今週の礼拝メッセージ
2001.1.21(SUN)
わたしのところに来なさい
新城教会牧師 滝元明牧師

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 マタイの福音書 11章28節〜30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 ハレルヤ!今朝皆さんとともに礼拝できることを感謝します。来週私はアメリカに行って奉仕します。サンノゼの日本人のための聖会や、韓国の教会に招かれたり、ロサンゼルスの土屋先生の教会でも奉仕します。特に午後からは聖会があります、ロンさんやイボンヌさんも来られて、賛美チームも一緒の聖会です。守られるようにぜひお祈り下さい。
 今日は、「わたしのところに来なさい」というテーマで御言葉を学びます。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』
 人生の中には疲れや心配事があります。きよくなりたいと思ってもきよくなれない、又、家庭や夫婦、親子問題、経済、事業、健康など、人生には色々な問題があります。しかし、イエスさまが言われたことは、
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』
これはクリスチャンであっても、クリスチャンではなくても、全ての人に対するイエス様の招きの言葉です。素晴らしい御言葉です。
『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』
偶像の神々は罰を当てると脅かしたり、恐い顔をしています。しかしイエス様は、「心優しくへりくだっているから安心しなさい」と語ってます。文語体の聖書には、『我は柔和にして心低ければ・・・。』と書かれています。『すべて疲れた人と重荷を負っている人』の「疲れた人」というところに注釈があり、「疲れ果てている人」と書かれています。
 人生は荷車を引いていくようなものです。今ならリヤカーのようなものだと思います。子どもの時、荷物はそれ程ではありませんが、高校、大学、社会人と進んで行く中で色々な問題がリヤカーの中に入り疲れて、「もう引けない駄目だ」ということがあります。そういう疲れたときにイエス様がそばに来て、「疲れたでしょう。重たいでしょう。私が一緒に引いてあげましょうか」という招きです。イエス様があなたの人生に入ってあなたと一緒に荷車を引いてあげるというのがイエス様の招きです。その時に、「お願いします。私は疲れています。私だけの力では何ともできません。イエス様が入ってください」と言うならば、イエス様がともに引いて下さいます。中にある荷物は同じでも、イエス様が引いて下さったら楽になります。これが休みです。クリスチャンになっても問題が全てなくなるわけではありませんが、イエス様が私たちの中に入り、一緒に荷車を引いて下さったら平安な生活ができます。「私が一緒に引いてあげます」というのがイエス様の招きです。私たちに色々な悩みや問題がありますが、それら全てをイエス様にお委ねしてイエス様とともに歩んだら、必ず幸せになります。イエス様にすべてを明け渡してイエス様に入ってもらって下さい。素晴らしい人生を持つことができます。
 この季節、学生には重荷があります。高校受験や、今日は大学受験のためのセンター入試がありますが、勉強は重荷になっています。しかしイエス様は疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい、と語っていますのでこれからテストを迎えようとしている方はイエス様を迎え入れて、「イエス様お願いします。一緒に引いて下さい」とお祈りしたら、素晴らしい人生を楽しく歩むことができます。成績が良いか悪いかはあまり関係ありません。一人一人に賜物がありますので、与えられている賜物がどのよう生かされていくかが大切です。  私は田口農林学校を出ました。そこにいた先生が、「君たち。とにかく将来何か一つのことをやり遂げなさい。あの人に聞いたらこの事がわかる。何でもかんでもではなく、一つをしっかり勉強しなさい。浪花節ばかり歌っていないで・・・。」と私に当てつけて言われました。
 当時の私の趣味は浪花節でした。学校に通学するときによく歌っていました。私の母がクリスチャンになったときに、「明。お前は一番良いところに入ったな。」「どうして?」「お前は小さい頃からおしゃべりだったけど、口で稼ぐ仕事が与えられて一番良いではないか。」と言いました。小さい頃からおしゃべりだったのでよく親に怒られました。「うるさい。黙っておれ。口から生まれたようなやつで。」と言って随分怒られて、無言の業をさせられ、一時間黙っていたらこれだけあげると言われ、一時間黙っていようと頑張りましたが、一時間できずに十分くらい経つとまた話し出しました。母の心配は口の失敗でした。陰口やうわさ話、悪口で問題を起こしました。しかし私がイエス様にお会いしたときに、言葉を神様にささげました。私の使命は神の愛を人々に伝えることだと考えています。だから私がイエス様の道に入れたことは神様が下さった助けだと思っています。スポーツや芸術に秀でている人、法律的な知識や医学的な知識など色々なことがあります。皆さんの人生をイエス様にお委ねすることです。ヤコブの手紙一章五節に、
『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』
と書かれています。困ったときに知恵が欠けていたら、願い求めて下さい。そうしたら与えられます。  また、ダニエル書には神に信頼し、神の知恵を求めた人について書かれています。一章十七節からに
『神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。』
と書かれています。二十節には、
『王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。』
