚き怪しみましたが、不思議と舌を与えて下さいました。段々それがコントロールされてきました。そして、それを「言葉」にしてくださいました。
 私は今、リバイバル聖書神学校で毎月、霊的戦いについて生徒たちに教えています。それはなかなか大変です。毎月毎月、違ったことを話すのは難しい事です。いつも主に祈って求めて教えています。その働きが約五年になります。
 二〇〇一年にリバイバルミッションが何をすべきだろうか、「国のリバイバルのために何をすべきですか」と昨年の暮れに実行委員一同で祈り求めました。「優先順位として何をすべきでしょうか」と祈りました。その時、神様が語って下さったのは、「主がこの場所で始めて下さった霊的戦いを、全日本にもっと教えなければならない」でした。今年のメインのテーマは、「霊的戦いを日本の教会に知っていただきたい」特に、教会というよりも「先生方」に知っていただきたい。だからそのために働こうという話をしました。それで、二月には全国の霊的戦いに対してすでに開かれている先生方を集めて、三日間のセミナーを開催します。それは、ある意味で言葉としての現れです。始めは混沌としていた響きを、主が「言葉」として下さいました。感謝しています。そのことによって、霊的戦いが進んでいくように祈って下さい。
 私は霊的戦いのために働いていますが、聖霊が人に触れるときに、ある時には大混乱が起こることがあります。しかし、それだけに終わらず、必ずコントロールされ、言葉になります。言葉とは、力ある神の言葉となって外に出されます。神が『光りあれ。』と言ったときに、本当に光が出て世界を照らしました。神の言葉として、業が現されました。
 先週、神学校で大変素晴らしい証を聞きました。十一月のことでした。一人の関西から来られてる神学生が私のところに来て、「先生祈って下さい。私の愛しているお父さんがガンになってしまいました。神学校が終わってから手術があるので祈って下さい。腸の難しい部分にガンがあるので祈って下さい。」と言われました。彼女は悲しんでいました。まだお父さんはイエス様を信じていないので、ぜひ、祈って下さいというのです。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と約束されています。家族の一人の救いは家族の救いと関連性があります。そして、「救いとは解放です」そして、「解放とは、サタンの手からの解放」です。病はもちろん医学的な領域もありますが、ほおっておけば死に追いやられていくような病には、必ず、病を後押しする力が働いています。その媒体は罪です。特に日本においては「偶像礼拝の罪」です。日本の多くの人の宗教が仏教です。仏教の中心は「死者礼拝」です。皆、先祖だと思って拝んでいますが、それは、「先祖のふりをした死の霊」です。仏教に関わっていると、「死」というテーマが家族に入りやすいのです。また、「神社」は地域的破壊や地域に起こった問題のゆえに建っていることが多いです。そのテーマは「破壊」です。ということは、神社の神様が地域を守ってくれる、と言っていますが実は、それが「地域を破壊する力」です。共同体を破壊する力です。ゆえに、日本人の中には「家族を破壊する力」と「共同体を破壊する力」の両面からの攻撃があります。恐ろしい事です。普通は、この力に対して、全く太刀打ちできません。しかし、イエス様は、破壊の力をもたらす悪霊を打ち破るために来て下さいました。だから、クリスチャンが家族の代表として祈るとき、家族の問題にも勝利できるのです。
 その方が代表して父親のために祈りました。「神様。助けて下さい。父がガンで苦しんでいます。助けて下さい。」そして、「家族の代表として、家族を束縛している死の
霊に立ち向かいます!」と祈りました。私も、「イエス様の名によって家族を束縛している死の霊よ。お父さんの背後で死をもたらそうとしている悪霊どもよ。よく聞け。お前は手を放せ!」と祈りました。その時、聖霊様が働かれました。始めは大混乱が起こりました。その娘さんが暴れ出しました。腹の底から出るような声で、「嫌だ!嫌だ!絶対に出て行かないぞ。手を離さないぞ!」と関西弁で叫んでいました。癒しを受け取りたいと願っている娘が「嫌だ!」と叫んでのたうちまわっているのです。
 聖霊様が来られるときに、背後で隠れて働いている悪霊が現わされるのです。それを見て、私は嬉しく思いました。「主が勝利を現して下さった」と信じました。それから忙しかったので、私もそのことを忘れていました。
 今回、神学校で彼女が報告に来ました。「お父さんは手術の前に、もう一度検査をしました。前回に取った部分より更に大きく病気の部分を取り出して再検査したそうです。すると、不思議なことが起こりました。前回あったガン細胞は消えて、「所見なし」という結果であったそうです。その意味は、全く正常で何も悪い細胞がないということです。全く正常だったというのです。それを聞いてお父さんは驚きました。
 結果が出る前に、娘が父親に言ったそうです。「神学校でお父さんのために祈ってもらったら、悪霊が出てきたよ。大丈夫だと思うよ。」「そんなことは信じられない」とお父さんは言っていたそうです。クリスチャンではないので、信じられなかったのです。しかし、検査をしたときに全くいやされていたことを知って、「本当に神様が生きている」と、父さんはイエス様を信じたそうです。
 聖霊様の働きは、始めは混沌としていました。しかし、最終的にはコントロールされて、『証の言葉によって彼に打ち勝った』という御言葉がありますが、「証の言葉」となって主は結果を現して下さいました。聖霊様の力を受けるときに、結果として「言葉」となって「力」となって、人生の中に現れて下さるのです。今日、聖霊の力を受けるときに新しいことが始まります。
 弟子たちも聖霊の力を受けたとき、力強く福音を宣べ伝え始めました。二章後半は、ペテロが多くの人の前で福音を語っています。「あなたがたが十字架につけたイエスこそメシヤであった。あなたがたは悔い改めなくてはならない。」と語りました。神の霊が注がれているのを見て、弟子達が力強く語っているのを見ては否定できませんでした。彼らは福音を聞き心打たれました。そして、二章二十七節に、

