今週の礼拝メッセージ
2001.1.28(SUN)
あなたのための神の国計画
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 ヨハネの黙示録 21章1節〜5節
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

 ハレルヤ!今日皆さんと共に御言葉を学ぶことができ感謝します。
最近は信頼できるものが少ない時代です。すべてに対して信頼を失いかけている時代です。政治、医療、経済など、全ての分野が信頼を失っています。しかし、教会に来たときは、ぜひ、神の言葉に信頼を置いてください。
 私たちが神の御言葉を学ぶときには、「信仰」という機能が必要です。それがないといくら御言葉を聞いても、自分のものになりません。信仰とはヘブル書十一章一節で、

『信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

と定義されています。信仰とは「信じること、信頼すること」です。「望んでいる事柄」とは、「期待している事柄、希望している事柄」です。期待している事柄、希望していることを保証するものが信仰です。そして、「保証」とは、不動産の権利証書のようなものであると注解されています。「この土地は私のものです」と主張しても信用がありません。しかし、権利証書を見せたら、「本当にこの土地はその人のもの」と認められます。同様に、神の御言葉を信じるとは、私たちが希望している、期待している事柄を不動産の権利証書のように保証するものです。そして、「目に見えないものを確信する」とは、目に見えないものを事実確認させるものです。私たちは御言葉を学びますが、「信じる」という機能を働かせながら御言葉を聞くならば、それは、あたかも不動産の権利証書のように、見えないものを事実確認させるのです。信仰という機能を働かせて御言葉を受け取ってください。
 聖書は人類にとっては預言的な書物です。将来に起こるであろうことを保証する言葉です。しかし、神は過去・現在・未来を現在形としてもっておられますので、神様にとって預言はありません。それらはすべては現在形です。あなたの未来も現在形として導く言葉に信頼しましょう。
 私たちは時々、「偶然」という言葉を使いますが、聖書には偶然はありません。神様にとってハプニングや偶然という言葉はありません。教会には色々なプロセスを経て来られたかも知れません。ある人は誰かから誘われたかも知れません。また教会に遊びに来たのかも知れません。しかし、今日ここにおられる人の中に偶然はありません。
 私は牧師として伝道活動をしています。案外、「これが実を結ぶだろうか」というのが神様の計画であり、実を結ぶことが多いように思います。
 今から十数年前、教会に若い方々が大勢来られた時がありました。その頃、救われた方々が今、教会の中心となって働かれています。私も若かったのですが、若い方々のための集会を多く持ちました。ある時、名古屋で学生集会を持ちました。そこに一人のファミコン少年が暗い顔をしてやって来ました。「ご飯食べている」と聞くと、「あんまり」と言うので、私は彼と一緒に近くのファミリーレストランに行きました。彼はとても喜んでいました。ハンバーグ定食をおごって上げました。目を輝かせて食べていました。フォークとナイフをどうやって使えば良いのか悩んでいました。食べ終わったとき、「イエス様を信じましょう」と言うと、「はい。信じます。」と彼はそこでイエス様を信じました。彼はそれから続けて教会に来て、今はプレイズ出版で働いています。
 また、ある日、名古屋からひとりの少女が来ました。現代っ子で、ちゃらちゃらしていて、私は、「この子はいくら何でも、神様から選ばれてはいないだろう」と思っていました。電車賃がないから送ってくれ、と言うので国府まで送ってあげました。すると途中で、「お腹が空いた」というので、豊川のロッテリアで海老バーガーを一つおごってあげました。「この人に投資するのはもったいない・・・」と思いましたが、なんとその人は救われて、現在、彼女は新城教会スタッフとして熱心に働いています。神様は色々な条件の中で救い出して下さいます。今日、偶然に教会に来た人は一人もいません。
 モーセに対して神は、「わたしはあなたを名指しで呼び出した。」と語られました。モーセに語られたことは私たちにも同じように語られていることです。

『あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。』

 今日ここにおられる方の中で、神の心にかなっていない人はいません。皆、名指しで呼び出されたのです。名前で呼ばれるとインパクトが強いものです。突然、「滝元さん」と呼ばれると私は驚きます。また、同姓同名を聞くと驚きます。
 スーパーミッションの時に、神学生が路傍伝道をしていました。そこにはホームレスの人々がたくさんいて、その中に荒れているひとりの青年がいたそうです。彼に伝道して、救いに導き、彼のために霊的解放の祈りをしたそうです。祈り出すと彼は叫びだし、路上で暴れ出したそうです。彼の名前と聞くと、なんと、「タキモト・ジュンイチです。」と答えたそうです。神学生は大へん驚いたそうです。私もちょっとショックを受けました。
 日本においては名前よりも姓が重視されます。日本において「あなたの名前は?」と聞かれたら、私は、「滝元順です」と答えます。それを聞いた人は、「彼は滝元家の人間だ」と理解します。しかし、アメリカに行くと、「ジュン・タキモト」と逆にしなくてはなりません。会話の中でも、「ジュン」と私自身が呼ばれます。苗字を呼ばれるのではありません。聖書を見ると神は個人名を呼んでいます。「アブラハムよ。」「モーセよ。」・・私たちの個人名を呼んで呼び出して下さる方です。
 イエス様がエリコという町に行ったときのことでした。その町の中に嫌われていた人が住んでいました。当時イスラエルはローマの族国でした。イスラエル人から税金を徴収してローマに持っていく仕事は売国奴として嫌われました。彼の名をザアカイと言いました。その上彼は、税金をごまかしていたのでさらに嫌われていました。
 彼はいちじく桑の木に登ってイエス様を見ていました。するとイエス様が木の下に来て、「ザアカイよ。急いで下りてきなさい。今日あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。イエス様は彼の名前を知っておられました。
 今日、イエス様に知られていない人は一人もいません。「イエス様はあなたの名前を知っておられます!」と互いに宣言し合って下さい。イエス様をほめたたえましょう。
 しかし神はあなたの「名前を知っている」というだけに留まりません。イザヤ書四十六章三節に、

『胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

と書かれています。胎内にいる時に名前は付いていません。本日の週報には、五名のお母さんの中に新しい命が宿っていると報告されています。ある方は、すでに名前を決めているかも知れませんが、まだ人間として形作られていないときから神様は人をになわれ、支えているのです。お母さんのお腹の中で、十ヶ月間どのように生きてきたのだろうかと思います。しかし、そこには神の支えがあったのです。神様は、あなたが生まれる前からあなたを支えておられたのです。
 また聖書は更に深く、素晴らしいことを教えています。それは、「胎内に形造る前からあなたを知っている」と。

『私はあなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』

 お母さんのお腹に、形造られる前から神様は私たちを知っておられ、将来何になるのかも定めておられたというのです。時々、お父さんがお母さんと結婚しなかったら私は生まれなかった、「どうして結婚したの」と言う人がいますが、それは間違いです。私も偶然、牧師の家庭に生まれたのではありません。初めから定められていたのです。皆さんも今、置かれている立場を受け入れて下さい。神様があなたの環境を定めておられます。あなたの将来には神の計画があります。
 また聖書は更に素晴らしいことを教えています。エペソ一章四節に、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

「世界の基の置かれる前」とは、「天地宇宙が創造される前」ということです。人類は宇宙の始まりを特定できません。なぜならば、神様以外には誰もいなかったからです。しかし、天地宇宙ができる前から私たちは選ばれていたのです。ここでは「傷のない者にしようとされました」と書かれています。
 この記述は、ある意味で、人は傷を受ける存在ということを前提にしているのかも知れません。あなたは何らかの問題に出会うかも知れませんが、神は「傷を癒そう」とされています。
 それでは、神は傷まで計画し、用意したのでしょうか。そうではありません。神は人生に自由を与えて下さいました。だから、自由に生きることができます。しかし神なしに生きると人生には問題が起き、傷を受けることがあるのです。クリスチャンでも、イエス・キリストが中心でなくなると傷を受けます。教会もそうです。全く違う背景の人々が集まっているのですから。しかし、イエス様を中心とすると傷が癒されるのです。あなたの傷が癒されることは、創造される前からの約束です。信仰をもって受け取って下さい。エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

と書かれています。新共同訳聖書では、

『なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。』

と書かれています。神はすでに、あなたにとっての「良いわざ」を創造済です。ギリシア語で「良い」と言う言葉には二種類あります。一つは「カロス」もう一つは、「アガソス」です。ここでは、「アガソス」が使われています。「カロス」という言葉は、外的優美性に言及している言葉ですが、「アガソス」という言葉は、「そものの性質が良い。優れている」という意味です。多くの男性は、結婚条件として、「かわいい人」と言います。外側を見ます。しかし美的感覚は時代とともに移り変わります。また、国々でも美的感覚は違います。神様は、外側よりも内的の質を追求されています。あなたのために、中身の優れている計画を神は用意されています。「あなたに良いところはない」という言葉は神が語っておられるのではありません。今日、ここにおられる方で、外的にはまあまあであっても、内的にわるい人は一人もいません。
 さて、良いものはどのようにして受けることができるのでしょうか。ルカの福音書十二章三十一節には、

『何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。』

マタイ六章三十三節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

と書かれています。良きものが全て置かれているところは「神の国」です。聖書を神の国を意識して読むべきです。神の国の概念を受け取ったら人生は変えられます。マタイの福音書十三章三十一節から、

