今週の礼拝メッセージ
2001.2.4(SUN)
隔ての壁を打ち壊せ!
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 エペソ人への手紙 2章14節〜15節
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 ハレルヤ!今朝、皆さんとともに賛美し、御言葉を学ぶことができる恵みを感謝します。先週は神の国の拡大というテーマで学びましたが、皆さんの中に神の国が拡大しましたか。神の国は初めは小さなものであっても、徐々に大きく広がっていくと話しました。イエス様を信じたときに、私たちの心に神の国の種が蒔かれ、やがて鳥が巣を作って住むほどになるとイエス様は言われました。しかし、イエス様が十字架にかかってよみがえられて天に帰ってから、使徒ヨハネは天のエルサレムが地上に降りてくる幻を見ました。それは一辺が一万二千スタディオンという、巨大な都市が下りてくる幻でした。先週の御言葉を思い出して下さい。
 新城教会では、礼拝に来られなかったい方々のために、メッセージを文章化しています。それはインターネットでも受け取ることができます。ぜひ、お読み下さい。牧師は礼拝メッセージを語る前に、「今週、神が教会に、また、一人一人にもっておられるテーマを教えて下さい」と祈ります。そして神が与えて下さったと信じて皆様にメッセージを語ります。今週、この御言葉を意識しながら生活し、これを一つのテーマとして祈られると、より強く御国が前進すると信じます。
 まず、先週引用しました、黙示録二十一章の一節から四節をお読みします。

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

 神の国が拡大し、やがてを全地を覆うようになると聖書は預言しています。クリスチャンには望みがあります。やがて全てが過ぎ去って、神がすべてを支配される時代が来ると教えています。そして私たちは、永遠に主とともに生きることができるのです。私たちは色々な背景から、色々なプロセスを経て出会いますが、イエス様を信じたという事は、永遠を共に過ごす仲間達です。ですからクリスチャンは仲良くしなければなりません。お互いに、「永遠によろしくお願いします!」と挨拶してみて下さい。素晴らしいことです。
 人類は死に打ち勝つことができませんでしたが、イエス・キリストを信じることにより永遠の命を持ち、永遠をともに過ごすことができるのです。天国では年の差もありません。皆、栄光の姿に変えられます。
 しかし神の国は、やがて実現するのではなく、この地上にも実現されるものです。「あなたがたは神の国が現されるように祈りなさい」とイエス様は言われました。私たちの人生のただ中に、神の国が現されるますように・・・。
 弟子たちがイエス様に、「神の国はどこにあるのですか」と聞きました。すると、「あなたがたのただ中にあります」と語られました。ヨハネは神の国の幻の中で、次のような事柄を目にしました。

『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』

 神の国が拡大するならば、素晴らしいことが起こされます。そこは、悲しみも苦しみも病もないすごい場所でした。使徒の働きの時代に、聖霊が注がれ不思議な神の業が多く起こされました。使徒の働き五章を見ると、

『また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』

と記されています。そこには神の国が強く現されていたからです。神の国に入ったら、病はありません。悪霊もいません。問題もありません。それが地上に現される時、病は止まることが出来ないのです。また、悪霊も止まることはできません。問題も止まることはないはずです。
 『何はともあれ、神の国をまず第一に求めなさい。』とイエス様は言われました。神の国は始めは小さいので、全ての領域をカバーしていないかも知れませんが、やがて大きくなり、すっぽりと全てを包んでしまうまで成長します。
 今日の午後は、霊的戦いセミナーで「人生の問題解決」というテーマで学びます。皆さんにとって革命的なものになると信じますので、ぜひ、ご参加下さい。神の国が現されることは素晴らしいです。「今週も私たちの中に神の国を現して下さい」と祈っていきたいと思います。
 ヨハネの黙示録を読み進むと、天の御国がどのようなものであるか記されています。二十一章二十二節から二十三節に、

『私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。』

 二十一章は、神の国、即ち、天のエルサレムについて書かれています。この中に一つのキーワードがあります。キーワードを知ることは聖書を理解する上で大切です。二十一章のキーワードとして、共通して使われている言葉は何でしょうか。一節に、

