今週の礼拝メッセージ
2001.3.4(SUN)
守りの武具を受け取ろう
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 詩篇121篇 
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 ハレルヤ!今日皆さん共に御言葉を学ぶことができ感謝します。今日の御言葉は九十八年八月三十日にも語ったことのある御言葉です。しかし、昨日祈った時に、この御言葉からもう一度語るべきだと感じました。今の時代は主の御手がなくては生きることが出来ない時代です。
 イギリスの劇作家、バーナード・ショーはノーベル文学賞を受賞しました。その時に新聞記者が、「ショ−先生、これまであなたが一番助けを受けた書物は何ですか。」と聞いたそうです。すると彼は、「貯金通帳さ」と答えました。彼はユーモアがあった人ですが、貯金通帳は私たちを助けることはできません。どんなにお金があっても、私たちを守ることはできません。しかし、私たちは神の御言葉を持っています。私たちは神の御言葉によって守られます。明日は何が起こるかわからない時代に生きています。今日はこの詩篇一二一篇の御言葉を自分自身のものとして受け取ってください。

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』

 これは都上りの歌です。ユダヤ人たちは主を礼拝するために、エルサレムに毎年上って行きました。山々を見ながら、彼らはこの歌を歌ったのです。そして、山を見たときに、この信仰告白をしました。
 私は『山に向かって目を上げる』この山というのは現実的な山というよりも、人生の山、困難の山でもあります。『私の助けはどこから来るのだろうか。』と語っています。時々そのような心境になるときがあります。しかし、次の言葉は力強い信仰告白です。『私の助けは天地を造られた主から来る』これが私たちの信仰の告白です。私たちも人生の山を見つめながら、この告白が必要です。
 詩篇一二一篇には、「あなたを守ります」という言葉が六回出てきます。そして、この詩の始まりは、『私は』という一人称から始まっていますが、三節からは『主はあなたを』というように二人称になっています。都上りをした人物が神の前で信仰を受け取りました。その信仰を継承して、「主がわたしを守ってくださったように、あなたも守ってくださる」と力強く宣言しています。私たちもそのように告白する者になりたいと思います。
 『あなたを守らる方は』『イスラエルを守る方は』『あなたを守る方は』『すべてのわざわいからあなたを守り』『いのちを守られる』『とこしえまでも守られる』と『守る』・・守りという言葉が六回にわたり出てきます。聖書の中で「数字」は深い意味を現しています。「六」は人間に属する数字であり、不完全を現します。自分自身で守りを固めたようであってもそれは不完全です。六つの守りでは不完全です。しかし「七」は神を現します。六つの守りと主によって完全な守りとなるのです。人間的な守りを尽くすと同時に、神の守りに身を委ねることが必要です。私たちの守りの根元はイエス様の十字架と、その血潮にあります。イエス様は私たちの罪のために十字架にかかられて死なれ、血を流して下さった。その血潮の守りにあります。しかし、同時に私たちは聖書の中から守りの武具、即ち、各方面から私たちを守るためのアイテムを提供して下さっています。
 交通安全一つをとっても、それにまつわる多くの守りがあります。車を一台を見ても、いのちを守る器具がたくさんあります。最近はブレーキも改良されて、上手く止まることができるABSシステム、シートベルトもエァバックもついています。エアバックを一度でいいから出してみたいと思うかも知れません。しかし、それが出たら車は廃車となってしまいます。それらは私たちを守る為のものです。また、車を走らせる道も標識があったり、センターラインがあったり、ガードレールもあります。そらは私たちを守る為のものです。また事故を起こしたときには保険があり、対人、対物、車輌、同乗者もカバーされます。同じように、私たちは聖書の中から守りの武具を受けることができます。今日私たちはもう一度、聖書の中から守りのアイテム・武具を受け取りたいと思います。
 最近私は真剣に守りを祈らなくてはならないと感じています。すべての兄弟姉妹、また兄弟姉妹が属する家族や親族が守られるように祈らなくてはなりません。
 先週は悲しいことがありました。私たちの教会の外山兄のお兄さんが、若くしてご病気で亡くなられたからです。訃報を聞いて私もそこに駆けつけました。本当に悲しかったです。ぜひ、家族の慰めと守りのために祈って下さい。二度とこのようなことがあってはならないと思います。神様の完璧な守りがなくてはなりません。本当に主の守りを私たちに、もたらせていただかなくてはならないと思いました。そして、「主よ、お願いします。神様。あなたの完璧な守りを私の上にも、家族の上にも、親族の上に、教会の上にも、私たちの意識のない部分にも置いてください。」と祈らずにおられませんでした。
 この時代において頼ることができるのはイエス様だけです。聖書に記されている守りを受け取りましょう。今日は一つ一つの守りの武具をを受け取り、武装されて帰っていただきたいと思います。また、守りが広げられるように祈っていきましょう。聖書の中に「守りの武具」が多く記されていますが、今日は六つ学びます。それに神をプラスして完全数七にして下さい。
 まず第一は「御言葉による守り」です。詩篇一一九篇一〇五節に、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

