今週の礼拝メッセージ
2001.2.18(SUN)
家系に入った剣を捨てよ!
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

新約聖書 マタイの福音書 26章52節

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

 ハレルヤ!神のことばは生きているので、御言葉を聞く人や読む人に感動を与え、人生を変えていきます。聖書も色々な訳があります。口語訳、新改訳、新共同訳、文語体などがあります。先日、インターネットで調べたら、おもしろい聖書がありました。それは「コテコテ大阪弁訳聖書」って言うのがあるようです。三河弁訳聖書もあったらおもしろいと思います。「神の国と神の義を第一に求めリン」と、自分の持っていることばで御言葉を聞いたら、もっと心に響くと思います。イエス様もヘブル語の方言、アラム語を話しておられました。その地方の言葉で読むとピタリと来ると思います。何れにしも、神のことばがもっと身近になりますように。今日は「家系に入った剣を捨てよ!」というテーマで御言葉を学びます。

『そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』

 時々、復讐の剣を取りたくなるような時があります。しかし、イエス様は『復讐はわたしのすること』そして、『剣を取る者はみな剣で滅びます』と語られました。私たちは聖書の法則を知る必要があります。聖書の法則は、この世の法則とは逆のところが多くあります。
 さて、人間は自分の受けた傷を誰かに転嫁しなくては気が済まないようなところがあります。ニューヨークにある町工場があり、そこにはゴム製の中年男の像が建っていました。そして「腹がたったときには殴れ」と書かれていたそうです。人形のモデルはその会社の工場長で、自らが発案者になりゴム製の人形を作ったそうです。その人形は殴られて変形していました。労働者たちが低い賃金でこき使われ、頭に来て毎日のように人形を殴っていたそうです。しかしそのおかげか知りませんが、工場長はぴんぴんしていました。
 誰かに傷をコピーしてみても本当の癒しは来ないのです。かえって『剣を取る者はみな剣で滅びます。』という恐ろしい法則があります。
 キリスト教界において、宣教面においても神学的にも一番貢献した人物はパウロです。しかし、彼ははじめ神の教会に敵対する者でした。使徒達の群れの中にステパノという将来有望な人物がいましたが、逮捕され死刑宣告されました。死刑の方法は石打の刑であり、最初の殉教者になっていきました。
 ステパノの処刑の時、パウロが初めて登場します。使徒の働き七章に、

『そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。』

 サウロ(後にパウロ)はこの時点では殺害に直接関わっていませんでした。彼は石打の刑の執行人の着物の番でした。石打の刑は人の背の倍ほどの穴の中に受刑者を入れ、証人たちが頭の大きさ以上の石を受刑者めがけて落としたようです。その現場にパウロがいました。彼は手を下しませんでした。しかしその後、使徒八章三節に、

『サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。』

と書かれています。この「荒らす」という言葉は、「獣によって引き裂かれる」という意味の言葉です。彼は猛獣のように教会に入り兄弟姉妹を引き裂くことを自ら行うようになったのです。この「荒らす」という言葉は他にも意味があります。それは、「虐待する」、「暴行する」という意味です。始め彼は見ていました。しかし、次の段階になって、彼は自分で手を出すまでになりました。
 最近、数多くの殺人事件や暴行事件や虐待事件が報道され、感覚が麻痺してしまいそうです。殺人事件が身近になっています。大変恐いです。昨年の暮れに、東京で一家四人が惨殺されるという事件がありましたが、考えられないような殺し方でした。なぜあのようなことが起こるのでしょうか。私は、マスコミやテレビ番組の中に、そのような力が潜んでいるのではないかと思います。人々は毎日のようにテレビで暴行シーンや惨殺シーン、虐待シーン、そして、殺人シーンを見ています。パウロが丁度殺害現場を見ていたのと同じように、現代人はテレビの前であまり抵抗を感じないでそれらを見ているのです。人間には残酷な側面があります。人がやられている姿を見て喜ぶような所があります。ボクシングをテレビで見たりすると、自分も一緒になって戦っているような気分になります。私たちがそのような場面をいつも見ていると印象づけとともに暗闇の力が入って来ます。そして、知らないうちに暴力の剣を握らされます。やがて、自らも受け取った剣を使うようになってしまいます。教会に来たら、それらがリセットされなくてはなりません。先週一週間、テレビ番組などで握らされた暴力の剣を捨て去るべきです。
 同時にその暴力的な剣は、ただ個人の生活だけに留まらず、家系にも入ってくる剣でもあると聖書は教えています。
 創世記を四章を見ると、人類最初の殺人事件が起こりました。アダムとエバの息子、カインとアベルの兄弟喧嘩が殺人事件にまで発展してしまいました。カインはアベルを殺したときに神から叱責を受けました。しかし、彼は自分で殺しておきながら神様に文句を言っています。四章十三節を見ると、

『カインは主に申し上げた。私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』

その時、神がなされたことが、十五節に書かれています。

『主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことがないように、カインに一つのしるしを下さった。』