と書かれています。この少年たちは絶対に酒を飲まず、偶像にささげたものは食べないということで神に祈りながら勉強したので、神様は特別な知恵を与えたと書かれています。ですから、知恵に欠けている人は「神様。私に知恵を与えて下さい。どのように生きたら良いか教えて下さい。わたしが勉強するときにイエス様が入って下さい。一緒に勉強して下さい」と祈って下さい。そうすれば、イエス様が人生をともに歩んで下さいます。
『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。』
 最近は人を恐れる人がいます。対人恐怖症や引きこもりなど、人を恐れる人が多くいますが、イエス様が私たちの人生に入って下さったら、人を恐れることはありません。イエス様が共にいて下さるので心配することはありません。「イエス様。私は弱いです。私の人生にお入り下さい。よろしく導いて下さい」とイエス様に自分の人生を明け渡すことが必要です。
 私が小学生の時に、四キロ歩いて小学校まで通っていました。その内、約二キロは家がない寂しい山道でした。だから、私の記憶の中に冬は寒くて冷たくて、我慢して家に帰ると、母から「大変だったなあ」と言われ、涙が出てしまったような思い出があります。一、二年生の時に、一人ぼっちで山の中を歩くと恐かったです。お化けが出たら狸が出たらどうしようと思い、震えながら帰ったことを覚えています。しかし時々、私の帰りが遅いと、父親が迎えに来て、「明、遅いではないか。」と言ってくれたことを思い出します。父親が手を握ってくれて、一緒に歩くときには全く怖くありません。それは私が強くなったのではなく、強い父が共にいたからです。だから私たちも強い方イエス様がともに歩んだら恐いことはありません。そのような信仰を持って心配せず、イエス様に恐れを委ね、助けを受けて進むことができます。ヨシュア記一章五節に、
『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』
と書かれています。モーセという偉大な指導者がいました。モーセから働きを受け継いだヨシュアに神様が語られたことです。『モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。』と書かれています。天地を造られた真の神、天においても地においても一切の権威をもっておられるイエス様があなたとともにいるから、一生の間、あなたに立ちはだかるものはだれもいないと言われます。あなたが強いのではありません。イエス様がいて下さるからです。六節と七節に、
『強くあれ雄々しくあれ。』『ただ強く雄々しくあれ。』
と書かれています。また九節に、
『わたしはあたなに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。』
と書かれています。「雄々しくあれ 強くあれ 少年たちよ」という子ども賛美歌があります。なぜならば、イエス様がともにいて下さるからです。弱い人も今日から「イエス様が私のところに入って下さい。私は弱いけれどイエス様がともにいて下さるから強くなります。」
『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』
と書かれています。皆さんの人生の中に、どこにいてもイエス様が一緒にいて下さるというのです。
 先日、田中師とともに集会に行きました。その中でこんな事を話されました。先生は去年六月、脳内出血で倒れました。集中治療室に入り、とても寂しく苦しみを感じました。その時悪魔が来て、「お前はスーパーミッションで説教できない。お前の口はダメだ。手も足も動かない。もうお前の頭もダメだ。全部の記憶がなくなった。ミッションで説教できない。」と言われ、火の矢が打ち込まれ、足も口も動かないと思ったそうです。「手も足も動かない。口も・・・」と言われたときに、自分でも不安になったそうです。先生はふっと本当か嘘かやってみようと思い、使徒信条を読んだそうです。「我は全能の父なる神を信ず・・・葬られよみに下り。」と読んだら、全部読めたそうです。その時、丁度が「よみ」と言ったときに、ヨナが魚の中でよみから叫んだことを覚え、同時に、イエス様が「よみ」に下ったから、このような時にもイエス様が共にいて下さると信じたそうです。その時、先生に勝利が来ました。この病気の中にもイエス様がともにいて下さる。そして詩編二十三篇と一〇三篇を暗唱したそうです。「サタンよ。退け。」と祈りました。
 すると集中治療室には一日だけで出ることができました。医者が、「これは大変です。長くかかります」と言ったそうです。田中先生が運ばれたときに、ベッドがなかったので床に寝かされていたそうです。看護婦が医者に、「先生、この人はここで大丈夫ですか。」と言うと、医者が「大丈夫です。牧師さんだから。」と言ったそうです。そんな会話も全部聞こえていたそうです。今はいやされて素晴らしい説教をされています。「よみにも下った」方がどん底にあっても決して「見捨てない。見放さない」と語っておられました。自分の人生が最低と思われる方がおられるかも知れませんが、そうではなく、最高です。主がそこにおられます。あなたのことを知っておられるので、心配せずに恐れないでいきましょう。  東京ミッションで武道館で集会する前に一つの御言葉を読みました。
『その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。』
と読んだとき、『恐れてはならない。あなたはエルサレムでわたしのことを証したように』というのは、「甲子園」であり、『ローマでも・・・』というのは「東京」で、「あなたは証しなければならない」と教えられました。主がともにいて下さることがわかると、どのような大きな問題に直面しても、打ち勝つことができます。ですから、恐れないでいきましょう。
