今週の礼拝メッセージ
2001.3.11(SUN)
賛美の力
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 詩篇 147篇
ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。
主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。
主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。
われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。
主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。
感謝をもって主に歌え。立琴でわれらの神にほめ歌を歌え。
神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、
獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。
神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。
主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。
エルサレムよ。主をほめ歌え。シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。
主は、あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。
主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。
主は地に命令を送られる。そのことばはすみやかに走る。
主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。
主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐ええようか。
主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。
主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。
主は、どんな国々にも、このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。

 ハレルヤ!今日も皆さんと共に御言葉が学べることを感謝します。先週はリバイバル聖書神学校の卒業式も行われ、十九名が卒業されました。韓国から、申賢均先生が卒業式に来られて力強い御言葉を語ってくださり、神学生は送り出されていきました。
 また、昨日は、子どもの勇士たちが蒲郡の教会に招かれ、子どもたちのための祈り会を持ちました。子ども達の霊の目が開かれて、聖霊の油注ぎが与えられるようにと祈りました。新しい時代を迎えたと思いました。神様がこの春に素晴らしいことをしてくださると信じて進んでいきたいと思います。
 私は本日礼拝後に、ハワイとロサンゼルスに行きます。来年、ロサンゼルスで、リバイバルミッションが開催されるかも知れません。そのための話合いをします。また、ロサンゼルスでは、「主が立ち上がられた日」というテーマで集会を持ちます。百年前にアズサストリートでリバイバルが起きましたが、そのストリートの横に日本人教会が建てられています。その火をもう一度燃え立たせていただきたいということで、ミッションが行われるように祈っています。ぜひ、主の御心が現されるよう、祈っていただきたいと思います。
 私は今回、日曜礼拝を二回持つことになっています。この礼拝と、ハワイに行っての礼拝です。健康も支えられるように祈って下さい。
 さて、今日は「賛美の力」というタイトルで学びます。午後から「各部会一斉プレイズアワー」があります。各年代に別れて、それぞれの賛美を同時にささげます。この賛美は主が喜ばれ、霊的にも意味合いがあると思います。私たちは祈りながら色々な集会を企画していますが、不思議とその時々に必要なことをしてくださいます。今日の午後の賛美集会には素晴らしい祝福があると信じます。
 賛美は、キリスト教の中にしかありません。喜びの賛美がある宗教は他にありません。私はキリスト教を宗教のカテゴリーの中に入れるのは嫌いですが、他の宗教の中には喜びの賛美はありません。似たようなものはありますが、このように喜んで神をほめたたえる歌はありません。仏教にも神道にもそのような歌はありません。
 ある仏教の僧侶が、「仏教にも愛と喜びのムード溢れた歌があったらなあ。だれか作ってくれないかなあ。」と言ったそうです。仏教に喜びの歌があったとしても、どこで歌うのだろうかと思います。葬式の時に歌っても希望がありません。仏教には元々希望がないのですから、希望の歌は歌えません。しかし、私たちはクリスチャンは希望の歌を歌うことができます。なぜならば、私たちには永遠のいのちがあり、今も主が共におられるからです。
 さて、賛美はただ歌って神様をほめたたえるというだけではなく、賛美の中に隠された秘密の武器があります。それを理解して賛美するとき、賛美がさらに素晴らしいものになります。詩篇の二十二篇三節に、

『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』

と書かれています。神が住まいとされているのは、「賛美の中」だと教えています。生活の中で賛美して下さい。賛美の中に主が住まわれるのです。賛美の中に主がご自身を現して下さるのです。
 詩篇一四七篇は、賛美の中に隠された「秘密の武器」について記されています。それを今日、自分のものにしていただきたいと願っています。この中には「主に歌え」という命令が四回なされています。七節に、『感謝を持って主に歌え。』『たて琴でわれらの神に誉め歌を歌え。』十二節には、『エルサレムよ。主を誉め歌え。』『シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。』と、短い中に四回も命令形で記されています。賛美はある意味で、主からの命令です。なぜ、「賛美しなさい」とそれ程まで言われるのでしょうか。それは賛美の中に隠された力があるからです。
 詩編一四七篇は、「主のご性質、主の御業、賛美の性質は一致している」と注解されています。賛美することは、主をほめたたえること以外に、主のみ業とも関わりがあります。私たちが賛美するときに、主のみ業が現され、それを見て、また心から賛美します。それが神様のご性質であり、それが賛美の中に現わされる秘密です。今日は七つのポイントで見ていきます。詩篇一四七篇一節に、

『ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。』

と書かれていますが、あなたにとって、賛美は楽しいですか。
 私は気がついたら牧師の家庭に生まれ、賛美の中にいました。しかし賛美の時間ほど苦しい時間はありませんでした。当時は聖歌・賛美歌の四番、五番と続く歌詞を淡々と歌っていました。私が嫌いな賛美は、一つの賛美を歌い、隣の歌の折り返し部分を繰り返す賛美は長くて苦痛でした。しかし、賛美が楽しくなったら私の人生が変わりました。賛美が楽しい、麗しいと感ずるのは聖書的なことです。今日皆さんが、賛美の時間に「楽しい、麗しい」と感じたら御言葉が実現しているのです。二節に、

『主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。』

と書かれています。これは賛美と回復の関連性を示しています。「イスラエルの追い散らされたものを集める」と書かれています。新城教会は約五十年の歴史があります。現在、多くの方が集まられていることを感謝します。しかし、一つ悲しいことは、五十年間に救われた方はこんなものではない、ということです。千人から二千人がイエス様を信じました。しかし、ある時、追い散らされてしまいました。信仰から離れてしまい、偶像礼拝に帰ってしまった人も多くあります。これはある意味で敗北です。追い散らされた人が回復されるべきです。日本の教会の問題は、一度信じた人が教会から離れてしまうことです。一九九二年に霊的戦いが起こってからは、追い散らされる人が少なくなりました。嬉しいです。しかし、まだ完璧ではありません。賛美は回復に関係があります。賛美する時に、追い散らされた人々が呼び戻されるのです。
 先週、嬉しいことがありました。三十年前に教会に来られ、離れていた人が三十年振りに教会に帰って来られました。「どうして来たの?」と聞くと、「教会の前を通ったら、だいぶ変わっていて中が見たかったから入ってみた」と言われました。その方は土曜日に来られ、顔を見てわかりました。近頃、その人のことが気になって、家の近くに行ったら時々祈っていました。「明日から礼拝に来て下さい」というと、「嫌だ」と言いましたが、次の日に来られていました。三十年振りで嬉しかったです。追い散らされたものが戻ってくるためには賛美が必要です。また、回復とは福音宣教につながります。続いて、三節に、

『主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。』

と書かれています。これは「賛美といやし」の関わりを現しています。最近、一般の社会でも音楽療法、ヒーリングミュージックなどがあります。神が音楽を造られたので、そのような力が音楽の中にはあります。しかし、その領域を悪魔が奪っているので、そこにあまり関わらない方が良いと思います。ニュー・エイジという罠があります。しかし、賛美の中にいやしがあることは確実です。これがオリジナルです。
 ここには心の傷のいやしについても書かれています。賛美の中には、心だけではなく、体もすべてのいやしが備わっています。今日も賛美の中で一人一人が癒されますように。既にそれを体験されていると思いますが、再認識して主を賛美していきましょう。四節五節に、

『主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。』

星の数がどれだけあるのか、天文学者は把握していません。神はその数を数える方です。主は偉大な方、創造主です。私たちの知能で神を判断することはできません。しかし、クリスチャンは、神の偉大さを知るべきです。神の偉大さを知るためには、賛美に鍵があることを教えています。賛美の中で神の偉大さを知ることができます。続いて六節に、

『主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。』

と書かれています。山上の垂訓の中に、

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』

と記されています。聖書の価値観は面白いです。一般的には、貧乏人が幸せとは言うことはできません。しかし、イエス様は、「心の貧しいものは幸いだ」と言われました。これは、心というよりも「霊が貧しい人は幸い」ということです。なぜならば、天の御国がその人のものだからです。天の御国、即ち、神の国とは、何でしょうか。マタイの福音書に、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