 彼が神様に、「私と出会う人が私を殺すかも知れない・・」と、自分は人を殺しておきながら、神様に文句を言いました。すると、「それではお前を殺すことできないように、お前に一つのしるしを上げる」と神は言われました。
 「しるし」という言葉は「奇蹟」とも訳すことができます。また、ここでは動詞と成句になっており、「奇蹟が起きた」となります。これは注解書によると、単なる殺人者としての印が書き込まれたと言うのではなく、カインにだれも近づくことができない、殺すことができない「すごみ」を与えられたという意味であると説明しています。彼は誰も近づくことができない程の暴力的力を帯びたのです。この奇蹟は良い奇蹟ではないのです。なんと、一人を殺したことによって、カインは誰も手を出すことができないような奇跡的な悪の力を帯びてしまったということです。彼に手を出すならば、「七倍の復讐を受ける」と言うのです。一つの殺人事件によって受けた悪の力は、七倍にも達したのです。始めは一つの剣でしたが、殺人を成した後には、「七つの剣」を握っていました。誰も彼に刃向かうこともできず、近づくこともできない「悪しきしるしの奇跡」が彼に起こってしまいました。
 さらに、聖書はカインの家系の六代目、「レメク」についても記しています。カインが受け取った七つの剣はどのようになったのでしょうか。四章二十二節から二十四節に、

『ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄とあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。さて、メレクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」』

 カインには七倍でしたが、六代目のレメクには、何と、七十七倍もの復讐の力が宿っていました。聖書学者たちは、レメクはカインなど問題にならないほどのすごみがあり、誰も近づくことができなくなっていたであろうとしています。
 アダムの家系の中にカインによって一つの剣が入りました。その結果、七代目には最初の殺人を犯した者の十一倍もの剣を受け取って七十七本の剣を受け取ってしまいました。誰かが剣を捨てない限り、どんどん傷は広がっていきます。
 家系の中に、もしも暴力の剣や虐待の剣など、悪魔によって持たされた剣があったら、捨てなければなりません。パウロも殺人を見ていただけでも剣を受け取ってしまいました。この剣は人を刺し、自分を刺し、また家庭も刺し通します。また、最終的には国をも壊してしまう剣となります。今、国民全体が知らないうちに破壊の剣を受け取っています。だから結果として国に破壊が起こっているのです。まず神の国に属する者たちから、この剣を捨てなければなりません。そうでなければ、神の国も破壊されてしまいます。
 「いや、私はそんな人殺しをしたことはないから・・・」と言われるかも知れません。しかし、イエス様は、マタイの福音書五章二十一節に、

『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。』
 
と語りました。「殺してはならない」という事についてのイエス様の理解は、「憎む者も殺人者と同じ」でした。日頃の生活の中で、人間関係の中で、ちょっとしたことから互いに憎み始めます。しかし、イエス様の理解は、「殺人と同じ」であるということです。と言うことは、憎しみの中で、カインと同じ破壊の剣を受け取ってしまい、最終的には、「剣を持つ者は剣で滅ぼされてしまう」のです。さらに、ローマ人への手紙十三章九節に、

『姦淫するな、殺すな。盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という言葉の中に要約されているからです。』

と記されています。人類が守ることができなかった律法を、イエス様は守りやすくしてくださいました。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒めを『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という「愛の紐」で束ねてくださいました。十戒の前半は、神と人との関係です。それは「神を愛する」という一語で全うされます。また、後半は「人を愛する」という一語で束ねてくださいました。モーセの律法は、「神を愛する」ことと「人を愛する」の二つに要約されます。
 ローマ人への手紙も、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という事柄を、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉で要約しています。しかし、これは裏を返せば、「隣人を愛せないのは、姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるなという項目に違反する」ことにつながるのです。
 要するに、憎んでいれば、知らないうちに殺人者と同じ剣を受け取ってしまう可能性があるから気をつけなければなりません。この時代にあって、私たちはそのような破壊の剣を受け取る機会があまりにも多すぎます。聖書の御言葉から真理を知り守られるべきです。
 ある時、ペテロがイエス様に質問しました。マタイの十八章二十一節に

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』

と質問しています。これを読むと「クリスチャン生活も大変だ。一度だけでも赦すのが大変なのに、七の七十倍まで赦さなければならないとは、どういうことなのだろうか」と思います。四九〇回もどうやって赦すのでしょうか。しかし、レメクの例と照らし合わせてこの箇所を考えるとよくわかります。家系の中に破壊の剣が入って、また、知らないうちにそれはパワーアップしています。それを捨てるためには、七を七十倍するくらい赦しても足らないかもしれません。
 イエス様は、「七を七十倍するまで赦して上げるように」とペテロに語りました。その後、「天の御国は地上の王に例えることができる」という例話につながっています。一万タラント赦されたしもべが、自分が友人に貸した百デナリを赦すことができなかった為に牢に入れられてしまったストーリーです。私たちは、今、「神の国、すなわち、リバイバル」を求めています。神の国はどのようにして到来するのですか。
 「神様。神の国を現してください。リバイバルを現してください」と私たちは祈っています。リバイバルは破壊の剣を捨てることから始まります。これもリバイバルの重要な条件であるとことを学ぶことが必要です。
 先にも学んだように、使徒の働き八章で、パウロはステパノの殺害現場を見ていただけで破壊の剣を受け取り、教会を迫害するようになりました。しかし、九章に入ると、パウロが劇的に変えられた場面が出てきます。しかし、その前の使徒九章一節には、