『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。』

「どうしたらいいでしょうか」と言っている群衆は、数週間前、イエス様を十字架につけた群衆でした。「お前たちが十字架につけたイエス様こそ、待ち望んでいたメシヤだった。救い主だ。それを、おまえ達は十字架にかけて殺してしまったのだ。そんな大変なことをしたのだ。」・・・「それでは、どうしたらいいのだ。私たちは取り返しのつかないことをした・・・。」
 弟子たちが彼らに対して権威をとりました。これまで自分たちをいじめていた群衆が足下にひれ伏して来ました。自分たちを迫害していた者たちが、「兄弟たち。私たちは何をしたらいいでしょうか。」とひれ伏しているのです。普通ならどうでしょうか。鬼の首を取ったようなもので、「ざまあみろ。お前ら。土下座して謝れ。」「賠償金をよこせ。」などと色々言えたと思います。この状況だったら、言いたい放題だと思います。「顔を一発殴らせてくれ・・・。」とやりたいだけ、やれる状態だと思います。
 しかし、その時にペテロの答えが震っています。三十九節に、

『そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』

 この答えについて良く考えてみて下さい。悔い改めてイエス様を信じたら、『賜物として聖霊を受けるでしょう。』と言っているのです。ペテロが聖霊を受けたのは、ほんの一時間〜二時間前のことです。それを、「あなたがたが受ける」と言っています。何と、劇的なメッセージでしょうか。その後、三千人がバプテスマを受けた、とありますが、その後、全員が聖霊を受けたはずです。「兄弟たち何をしたらいいですか」・・「悔い改めたら私たちと同じように聖霊があなたがたにも注がれる」と言っています。
 聖霊様は不思議なお方です。これが神のなさる「復讐」です。人間の復讐は怒りや怨念に満ちたものです。しかし、神の復讐は、その人を赦し、「聖霊で満たす」ものです。私たちも罪を犯し、汚れた者かも知れませんが、悔い改めて聖霊を求めたら、「誰でも聖霊を注いであげる」ということです。イエス様を十字架につけ、あざけっていたような群衆たちでさえ、聖霊を受けたのです。私たちが聖霊を受けないはずがありません。彼ら聖霊に満たされて進んでいった姿の中に、私たちは希望を見い出します。私たちの教会の中にも聖霊様が強く働かれますように。日本に聖霊様が満ち溢れて下さいますように。
 聖霊が注がれて三千人が弟子として加えられたとき、四十三節、

『そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。』

と書かれています。そこに不思議と奇蹟が伴っていました。そして、「一切のものが共有され」ていました。これは物質的なものだけではなく、「霊的な賜物」も「共有」されました。だから、不思議な主の業が進んでいったのです。私たちが聖霊を受けるときに、霊的な賜物が共有されます。それにより、宣教が進んでいきます。今年、一人一人が聖霊に満たされる時、霊的な賜物が共有化され、イエス・キリストを頭とする、各器官として神の教会が建てあげられていくと確信します。聖霊様を求めて祈りましょう。

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