今週の礼拝メッセージ
2001.2.11(SUN)
隠れた所で見ておられる神
新城教会牧師 滝元明牧師

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 マタイの福音書 6章1節〜6節
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 ハレルヤ!これから皆さんと一緒に御言葉を学びます。今日は「隠れた所で見ておられる神」というタイトルで学びます。マタイ六章一節に、

『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。』

と書かれています。また、この中に多い言葉は「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」という言葉です。
 私たちの生き方には色々あります。人のことだけを気にしながら、この人はあの人はどうか、どう評価しているだろうかと生きる人生があります。またもう一つは、神様がどのように見られているかという人生もあります。クリスチャンの人生には両面があります。神の前と人の前で生きるという人生があります。
 最近テレビや新聞を見ると心にいらだちを覚えます。良いニュースがありません。ほとんど悪いニュースです。昔はなかったような殺人、不倫、セクハラ、幼児虐待など色々な問題があります。ルーシーさんの遺体が発見されたというニュースがあります。毎日のように殺人があります。また、最近の大きな話題は、外務省外国訪問支援室長が官房機密費を横領したという事が国会で取り上げられています。室長が機密費を自分の口座に入れ、そのお金で競馬の馬を買ったり、土地を買ったり、ゴルフをしたりと悪いことばかりしています。KSD問題もあり、議論されています。KSD中小経営者福祉事業団の問題です。賄賂をもらったりして議員を辞めなくてはならなくなったりと大変な問題があります。信じられないような問題がたくさんあります。
 最近私が考えることですが、中高生が悪くなり、たばこを吸ったりします。学校では校則があり罰則があります。考えてみると中学生が悪くなるのは当たり前かも知れません。中学生の一本のたばこよりもKSDの問題の方がもっと大きいです。機密費を横領したというのは中学生の問題よりももっと大きいです。たばこが悪いものだったら学校の先生はたばこを止めるべきです。今、海外旅行で飛行機に乗ると全席禁煙です。先日は機内で、「今、手洗いで喫煙した人がいます。これは法律で罰せられます」と放送があり、それでも聞かなかったので羽田までUターンしてその人を下ろしたそうです。またある人は、何度注意してもタバコを吸うのをやめなかったので罰金を払わされました。これも大きな問題です。これは悪いから止めているのです。本当に悪かったら生徒たちに言う前に先生たちもタバコを止めるべきです。国家が正しく生きるためには、大臣や政治家からえりを正す必要があります。また、最近の話題は、検事の問題や判事の奥さんがストーカーしたなど色々な問題があります。
 一体何が問題かというと、多くの日本人は人前だけの生活をしているからです。ばれなかったら良いという考えです。人にばれてもばれなくても、神の前に正しく生きるべきです。隠れたところで見ておられる神がいつもで見ておられることを意識するべきです。ですから神を恐れることが大切です。日本に犯罪が多い理由は、正当な神に対する恐れがないことが問題です。ですから私たちはいつでも神の前に生きるべきであり、悪はさばかれる神、正しいことには報いてくださる神がおられることを意識しながら生きるべきです。旧約聖書、創世記四章を見ると、最初に造られた人間アダムとエバが罪を犯したことが記されています。アダムとエバにできた最初の子はカインと弟アベルです。カインは畑仕事をし、アベルは羊を飼っていました。ある時、二人が神の前に祈りに出ました。カインは自分が採った穀物を持って来て神の前にささげました。そしてアベルは自分の子羊の中から最も良いものを神様にささげました。アベルは自分は神の前に正しい人間ではない、罪がある、自分自身のためにあがないとして子羊を神の前に犠牲としてささげなくてはならない、という気持ちがありました。
 しかし、カインは自分の正しさを神の前に出しました。すると神はカインの献げものには目もくれず、アベルの献げものを受け入れました。すると、カインは非常に怒りました。神様はカインに、「なぜ、アベルを見るのか。もしあなたが正しかったら顔を上げげれば良い。正しくなかったらあがないの羊があるから、これをささげれば良い」と言われました。するとカインは弟は神に愛されていて、自分は愛されないと思い、弟アベルを野原に連れていき、殺してしまいました。彼は弟を殺して地に隠しました。これが人類最初の殺人の記録です。兄弟が兄弟を殺したということです。四章九節から、

『主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。』

と書かれています。人間が悪いことをしたときに隠しきることはできません。神は全てを知っています。そこに、「あなたの弟の血が今叫んでいる」と書かれています。そして、「あなたは土地に呪われている。」と書かれている御言葉を読んだとき不思議に思いました。罪のない血を流した土地が人を呪っているのです。だれも見ていないから殺人するとか、汚職事件を起こしたとしても、早いか遅いかわかりませんが、いつか罪が暴かれます。だからいつも神を恐れて生きるべきです。
 「あなたは土地に呪われている」と書かれていますが、この地域は設楽ヶ原の戦いで一万六千人が血を流した土地ですので、この土地は呪われているような土地です。土地が住民を呪っているというのですから、霊的戦いが必要であり、神様からの祝福を祈るべきです。今日は地域のとりなしの祈りがありますので、ぜひ、ご参加下さい。私たちは神の前に罪を隠すことはできません。
 しかし、神様が見ておられるという励ましもあります。創世記十六章にはアブラハムのことが書かれています。彼の妻サライ(サラ)になかなか赤ちゃんがなかったので、彼女はアブラハムに、「私のはしためハガルをもらい結婚し赤ちゃんを作りなさい。そうしたら私がその赤ちゃんを私の子どもとして抱きます。」と言い、そのようにしました。しかし、ハガルに子どもができたときハガルは横柄になり、自分の女主人を見下げました。そのときサライはアブラハムに、「あなたのせいでハガルは横柄になって私を見下げている。」と言いました。そのとき、アブラハムは、「ハガルはあなたのはしためだから手の中で自由にしなさい」と言いました。するとサライはハガルをいじめました。それでハガルは荒野の泉のほとりに逃げていきました。