 ある方は生活の心配があるかも知れません。確かに今は不景気な時代です。しかし、そうであっても、心配する必要はありません。イエス様がおられたら大丈夫です。ルカ十二章三十一節に、
『何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。』
と書かれています。その前には「烏を見なさい。烏でも神が毎日養っている。空の鳥一羽も神様は忘れられていないから、心配はない。なぜ生活のことを心配するのか」、「なにはともあれ、神の国を求めなさい。そうすれば必要なものはすべてあげます」と書かれています。だから生活の心配はいりません。あなたと神様の関係が正しいか正しくないかが問題ですので、正しくなかったら正しい関係にすれば、必ず素晴らしい人生を持つことができます。
 私たちの人生の中で、何が一番恐いことかというと不信仰になることです。「イエス様は一緒におられるかな。おられないかな」と考えます。私のことを神様が見捨てたかも知れないと思う時があります。しかし、イエス様は決して見捨てないと書かれています。
 先日、「クリスチャン二世、三世は霊的な目が開かれているけど、私はあまり目が開かれていません」と話をしたら、ある女性の牧師が、「先生。先生は目が開かれていないなどと言わないで下さい。私はショックです。先生は代表的な先生なのに、あのようなことを言われるのはショックです。言わないで下さい。」と言われました。私は、「見えないものは見えないのだから」と思っていました。しかし、その後、私は考えました。見えなくても良いのだ、と思いました。イエス様がよみがえられたときに、トマスはいませんでした。そこにトマスが帰ってきて、「イエス様がよみがえった」と言っているのを聞くと、「私は信じない。もし私の目の前にイエス様が来て、手に釘の跡があるか、脇にやりの跡があるか自分の手を入れなかったら信じない。」と言いました。次の日曜日に、トマスにイエス様が現れました。「平安がありますように。トマスよ。指を入れてご覧。脇に腕を入れてご覧。信じない者にならないで信じる者になりなさい。」と言われました。トマスは「おお。我が主。我が神よ。」イエス様は、「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ずして信じるものは幸いです。」と言われました。  「天使が見えた」というのは霊的な世界のことです。見えなくても良いのです。天使が私たちのそばにいると信じたら良いのです。聖霊様は霊的な存在です。主が一緒にいるかは見えないのです。しかし、見えたら神様ではありません。皆さんは自分の魂も霊もわからないと思います。しかし、私たちは生きています。主が共にいて下さるという信仰です。不信仰を持ってはいけません。  時々私たちには色々な重荷があります。子どもたちは小遣いが少ないとか、お父さんは家族を養うということ、社長は社員をどのようにしようかと悩みます。聖書を見ると、モーセも悩んでいました。民数記十一章一節から六節に、
『さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」』
と書かれています。エジプトから奴隷解放され、荒野を通ったときに民がつぶやきました。彼らは食べるものが与えられていたにも関わらず欲望にかられて、「ああ肉が食べたい、エジプトで食べた魚はおいしかった。きゅうり食べたい。ニラ、スイカ、にんにくが食べたい」と激しく泣きました。その時にモーセも不信仰を持ちました。十一節から十五節に、
『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」』
と叫んでいます。あれ程のモーセが行き詰まっています。「なぜ、なぜ。」と言っています。時々「なぜ、なぜ。」と言いますが、そうではいけません。「主がともにいて下さる」と今までの恵みを考えるべきです。エジプトで紅海を裂いて渡らせて下さった。岩を叩いたら水が出た。マナが降ってきた。雲の柱、火の柱がある。主がおられると信じたら良かったのですが、つぶやいたのです。
 その時、神様が「肉を与えてあげる。一日ではなく、二日、五日、十日、一ヶ月くらい食べて食べて、最後には鼻から出るくらいに肉を与えてあげる」と言いました。すると、モーセが、「神様。羊全部を殺しても一ヶ月食べることはできません。どこかから牛を捕ってきて食べさせるのですか。海の魚を全部捕っても食べることができない」と言いました。モーセは小さな紅海を見ているだけで、世界の海を知らなかったと思います。しかし、神様が鼻から肉が出るくらいあげると言ってうずらを運んできました。九十センチくらい積もるくらいのうずらを与えました。二十三節に、
『主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」』
と書かれています。神を信じることは人間を信じることとは違います。人間により頼んだらできません。今の事情を考えると、日本にリバイバルは起こりそうにないと思うかも知れません。しかし、私たちは信じましょう。神にはできるのです。皆さんが持っている問題は、神には解決できると信じることです。不信仰を捨てることです。聖書には、毎日素晴らしい人生を送るために、エペソ人への手紙五章十八節に、
『聖霊に満たされなさい。』
と書かれています。いつもイエス様とともにいることです。また、ガラテヤ五章十六節には、
『御霊によって歩みなさい。』
と書かれています。毎日イエス様と一緒に歩いていたら楽しいですよ。心配しないで下さいと言われます。今日心配のある方は、
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』
と書かれていますので、イエス様のところに来て下さい。ある人は病気、恐れがあるかも知れません。しかし、今日はイエス様にお委ねしていきましょう。お祈りします。

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