『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」』

 神の国はからし種、パン種のような目に見えないところから始まるのです。目に見えないような小さなものが膨らみ、大きくなっていくのが神の国です。
 さて、「国」とは何でしょうか。日本は縦に長い国です。北から南に旅してみると広いです。札幌から那覇までは直線で二千二百キロあります。
 私は以前、樺太の見える利尻島に行きました。そこは日本と言っても少し文化が違い、色彩感覚もこの辺の人とは違います。冬は雪に閉ざされるので目立つ色を使うのです。又、南の果ての石垣島にも行ったこともあります。そこに住んでいる人は顔が黒いので、日本人なのかどうかよくわかりません。さらに、お年寄りと話すと、全く違う言葉で答えが返ってきます。話しを理解しているようですが、返ってくる言葉が全く私たちには理解できないのです。家の造りも違います。台風が多いので、家の周りに石垣を造っています。
 日本人は国境線を知らないので理解し難いのですが、イスラエルに行くと国境線が見えます。土地は続いているのですが、国境を越えると隣国ヨルダンです。韓国と北朝鮮もそうです。国の違いとは根本的に何が違うのでしょうか。
 国とは、土地の広さではなく、「支配権がどこまで及んでいるか」ということです。同様に、神の国とは人生の中に神の支配がどこまで及んでいるのかを現すものです。そして、神の支配は目に見えない、小さなところから始まるのです。しかし、段々大きくなっていきます。神の国拡大に連れて、良きものが多く現れてくるのです。この世の中は広がるというより、もしぼんでいく傾向が強いです。十年、二十年、三十年・・・と段々しぼみます。しかし、神の国はそうではなく、広がっていきます。教会の中に、神の国が広がった様子を多く見ることができます。
 私は生まれて気がついたら、この教会の牧師の息子でした。初め、教会に来られていたのは数人でした。新城中学校の近くにありました。日曜日にこんなにも多くの方はおられませんでした。当時道は舗装されておらず、凸凹で、そこを歩いたり自転車に乗って来られました。一人の方は馬で教会に来られました。馬は礼拝中、教会の玄関先の電柱につながれており、帰る頃には爆弾が下に落ちていました。馬に乗って教会に来られていたのは、現在、教会の前に住んでおられる伊藤さんでした。先週、伊藤家で家庭集会が持たれ、私も出席しました。当時、どの辺から馬で教会まで来ていたのかを聞くと、この近所からと言われました。私は馬が来ると恐くて、大きく後ろをまわって教会に入ったことを覚えています。現在、伊藤家は孫の代までクリスチャンになっています。こんなに広がるとは思いませんでした。始めてこられた方にも、これからの人生、神の国が種が蒔かれ大きく広がっていくことを信仰によって受け取って下さい。
 今日、最初に読んだ聖書の箇所はヨハネが見た幻です。彼はパトモス島に島流しにされ、そこで幻を見ました。

『私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。』

それは、天のエルサレムが地上に下ってくる幻でした。それは夫のために着飾った花嫁のような姿であったと書かれています。これは天のエルサレム、即ち、神の国について教えています。二十一章十六節には、

『都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。』

と書かれています。彼は幻の中で都の寸法を計りました。一スタディオンは百八十五メートルです。ということは、一万二千スタディオンは、二千二百二十キロになります。そんな大きな四角い物体が天から下ってくるのを見たのです。先ほど札幌から那覇までが二千二百キロと申しましたが、ちょうど一辺が札幌から那覇程の立方体が天から降りてきたのです。
 神の国についてイエス様は、「からし種のようです。パン種のように小さい」と語られ、「やがて、成長して鳥が巣を作り住むほどになります」と言われましたが、イエス様がよみがえられて天に帰ってからヨハネが見た幻の中では、一辺が二千二百キロもある巨大な国となって降りてきたのです。

『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

 神の国の資産は素晴らしいものです。計り知れない神の祝福ボックスが降りて来るのです。その中には、「涙も、死も、悲しみも、叫びもない」というのです。それをあなたに用意されているのです。やがて天の御国に入ったらそれが実現し、完成するということで終わってはいません。現在、生きているただ中に御国が来ます、と約束されています。今日皆さんに蒔かれている神の国の種は、幅も高さも長さも大きなものであり、涙も、死も、苦しみも、叫びもない素晴らしい恵みをも含んでいるのです。
 さらに御国の支配、国境線が広がるように祈りたいと思います。マタイ十二章二十八節に、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 神の国は、「聖霊によって」「霊的戦いとともに」前進します。油注ぎと、霊的戦いによって悪霊の力が打ち破られているならば、「すでに神の国が来ている」のです。私は悪霊の力が打ち破られているのを毎週見ています。その時嬉しく思います。聖霊様によって、悪霊の力が打ち破られています。神の国が来ていると感謝しています。これは大きく広がっていくのです。神の国の大きな箱が更に国境線をのばし、死も、苦しみも、叫びもない素晴らしい領域が現されますように。信仰を持って受け取って下さい。お祈りします。

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