と書かれています。これは今年、リバイバルミッションに与えられている御言葉でもあります。神の国は聖霊によって、悪霊が追い出される中にあるのです。心の貧しいものを主が支えて下さると書かれています。私たちが心貧しくなり、主に飢え乾いてくると神の国が現され、その結果として、悪霊が打ち破られる「霊的戦い」が起こされるのです。詩編では、『・・悪者を地面に引き下ろす』と書かれています。賛美と霊的戦いは大きな関連性があるのです。私たちが賛美するときに、天で戦いが起こり、悪魔が引き下ろされるのです。詩篇一四九篇五節から、

『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛。彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

と記されています。ここでも賛美は霊的戦いと強い関わりがあると教えています。新城教会に与えられている「ざわめき」は戦いの歌です。だからある人は、あまり好きではありません。賛美は静かに「主をあがめます」というのが好きだと言われるかも知れません。
 一四九篇に『彼らの口には、神への称賛』と書かれています。この「称賛」とは、賛美という意味です。これは、聖書の中に一度だけしか使われていない言葉で、賛美の中でも「究極の賛美」です。究極な賛美とは、「悪霊を縛りつけて打ち破る賛美」だと教えています。霊的な戦いの賛美が与えられることは素晴らしいことです。私たちの生活のただ中に、戦いの賛美が与えられると、「悪者が天から地上に落とされる」のです。これは素晴らしい真理です。この教会に、すでに、そのような賛美が与えられていることを、もっと感謝しなければなりません。霊の戦いが起こっているのは、神の国が現れている証拠です。教会の中に霊的戦いの視点が備えられたのは、聖霊様が始められたことです。私は、これから神の働きがどんなに力強くなっていくのだろうかと、神様の働きについて不安があります。「これから私たちは神の働きについていけるのだろうか」と思います。
 私は今年になって一つ、激しい神の解放を目撃しました。私は解放のミニストリーを行っていますが、そのようなこと体験は初めてです。これから、神様はどのようにこの働きを導かれるのだろうかとよい意味で少々不安に感じます。
 私は以前から、ある人のために祈っていました。その人はアル中で、朝から晩まで酒を飲んでいました。いつ電話しても舌が回りませんでした。何とかしてあげたいと思っていました。「神様この人を癒してください」と祈っていました。しかし何も起こりませんでした。どうしたら良いだろうかと思いました。
 ある日、彼と共に食事をしようと思いました。私はいつも食前の祈りをします。特に解放を必要としている人との食前の祈りは、「食べただけで聖霊様が働いて下さい」と祈ります。そんな祈りをしたことは忘れてしまい、食事をしながら彼と話していました。彼はすでに酔っており、体がぼろぼろでした。肝臓の数値が一四〇〇だと言いました。「酒を飲むのをやめた方が良い」と言っても、「・・・そんなに飲んでいない」と言っていました。しかし、私と食事をしてしばらくすると、彼は突然震え出し、「ワーッ」と声を上げて、真っ青な顔になって倒れてしまいました。口から血を吐きだしたので、私は脳の血管が切れてしまったと思いました。初めは何が起こったかわかりませんでしたが、真剣に祈りました。「イエス様の名によって悪霊よ。出て行け!この人を殺すことはできない。」と祈っていました。彼は完全に意識を失い、のびていました。私はすぐに救急車を呼びました。死んでしまうのだろうかと不安になりました。「神様。助けて下さい。この人が解放されますように。酒の悪霊よ。出て行け!」と祈りました。すると、段々、顔色が戻ってきました。そうこうしていると、救急車が来ました。彼に救急車に乗るようにと言いましたが、彼は、何が起こったのかよくわからない感じで、「どうして乗らなくてはならないのか」と言っていました。しかし、無理に救急車に乗せて病院に送りました。病院に行き検査を受けると、「これから酒を一滴でも飲んだら死ぬ」と言われたそうです。脳も萎縮しているし、最悪の肝臓状態だと言われたそうです。危機一髪のようでした。
 この状態について、後に知り合いのクリスチャン医師に話すと、「順先生が祈らなかったら、その人は多分、死んでいる」と言われました。しかし、神様は奇蹟を行われました。彼は何があっても酒をやめられませんでしたが、その日以来、ピタリと酒を飲まなくなりました。酒が完全にいらなくなりました。一月の末に起こったことでしたが、酒が入らなくなりました。昨日、彼から電話が来ました。「一月の終わりから、今に至るまで酒を飲みませんでした。そうしたら肝臓の値(γGTP)が千四百から二百になりました。」医者も看護婦も驚いて、「よくぞこれだけ下がった。」と言われ、脳も回復したようです。彼は人格まで変わってしまいました。今までの話し方とも変わって、「どうも。お世話になっています。」と誰と話しているのだろうか、と思ってしまいます。驚きました。あのようなことが起こらなければ、彼はアル中で死んでいたと思いました。
 この解放を見て、神様はやる気満々だと思いました。私にとっては、少々心臓に悪かったですが、彼を死の淵から取り戻すことができ感謝しました。霊的戦いは、命に関わることなので真剣に戦わなくてはならないと思いました。戦わなかったら、多くの魂が滅びに行ってしまいます。その武器が賛美の中にあるのです。
 八節から十一節に、