『以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。海もない。』

と書かれています。「天には海がない」・・・サーフィンの好きな人は残念です。この地上で十分やって下さい。しかし、この意味については後ほど話します。
 「海がない、涙がない、死がない、悲しみがない、叫びがない、苦しみがない、神殿がない、太陽がない、月がない、夜がない、都の門は閉じることはない。」・・・・二十一章は「ない、ない」の連続で、「ない」というのが一つのキーワードかも知れません。神の国には「ない」のです。それを何か不思議に思うかもしれません。
 しかし、この地上について考えると、ある意味で「ない」のではなく、「ある」という言葉がキーワードです。この世には、健康な人と不健康の人があります。真ん中には隔ての壁があります。金持ちと貧乏人、明るい人と暗い人、頭の良い人と悪い人、強い人と弱い人、すべての真ん中に壁が、「ある」世界に私たちは生きています。しかし、天の御国に「ない」というのは、「隔ての壁」がないのです。私たちの周りには、「隔ての壁」が多いのです。
 感謝な事に、日本は他民族からの支配を受けた歴史がありません。他国に行くと、他民族から侵入されて多くの苦しみを体験している民族もあります。また、韓国は同じ民族なのに、そこには大きな隔ての壁があります。それは、韓国と北朝鮮です。十キロ先に自分の親族が住んでいても、合うこともできず、話も、手紙もできません。ある意味でこの地上には多くの壁があります。この世に悪魔が真剣に働いていますが、何のために働いているのでしょうか。その一つは、色々な領域の真ん中に壁を作り、行き来できないように働いていると思います。その影響下で人も壁を作ります。こちらのグループとあちらのグループに争いがあります。その壁の背景には敵意があります。しかし、イエス様がこの地上に来られたのは、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』

と記されています。イエス様が来られたのは、神の国を現し、隔ての壁を壊すためなのです。
 私の小さな頃、一つの隔ての壁がこの地域に存在しました。それは「通学団」というものでした。人間は少し違うだけで敵意をもって争います。私が属していた通学団会は富永でした。また私の隣の通学団は、富沢でした。私は富沢に住んでいながら、富永という通学団に入っていました。何が違うかというと、飯田線の線路です。線路のこちら側、向こう側というのが隔ての壁になっていました。いつも線路が分裂ラインであり、戦いラインでした。ソフトボールの試合をするにも、相撲をするのも、なにをするにも線路を挟んで戦いました。最後はいつも喧嘩をしていました。人の中には隔ての壁が多いものです。
 イエス様は十字架にかかる前に、弟子たちを集めて最後のメッセージをされました。そしてその後、長い祈りをされました。この地上で祈られた最後の祈りでした。その祈りがヨハネの福音書十七章に書かれています。ヨハネ十七章十一節に、

『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』

二十一節から、

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』

と祈っておられます。これはイエス様が世を去る前、弟子たちのために祈られたことです。この祈りの中にも、キーワードとテーマがあります。繰り返し、繰り返し、イエス様が祈られたことは、「彼らが一つとなりますように。」という祈りでした。「私と父が一つであるように、彼らも一つになりますように。」と祈りました。
 ここで、「イエス様が祈った」と書かれています。私たちは、時々、「イエス様!」と親しく祈りますが、「イエス様」と呼びかけることは間違いではありませんが、厳密にいうとある意味、間違いです。なぜなら、イエス様も祈られたからです。祈りを受け取って下さるのは「父なる神様」です。「イエス様」と親しく声をかけても、祈りを受け取って下さる方は「父なる神様」です。では、「父なる神様」と「イエス様」とは別の方かと思いますが、そうではありません。キリスト教の真理であり奥義は、「三位一体」です。これを理解するためには、聖霊様の働きが必要です。ヨハネの福音書十四章十六節に、

『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』

と書かれています。「もうひとり」と書かれています。父なる神、子なるイエス様、聖霊様は一つです。私たちがイエス様の御名によって祈るときに、父なる神様が祈りを受け取って下さいます。聖書に、「イエス様」という直接的な祈りは一ヶ所だけしか記されていません。ステパノが石打にあって、死にそうになったときに、「イエスよ!」と叫んでいる箇所があります。祈りにおいて、イエス様の名によって、父なる神様が受け取って下さるという概念が必要です。しかし、日本で「神様」と言っても、人々は偶像の神々を連想しますから、イエス様の強調は宣教という意味においては大切なことだと思います。
 何れにしても、イエス様が、「私と父が一つであるから、皆もそうなって欲しい。」と祈りました。三位一体なる神様の間には、全く隔ての壁がないのです。イエス様と父なる神様は一つであり、聖霊様と父なる神様は一つであり、聖霊様とイエス様は一つであるのです。そこには何の壁もない、それが私たちの神様です。だから、ヨハネが見た神の国の幻の中に、何も隔ての壁を見い出すことができませんでした。
 これは神の国は、一つとなるときに現されるという真理を教えています。しかし弟子達は、イエス様がこんな祈りをしたのにも関わらず、一つになることができませんでした。十字架の時は皆逃げてしまいました。互いの中には争いがありました。しかし、彼らが本当の意味で一つとなり、イエス様の祈りが実現したのは、ペンテコステ以降でした。その時にイエス様の祈りが実現しました。使徒の働き二章四十三節から四十七節に、

『そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』

 彼らが聖霊によって一つにされたときに、『主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』と書かれています。イエス様の祈りの中で、「彼らが一つになる」ことは、「世がイエス・キリストを知るため」であるとイエス様は祈られました。それがペンテコステにおいて実現されました。隔ての壁がなくなって一つになるのは、神の国が現され、リバイバルにつながる重要な鍵であると言えます。ですから、私たちの中から、「隔ての壁を取り除いてください」と祈ることは、「神の国が現されるように」と祈ることでもあります。
 さて、先程読んだ、「海もない」とはどのような意味でしょうか。「海がない」・・・それが、ヨハネが神の国を見たときの第一印象でした。この意味について注解を見ると、
 「海というものが人間に対して持っている敵対的な性質、動揺をもたらす悪の性質が失われることで、新しくされた世界においてあらゆる人類の間に調和と安全とが回復されることであろう。」
と注解されていました。そして、イザヤ書五十七章二十節が引用されていました。

『しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。』

 悪者とは「人」ではありません。悪の根元である、「悪魔とその勢力、悪霊ども」です。よって、「海がない」ということは、「悪魔・悪霊の力が打ち砕かれた」という意味です。ということは、神の国には霊的戦いの勝利があったということです。それがもたらされる時に、苦しみ、叫び、病がなくなるのです。そのために来られたのが、「イエス・キリスト」です。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』

イエス様がこの地上に来てくださったのは、壁となるものを取り去るためです。
 悪魔はなぜ私たちの間に、多くの壁を作るのでしょうか。悪魔は壁作りの名人であり、なぜ、壁作りに躍起となっているのでしょう。それには一つの理由があります。
 詩篇一三三篇一節から三節に、

『都上りの歌。ダビデによる。見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』

 この中に出てくる、「兄弟」という言葉は仲間、同国人、同郷人、職人仲間など、普通の血縁関係だけでなく、「一つのグループ」を指している言葉です。私たちが一つになっていくことが幸いなのは、

『それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。』

と書かれています。一つになるとき、「アロンの上に注がれた油が注がれる」からです。アロンは初代の大祭司でした。彼は国家的テーマにおいて、神の前に出ることを許された大祭司でした。一致して神の前に出るときに、アロンが受けたと同じような油注ぎを私たちは受けることができるのです。一致して主の前に出のは、アロンの油注ぎ、大祭司の油注ぎが与えられるのです。
 「祭司」には三つの段階があります。大祭司、祭司、レビ人です。大祭司は全国民のためにとりなし祈ることができる存在でした。大祭司は年に一度、主の宮に入り、すべての国民のために、罪の悔い改めととりなしを祈ることができました。
 今、私たちはリバイバルを求めていますが、その為には、どのような油注ぎが必要でしょうか。リバイバルは国家的変革されるべき油の注ぎが必要です。「この国を変えてください。日本を変えてください。この国に神の国を現してください。」このとりなしのためには、「アロンの油注ぎ」が必要です。それは、兄弟たちが一つになって共に住むときに注がれるのです。
 使徒の時代、聖霊に満たされた人たちが、すべてのものを共有していたと書かれています。これは物質的な持ち物だけではありませんでした。神は一人一人に霊的賜物と霊的資産を与えています。今日ここにおられる方で、神様から霊的能力をもらっていない方は一人もいません。赤ちゃんからお年寄りまで、他の人では満たすことができない、神からの賜物が与えられています。あなたにしかできない、神が与えている使命と賜物があります。聖書はそれをキリストの体の中で各器官として現わしています。
 人間の体は、色々な器官からできています。それは、一つとして無駄なものはありません。それぞれの器官には各々の働きがあります。しかし、ある方はひねくれて、「そういわれても、人間の体の中で盲腸はいらないよ。あってもなくても関係ない、私は盲腸のような存在だ。」と言われます。しかし、盲腸がないと宇宙旅行に行けません。盲腸がないと宇宙酔いしてしまうそうです。神様は宇宙時代があることを知って盲腸を作ったと思います。この教会の中にも、盲腸のような人がいます。「リバイバル時代」になると動き始める人がいます。今まで、「この人は何か意味があるのだろうか」と思っても、リバイバルになるとその器官が必要であることがわかります。
 ある意味で、子どもたちは盲腸のような、リバイバル時代にはなくてはならない存在だと思います。子どもたちに与えられている賜物は素晴らしいものです。昔は、子どもたちに「早く大きくなれ。それから神様のために働いて・・・」と「大きくなって」という事ばかりでしたが、今は違います。私は時々、「そのまま大きくならないで、祈ってくれれば良い」と思います。子どもたちには、素晴らしい霊的賜物があると思います。特に子どもたちには、「霊的戦いの賜物」が与えられていると思います。子どもたちが聖霊の油注ぎをいただいて家庭の中で祈り始めたら、家庭は変わります。
 先週、私はある家庭集会に行きました。そこには、クリスチャンホームの子どもたちがたくさんいました。その子どもたちは聖霊様に触れられた子供達でした。彼らはブロック遊びをしていても霊的に遊んでいました。一人の男の子が、何か、大砲を周りに据えて家を作っているのです。「何を作っているのか」と聞くと、「これは教会で、悪魔をやっつける為の大砲だ。悪魔と戦う、戦いの教会を作っている」と言っていました。集会の最後に子どもたちのために祈りました。「天使たちが来て、子供達を守りますように」と祈ると、一人の女の子が、「もう、順先生が祈る前から天使がそこに立っているよ。」というのです。私には見えないのになぜ、彼らには見えるのかと思いました。子どもたちには神様の素晴らしい目的があります。また、全員に神の計画と賜物があります。
 しかしそれは各器官としての働きです。ということは、それがしっかりと組み合わされなけれぱ、いくら単体が優れていても動かないのです。私たちが一つになっていくことは大きなメリットをもたらします。イエス・キリストの体が完成して動き出すのです。一人一人に与えられている霊的資産が共有化されますように・・。
 イエス様がこの地に人間の姿でも素晴らしい働きができたのは、「完璧な一体」がそこにあったからです。ですから、イエス様はこの地上に人間として来られても、天の資産のすべてを使うことができたのです。私たちも聖霊によって一つにされるときに、天の資産を用いることが出来るのです。
 イエス様の祈りは、「彼らが全うされて一つとなるため」でした。「全うされる」とは、「完成する」、「十分に成長する」、「成人・大人になる」、「円熟の極めに達した」、「欠けたところがなく整った」という意味です。欠けたところがなく、整えられて「一つ」になり、世が、イエス・キリストが神であることを知ることができますように・・。
 使徒の時代、神の国が現されていたので、日々、救われる人々を起こして下さいました。私たちの中の、隔ての壁が打ち壊かれるように祈りたいと思います。神の国が訪れるときに、壁が砕かれます。聖霊によって、神の国の現れによって壁を取り去って下さい。与えられている各器官としての賜物がしっかりと聖霊によって結びつけられ、大祭司アロンの油注ぎが流れますように。
 「それはヘルモン山に下った露のようだ」と表現されています。イスラエル旅行に行くとヘルモン山の梺に行きます。そこにはこんこんと泉がわき上がっています。私たちのところに聖霊様の油注ぎがあると、その足下から絶えることのない、枯れることのない泉がわき上ります。
 今から祈りの時を持ちますが、壁を取り除いて下さいと祈って下さい。病、人生の問題、憎しみ、過去の出来事などによって壁が作られ、仕切られているかも知れません。しかし、神の国の現れはその壁を砕くものです。ある方は経済的な問題の中に閉じ込められているかも知れません。イエス様がこの地上に来られたのは、隔ての壁を打ち壊し、二つのものを一つにするため、敵意を廃棄されるためでした。特に、皆さんの心の中に、「敵意」が存在して壁となっていたら、今日それを取り去っていただきましょう。
 先週のゴスペルサパーで、「憎しみからの解放」というテーマで話しました。その時、私はメッセージが定まらずに、一つのたとえ話を用意してメッセージに立ちました。しかし、そのようなテーマが与えられて語ったときに、多くの人が聖霊によってインパクトを受け、「憎しみを取り去ってください」と祈っていました。今日、皆さんの中に憎しみがあるなら、祈ってください。今まで赦せない人を、イエス様の御名によって赦してください。イエス様の名によって父なる神様にお願いしてください。壁が砕かれ、一つになって世がイエス・キリストを知るように、神の国が現されるように祈りたいと思います。一言祈ります。

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