と記されています。私たちの未来は全くわかりません。しかし、神の御言葉が私たちの足の灯火、道の光です。時には、遠くを照らすサーチライトやヘッドライトのようではないかも知れません。しかし、御言葉は私たちの足元を照らしてくださいます。御言葉に親しんで下さい。聖書の御言葉は生きているので、私たちの足元を照らします。私たちが歩む次の一歩が不確定でわからないのです。しかし、私たちは御言葉によって導かれるべきです。また、一一九篇九節から十一節には、

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』

と書かれています。神様の言葉が蓄えられていると、罪から守られます。特に若い人に対して語られている言葉です。今、若者が属している環境は危険がいっぱいです。どこにも誘惑があり、どこにでも危険があります。どのように罪を罪として判断すべきでしょうか。教会に来る時間は、一週間の総時間に比べるとほんのわずかです。瞬間瞬間、私たちは正しい判断をしなければなりません。しかし御言葉を蓄えたら、「そこに手を出すな」と神が語って下さるのです。誘惑に負けそうになったとき、御言葉が示され守られた経験があると思います。御言葉はあなたに語りかけます。聖書の御言葉はただの言葉ではなく、必要なときに声をかける力ある生きた言葉です。だから御言葉を心の中に蓄えなければなりません。特に今日、若者の中に活字離れがありますが、聖書の御言葉をよく読んでください。人生の誘惑や罪から守られます。 
 第二は「信仰による守り」です。詩篇一二一篇は信仰による告白です。私たちは御言葉の約束による事実に基づいて「信仰」を持つのです。闇雲に信じるのではありません。御言葉の約束に従って、私たちは信仰を持ちます。聖書に、『主はあなたを守られる』という約束があるから、私たちを守って下さると堅く信じるのです。天地宇宙を造られた神様が、あなたを守って下さるという約束を「信仰」によって受け取ることです。信仰とは、まだ見ていない事柄を信じることです。信じて下さい。
 第三の守りの武具は、「とりなしの祈りによる守り」です。エジプトを脱出したイスラエルが荒野を進んでいきました。レフィディムまで進んだときに、アマレク人がやって来て戦いを挑みました。イスラエルはエジプトから脱出しましたが、決して難民のようではありませんでした。彼らは軍隊組織をもっていました。組織的に荒野をカナンの地に向かって進んで行きました。そんな時に、アマレク人が行く手を阻み戦いを挑んできました。その時にヨシュアを先頭に出て戦いました。その時、指導者モーセ、アロンとフルの三人が山に登りました。彼らは戦いの現場を見ながら、モーセは両手を上げて祈りました。「神よ、守って下さい。助けてください。」と手を挙げて祈りました。その時、イスラエルは優勢でした。
 しかし、ずっと手を挙げていると疲れます。手が下がってくると、なんとアマレクが優勢になりました。この物語は目に見えない世界を現しています。イスラエルの軍隊はクリスチャン生活を現しています。また、アマレクの軍団は悪魔の勢力をあらわします。悪魔の勢力が私たちに押し寄せてきます。それに対抗するのが神の軍勢です。いつも霊的戦いが私たちの人生に起こってきます。しかし、モーセが手を挙げているときには、戦いは優勢でした。手を下ろしているときは後退しました。これは祈りです。私たちがとりなしの祈りを、守りの祈りをしていくときに、神は天の軍勢を遣わして、敵を追い払って下さいます。敵の前線を下げてくださいます。祈りの手が下がってきたら、私たちは不利になります。
 同時に一人の祈りは弱いです。手を挙げていても、やがて手が疲れて下がってしまいます。モーセの疲れて下がった手を、アロンとフルが横から支えました。「モーセさん、その手を下げないで下さい」と支えました。モーセは手を支えられながら、ずっと挙げられていました。最終的にヨシュアがアマレクを剣の刃で打ち破り勝利しました。
 これは、祈りが個人の祈りだけではなく、誰かの祈りによって支えられるとき、人生は守られ、前進するということを教えています。持つべきものはとりなしの友です。何人があなたのために祈って支えていますか。ぜひ、多くの方とともに祈り合って下さい。祈りによって支え合ってください。教会はキリストをかしらとする、キリストのからだであり、各器官によって支えられます。私たちがお互いに祈り合うことは大切です。戦いが前進します。今日ぜひ、祈りの友を作ってください。その時あなたの人生における戦いは優勢になります。祈りのない人生ほど恐ろしいものはありません。祈りがなければ悪魔の軍隊が押し迫ってきます。しかし、私たちが祈るときに、神が軍隊を送り、悪魔の前線を下げます。さらに、誰かが祈ってくれるときに神は私たちを勝利に導いてくださいます。とりなしの祈りは大切です。エペソ人への手紙六章十八節に、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