『主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。』

と書かれています。しかし、いじめられて逃げた女奴隷ハガルに対して、神様が御心を留められました。九節に、

『そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」』

と書かれています。素晴らしいことです。いじめられて逃げたサライに天使が語ったことは、「身を低くしなさい。高ぶってはいけない。へりくだりなさい」と言われました。また、十節からに、

『また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。』

と書かれています。彼女は励ましの言葉をもらいました。その時、神の後ろ姿を見て、「エル・ロイ・・・ご覧になる神」と言いました。私たちがどんなに苦しいときにもご覧になる神がいます。助けてくださいます。失望してはいけません。だから隠れたところで見ておられる神がいるということを心から信じていきましょう。
 政界問題、汚職問題など問題を考えるときに次の御言葉を思い出しました。創世記二十章十一節に、

『「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。』

と書かれています。日本は横の関係、誰がどう見るかということを考えています。しかし、神を恐れることが少ないのです。ですから私たちは主を恐れることが必要です。箴言の中に『主を恐れることは知識の初めである』と書かれています。素晴らしい生き方をすることは人を恐れるのではなく、神を恐れて神のために生きていくことはとても大切なことです。
 聖書の中に出てくる人の中で、私が一番好きな人はヨセフです。三十九章に書かれています。彼は兄弟たちから妬まれてエジプトに奴隷として売られました。彼は主から恵みをいただき、そこの管理者として素晴らしい生活をしていました。彼は美男子で体格が良かったので女性から誘惑されました。しかしその時、ヨセフは誘惑から守られることができました。それはいつでも神の前に生きていたからです。七節から九節に、

『これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」』

と書かれています。「私は神に罪を犯すことはできません。」とはっきりと言っています。私たちは色々な誘惑が来たとき、「神の前に私は罪を犯すことはできません」と神を目の前にするべきです。教会に来て、牧師や兄弟姉妹からどういう風に見られるかと考えるのではなく、神の前にどのように見られているかをいつも考えるべきです。会社でどのように見られているかということではなく、神の前にどのように見られているか。神の前に生きることは、「どのような誘惑が来ても神に対して罪を犯すことはできません」とはっきりすることが大切です。第一コリント六章九節から十節に、

『あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。』

と書かれています。清らかな生活とは、「神が忌み嫌われることは嫌い、神が愛されることを愛すること」です。神を愛するとは神が嫌うことは嫌います。好きなことは好きですということです。だから不品行、偶像礼拝などから離れるべきです。私はイエス様を信じる前には人の家の柿や桃を盗みましたが、いつでも人が見ているか見ていないかと伺いました。しかし、クリスチャンになってから盗みをしないようになりました。これは神様が見ておられるからです。十一節に、

『あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』

と書かれています。ガラテヤ人への手紙六章八節から九節に、

『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』

と書かれています。七節に、

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』

と書かれています。私たちがクリスチャン生活の中で恵まれた生活をするためには、神を恐れて神の前に正しく歩むことが大切です。神は侮られる方ではない。人が種を蒔いたら収穫するようになると書かれているので、悪い種を蒔かないようにしなくてはなりません。だから、いつでも神を恐れて生活するべきです。エペソ人への手紙四章三十節から三十二節に、

『神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』

と書かれています。私たちが神の前に生きること、聖霊によって満たされ喜ぶことはイエス様の喜びがあるのです。聖霊様はご人格を持たれています。毎日の生活の中に聖霊様を悲しませないように生きることが大切です。四章二十五節からに、

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。』

と書かれています。「聖霊を悲しませる」ということは、私たちが人の悪口を言うときに聖霊様は悲しまれます。また、憤ったり、怒ったりする時は聖霊様が悲しまれます。だから、

『無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。』

と書かれています。いつでも神の前に喜ばれる言葉を語っているだろうかを考えて生活していきましょう。第一テサロニケ五章十九節に、

『御霊を消してはなりません。』

と書かれています。どのようにして私たちは聖霊を消してしまうのでしょうか。十二節から十八節までに、

『兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』

と書かれています。御霊を消さないことは、いつも喜んで神の前に歩いていることです。また祈らなくなることは聖霊を消します。今の時代は祈らなくても生きられるような時代です。食べ物もあり、求めるものは何もないかも知れません。祈るときは御飯の時、「イエス様。この御飯を祝福してください。アーメン」で一日終わってしまう。しかし、御霊を消すことがないために絶えず祈る、いつも喜ぶ、そしてすべての事に感謝する。ぶつぶつつぶやいていてはいけません。私たちはいつでも神の前に出て正しい生活をしていきましょう。神を恐れて礼拝していますが、一日も早く日本が偶像礼拝から離れ、生ける真の神を信じて神を恐れる国になるように祈っていきましょう。今日神の前に出て神の前に生きているかを祈り、喜ばれていないことがあったら十字架の血潮で浄められて正しい生活をすることができるように祈っていきましょう。一言お祈りします。

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