今週の礼拝メッセージ
2001.3.18(SUN)
祝福された結婚と家庭
新城教会牧師 滝元順牧師

<今週のメッセージの御言葉>

旧約聖書 創世記2章20節〜25節
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

 ハレルヤ!皆さんと共に御言葉を学ぶことができ、心から感謝します。皆さんの祈りに支えられ、先週はハワイとロサンゼルスにリバイバルミッションの話し合いで行きました。六日間の旅路で、三日間を飛行機の中で過ごすという大変な旅でしたが、健康が守られて感謝します。ロサンゼルス・ミッションは、まだはっきりと決まっていませんが、甲子園ミッション以来、お世話になっている先生方とも良い交わりができ、素晴らしい一時を持つことができ感謝します。行く前に、「主よ、私が行くからには、遣わされた目的がありますように」と祈りました。祈った通りに、霊的戦いの働きもさせて下さいました。先生方と話している内に、霊的戦いの話になり、その最中に、同席している方が息苦しくなり、解放の祈りをしざるを得ない状況になりました。日本においてもアメリカにおいても、どこででも主は勝利を取って下さいます。
 昨日は、素晴らしい結婚式が行われました。これを機に、多くの若い兄弟姉妹に結婚の波が押し寄せてくると良いと思っています。結婚式の時には、確実に神が祝福された家庭と結婚というテーマで働かれています。ですから、今日はそのことを学びたいと思います。
 家庭と夫婦は、神様が最初に創造された共同体です。家庭が祝福されることは地域の祝福、町、国の祝福です。夫婦関係や家庭が祝福されない限り、国の祝福は遠く、リバイバルもほど遠いです。結婚生活、家庭の祝福のために祈るべきです。なぜならば、神が人類を創造して始めに行われたのが結婚式と家庭であったからです。今日は神が人を創造し、同時に夫婦という関係を造られたというところから、祝福の秘訣について学びます。
 残念ながら日本では、夫婦や家庭が崩壊しています。一九九八年の統計によると、一年間に離婚が二十四万三千組あったそうです。昨年は二十六万二千組が離婚したと言われています。二分一秒に一組の離婚があるということです。昭和二十六年から平成七年までに四.六倍の伸び率です。多くの家庭や夫婦が崩壊しています。悪魔は夫婦と家庭崩壊に標準を当てています。神が最初に創造した共同体を破壊するならば、国を破壊でき、人類を不幸にすることができるからです。だからターゲットを当てているのです。皆さんの属している家族が破壊されないように祈るべきです。特に夫婦関係が祝福されるよう、祈らなければなりません。昨日も新しい夫婦が誕生しましたが、ここには多くの夫婦がおられますが、決して関係が壊されないように、教会の重要テーマとして祈っていただきたいと思います。
 家庭を悪魔に狙われている時代にあって、私たちは勝利を得ることが必要です。一般的な結婚に対する概念は決して良いものではありません。世界の思想家や、詩人たちは結婚についてあまり良い意見を述べていません。
 フランスの思想家ラ・ロシフコーは、「良い結婚はあるけれども、楽しい結婚はめったにない。」と断言しています。またフランスのことわざに「結婚する者は、悔い改めの道にあるものである。」と言っています。「イエス様。こんな妻と結婚してごめんなさい・・・人生間違えました。」という悔い改めと共にあるのです。また、ドイツの詩人、ハイネは、「結婚・・それは如何なる羅針盤もかつて航路を発見したことがない荒海だ。」と言いました。フランスの思想家、モンテーニは、「結婚は鳥かごのようなものだ。外にいる鳥たちは自ら入ろうとし、中の鳥たちは自ら出ようともがく。」と語りました。またノルウェー最大の詩人イプセンは、「結婚とは、諸君が諸君の全精神をそそぎ込まなければならぬものである。」と言いました。
 しかし、神は決してこのような苦しみの中に結婚制度を創造されたのではありません。人を苦しめるためではなく、祝福するために結婚を導いて下さいました。結婚していない方の為にも、そのように導いて下さいます。ですから、私たちは神の制定された結婚制度に戻るべきです。聖書は、

『こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。』

と記しています。神は天地万物を創造し、動物を造り、人間を造りました。最初、男アダムを創られました。その後、神がアダムのところに動物を全部連れてきて、「名前を付けなさい。そして、中から好きなものを助け手として選んで良い。」と言われ、色々な動物の名前を付けました。しかし、その中に自分の助け手は見当たらなかったのです。
 これは感謝なことです。もしもその時、アダムが猿にほれていたら、男性は今頃、猿を妻として歩かなくてはなりません。その時、「神様。私の気に入った助け手は見い出せません。」と言いました。すると神が女性を造って下さいました。
 女性は男性を基に造られました。人間の結婚相手は、同じ人格を持った、同じ土台に立った存在であるということです。まず、夫婦の間で知るべきことは、奥さんはご主人を一つの人格として認めなければなりません。また、ご主人も奥さんを一つの人格として尊ばなければならないのです。日本ではご主人が奥さんを他人に紹介する時、愚妻とか言いますが、そのように言ってはいけません。同じ土台に立った助け手としてお互いに神が用意してくださった存在なのです。結婚は、人格と人格の触れ合いです。そのような意味合いを知って、独身の方々は相手を捜すべきです。人格的なことよりも表面的なことばかり見ている人もいます。男性にどのような人と結婚したいですかと聞くと、人格的に優れている人とは、なかなか言いません。「かわいい人」など、人格的以外で決めます。人格と人格との触れ合いが、結婚の基本になければならないのです。
 二章二十一節から二十三節には、人間が創造された過程が記されていて、男性と女性がどのように造られたのかを教えています。この世界には男性と女性しか存在しません。そして男女間に問題が多くあります。
 男性は女性をよく、理解することができません。また、逆も成り立ちます。なかなか感情的に折り合いがつきません。何故かというと、それは男と女では製造過程が違うからです。人格的には同じであっても、男性を造ったときと女性を造ったときでは、過程が違いました。男性は、神が土で形造り、鼻から息を入れて創りました。しかし女性は泥を使って造ったのではありません。神は男性を深く眠らせ、肋骨を一本取り出し、そこから女性を造ったと記されています。女性は土からではなく、生きている男性から造られました。
 最近、遺伝子工学の発達により、男女の違いが解明されています。人間の染色体は、二十三組です。その中の一組が違うだけで男性になるか、女性になるか決定づけられるというのです。男性の染色体は「XY」という遺伝子です。しかし女性は「XX」です。女性は男性の持っているY遺伝子を持っていません。神は一番細胞分裂の激しい肋骨部分を取り出し、男性のXYの遺伝子からYを切り取って、Xをダブルコピーして女性を造りました。
 私はXという遺伝子は感情ではないかと思います。だから、女性は男よりも倍の感情を持っていると思います。何しろ、遺伝子レベルから男性と女性は違うのです。現代科学はそれを証明しています。男性は、女性が男性よりも一つ遺伝子が足りないと理解すべきです。また女性も、男性は、二つあるべき遺伝子が一つしかないと理解して下さい。そうしたら互いに必要である事がわかるのです。男性の役割と、女性にしかできない役割があります。お互いに補完しあって家族ができます。夫婦はふたりで一つです。私たちはこの事を知らなければなりません。
 さて、次は結婚について教える重要な言葉です。二十四節に、

『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』

と書かれています。この概念は聖書全体に流れています。イエス様もこの箇所を引き合いに出されました。使徒パウロもこの言葉を引用しました。この言葉は聖書の中でも重要な真理を含んでいます。結婚は妻と結び会い、「ふたりは一体となる。」英語では、『they shall become one flesh.』となっています。彼らは「一つの肉となる」と教えています。結婚するときに、一つの体になるということです。二人ではありません。一人になるのです。結婚式ではいつも、この御言葉が語られていますが、結婚生活の中に重要な一つの前提があります。
 前提は何か・・・結婚する前になすべきことが一つあります。また、結婚した子どもたちを持つ親も理解すべき点が一つあります。『男はその父母を離れ』と書かれています。それは「離れる」ことです。結婚する前に離れるということです。離婚が多いですが、「離れる」という言葉は、重要です。この言葉を他の言葉で言うならば、「置き去りにする」「捨てる」「残す」という意味です。それを聞くと、「えっ?父と母を置き去りにするのですか?捨てるのですか?離れるのですか?」何とも、薄情だと言われますが、そのような意味ではありません。
 聖書は、父と母は敬うべきだと教えています。第一テモテ五章八節に、

『もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。』

と書かれています。もし、家族親族がクリスチャンでないから、交わりもしない、と言って顧みなかったら不信者よりも悪いのです。家族親族を気遣って下さい。愛して下さい。大切なことです。家族親族を顧みない人が最近いますが、これは不信者よりも悪いと言われますので真摯に受け取るべきです。ということは、「離れる」とは、置き去りにするという意味ではないのです。これは、「父母の霊的な権威から離れ」なければならないのです。
 昨日は菊池文利兄と陽子姉の結婚式がありました。あのような結婚式は、これから二度とないと思います。なぜならば、彼らは由緒ある家系だからです。昨日、結婚された陽子さんの松本家は、かつては長篠城の城主、奥平信昌の子孫です。信昌は新城城の城主であり、徳川家康の長女、亀姫と結婚しました。ということは、陽子さんは将軍家のお嬢様と言えます。なかなかそのような人はいません。
 そして、菊池君は、十四世紀に九州を統一した菊池武光の家系に属します。菊池家の紋章は鷹の羽根です。それは後醍醐から下賜されたものだそうです。後醍醐天皇の家系が菊池さんです。何と、昨日は、天皇家の氏族と将軍家のお姫様がご結婚成されたということです。めでたい時でした。新城教会にはすごい人がいると思いますが、やはり家系を勝ち取るためだと思います。
 日本人は家系を重んじます。名前は何ですか?と聞かれると、私ならば、「滝元」と言います。「順です。宜しくお願いします」というと、何だか漫才のようになってしまいます。しかし、アメリカで「名前は何ですか?」と聞かれたら「順」と言います。私の名前はアメリカでも通用する、すぐに発音できて良い名前を付けてくれたと思い感謝しています。日本は名字を言います。これは、家が重んじられるからです。しかし、西洋の場合は違います。家ではなく、個人が重んじられます。自ずと、家族に対する思い入れも違ってきます。以前にも話しましたが、奥さんとお母さんを連れてボートで沖に出て行き、ボートが沈み出しました。主人しか泳ぐことができず、「一人しか助けることができない時に、あなたはどちらを助けますか。」という質問です。自分が奥さんとお母さんを目の前にして、どちらを助けるか困ります。統計的なことなので、すべてだとは言いませんが、西洋の方に聞くと、「勿論、妻を助けます」言うそうです。しかし、ブラジルやペルーなど、南米人に聞くと、「お母さんを助ける」と言うそうです。しかし、日本人は、「母親を助けても妻を助けても、どちらを助けても顔が立たないので、一緒に死ぬ」と答えるそうです。
 聖書は、「男は父と母を離れなさい」と語っています。私たちが結婚したら、父母から離れなければなりません。
 最近、家族や社会に問題がありますが、案外、親が子離れができていなかったり、子どもが親離れ、乳離れができていないことが原因で多くの問題が起きています。嫁姑問題も、案外、そのような面があります。嫁さんに対して姑が、「息子に何するのよ」という世界になるので、なかなか上手くいきません。結婚したら、「親の権威から抜け出す」べきです。家系がどのような家系であっても関係ありません。あなたは、今、新しい家族を神から与えられたのです。
 同時に、家系的束縛からの解放です。偶像礼拝の罪は、三代、四代まで及び、家族の中に災いをもたらすのです。父と母の権威から離れるとは、霊的な束縛から逃れるということです。ギデオンが勇士になったときに、神が言われたことは、「あなたの父の家にある偶像を取り除きなさい」ということでした。結婚生活を上手く送る秘訣は、「神が新しい創造を成した」と知ることです。
 父母を離れて、結婚するときに素晴らしい家庭ができるのです。また、親も子どもをつかんでいてはいけません。霊的には断ち切り、人間関係では素晴らしい関係を持ち続けることです。父母を離れて、妻と一体になるときに素晴らしい家庭となると教えています。
 「一体」とは、肉体的部分です。今の時代は、多くの罪で満ち溢れています。肉体的な罪があまりにも多いのです。テレビや雑誌、報道の中で不品行、姦淫の罪がはびこっています。悪魔は結婚制度を逆手にとって、家族親族を壊そうとしています。私たちはこの罪に対してはっきり理解し、戦うべきです。肉体的な罪とはどのような罪でしょうか。
 不品行、姦淫の罪は、ただ単なる罪とは違う恐ろしい罪であることを知らなければなりません。第一コリント六章十六節に、

『遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。』

と書かれています。コリントの教会の男性たちが、コリントの町に多く存在した売春婦の所に通っていたようです。彼らは、少しお金を出していくのは浮気でも何でもない。これはちょっとした遊びだ、と思っていました。しかし、パウロはそのことに対してはっきり語りました。「あなたは、ちょっとした遊びのように思って不品行を犯していますが、それは結婚と同じだ」と言いました。今、多くの人が夫婦関係以外の肉体関係を持つ遊びに興じていますが、これは本当に危険な罪です。
 「一体となる」とは、「くっつく」「一緒に留まる」「つきまとう」という意味があります。不品行、姦淫は霊的な世界において、人とくっついてしまう事です。一緒に留まる、付きまとうということは、霊的ストーカーです。結婚しても上手くいかないのは当然のことです。多くの人が結婚の前に肉体関係を多く結ぶので、結んだ数だけ人が付きまとっているのです。特に、「遊女と交われば」と書かれていますが、遊女とは売春婦です。数え切れない男性と関係を持っている女とつながったら、地球上のすべてが一緒に付きまとっているようなものです。恐ろしいことです。
 そして、旧約聖書を見ると、不品行や姦淫の罪が、偶像礼拝の罪と一体となっていることが分かります。エゼキエル書六章九節に、

『あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう。それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。』

と書かれています。『わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目』と書かれています。偶像礼拝によって姦淫の目になってしまい、偶像礼拝によってを神様から離れるのです。これは、「不品行や姦淫は、偶像礼拝である」という視点です。なぜならば、ふたりの者が一心同体になるということは、自分が偶像礼拝をしていなくても、相手が偶像礼拝者ならば、すべての霊的環境を引き継ぐということになるからです。今、世界中どこでも問題があります。日本、アメリカ、南米、ヨーロッパ、アフリカ・・なぜでしょうか。これは、基本に不品行、姦淫の罪があるからです。この罪があれば、いくらキリスト教の土台に育っているような国の人でも、偶像礼拝が入り込んだのと同じ事です。不品行、姦淫の罪は「偶像礼拝」を犯すのと同じ意味があることを知って下さい。
 神の目的を悪魔はひっくり返しています。肉体関係は夫婦間では罪ではありません。ということは、夫婦間の関係は、偶像礼拝ではなく、「神への礼拝」につながるのです。悪魔は結婚制度の外側では、多くつなぎます。しかし、一度結婚したら、今度は「離す」ように働きます。だから、奥さんとご主人は寝室も離れて、行動も離れてと、離す方向に働きます。つながらなければ、「神への礼拝」につながらないからです。エペソ人への手紙五章三十一節に、

『「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

と書かれています。ふたりが一体となることは、「キリストと教会を指している」というのです。イエス様の資産が教会で使えるのと同じように、夫婦の間に素晴らしい神の資産が解き放たれるのです。悪魔はこの原理をよく知っています。だから、夫婦関係以外は、どんどんつなぐのです。なぜならば、その罪は悪魔礼拝につながるからです。しかし、「神礼拝」につながっる正常な夫婦関係には立ち向かってきます。「もっと離れなさい」と夫婦を離すのです。そのような悪魔の策略に乗せられてはいけません。父母を離れ、夫婦関係は一体となるべきです。創世記二章二十五節に、

『そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』

と書かれています。これは、清らかな夫婦関係の中に神が共におられるという意味です。アダムとエバは罪を犯す前は裸でも恥ずかしいと思わなかったのです。互いに恥ずかしい、隠さなければならない罪を持っていなかったからです。夫婦関係の中に罪がなければ、互いに恥ずかしい部分はありません。神の臨在が共にあります。しかし、罪を犯すと隠さなくてはならなくなります。
 現代は性的なことは恥ずかしい事柄になっています。恥ずかしくて隠さなければならないのです。本来は神の祝福であったのに、恥ずかしいことになってしまったのです。これは罪が入った結果です。
 恥ずかしいと思わなかった・・これは他の男女が側にいなかったということです。見られていても恥ずかしくなかったのです。二人の裸の姿を見ている人がいたら、恥ずかしく思うのです。罪から離れて清らかな家庭を作っていくときに、神の祝福が満ち溢れます。夫婦が一体であることは、「キリストと教会が一つ」であることにに対応しているのです。教会のリバイバルは、夫婦の回復から訪れます。夫婦や家族が回復していくときに、教会の中に「イエス様と教会」というペアが完成します。イエス様の資産が教会の中で全部使えるのが、「ふたりが一心同体」となるところに現されるのです。夫婦は神から一つの責任を負わされています。日本のリバイバルのために、夫婦関係をよくしなければなりません。そうならないと、キリストと教会の関係が成立しないからです。
 世界中どこに行ってもクレジットカードを持っていたら、お金が引き出せます。私はカードだけ持って旅行することが多いです。今回ハワイとアメリカに行きましたが、現金は百ドルだけ持っていき、余らせて帰ってきました。必要な時には、クレジットカードで引き出します。なぜならば、カードで銀行に入れてあるお金を自由に引き出せるからです。
 教会とはそのようなものです。イエス様の資産を教会はクレジットカードのように使うことができるのです。それは、「ふたりの者が一心同体」という条件が満たされるときに引き出すことができます。夫婦関係、家族関係が崩れていると、引き出すことができません。この国を勝ち取るために、神が造られた最小共同体である夫婦関係から回復すべきです。ヨハネの福音書十五章五節に、

『たしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

と書かれています。夫婦一体ということは、イエス・キリストと一体という所につながっていきます。夫婦が回復するときに、イエス・キリストの「幹と枝」という関係も回復し、実を結ぶことが出来るのです。この霊的な原則をしっかりと受け取って、委ねられている家族を守っていきましょう。父母が仲良くしていたら、必ずその子どもたちは信仰を持つことができます。しかし、夫婦関係が崩れていたら、子どもたちが途中で信仰を落としてしまうことになりかねません。神が与えられた共同体を管理しなければなりません。この時代において、はっきりと結婚と家族の意味合いについて理解して歩みたいと思います。夫婦関係にある方で、もしも互いのパートナーを人格として扱っていなかったら、悔い改めて下さい。また、父母を「離れる」ことと、「家系的な束縛から離れる」祈りができていなかったら、そのことを祈りましょう。また、すでに結婚されたお子さんをお持ちの方も祈って下さい。子どもたちの家族は、「新しい家系」ですから、互いに素晴らしい家庭を築き上げることができますように祈りましょう。
 不品行、姦淫の罪が偶像礼拝の罪という認識をもう一度新たにして、罪を悔い改めましょう。また夫婦間も更にきよめられて、素晴らしい関係を持つことができるように、神への礼拝として、素晴らしい夫婦関係を持つことができますように。キリストと教会という関係が私たちの中に形造られるように祈りましょう。
 十字架の血潮を仰ぎ、夫婦関係と家族のために祈りましょう。まだ結婚されていない方も、聖書の基本原則に基づく結婚が決まりますよう、祈りたいと思います。バックナンバー

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