今週の礼拝メッセージ
2001.2.25(SUN)
重荷をゆだねよう
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 詩篇55篇22節
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

 初代将軍徳川家康は、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」と言いました。人生は年をとるほど多くの問題が起こってきます。今日は大学受験が行われていて、受験生は大きな問題の中にあるかも知れません。しかし、それ以上に大きな問題が人生には多くあります。重荷を下ろさなければ人生は辛いものです。
 かつて、多くの人々がアメリカに移民しました。科学が発達していない国々から人々は新天地を求めて北米に移民しました。ある時、中国大陸から人々が移民しました。長い時間船に揺られた後、彼らは上陸しました。上陸前にガイダンスがあり、「上陸したらまず駅で切符を買いなさい。そして、目指す町に行け」
 彼らは上陸するとすぐさま駅を見つけ、無事切符を買いました。しかしその後彼らは、黙々と目指す街に向かい、線路を歩き始めたのです。彼らは切符を買いましたが、汽車に乗ることを知りませんでした。
 私たちクリスチャンはすでに天国行きの切符を持っています。天の御国が約束されている素晴らしい切符を持っています。しかし、汽車に乗り込まず、重荷を持ったままの方がおられると思います。
 二十世紀に世界で最も多くの人々に福音を伝えたアメリカの伝道者、ビリーグラハムは、「キリストはとても運べそうにない荷物を軽くして下さる力を持っている方です。」と語りました。イエス様は運べそうにない重荷を運ぶ力を私たちに与えて下さる方です。イエス様を信じたら、荷を共に担って下さいます。今日の御言葉は、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。』

 私たちの神、主なるイエス様は重荷を受け取って下さるお方です。あなたのことを心配して下さる方です。心配されるのは嬉しいことです。「心配していますよ。」と声をかけてくれると安心します。教会に来ると、お互いに気使うことができ素晴らしいですね。互いに心配し合うことは支えとなります。
 「主は、あなたのことを心配して下さる。」と書かれています。天地宇宙を造られた神が、あなたのことを心配して下さるのです。今日、皆さんのことをイエス様が心配して下さっています。
 しかし、この訳はあまり良い訳ではありません。今日、私は受験生のために心配していますが、いくら心配してみてもどうにもなりません。試験を受けている人の横で答案用紙に答えを記入することが出来ないからです。
 しかし、この「心配している」とは、神がおろおろと心配しているというのではありません。英語の聖書は「支える」と訳されています。旧約聖書はヘブル語で書かれましたが、その意味は更に幅広いです。「養う、育てる、食物を備える、背負う、阻止する、守る、養護する」という、生活一般に対する適応であると辞書に記されていました。神は、あなたの生活一般について、「養われ、育てて下さり、背負って下さり、阻止して下さり、守って下さり、養護して下さる」即ち、自ら問題の中に入って対処してくださるのです。
 『主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』とありますが、これを他の訳で読むと、『とこしえに動揺しないように計らってくださる。』となっています。主はあなたの人生が動揺しないように計らい、守って下さるのです。マタイの福音書六章三十三節から三十四節に、

『 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

と書かれています。
 先週、「コテコテ大阪弁訳聖書」というのを手に入れました。これはクリスチャンが訳していませんのでいい加減なところがありますが、おもしろいです。
 「せやさかい、まずは神はんの国と神はんの義を求めんかい。ほなら、こんなもんは後で一緒に与えられるもんやな。せやからええか、明日のことは思いわずろうたらあかんのやで。明日のことは明日に任せといたらええんや。一日の心配事はその日一日だけで十分でないかいな。」
 『明日のことは明日が心配する』と『明日』が人格をもっているかのようです。明日とは神様のことです。人間は明日を持っていません。瞬間は持っていますが、明日は本当に来るのかわかりません。
 昨日、二十数年声を聞いたことがない、高校の同級生から電話がかかって来ました。何かと思うと、「良い話ではないのだよ。同級生が亡くなって・・・。」という知らせでした。心が痛かったです。「元気の良い奴だったのに・・。」
 私もついに同級生が死ぬような年になったのか・・・と思いました。明日のことはわかりません。しかし、明日のことは明日が心配します。あなたの明日を握っておられるイエス様が心配しているから、「心配するな」ということです。
 「心配」のギリシア語の意味は、「一つ一つのパーツに分けてしまう」という意味があるそうです。ちょうど機械を分解し、部品にばらしてしまうような意味があるのです。
 私には悪い癖があります。それは昔から物を分解するのが好きな事です。テレビ、コンピューター、ラジオなどを分解するのが好きです。それで、よく家で怒られました。「分解してもあとから組み立てて・・・」
 一度分解してしまうと、後から組み立てるのは難しいものです。「この部品はどこだったかなあ・・」バラバラにすると結構大変なものです。ビデオ接続の線を抜くだけでも心配になります。どこにつないだら良いのかと心配になります。
 人間は物事をパーツに分けるものです。お腹が痛いなら、そのまま「痛い」だけで良いではないでしょうか。しかしお腹が痛いことを分解して心配し始めます。
  「この痛さはどこから来ているのだろう・・・原因はどこから来ているのだろうか。」「もしかしたら、これはただの腹痛ではないかも知れない・・・もしかしたらガンかも」「ガンなら何だろうか・・・胃ガン。いや、他のガンが転移したのかも知れない・・・」こうなったら、「私はもう駄目だ・・。死ななければならない・・・死ぬのはいつだろうか」「一年くらいは生きることができるかも知れない・・・死んだ後、どうなるだろう、家族はどうなるだろうか・・・。」と、どんどん心配事を分解して、ほとんど収集不可能になります。
 すべての重荷を主に委ねましょう。聖書は重荷を主に委ねるように勧めると同時に、詩篇六十八篇二十節に、