『神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。』

と書かれています。これは聖霊の注ぎであり、リバイバルです。私たちが賛美をするときに、雲が出て、聖霊の雨が降り始め、すべてを備えて下さるのです。賛美の中に「聖霊様の働きとリバイバル」の関連性があるのです。七節には、『感謝をもって主に歌え。立琴でわれらの神にほめ歌を歌え。』と書かれています。たて琴は楽器です。楽器を持って賛美をすることも聖書的です。一四七篇十二節に、『エルサレムよ。主をほめ歌え。シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。』と書かれています。そして、十三節から十四節に、

『主は、あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。』

と書かれています。「あなたの門のかんぬきを強める」・・「かんぬき」とは、扉を内側から開かないようにする横木です。外からの侵入者は扉に体当たりしますが、かんぬきがあると戸は開きません。しかしそれが弱いと中に侵入されてしまいます。
 この箇所は、「賛美と守り」の関連性を現しています。先週は六つの守りを学びましたが、それにもう一つ加えて下さい。家族の守りのためにも賛美することです。賛美するときに、「家族の門のかんぬきが強められる」ので敵が侵入することができなくなります。教会という視点においても、賛美が強いと「教会のかんぬきが強められる」ので、悪魔が教会に侵入することができません。かんぬきを強めていただくためにも、私たちは賛美すべきです。

『主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。』

と書かれています。地境に平和を置くということも守りです。地境は案外、トラブルが起きやすいです。国境線や境目は、トラブルが起こりやすいですが、神はそこに平和を置いて下さいます。特に私たちにとって一番大きな地境は、「神の国と暗闇の世界との地境」です。そこに神が平和を置いて下さると語っています。これは賛美と守りの関連です。十五節から十八節に、

『主は地に命令を送られる。そのことばはすみやかに走る。主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐ええようか。主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。』

と書かれています。
 これは「賛美と祈りの答え」との関連性です。賛美の中祈りが実現していきます。更に賛美を強めていくときに、祈りの答えが賛美の中で準備され、速やかに成されます。
 結論として20節に『主は、どんな国々にも、このようなことを、なさらなかった』と書かれています。賛美は素晴らしい主のみ業、主のご性質が現されるものです。今日も心の底から主を賛美する者でありたいです。
 今週、皆さんに賛美が満ち溢れますように。朝起きたときに耳に賛美が流れていることがあります。これは一日のテーマとして与えられた賛美です。朝起きて、「祈りをください」と祈るのと同時に、「賛美をください」と祈ってみてください。今週は賛美で満ちた一週間でありますように。一言お祈りします。

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