と記されています。
 新約聖書はさらなるとりなしの祈りの領域について教えています。それは、ただの祈りではなく、「御霊による祈り」です。神は必ず、あなたにとりなしの情報を提供してくださいます。
 最近、よくテレビに、「ニュース速報」が出ます。時々は、うるさいと思いますが、それにより、危険をより早くキャッチすることができます。
 同様に、普段の仕事の中、学校で勉強している時、聖霊様が「今、この事に対して祈りなさい。」と祈りを要請されるのです。その時に祈ると、お互いに守られます。自分だけではなく、他の人のためにも今週、聖霊様のニュース速報が出ますように。霊的なニュース速報が生活のただ中に出ますよう、祈って下さい。その祈りで多くの人が守られます。
 東京ミッションの活動中に、私はある時、夢を見ました。夢の中で電話を受けました。神学生からでした。「順先生。順先生。今私たちは路傍伝道をしていますが、路傍伝道中に、神学生が一人死にました。」「えーっ!誰が?誰が死んだの?」と聞いたところで目が覚めました。夜中に飛び起きて守りを祈りました。大へんリアルな夢でした。心が騒いでいました。神学生が守られるように祈らなくてはならないと思いました。神学生は当時、熱心に路傍伝道を都内でしていました。私は不安になって祈りました。神学生が守られますようにと祈りました。
 しばらくして、私はそのことを忘れていましたが、神学生が私のところにやって来て、「この間、東京ミッションの路傍伝道を新宿歌舞伎町でやっていると、入れ墨をしているような人が来て、こんな所でやっていたらお前ら、刺し殺すぞ!と言われて危なかった」というのです。私はドキッとしました。あの時に夢を通して主が祈るようにと語られたのは、そのためだったと思いました。祈らなかったら神学生の一人が刺されて死んでしまったかも知れません。私たちは互いのとりなしの祈りで守られます。
 御霊によるとりなしの祈りを切に求めなければなりません。生活のただ中で神のニュース速報を与えて下さい、と神の前に切に祈り求めたいと思います。とりなしの祈りは私たちを守るものです。 
 第四は、ちょっと話しにくいです課題ですが、聖書に書かれているので話さなければなりません。それは、私たちのような牧師、伝道者などの働き人によって守られる、と聖書は教えています。ヘブル人への手紙十三章十七節に、