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

 日々重荷をになわれると書かれています。これは、「運んで下さる、背負って下さる、担いで下さる」という意味です。日々とは、毎日ということです。また、日々というのは、ヘブル語では、「時間、年、将来、期間」をも含んでいます。毎時間、毎分、毎秒あなたの重荷を担ってあげる。あなたの生涯のすべての重荷を担いであげる。「ある期間」受験生の方は「受験期間」重荷を担って下さる主がおられるので心配しないで下さい。問題があったら、問題のある期間、主が担って下さるのです。新共同訳聖書では、

『主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。』

 「フット・プリンツ」という有名な詩があります。・・ある男がイエス様と共に歩む人生の夢を見ました。砂浜に二組の足跡が付いていました。しかし、あるところまで行くと、今まであった二組の足跡が一組しかありませんでした。またしばらくすると足跡は二組になりました。彼はその足跡を見て、イエス様に文句を言いました。
 「イエス様。あの期間は私の人生の中で一番大変なときでした。どうしてあの時、あなたは去られてしまったのですか・・。それまでは私と一緒に歩んでくれていたのに・・・」「一番辛いときに一組の足跡しかついていないとは何ということですか・・・」
 すると主は言われました。「もう一度足跡をじっくり見なさい。足跡はあなたの足跡ではない。その足跡はわたしの足跡だよ。あなたが一番人生の中で大変なときに、わたしはあなたを担いで苦しみの中から助けました。」「あなたを助けたのはわたしだ!」とイエス様が言われました。感動的な詩です。
 あなたの人生の中で一番大変なとき、もしも、そんな人生を体験されている方がおられたら知って下さい。そんな時こそ、イエス様はあなたを担って下さっている、そこから脱出させるために働かれるときです。
 聖書の中で、一番重荷を負った人物はヨブとも言えますが、それ以上にモーセは大変な人生でした。彼は一人でエジプトから民を連れ出しました。自分でパロのところに行って解放交渉をし、徒歩で歩ける男だけで六十万人、全体では二百万人くらいと思われます。当時彼は八十歳でした。もしも、八十歳の方にエジプトに行って二百万人を連れ出しなさい、と言われたらできるでしょうか。しかし、彼は神の力を受けてそのことをしました。彼は二百万人を荒野に連れ出し先頭に立って進んでいきました。彼の舅イテロは、モーセのことを聞き、陣中見舞いに来たことが出エジプト記十八章に記されています。それは丁度、エジプトを発って二ヶ月後のことでした。モーセは気が張っており、力一杯奉仕していました。毎日さばきの座につき、二百万人ほどの民からよせられる苦情を処理し、裁判官のようなことをしていました。民は朝から晩まで長蛇の列でモーセのところにやって来ました。モーセは宿営してやっていたのか、移動しながらやっていたのかわかりませんが、いずれにしても大変な仕事でした。
 イテロはそれを見て心配しました。「これではモーセがつぶれてしまう」それで、『あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。』と語り、

『その民の中から千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を選んであなたの重荷を分け合いなさい。』

と忠告しました。それでモーセはイテロの忠告を聞きました。
 ここに一つの真理があります。主に重荷を委ねますが、そのような中で主は、時々、忠告し、助ける人物を送ってくれます。人生の中で忠告者の声を聞くことは、重荷の軽減につながり、忠告を聞くことにより無駄な重荷を負わなくても済むようになります。
 ところで皆さんは良い忠告者、助言者をお持ちですか。あなたがイテロのような存在を持っているなら人生は守られます。これは大切なことだと思います。
 箴言十二章十五節に、『愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる』
 八章三十三節に、『訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。』
 二十章十二節に、『聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。』