『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。』

と書かれています。『なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて』と書かれています。この「なおも」という言葉は、「一層」という意味です。八章で、彼は教会を虐待したり、迫害する力を帯びていました。しかし続けているうちに、彼は、「なお一層殺害の意に燃えて」大祭司のところに行っています。彼は迫害を生きがいとして真剣に働いていました。しかし、彼は天からの光と出会いました。九章三節から五節に、

『ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたがどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」』

 この剣を捨てるためには、どうしてもイエス様と出会うことが必要です。イエス様と出会うときに、剣は棄て去られるのです。パウロがそのまま迫害を続けていたら、恐ろしい家系になっていたかも知れません。しかし、彼がイエス様と出会ったときに変えられました。イエス様と出会うことは素晴らしいです。イエス様と出会うことにより、家系の中の破壊の剣が打ち破られたのです。イエス様の十字架によって、悪しき契約が破られたのです。
 しかし、パウロはイエス様の時代に生きていたので、それまでにも、直接、間接的にもイエス様との接点があったかも知れません。ここで重要なのは、「天からの光に出会った」事です。これは聖霊様の働きです。聖霊様に彼は触れられました。聖霊様から強い解放の剣が投げ込まれたのです。そのことによって、彼が持っていた悪しき剣が打ち破られたのです。私たちは新しい世代のためにも、破壊の剣を決して持ち運んではいけません。持ち込まれたすべての破壊の剣が、完全に打ち破られ、神の栄光が現される家族にしていただきたいです。イエス様もそのことを願っておられます。これは、神の国を拡大するためにも大切なことです。この世の中は更に暗くなっていきます。イエス様を知らないならば、さらに多くの破壊と殺人が増大するでしょう。このままでは来年はもっと増えているでしょう。どこかで捨てなければなりません。まず、私たちの手から捨てなければなりません。
 私は解放のために働かせていただいています。特に、今週は私のために祈ってください。霊的戦いに目が開かれ、実践されている教会から牧師夫妻方が集まり、霊的戦いの学びが三日間行われます。七十名ほどの先生方が来られます。今や悪魔が真剣に働いている時代です。解放の剣をもらわなくてはどうにもなりません。悪しき剣を捨て、御言葉の剣を受け取らなくてはなりません。
 私は働きの中で、家庭の中に一本持ち込まれた悪しき剣が、後になって多くの人々を苦しめている現実を見ています。しかし、イエス様により、聖霊様によってその剣が打ち破られる光景を毎日のように見ています。
 先日もある人の家系中に悲惨な事件が起こっている現実について祈りを手伝いました。その人は両親が常に喧嘩ばかりで殴り合い、ののしりあっている姿を見て育ちました。やがて両親は離婚し、自分は母方に引き取られたそうです。しばらくして、出ていった父親が誰かを刺し殺して刑務所に入ったという事を聞いたそうです。悲しい知らせでした。やがて父親は刑を終え、刑務所から出てきたという知らせも聞いたのですが、その直後に父親はガンで死んでしまったそうです。そんな中、傷つきながら生きてきました。やがて自分の人生の中に破壊の剣が動き始めました。ある人と婚約し、幸せな結婚が目の前に迫っていました。もうすぐ婚約、結婚というある日、結婚相手が突然病気で死んでしまったそうです。そればかりでなく、自分にも事故や病気が相次ぎ、死というテーマが至る所に顔を出して今も死にそうだと言うのです。
 どこに原因があるのでしょうか。共に祈っている間に、家系の中にもたらされている剣を捨てなければならない、ということを教えられました。
 「神様、私はイエス・キリストによって救われたことを感謝します。今私は、家系と家族を代表して、悪しき剣を捨てます。そして、神様の御言葉を受け取ります。」と祈りました。大きな解放が起こりました。心が変えられました。今までの憎しみからも解放され、自由になりましたと手紙をもらいました。
 私たちが救われたのは、自分の為だけではありません。これからの新しい世代のためにも大きな責任を負っているのです。今日、私たちが家系を代表して、持ち込まれている破壊の剣を棄てるならば大きな祝福があります。
 同時に日頃の生活の中で、悪しき剣をテレビや雑誌の中から受け取っていたらそれも捨てましょう。そして、神が与えてくださる、平和の福音の剣、御言葉を受け取って歩みましょう。自分の家族・親族の中に、破壊の剣があったらそれを捨てる祈りをしましょう。パウロは聖霊様によって、イエス様により解放されました。今でも同じことが起こります。同じ解放が与えられます。憎しみの剣をすべて捨て、神の国が私たちのただ中に拡大されるように祈りましょう!!

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