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』

と書かれています。私たち働き人のために、ぜひ、祈って下さい。牧師、伝道師、スタッフは皆さんにとっての守りです。「神の前に弁明している人たちだから、その言うことを聞き、また服従しなさい」と書かれています。「服従」とは、黒が正しいのにもかかわらず、「白と言いなさい」という意味ではなく、信頼関係の中で、「信頼する、確信を持つ、信用する」という意味です。私たちの働きを信用して、確信を持って祈り、支えて下さいということです。喜んでする働きができるように、嘆いてすることがないように、ぜひ支えて祈ってください。教会スタッフや働き人が喜んで主に仕えることができるように祈って下さい。
 案外、色々な教会をまわると、嘆きながら伝道に励んでいる先生方の姿を見ます。失望して、「早くこの教会を去りたいのです。祈って下さい」と言われると複雑な思いになります。嘆いてせずに喜んでできるように祈ってください。しかし、私は喜んで働いているのでご安心してください。喜んで私たちが奉仕したら、皆さんが主の前で守られると聖書は教えています。
 大阪に行くとおもしろい寿司屋があります。「イクラ下さい。」と言うと、「はい。喜んで!!」と全員が答えます。「喜んで!」と言われるので注文した方も嬉しくなります。教会もそのようにならなくてはなりません。私たちが喜んで奉仕できるようにぜひ、支えてください。そして祈ってください。
 私たちの働きは、「あなたがたの魂のために見張りをしている」と書かれています。「見張り」とは「眠らない」という意味です。
 イスラエルに行くと羊がたくさんいます。羊と共に必ず犬がいます。聖書は、イエス様が羊飼いで、私たちは羊だと対比させて述べています。
 教会の牧者は私ではありません。だから、「牧師」という用語は良い言葉ではありません。主が私たちの羊飼い、牧者であれば、乏しいことはありません。だから新城教会の牧師は、「イエス様」です。イエス様が牧者で私たちを引っ張って下さいます。私たちは羊で、その後についていきます。しかし、そこには落ちこぼれがないように、牧羊犬が追います。「そっちで草ばかり食べていないで、イエス様のところについて行かなくちゃあ。」と牧羊犬のような働きが私たちの働きです。
 イスラエルに行くとベドウィン(遊牧民)が羊を飼っていますが、彼らは生活の知恵を持っています。牧羊犬の耳がカットされています。犬の耳の山形の頂点をカットして、耳は台形になっています。耳がカットされているので、傷が痛くて犬はぐっすりと眠れないのです。それで少しの刺激で起きてしまいます。夜中に狼が羊を狙いに来るとすぐに反応します。ウトウトしていても、すぐに反応して起き上がって狼を追い払います。
 私たちもそのように働きたいと願います。ぜひ、祈って下さい。眠りこけることがないように祈ってください。私たちがいつも目を覚まして聖霊様の声に耳を澄ますことができるように祈ってください。牧羊犬のように走り回って、誰一人として救いから落ちることがないように、助けるために、喜んで働けるように祈ってください。見張りを怠ってはならないと思います。
 第五に、強力な助っ人として、私たちに与えられているのが、「天の軍勢による守り」です。詩篇九十一篇十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