と書かれています。私たちは目で見ただけで判断します。しかし、耳を造られたのも神様です。だから、忠告も聞かなければなりません。見て、聞いて、それで判断するのです。特にご主人方、奥さんが忠告することを聞いて下さい。夫婦は互いによって支えられるものです。「二人は一心同体」です。男性には絶対に理解できない、見えないところを女性は見ています。その忠告を男性が聞くのは辛いものです。女性には男性には全く見えない後ろの方に目がついているようです。「あなたには見えていないよ。そのままだと絶対につまずくから。」と、私の妻はタイムリーに忠告してくれます。その時に必ず戦いが起こります。口には出しませんが、「そんなことあんたにわかってたまるか・・」と思います。しかし、つらくても聞くときに事なきを得るのです。
 しかし、逆に言うと女性にも同じことが言えます。女性に見えないところが男性には見えるからです。だから、夫婦は互いに受け入れ合うべきです。女性は感情的に動いてしまうことがありますが、男性は理性的に的確に見ているものです。だから夫婦は互いに忠告し合うことが必要です。互いにつつき合うのではいけません。忠告し合うことが大切です。
 イテロの忠告を得て、モーセは事なきを得ました。しかし、二年後、モーセはまた、どうにもならないところにはまっていました。それが民数記十一章に書かれています。モーセは神様に文句を言っています。「なぜ、あなたは私を苦しめられるのですか。なぜ、あなたのご厚意をいただけないのでしょうか。なぜすべての民の重荷を負わせるのですか。」
 結局、組織によって民の重荷を軽減することはできませんでした。民衆は、「エジプトにいた時には美味しいものが食べれた。トマト、キュウリ、ニラ・・・、しかし、この荒野では何もない。マナしかない。」と激しく泣きました。
 モーセが歩んだ荒野に行くと、「ここで文句を言わないのは普通ではない」と思ってしまいます。それでもよく我慢したと思います。民はエジプトに帰りたいと泣いていました。それを聞いたモーセは、「うるさい。なぜ、こんなに私に重荷を負わすのだ!!こんなのやめた。」と言いたいところでした。
 時々、そのような時があります。「もうやりたくない。やめたい。すべてを投げてやめてやる」という時があります。モーセはそのことを誰にも言えませんでした。それで神に言ったのです。その時モーセに対する神の答えは、十一章十七節に、

『わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。』

 当時、聖霊がすべての人に注がれることはありませんでした。特定の指導者だけに注がれました。モーセには油注ぎがありました。しかし、他には油注ぎがありませんでした。だから人々は肉の欲のままに生きていました。しかし、モーセの上の特別な神の霊を分けるから、「七十人の長老たちを集めなさい」と語られました。しかし、モーセは更に神につぶやいています。十一章二十一節から二十三節に、

『しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」』

 モーセは「そんなこと信じられない」と言いました。すると、神は、『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』と語りました。
 時々、私たちのイメージは「この問題は絶対に解決するわけがない。どう考えてもそれは無理だ」と結論づける時があります。しかし、神が言われることは、『主の手は短いのだろうか。』です。神様はどのような領域にも到達できる素晴らしいマイティ・ハンドを持っておられるのです。人間には到達できない領域が多すぎるけれど、神はどの領域でも触れることができるのです。
 『わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』・・・何が起こったでしょうか・・・神の霊が七十人の長老たちに注がれました。七十人の指導者たちに神の霊が激しく注がれました。それを見た側近、ヌンの子ヨシュアは、『わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』と言いました。神の霊が人々の上に注がれている現実を見て、ヨシュアは、「神の霊がモーセに宿っているのはわかるが、同じ油注ぎが他の人に宿ったら、モーセの権威が失墜してしまうのではないか」と心配しました。しかし、モーセは、

『「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」』

 聖霊が注がれるなら、新しいことが起こるのをモーセはわかっていました。しかし、七十人にも注がれるとは信じられませんでした。
 「奇蹟」とは、主の霊が注がれたところに中心があります。その後、うずらが飛んできて一日の道のりに一メートルほど積もりました。うずらが飛んできて肉が与えられたのも奇蹟ですが、その前の神のわざは、「霊が注がれ」た事にあります。結果としてうずらが飛んできて、「問題が解決された」のです。ということは、七十人の長老に聖霊が注がれ、結果としてモーセが持っていた「重荷が軽減され」、人々の「不満も解消された」のです。
 人々は肉を鼻から出るほど食べたのです。これは神の霊が注がれたときに起きました。聖霊に触れられるときに、人生に奇蹟が起こります。『何はともあれ、神の国と神の義を求めなさい。』神の国とは、神の霊の注ぎのあるところに現わされます。聖霊に触れられる時に問題解決が起こされます。
 私はいつも月曜日に県民の森祈祷会に行くことを楽しみにしています。行くときは重い気持ちで、「ああ辛い」と思います。しかし、帰りには重荷が去っています。あれは油注ぎの結果です。問題があるときには必ず、主の油注ぎを祈ります。問題を打ち砕く力が油注ぎの中にあります。イザヤ書十章二十七節に、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」』