と約束されています。これを信仰によって受け取って下さい。クリスチャンを守る天使が存在します。この事に目が開かれるとクリスチャン生活は変わります。霊的戦いは悪魔の軍勢と天の軍勢との戦いです。決して、聖霊様と悪魔の軍勢との戦いではありません。創造者と被造物では戦いになりません。神は霊的秩序の中でこのように戦われます。強い天の軍勢が遣わされるよう日々祈るべきです。
 天使のイメージを悪魔は低くしています。弱々しくしています。いつも私は語っていますが、悲しく思うのは森永キャラメルを食べるときです。箱を見ると、天使が描かれていますが、花畑にいるチョウチョのように弱々しく描かれています。それを見て天使は悲しんでいると思います。本当は武装した、強い軍隊です。民数記を見ると、一人の天使がイスラエルに遣わされて、エジプトからイスラエルを解放したと記されています。一人の天使が来ただけでそのようなことが起こされるならば、軍団が来たときにはどのようなことが起きるのでしょうか。イエス様は十字架の時に言われました。「今私が十二軍団以上の天使達をここに遣わすことができないとでも思っているのか。そうしたら十字架のプランすらもなくなってしまうからそれはできない 。」
 人類救済という、父なる神様が立てた一大プランすら、天から十二軍団が遣わされたら変わってしまうと言うのです。今日、私たちのところに、天から十二軍団以上の軍勢と遣わしていただきたいと願います。皆さんの所に、私の所に、教会に、家族に、親族に、地域に、国々に、天の軍勢がやってくるように祈らなければなりません。
 私たちは悪魔だけに目を留めていてはいけません。それ以上に、強い天の軍勢が私たちに遣わされています。今日も私たちがイエス様の名によって、父なる神に天の軍勢を遣わしていただけるように祈りたいと思います。主は、天使の軍勢の守りを、私たちの所に置いて下さっています。
 しかし、軍勢がいるから私たちは何でもして良い、ということはありません。私たちが努力しても出来ない部分に、主が天の軍勢の守りを置いて下さいます。私には天の軍勢がついているから、百キロ、二百キロで車を飛ばしても大丈夫だ、というのは間違いです。ちゃんと神様はこの地上にも、守りのシステムを置き、できない部分には守りの軍勢を配備し守って下さるのです。これは素晴らしい真理です。聖霊様の臨在の中で皆さんに強い天の軍勢が遣わされますように。家族を守りますように。主イエス・キリストの名によって祈ります!アーメン
 第六に「聖霊の油注ぎによる守り」です。イスラエルは何度も滅ぼされそうになりました。しかし、彼らは守られました。詩篇一〇五篇十五節に、

『「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

と書かれています。この言葉はどのような状況の中で語られているのでしょうか。「私には油の注ぎがあるからお前は触れるな」という意味ではありません。これは、神がイスラエルを味方につけて敵に対して宣言された言葉です。イスラエルとは油注がれた者の象徴です。油注がれた者たちに、「お前たちは触れることができないぞ!」と、預言者たち、即ち、主の言葉を預かる者たちに「危害を加えるな!」と神が悪魔どもに命じておられる言葉です。
 神が私たちを神の側につけて、悪魔に対して宣言されているのです。あなたのために私のために、神ご自身が悪魔に命じていることばです。聖霊の油注ぎによって、私たちは守られます。今日、守りの武具を身につけましょう。エペソ人への手紙六章にあるすべての武具を身につけましょう。

『腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。』

と書かれています。完璧な守りをいただいて歩んでいきたいと思います。
 今日は六つのことを学びましたが、一つ一つを身につけてください。聖書に記されていても自分自身のものにしなければ守りは弱くなっています。この六つの守りを、教会の宣言として悪魔に宣言しましょう。「悪魔を良く聞け!!この教会に属する兄弟姉妹、家族、親族、私たちの知らないところにまで、神の守りがあることを宣言する!悪魔よ。よく聞け!私たちは御言葉によって、守られていることを知らないのか!信仰によって守られている!とりなしの祈りによって互いが守られている!教会の働き人たちによって守られている!天の軍勢によって守られている!油注ぎによって守られている!すべての神の武具を身につけているのだから、お前たちは絶対に私たちに触れることはできないのだ!二度と私たちの生活を邪魔することはできないし、神の国の拡大を阻止することはできない!アーメン!」
 守りがありますように。誰一人として、家族や周囲で問題が起こることがありませんように。問題が解決しても問題を抱えることがなく、神の勝利がきますように。
 今から聖餐式を行います。これは守りです。十字架の血潮による守りです。御霊の食べ物、飲み物として、「血潮のカバーで守って下さい」と今日与えられたものに加えて完全な守りを受け取る聖餐式になるよう祈りましょう。一言祈ります。

バックナンバー

戻る
戻る