他の訳では、「油注ぎによって砕かれる」となっています。聖霊の油注ぎは私たちのくびきを砕くものです。今日も聖霊に満たされるように求めましょう。

 エジプトから脱出したイスラエルの民は、何度も神に不平不満を言い、いつも問題がありました。なぜでしょうか。彼らの根本的問題は、神の視点と、彼らの視点が違ったことです。エジプト脱出の目的は、民数記三十三章四節に、

『エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。』

と記されています。出エジプトの目的は、エジプトを治めていた神々、悪霊どもが打ち砕かれる、即ち、霊的解放でした。
 先週、全国から七十名ほどの先生方が来られ「霊的戦いセミナー」が持たれました。お祈りを感謝します。どれほど霊的戦いが重要かを分かち合いました。かなり霊的戦いが前進したと思います。更にこの働きが広がるために、ぜひ、祈って下さい。私は霊的解放の為の本を書こうと思っています。以前、「主が立ち上がられた日」という本を出版しましたが、霊的戦いが始まってから約十年間の恵みと解放を本にまとめたいと願っています。今週は祈ってそれを書き出しますので、ぜひ、そのためにも祈って下さい。
 何れにしても、エジプト脱出の目的は霊的解放でした。しかし、民にはそのような理解はなく、ただ、「一般的な苦役・重労働からの解放だけ」でした。視点が全く違いました。人々は神様の目的を理解していませんでした。
 救いとともに色々な問題解決があるかも知れませんが、それだけの視点にとどまってはいけません。それが「霊的解放」であるという理解です。今日、イエス様を信じたら悪霊の力から解放されます。それは霊的な解放です。見えない世界を支配者、悪霊から解放されるのです。このことを理解するときに、重荷が下ろされます。
 聖書には、素晴らしい約束が書かれています。それはマタイの福音書十一章二十八節です。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 この御言葉は世界中で語られていますが、この御言葉ほど体験されていないことばもないかもしれません。頭では知ってはいますが、「休みはもらえない」という深いところに不信仰があります。なぜでしょうか。それはこのことばが、イエス様が語られた文脈と共に理解されていないからです。
 マタイの福音書十一章は、ルカの福音書十章と共に理解すると、イエス様がなぜこの言葉を語られたのかわかります。
 七十人の弟子達が喜んで帰ってきました。「イエス様。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」と言いました。彼らが出て行って福音を伝えると、悪霊が打ち砕かれたのを目撃しました。その時イエス様は、「私が見ていると、天からサタンが落ちた」と言われました。その後、イエス様は喜びに溢れ、「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのところに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます。」と語られたのです。これは重荷の軽減は、「霊的戦いの中にある」ということです。霊的戦いという視点を理解すると重荷が去っていきます。
 エジプトからの脱出は「霊的解放」でした。しかし、彼らは理解していませんでした。ただ現実的な重荷がなくなることしか考えていませんでした。そのため常に彼らは攻撃を受けていました。
 もしも皆さんが今、重荷を負っていたら、それは単なる重荷ではなく、霊的戦いです。この霊的戦いに目覚めるときに、「その重荷は負いやすく、その荷は軽い」のです。霊的戦いに目覚めなければ荷は、重くて大変です。しかし、霊的戦いに目覚めるときに、その荷は軽くなります。私たちが背負っている問題の背後に、暗闇の世界の指導者たち、悪霊たちが控えているのです。しかし、霊的戦いが進んでいくときに、その荷は重いのではなく、軽くなるのです。私はそれを体験しています。霊的戦いに気づくと、荷は軽くなります。
 最後に、互いに重荷を支え合うときに解放されます。ガラテヤ六章二節、『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』とあります。
六章五節に、『人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。』とあります。重荷を互いに支え合うのです。
 教会の素晴らしさはキリストの体という位置づけにあります。互いに重荷を負い合うときに律法が全うされ、神の御業が現わされます。
 ハサミには上の刃と下の刃があります。一方が鋭く一方が鈍いと切れません。上と下が同じように焼きが入り、同じように鋭く研がれていないと切れないのです。各器官が聖霊によって焼きが入れられるとき、問題が断ち切れます。キリストの体の中で問題が打ち破られます。
 このように、重荷を取り去っていただく秘訣を学ぶことができます。私たちの中に重荷を一緒に支えてくださる主がおられるのは素晴らしいことです。今日、主の前に重荷をおろしましょう。霊的な視点で勝利を得ましょう。日々、主はあなたの重荷を負うために働かれるという信仰を持ちましょう。一言お祈りします。

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